第92話 いびつな夏の月 16

文字数 2,869文字

 稔は踏切の前で立ち止まったまま一歩を踏み出せないでいた。
 向こう側の栄町は、華やかなネオンの色で溢れている。遮断機が降りて、電車が轟音を鳴り響かせて通り過ぎた。遮断機が上がっても足が地面から離れない。
 駅前は電車が着くたびに人影が動いた。騒音が波のように襲いかかる。今の自分がものすごく嫌いだった。

「時間よ戻れ!」
 声に出して、目を閉じた。
 どこまで戻ればいいのだろう。母親が家を出て行く前の日。それとも、ラジオが聴こえなくなる前か? 律ちゃんが車に轢かれる前、いや、最初の事故に合う前……。
 それとも、それとも……。自分なんか生まれないほうがよかったのだろうか? 
「みのるやないか」
 肩を誰かにわし掴みされて、ぐいと後ろに引かれた。
「電車に飛び込みそうな顔してるな」
 律子の父親の裕二だった。
 稔は急に怖くなって、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。
「悪さして、家を出されたんか?」
 裕二が腰を落として稔に顔を近付けてきた。酒臭いにおいがする。
「違う……」
「何か訳ありみたいやな。どうしたんや?」
「ぼくが嘘をついたから、みんな出て行ってしまったんや」
「嘘をついたことを、後悔してるんか」
「うん」
「そうか、おっちゃんの顔を見いや」
 稔は顔を上げた。裕二は舌を出してくるりと回した。
「おっちゃんはいっぱい嘘をついてるけど、閻魔様に舌を抜かれてへんやろ。男も女も嘘つかんと、生きていかれへんもんや」
 裕二が笑う。不揃いの歯のあいだから漏れた酒臭い息が稔の顔にかかった。
「律子も雪子も無花果を喜んで食べてたわ。おおきに」
 立ち上がって、稔の頭を撫でた。
 稔は思い切って訊いてみた。
「おっちゃん、バー銀座って名前のお店知ってるやろ」
「幸夫ってガキの姉ちゃんが働いているちょんの間の店やな」
「ちょんの間って?」
 聞き慣れない言葉が気になって、稔は思わず訊いた。
「子どもは知る必要がないことや」
 裕二が言葉を取り消すように、稔の髪をくしゃくしゃにした。

「とにかく、そこへ連れて行ってほしいんや」
「何でや? 小学生が行くとこやないで」
「男のけじめや。お姉ちゃんに返さなあかんもんがあるんや」
「それやったら、おっちゃんに預けたらええ。返しといたるわ」
「自分で返さなあかんねん」
「ハハハッ、それでええんや。誰も信用したらあかん」
 裕二の言葉に稔はうなづいた。
「迷子にならんように、しっかり付いてこいよ」

 踏切を渡った。
 夜は商店街の風景をまったく違うものに変えている。暗闇を隠すようにネオンが輝き、にぎやかな人の声で寂しさも吹き飛ばされていた。
 稔の視線がどうしても、前を歩く裕二の左手を捉えてしまう。
 いびつになった小指の端が、少しだけ膨らんでいる。見慣れると、小指の短いその手が、初めからそうだったように思えて来た。すると、その気持ちがなんだか卑怯なことのように思えた。

 見覚えのある場所を所々、通り過ぎて目的の店の前まで行った。
 裕二が中に入って行くと稔は昼間よりも心細くなって、目の端を通り過ぎる猫の影にさえ怯えが走る。
 暗闇の底に隠れるように身体を縮めていた。店から裕二が出てきたので、暗闇から飛び出した。
「明美は店を休んでいたわ。住んでいる場所を聞いてきたけど、アパートまで行くか?」
「連れて行ってほしいわ」
「ほな、大サービスしたる」
 裕二はさっさと歩いて行く。稔は、どぎまぎとしながら後を付いて行った。

 アパートは思っていたよりも近くにあった。
 裕二が前屈みに外階段を上がって行く。
 稔は長い時間、二階の出入り口を見上げていた。出て来た男の影が頭の形で幸夫だとすぐに分かった。後ろから明美が姿を現すかと期待したけれど、裕二が続いて下りてきた。
「ぼうず、裕二の兄貴と親しいやないか。大嘘つきやったんやな」
「お姉ちゃんに会いたいんや」
「蝉の抜け殻みたいになって寝てるわ。何の用や」
「謝りたいんや」
「姉やんに、気持ち悪いって言うたやろ。今更謝っても許さへん」
 幸夫の言葉が突き刺さって、かすかに膨らんでいた希望がしぼんだ。
「どうあがいても、仕切り直すことなんてでけへんのや。今度のことで、姉やんも骨身に沁みたやろ」
 稔はポケットから映画の券とバヤリースのフタを取り出した。
「それを返しに来たんか?」
 稔はうなずいた。
「日向もんのガキは、平気で残酷なことをするんやな」
 稔の手から奪い取った幸夫は、映画の券をポケットに入れた。
 バヤリースのフタは、腕を大きく振って投げた。暗闇から、かすかに二つの物音が聴こえてきた。

「何で、棄てたんや!」
 稔は幸夫に向き合った。たまらないほど怖い。けれど、目をはなすことはしなかった。
「さっさと消えろ! 裕二の兄貴の前やから、大人しくしてるんや。今度お前が顔を見せたら、ただではすませへんからな」
「そのへんにしといてやってくれ。詳しい事情を知らんと連れてきた俺も悪かったわ」
 裕二に背中を押されて稔は動くしかなかった。

 いくら考えても稔には幸夫の言葉が納得いかない。裕二に訊ねることも出来ないまま踏切まで戻った。
 稔は輪郭のはっきりしない影のようなものを踏みながら前に進んだ。
 誰も居ない家へ帰るしかない。踏切を渡りながらそう思った。人通りのまばらな国道を線路に沿ってとぼとぼと歩く。
「みのるちゃん」
 前から呼びかける声に顔を上げる。照代が走って近寄ってきた。
「やっと見つけたわ。心配してみんなで探し回っているんやで」
「みんなって、お父ちゃんもか?」
「当たり前や。文江さんを迎えに行って、連れ戻してきはったんや。ちゃんと言えばいいのに、口数が少ないのも罪やな」
「お母ちゃんが、帰っているんか!」
「公園の方を探しに行ったはる」

 最後まで聞かないで稔は走り出した。
 息を吐くたびに小さく「お母ちゃん、お母ちゃん」と呼び掛けていた。路地から出て来た影が、通過する電車の明かりに照らされ文江だと分かった。
「お母ちゃん!」
 思いっきり叫ぶと、まばらな人影が立ち止まった。

 文江が国道を渡って走ってくる。長い髪が、ふさふさと揺れている。
「みのる、心配したで。どこへ行ってたんや」
「ラジオ、聴こえるようになったで」
 文江の腰にしがみ付く。溢れ出てくるものを文江の服で拭った。
 腰を落とした文江に抱きしめられる。明美とは違う匂い、安心できる匂いだった。
「みのるが直してくれたんやな。お父ちゃん、大きくなったって喜んではったわ」
「お母ちゃんに、謝りはったんか」
「それは無いけど、迎えに来てくれはった」
「達ちゃんとケンカして大変やったんやで」
「何があったのか、ゆっくり教えてね」
 稔は顔を上げた。ラジオを直したのは明美だと正直に言える。
 しかし、栄町や幸夫やその他のことは……。秘密を抱えてしまったと思うと、また涙が出て来た。
 轟々と音を立てて疾走する電車の明かりに、文江の顔が照らされる。
 風に広がった文江の髪の毛に、顔を包み込まれた稔はその匂いの中で目を閉じた。


 いびつな夏の月 終わり。
 第九章 ユーカリの樹 に続く。
     
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