第15話 空、駈ける馬 4

文字数 1,871文字



 ようやく鉄橋に着いた。
 赤褐色の鉄柱に風が当たって、ヒュウン、ヒュウンと鳴っている。貨物列車が走る二本のレールのすぐ横に、木の手すりがあった。
 人が渡る部分も木造で、かなり粗雑なものだった。長く狭い木の台の上に、板が敷いてあるだけだ。敷板と梁敷板のあいだには、すきまがあって、そこから川面が見える。
 もし貨物列車が来ても、鉄柱に抱きついてよけるのに充分な場所があるのだけれど、あおり風に吹き飛ばされて川まで落ちると死んでしまうことになるだろう。

 稔は自転車の荷台に立ちあがって、線路の先を見た。
「だいじょうぶや。列車は来てへんわ」
「そしたら、みのる。しっかりつかまっときや」
 文江が力強くペダルを踏み込んだ。

 さっきは川を渡って、これから空を渡るんだと考えるといっそう興奮した。
 橋の底木がボコボコと音を立てるたびに、稔の身体が上下する。
 稔は橋の下を見ようとして身体を斜めに乗り出した。バランスが崩れて自転車が倒れそうになった。
「みのる。ここから落ちたら、二人とも名前が変わってしまうで」
「どざえもんなんて、何でいうんかな」
「みのるが勉強して、お母ちゃんに教えて」
「わかった。任せとき」

 鉄橋を半分ぐらい進んだところで、後ろから聞こえてくる貨物列車の音に気が付いた。
 鉄橋全体が揺れているのを感じる。
「お母ちゃん! 列車が来たわ」
「わかってる」
 貨物列車の音が近づいてきても、文江が停まる気配はない。
 稔はあとどれぐらいで渡り切るのかと、文江の背中から顔を横に出した。遠い先には空しか見えない。警笛が稔の後頭部に突き刺さるように鳴る。
「停まって柱につかまらんと川に落とされるで!」
 稔は叫んだが、かえって自転車のスピードは増した。
 文江の背中にぴたりと身体をつける。目を閉じてしがみつく。

 このまま走り続けると、空へ飛んでしまいそうな勢いだ。前カゴにある木の馬が、空を駈けるイメージと重なった。
 轟音と共に、後ろから風の膜がぶつかってきた。
「わっ!」
 強い風が、いろんな方向から跳びはねてくる。下からの風に身体が浮かび上がって、自転車がフラついた。
 稔と文江の身体は自転車と一緒に、たたきつけられるように倒れた。

 左足を伸ばして踏ん張ろうとしたが、足の裏に当たるものはない。目を開けると文江の左足が倒れかけている自転車を支えていた。稔の足は敷板の隙間から落ちて宙に浮いている。自転車を倒して踏板に座り込んだ。貨物列車が通り過ぎると、風は向きを変えたように前から吹き付けてきた。

「みのる、怪我してへんか?」
「ぜんぜん平気や」
 そういったけれど、声が震えていることは自分でもわかった。
「すごく恐い目にあわせてごめんやで」
「恐くなんかなかったわ」
「そんなことないやろ」
 文江は稔の腕をさすった。
「ほんまや!」
「そうか、恐くなかったんか?」
「うん。ただびっくりして、おしっこちびっただけや」
「お母ちゃんもやで。家に帰ったら、みのるのパンツとお母ちゃんのズロース、すぐに洗わんとあかんな」
「もう、むちゃくちゃでごじゃりまするがな」
 稔はおどけて漫才師の花菱アチャコの物まねをした。

 ふたりはしばらくのあいだ、笑い続けた。
 自転車を立てた文江が稔に訊いた。
「ここから、歩いて行こか?」
「なんでや。お母ちゃん恐くなったんか?」
「当たり前やろ。まだ足が震えてるわ」
「歩いてもええけど、ここまで来たんやから最後まで自転車に乗って行きたいわ」
「もう貨物列車はけえへんやろな」
「来たら、また競争したらええやん」
「しょうがないな」
 文江がサドルにまたがると、稔も背中に抱きつくようにへばりついた。
「みのる。しっかりつかまっとくんやで」
 ペダルを立ちこぎして文江が、風に向かっていく。
 身体を離した稔は、腰につかまってひざを曲げ、ふたりは飛ぶようにして鉄橋を渡り切った。

「なんかすっきりしたわ」
 文江は自転車を降りて、稔と一緒に草の上に座った。
「さっき、空へ飛んで行くかと思ったわ」
 稔は前カゴの馬の木を見ながらいった。
「みのると一緒なら、飛べるかもしれへんな」
「そんなん、無理に決まってるわ」
 文江の言葉が嬉しかったが、稔は反対のことをいってしまった。
「このこと、だれにも内緒やで、お父ちゃんに知れたら心配しはるからな」
「わかった。ふたりだけの秘密やな。約束するわ」
「風がきつく吹いてる時に、約束をしたらあかんねんけどな」
「なんで?」
「言葉が飛ばされてしまうからや」
「絶対に、誰にもしゃべれへん」
 稔は風の中で文江と指切りをした。


空、駈ける馬 5 に続く。
 


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