第82話 いびつな夏の月 6

文字数 3,271文字

「ゆきこの足、きれいにしたるわ」
 稔は雪子を土間の板敷きの上に座らせた。
「おばちゃん居てはらへんけど、どこ行ったはるんや?」
 雪子がカバーをしてあるミシンを見上げて言った。
「お泊りの用事で、枚方のおじいちゃんのとこへ行ってるんや」
「みのるくんとこは、みんな用事がおおいんやなぁ」
 稔は台所から捨て水を入れてあるバケツを運ぶと、雪子の両足を掴んで水に浸した。
「ひゃぁ、冷たくてええ気持ちやわ」
 雪子が身体をよじった。
 稔が両手で揉むようにして、雪子の陽に焼けた足を洗う。甲に水ぶくれを何度か潰した跡がある。かかとに瘡蓋(かさぶた)のような固くなっているところもあった。
「みのるくんにも、ゆきこのにおいを嗅がせてあげるわ」
 雪子が両手で稔の頭を抱き寄せた。川の近くの少し湿った土のにおいがする。
「苦しいから、手を放してや」
 頭を戻して、足の泥を落とした。長く伸びた爪に黒い汚れが染みこんでいた。
「汚いな、足の爪。お母ちゃんに切ってもらえばええのに」
 そう言うと、雪子が足をバシャバシャと動かした。稔の顔にまで水が飛び跳ねた。
「急に、どうしたんや」
「もうええわ!」
 雪子がバケツから足を抜いて立ち上がった。
 稔を押し退けて、ズック靴を取ると裸足のままで駈けて行った。
 小さな雪子の足あとが、白く乾いた土の道に点々と黒く残った。

 入れ替わるように、達也が白いひも靴で走って来た。
「お出かけする時の靴、履いて来たわ。みのるに恥をかかせへんように服も着替えたで」
「ゆきこを怒らせたわ」
「どうしたんや」
「足の爪が汚いから、お母ちゃんに切ってもらいって言ったんや」
「女子に汚いって言うたらあかん。女心を傷つけたんや」
「女心か……」
「気にせんでもええ。それより、早く火を起こしてテレビを観せてもらお」
 達也が稔の手から団扇を取って、七輪の下側にある通風口をバタバタとあおいだ。
 炎が上がってくると、稔は彫刻の削りかすを上からふりかけた。練炭に火が回り始めたので、稔は照代を呼んだ。
「達ちゃんと一緒に、テレビ観てもええやろ」
 台所から顔を出した照代がうなずいた。

「お邪魔します」
 達也が、稔の後ろから声を張り上げる。
 部屋に入って座卓に片肘をついていた明美を見ると、達也の声が高くなった。
「お姉ちゃんの乳、大きいなぁ」
「おおきに」
 明美が腕を組んだので、よけいに胸のふくらみが盛り上がった。
 達也は四つ這いになって、テレビに近付いて行く。稔も同じようにして、横に並んだ。
 テレビの画面に自動車が登場すると、達也が解説をした。『わんぱくパトロール』を観終わると、明美がチャンネルを回した。『ローン・レンジャー』の文字が画面に映る。
「久しぶりや。ローン・レンジャー観るのは」
 稔と達也は「カッコええな」と感嘆の声を上げた。
「うち、主人公のクレイトン・ムーアが大好きやから、毎週観てるわ」
 明美が得意気に言った時に、馬にまたがったローン・レンジャーが「ハイヨ~、シルバー」と叫んだ。稔と達也が拍手をすると、明美も手を叩いた。

 コマーシャルになったので、稔が「途中で『ふしぎな少年』に変えるで」と宣言した。
『ローン・レンジャー』は六時十五分から始まって四十五分に終わる。三十五分に始まる『ふしぎな少年』と重なってしまうのだ。
「何で? これが終わってからならええけど」
「ぼく、照代さんと約束したわ」
「テレビを観てもええかって聞いてたけど、番組は言わへんかったやろ」
「子どもに観せてあげたら」
 騒ぎを聞きつけた照代が、台所から声をかけた。
「この子らは、他にも観せてもらえる場所があるやろ。うちは、ここしかないんや」
 明美が言い返す。

「長沢診療所に行くしかないな」
 達也が稔の耳元で囁いた。
「ごめんな」
「かまへんわ」
 稔の肩を軽く叩いた達也は、明美に向きなおった。
「お姉ちゃんも、栄町で働いてはるんか?」
「そうや」
「あそこは犬も猫も食べるから、一匹もいてへんいうのはほんまか?」
 長沢に訊いてこいと言われていたことだ。
「ほんまやで」
「嘘やろ!」
 達也と同時に稔も声を上げた。
「そう思うんやったら、何で訊いたんや」
「何でって、なあ」
 達也が稔に同意を求めてきた。
「女の人は、乳だけと違って生き血も吸われるんや。それに、男の人は尻の毛まで抜かれてしまうわ」
「尻の毛まで抜かれるって?」
 稔が訊いた。
「何も残らへんくらい騙し取られるんや」
「それやったら栄町の人は、誰も幸せになれへんな」
「やっぱり、みのるちゃんは面白いこと言うわ」
 明美に指で頬をつつかれたが、稔は相手にしなかった。

 柱時計に目をやると六時三十分を過ぎている。
 ローン・レンジャーの相棒のトントが「白人嘘つき。インディアン嘘つかない」とまだ言っていない。未練を残して立ち上がると、急いで外に出る。
 近所の家からは、にぎやかにラジオの音が流れていた。

 長沢診療所は、国道の反対側のバス通りを渡ったところにある。
 全速力で走ったので、息を弾ませながら診療所のドアを押し開けた。待合室でテレビに向いていた子どもたちの顔が全て稔と達也に集まった。
「みのる。観に来るんやったら、もっと早くこい!」
 長沢の声が尖っていた。
 四列並んだ長椅子の後ろの列の真ん中に、一人で座っている長沢に目を向けた。
「用事があったんや。お邪魔しまっせ」
 おどけてから、長沢の後ろに立った。
 達也は長沢の横に座って、耳元に小さな声で喋っている。明美の言葉を伝えているのだろう。
「ほんまか!」
 長沢は身体をひねって、稔を見た。もう一度、確かめるように「ほんまか」と言ったので、稔はうなずいた。
 達也が手首を振って稔を呼ぶので、仕方がなく長沢の横に座った。テレビの画面を観ていると、すぐに物語の中に入って行った。

 主人公のサブタンが「時間よ止まれ!」と叫ぶと画面がピタッと静止する。
「動いた!」達也が、画面の右隅を指した。
「ほんまや、動きはったわ」
 次々に声を上げるので、待合室は大騒ぎになった。
 毎回、画面の中に動く人を探し出すのも楽しみの一つなのだ。
 番組が終わって長沢がテレビのスイッチを切ると、画面の周りからスーッと小さくなっていく。
「おおきに」「ありがとう」と声をかけて、子どもたちが帰って行った。達也と一緒に長沢に呼び止められた稔は、点になって光っているブラウン管を見ていた。

「患者のおっさんが言うてたんやけど、栄町の裏通りに自転車を停めてたら、赤い色がいっぱいついていたそうや」
「何色の自転車やったんや」
 達也の質問を無視して長沢が続けた。
「ペンキやと思ったら血やった。それで、血でよかったって言うたんや。何でやと思う?」
「水で落ちるからや」
 稔の答に、達也が付け加える。
「色を塗り直すのに金がかかるもんな。人の怪我やったら、自分の腹は痛まへん」
 長沢は悔しそうに舌打ちをした。

 特急で走って帰ると、照代の家からご飯とおかずを運んだ。
 卓袱台に並べて寛之の帰りを待つ。縁側の金盥の横に数枚のタオルも用意した。玄関の引き戸が開いて、寛之が姿を見せてから稔は服を脱いだ。
 素っ裸になって、金盥に足を入れる。部屋に上がってきた寛之もすぐ裸になった。
 文江と違って、力を入れてゴシゴシ擦るので皮も一緒に削れそうだ。でも、痛いと言わないで耐える。修業をしているのだと、寛之の厚くてがっしりしている胸を見ながら言い聞かせた。

 水から出ると、ヒリヒリとする身体に団扇で風を送った。金盥に寛之が背中を向けて座る。左肩から腰の上まである大きな傷痕は、文江から手術の痕だと聞かされていたが、奇妙にえぐれて赤黒く変色した傷痕を見るたびに、稔の気持ちがざわつくのだった。
 寛之が行水を済ませると、稔はタオルと下着を放り込んで、行進をするように踏みつける。
 文江がしている洗濯板で洗うことはやらないでいた。寛之がタオルと下着を絞って裏庭の軒下の干し竿に並べた。
 金盥の水を裏庭に流すことを寛之と一緒にした時、稔は小さな喜びを感じていた。




いびつな夏の月 7 に続く。
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