第86話 いびつな夏の月 10

文字数 2,766文字

◆5

 明美に手を引かれて、足元の影だけを見ながら歩いた。二階建てのアパートの前に着くと、ギィギィと音を立てる外階段を上る。明美が手前の部屋のドアをバンバン叩いた。
「誰や。うるさいやんけ」
 ドアが開くと驚いた表情をした幸夫の顔があった。
「どうしたんや。服に血が付いてるで」
「うちは大丈夫。みのるちゃんに怪我させてしもうたわ」
「お前が、高い服を汚したんか!」
 幸夫に睨み付けられて、稔は縮み上がった。
「こんな服は、捨ててもええんや」
 明美に背中を抱かれて中に入る。部屋には、目がぼんやりとした女の人が座っていた。新聞紙を敷いた卓袱台には、大きな鍋と細かく刻んだ材料を盛った皿が置いてある。
「明美。身体、痛くない?」
「大丈夫よ。春子のギョウザ、美味しいから食べたいわ」
 春子は含み笑いをした。
 明美よりもかなり年上に見える。
 稔が鼻に詰めたチリ紙を抜くと、べったりと血が付いていた。明美が稔の顔を濡れたタオルで拭きながら、幸夫に店の前で起きた事を話した。

 幸夫は稔が痛めつけられた分だけ、自分が得をするかのように喜んだ。
「ぼうず、ギョウザ食べて行け。喧嘩が強くなるで」
 稔は思いっきり首を左右に振った。
「みのるちゃんは肉が嫌いで、他にも食べられへんものがいっぱいあるんや」
「へぇっ、肉のひと切れを取り合って、刺したり刺されたりしたこともあったのに……。姉やん、贅沢言える時代になったのかな」
 肉が嫌いなことを、贅沢だと言われたのは初めてだったので驚いた。
 明美が服を着替えると言って隣の部屋に入った。稔は窓側の壁にもたれるように座った。鼻の中がむず痒いので、人差し指で触る。血の粉が指先に付いた。
 赤い服に着替えた明美が、幸夫の顔の前に一万円札を差し出した。
「姉やん。感謝感激、その他いっぱいや」
 幸夫が一万円札を両手で挟んで拝んだ。
 一万円は稔にとっては、シャツを百枚畳んで二円なので、それを二万回繰り返すという気が遠くなるほどの作業の代価だ。それが、こんなに簡単に手渡されたことに驚きを感じていた。

「やっぱり姉やんは、俺がいないとあかんねんな。独りで生きて行かれへんのや」
 幸夫の言葉にも、稔はどうして反対のことを言うのかと不思議に思った。
 明美がギョウザ作りを手伝うと言って、鍋に手を入れた。鍋の中にいろんなものを混ぜて、手でこねている。
 稔は部屋に立ちこめるニンニクの臭いで気分が悪くなった。喉元にせり上がってくる酸っぱい気配を、慌てて飲み込んだ。

 ドアをコンコンコンと叩く音に、「今日は、客が多いわ」と幸夫が立ち上がった。
 ドアが開く音がして、男の人と話す幸夫の声が聞こえた。幸夫が戻ってくると、春子に耳打ちをした。春子が嫌そうに首を横に振る。
「ちょこっと出てくる」
 幸夫は春子の腕を掴むと、力を入れて引っ張り上げた。
  二人が外へ出て行くと、稔の緊張が解けた。胃から吐き気が上がってくる。
「吐きそうやわ」
 口を両手で抑える。すぐにでも逆流しそうだった。
「大丈夫?」
 明美の顔が近付いた。

 我慢できなくて吐き出してしまった。さっと目の前に差し出された明美の両手に、黄色く薄い幕に覆われたモノが溢れる。鍋の中にも入った。
「どうしよう、殴られてしまうわ」
 幸夫の刺すような視線が頭に浮かぶ。
「台所で口を洗ったらええわ」
 そう言って、明美が手についたねっとりとしたモノを鍋に入れて練り込んだ。
「ぼくのゲロやで」
「みのるちゃんの身体から出たもんは綺麗やわ。爪の垢を煎じて飲むんと一緒や」
 稔は返す言葉もなく、鍋の中を動く明美の手を見つめていた。

 ドアが開いて、幸夫と春子が戻ってきた。
「酸っぱい臭いがしてへんか?」
「気のせいや。元々この部屋、臭いわ。なあ、みのるちゃん」
 明美は鍋の中をかき混ぜながら笑った。
「うん」びくびくしながら、返事をする。
 春子が横で服を脱ぎ始めたので、稔は目を閉じた。
「臨時収入や。わがまま言う女がいて、客を怒らしたそうや」
「春子を代わりに行かすんか?」
「姉やんも、赤ん坊が出来る心配をせんでええから稼げるで。俺が上客を探してやるわ」
「ひどいことを平気で言うなぁ」
 うんざりした明美の声。
「ギョウザを一緒にたべたいから、行きたくない……」
 おどおどとした春子の声。
「さっさと、行って来い!」
 幸夫の大きな声に、稔は目を開けてしまった。丁度、春子がのろのろと部屋を出て行く後ろ姿が見えた。

「昨日、あれから金田のおっさんの家へ行ってきたんや。品物はたいしたもんが無かったけど、寝たきりの小六の娘が別嬪やったで」
 律子のことだ。稔は耳をそばだてた。
「何か悪いことを企んでるんやろ」
「悪は金田のおっさんや。小さい時から何回も当たり屋させて、金にしてたっていう非道い親や。まだ俺らみたいに捨てられた方がましやってことやな」
「幸夫は、ろくな死に方せえへんな」
「なにを眠たいこと言うてんねん。俺はお尻の穴でメシが食べられるんやったら、喜んで差し出すわ」
 幸夫は口の端に笑いを浮かべている。

 稔はまた吐きそうになった。明美は、ギョウザの具を手馴れた仕草でつるっとした皮にくるんだ。稔は手を頭の後ろで組んで耳を腕で押さえた。
 横になって眠ったふりをする。これ以上、醜いことや堪え難い言葉が、頭の中に侵入してくるのが嫌だった。
 いつの間にか本当に眠ってしまった。
 目を開けると、幸夫がギョウザを食べていた。明美も団扇で風を送りながら、口に入れている。
「みのるちゃん、美味しいわ」
 紅い唇のあいだから見える白い歯に、ギョウザの具が付いていた。

 稔は幸夫のアパートを出るまで口でしか空気を吸えなかった。
 外でも嫌な臭いに覆われているみたいな気がして、浅い呼吸しか出来ない。ポケットに両手を突っ込んで、明美の影を踏みつけるようにして歩き続けた。
 入り組んだ路地を抜けて商店街に入ると、明美が振り返って手を差し延べてきた。
 稔はポケットの中で、バヤリースのフタを握り締めて出さなかった。人の出入りが多くなった店の前を次々と通り過ぎてアーケードを出ると踏切が見えた。
 稔は、ようやくほっとして手をポケットから出した。

 明るい空に入道雲が立っている。
 家に近付くと稔は明美を置いて走った。玄関の戸を開ける前に、母親が戻っているのではないかと耳を澄まして中の様子をうかがった。
「何してるの?」
 後ろから明美が手を伸ばして、引き戸を開けた。
 無花果の木を見た稔は、無性に果実を口にしたくなって靴を乱暴に脱ぎ捨てた。
 みかんの木箱を持って裏庭に下りる。見上げると、重なりあった葉の陰が、熟した実を隠していた。
 箱を踏み台にして無花果の実をもぎ取る。熟れた実を半分に割って口に押し込むと、ようやく気持ちが落ち着いた。


 いびつな夏の月 11 に続く。
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