28 2013・12・20(金) 最終稿 『無花果』 2  

文字数 2,986文字


 外に出ると、路地のあちらこちらで七輪から煙が立ち昇っていた。
 国道の向こう側に、京阪電車の線路が見える。路地の入り口にある電信柱の下で、六人ほどの女の子たちがゴム跳びをしていた。雪子が少し離れたところに座り込んで、ふたりの子が手を繋いで跳んでいるのを見ていた。日陰で野良犬が寝そべっている。
 稔は家の前の道に、バケツの水を手で撒いていった。
「みのるくーん」雪子が立ち上がった。駆け寄ってくる途中で、左足の靴が脱げた。雪子はそれを拾って、手に持ったままで稔の前まで来た。
「なんで、公園にけえへんかったん?」
 陽に焼けた顔が、口元を尖らせる。
「用事をしていて、忙しかったんや」
「なんの用事やの?」
 靴を履きながら雪子が訊いた。
「小さい子には、言うても分からへんわ」
 水を雪子の足元に撒いた。雪子がきゃっきゃっと飛び上がると、土ぼこりが舞った。
「ちょっと、離れてや」
 玄関の前に、バケツの水で線を引く。
 白く乾いた土の道が水で黒くなっていく。雪子を抱き上げて、線の外へ降ろした。
「これから七輪で火を起こすから危ないで。この線から、入ってきたらあかん」
「なあ、なんの用事してたん?」
 雪子は線の端につま先を置いて、顔を突き出して訊いた。
 バケツを戻した。台所の床下から、七輪と木炭入れの一斗缶を運び出す。それから、奥に積んである薪を一本取り出した。脇に立てかけてある斧と一緒に持って外に出た。
「危ないからな」
 雪子を見て念を押す。
 座り込んだ稔は、輪切りの木を台にして、薪を立てた。斧を両手で持ち上げた。
「一刀両断!」勢いよく振り下ろすと、二つにきれいに割れた。
 雪子が拍手をして、木片に飛びついた。稔は、また雪子を抱き上げる。一度ぐるっと回してから、線の外に降ろした。斧を振り上げて薪を細かく割っていく。
「公園にヤスたちは来てたか?」
 稔は五年生の康史とグループになって遊んでいた。
「来てへんかったわ。自転車乗りが、お姉ちゃんを後ろに乗りって誘ってたで」
 五年生の長沢は医者の子で、新しい物は何でも持っていた。
「乗ったんか?」
 丸めていた新聞紙を押し潰して訊く。
「嫌や言うて、断わりはった」
「そうか」
 徳用マッチで、七輪の底に入れた新聞紙に火をつける。上から細かく割った木を落としていく。火が燃え移ると木炭を乗せて、下側の全開にしてある通風口から団扇であおぐ。煙が雪子の逃げる方向に移動する。
「煙たいわ」
 雪子は乾いて消えかかっている線を飛び越えて、稔の背中に身体を付けた。
「ゆきこは、ひっつき虫やな」
「みのるくんのお嫁さんに、なってあげるわ」
 電車の音で稔は顔を上げた。連結された車両が走り去ると、遅れて風が路地を通る。たなびく煙が同じ方向へ流されていく。
「ゆきこーっ」声がした。
 路地の入り口で、律子が手を振っている。ゴム跳びをしていた女の子たちの姿は消えていた。稔も雪子と一緒に立ち上がった。律子と目が合うと、慌ててそらせた。
「お父ちゃん、帰って来はったでぇ」
「ほんま!」
 雪子は振り向きもしないで走っていった。
 稔は道路まで出た。光を弱めた太陽が、景色をオレンジ色に染めている。シルエットになった律子の足元から長い影が伸びている。雪子はまた、左足の靴が脱げたようだ。靴を手に持ったまま、右足を少し引きずって歩く律子を追い越していった。ふたりの姿が二つ先の路地に入るまで見送った。

 カレーを黙々と食べている父親の上を、蠅が飛び回っている。稔はスプーンを口に入れたまま蠅を目で追った。ちゃぶ台の上に、天井から蠅捕り紙を吊り下げてある。蠅はうまく茶色い粘着リボンを避けていた。
「今日は少し水を入れ過ぎたわ」
 母親が、稔の皿を覗き込んだ。
 黄色のジャガイモと、点々と黒っぽいミンチ肉が入っている。
「そうでもないで」
 言いながらも、稔は醤油で味を足した。
 閉めてある玄関を叩く音がした。母親が立って、台所から玄関に行った。
「おばちゃん、お米を貸して」
 声で律子だと分かった。身体を斜めにして覗くと、小さい影がふたつあった。
「ありがとう」
 ふたつの声がして、引き戸が閉まった。
 カレーの味がしなくなった。座布団に戻った母親が、音を立ててカレーをスプーンでかき回す。隣の家でお酒を借りている声が、犬の遠吠えと一緒に聴こえた。
「和子はんが自分で来ないと駄目や。子どもにあんなことをさせたら、あかんわ」
 母親は誰にともなく言った。

 朝のラジオ体操が終わった公園の入り口に、出席カードを持ってみんなが群がっている。スタンプを押してもらった稔は達也と公園を出た所で、雪子にシャツの裾を掴まれた。
「お姉ちゃんなあ、お父ちゃんに梅田に連れて行ってもらいはんねんで、ずるいわ」
 雪子を追いかけてきた律子が、数歩手前で立ち止まった。
「みのるくん、頼みがあるんやけど」
「何でも頼まれたるで」
 達也が横から口を出す。
 稔は達也の脇腹を肘で突いてから、律子の傍に行った。
「朝ご飯を食べてから、誘いに来て欲しいねん」
「梅田に行くんと違うんか?」小声で訊いた。
 律子の長いまつ毛が、稔の顔にほとんど触れそうなところまで近寄ってきた。
「行きたくないねん」
「男と女が、内緒の話をしたはる」
 雪子がはしゃいで飛び跳ねる。
「分かった」
 肯いた稔は、「ばいばーい」と振った手を広げて走りだした。
「なに話してたんや!」
 達也の声が追いかけてくる。その足音に追い付かれないように稔は風をきった。

「たっちゃんに、先に行ったって言うといて」
 家を飛び出た稔は道路に出て、ふた筋離れた路地に入った。井戸を取り巻く格好で古い家が寄り添って建っている。錆びたトタンで区切ってある便所の隣りが律子の家だった。半分開いているガラス戸は、割れ目を丸く切った紙で張り合わせてある。稔が声を掛ける前に、律子が桶を抱えて出てきた。うつむき加減だった顔を上げた。
「ちょっと待ってて」
 律子は稔の横を通って、井戸端で洗い物をしているおばちゃんたちの方へ小走りにいった。右肩が上下に揺れるたびに茶碗の当たる音が鳴った。
「わあ、みのるくんが、呼びに来てくれはった」
 声に振り向いた。裸足で飛び出てきた雪子が稔の手を引っ張る。
 玄関に入ると、部屋の隅で横になっていた律子のおばちゃんと目が合った。
「昨日の晩はありがとうって、お母さんに言うといて」お酒の匂いが届いた。
「ぼくを使わんと、おばちゃんが言いに行ったらええやん」
 稔の言葉に、おばちゃんは白い卵のかたちをした顔をしかめた。
「男の子は、元気でええな」おっちゃんが言った。
 柱にもたれているおっちゃんの膝の中に、雪子が座りこんだ。
 板張りの壁の隙間から光が筋になって、剥がれてささくれて立っている畳に降りそそいでいた。壁に貼り付けてあるカラーページの女優が光の中で笑っている。
「好きなだけ持っていってええわ」
 おっちゃんは、入り口の横に置いてある三箱のダンボール箱を指した。開いてある箱には、ダッコちゃんのような黒いビニール人形が折りたたんで入っている。
「空気入れてもふくらめへんから、縁日で売れへんかったんや」
 雪子が歌うように言った。
「バッタもんは要らんわ」
 稔の言葉に、おっちゃんは弱々しい笑顔を向けた。戻って来た律子に、「はよ帰って来るんやで」と優しい声を出した。
 律子は返事をしなかった。

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