第90話 いびつな夏の月 14

文字数 3,064文字

「何でバッチを外したんや」
 達也が稔の胸を指した。稔の目も達也の胸に付けてある王冠バッチにいく。
「そのことで、達ちゃんに話があるんや」
「そうか。後で聞くわ。ゆきこが謝りたいって言ってるんやけど、呼んでもええか?」
「どうして、ゆきこがぼくに?」
「足を洗ってもらったのに礼も言わんと帰ったから、みのるが怒って昨日遊んでくれへんかったと思ってるみたいや。お姉ちゃんと一緒に、栄町へ行ったことは内緒にしといた方がええで」

 稔が玄関から顔を出すと、路地の入口に雪子が立っていた。こちらをうかがっている。
 手を振ると、雪子が飛び跳ねるように走って来た。
「足の爪、お姉ちゃんに切ってもらったわ」
 雪子が大きなズック靴を脱いで両足を揃えた。小さな指先の爪が短くなっている。
「ゆきこのこと、嫌いにならんといてや」
「ならへん。ゆきこのことは大好きやで」
「そんなら、みのるくんのお嫁さんになってあげるわ」
 雪子がランニングシャツの端を強く引っ張った。
「言葉がおかしいわ。お嫁さんにしてくださいと言わなあかん」
 笑いながら達也が訂正した。 

「お姉ちゃんが、無花果おいしかったって言ってたわ。ゆきこよりいっぱい食べはった」
稔はなんだか急に涙が出そうになった。声が震えないように気を付けた。
「お腹、こわせへんかったか?」
「うん。平気やった」
「そうか、今日も持って帰ったらええ」
「貰ってばっかりで悪いわ」
「ゆきこがそんなこと言うなんて、大きくなったなぁ」
達也の大人びた言い方がおかしかったので、稔は少し笑った。
「二人とも上がってえな」
「おばちゃんは、いつ帰ってきはるんや」
 玄関に入った雪子が訊いてきた。
 稔は答えることが出来ない。
「もう、おばちゃんは帰ってけえへんかもしれんわ」
 達也が言うと雪子は目を丸くし、まばたきを何度もした。
「みのるくん、ほんま?」
 稔は首を横に振った。でも、閉じ込めていたはずの不安な気持ちが襲ってくる。表情が硬くなっているのを自分でも気づいた。
「冗談やで、みのる。そんな顔すんなよ」
「たっちゃん、いじわる言うたらあかん!」
 怒った雪子が振り上げた腕を、達也は両手で掴んで止めた。
「無花果、おれの分もあげるから、許してくれ」
「達ちゃんの分は初めから無いわ。無花果が嫌いやろ」
「今日から好きになるわ」
「明日になったら、また嫌いに戻るんやろ」

 稔は縁側まで行くと、みかんの木箱を持って庭に下りた。
「白いちょうちょが死んではるわ」
 雪子の声に振り向いて地面を見ると、蝶の死体がアリに引きずられている。
「アリは小さいのにすごい力やな」
 達也の言葉は耳に入らなかった。
 ゆっくりと運ばれる紋白蝶を見つめながら、稔はこの前に便所から逃がした蝶ではないかと思った。
 ふいに無花果の葉が揺れた。

 一緒に遊びたいと言う雪子に「達ちゃんと、男の話がある」と、新聞紙に包んだ無花果を持たせて帰らせた。
「みのる、男の話って何や?」
「お姉ちゃんが、栄町に戻ったんや」
「それが、どうかしたんか?」
「貰った映画の券とジュースのフタを返さなあかんねん」
「お姉ちゃんが、返して欲しいって言ってんのか?」
 一瞬、答えを迷った。「そうや」と言えば、すんなり返してくれるだろう。
「違うけど返さへんと、ぼくの気が済まへんのや」
 正直なことを言った。
「みのるの勝手で、おれのバッチを取り上げるんか」
 達也はあきれたように吐き捨てた。
「昨日はやるって言ったのに、今日は返せって言うんやな。お前の舌は二枚あるんか!」
王冠を胸からむしり取ると、達也は畳に投げ捨てた。
「もう明日から、誘いにけえへんからな!」
 そう言い捨てて帰って行った。
 手の中に残ったジュースのフタが、ずっしりと重く感じた。

◆7

 稔は向かいの増井の家を訪ねた。まだ夜勤の仕事には行っていないはずだ。
 冗談みたいなことばかり言っているけれど、物知りで今までも色々なこと教えてもらっていた。
「みのるちゃん、何の用や?」
 少しだけ開いた引き戸から、増井の母親の細い声が聴こえた。
「お兄ちゃんは居てはりますか?」
「買い物に出てるわ。もう少ししたら帰ってくるんとちがうかな」
 数年前に増井がデモで警察に捕まってから、母親は世間に申しわけがないと外に出てこなくなった。そのために買い物は全て増井がしていた。
 増井が帰ってくるのを外で待っていると、野良犬の三日月が国道の方から歩いてきた。
 稔に顔を向けると威嚇するように唸り声を出した。噛まれてもいいと思って路地の真ん中に立つ。シッシッと手で追い払うと、三日月は素早く引き返していった。

 路地に入ってきた増井の姿を見つけて、稔は駆け寄った。
「みのる。お出迎えしてくれてるんか? 残念やけど、グリコのキャラメルはないで」
 買い物かごを下げた増井は、クックックッと笑った。
「そんなん要らんわ。たかし兄ちゃんに相談したいことがあるんや」
「荷物を置いたらすぐに行くわ。相談料を用意しとけよ」
 増井の言葉にうなずいて稔は家の中に戻った。

 急いでかち割り氷を作って、卓袱台に置いた。
 玄関を大きく開けて待つ。向かいの家から出て来た増井を「早く上がってえな」と招き入れて引き戸を閉めた。 
「文江さんは留守したはるんやな。いつも聴こえるミシンの音が無いと寂しいわ」
 増井の目がカバーを被せてあるミシンから、卓袱台に置いてあるコップに移った。
「かち割り氷を用意してくれたんやな。おおきに」
 箪笥を背にして座ると、胸ポケットからグリコの箱を取り出した。
「仕方がないからグリコのキャラメル持って来たわ、半分は達也に渡してくれ」
「おおきに、でも達ちゃんとケンカしたから、もう会われへん」
「相談って、そのことか」
「それもあるけど……」
 稔は達也との喧嘩をきっかけにして、明美のことを喋った。
 増井が氷を口に含んだまま、じっと聴いている。時々、考えるように稔を見つめた。
「この家に明美って人がいる時に呼んで欲しかったな」
「その時は、困ってへんかったわ」

 話が幸夫のアパートでのことになった。
「ぼくのゲロをギョウザの具に混ぜて食べはったんや。爪のあかと一緒やて言わはった」
「爪の垢を煎じて飲む。汚いものでも食べさえすれば、その人のようになれると思うということわざや」
「そんなんおかしいわ。ぼくは子どもやのに」
 増井は少し視線を上にやった。頭の中で考えをまとめているようだ。
「明美って人にとっては、みのるは普通の子どもと違ったんやろな。ほんまに爪の垢を煮て飲んだらええと言っているわけやないけど、言葉通りに取りはったんやろな。それだけ必死やったんやと思うわ」
「……」
「溺れる者は藁をも掴むって知ってるやろ。困ってどうしようもない時は、まったく頼りにならんものにまで必死にすがろうとするもんや」
「そしたら、ぼくは溺れている人を追い出したんか」
「みのるはまだかまぼこの板のように小さい。溺れている時に、かまぼこの板に乗ろうとしたら一緒に沈んでしまうやろ。畳一枚ぐらいの大きさでないと一緒に浮かぶことは出来へんわ」

 稔は達也が海水浴に行く朝に持って来た命札を思い浮かべる。あのかまぼこ板と、いま座っている畳を比べてみた。
「みのるは、全然悪くない。旋風(つむじかぜ)に捲き込まれたようなもんや。風が収まるまでじっと我慢しとくしかないわ。僕の尊敬するレーニンはんは『嵐は強い樹を作る』と言うたはる」
 増井はクックックと笑った。
 答えが出た訳ではないけれど、稔の気持ちは少しだけ楽になった。


いびつな夏の月 15 に続く。

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