79 『石袋(いしぶくろ)』 初稿 1
文字数 2,808文字
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2017年4月、緑内障の手術をしたのだけれど、本を読むことが出来なくなるという皮肉な結果となった。
21日間の入院後、見えにくい状態なのだが、文学学校には通い続けた。
長年通い慣れた道順を迷いながらも通うことが出来たのは、治るものだと強く信じていたからだと思う。
この『石袋(いしぶくろ)』を書いた2019年6月には、定期的な通院治療を行ってはいるものの、本を読む視力は戻らないという現実を受けとめていた。
向かい側の家に住む増井を若い青年とした。
ねこバアが初登場する。
*
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『石袋(いしぶくろ)』
稔が便所の横に植えてある南天(なんてん)の葉を引っ張ると、たわわにみのった紅い実が頬に触れた。手を拭いて清めてから離すと大きく揺れて戻った。
水が冷たい朝は、南天手水(ちょうず)で済ませている。
曇り空の下に立っている無花果の木も、葉が落ちて枝ばかりになって寒そうだった。稔は生まれる前から裏庭にある無花果の木が、自分を見守ってくれているように思っていた。
縁側の突き当りの壁と壁に挟まれた狭い場所に、稔の学校で使う者や遊び道具が置いてある。
そこからジャンバーとランドセルを持って部屋に入った。
三畳間に続く磨りガラス戸の向こうから、ガダガダガダと足踏みミシンの音が聴こえる。
母親の文江が、朝ごはんを食べ終えるとすぐに玄関の土間に板を敷いた上でミシン掛けをしているのだ。
ランドセルをこたつの横に置いてから、ふとんの端を持ち上げて頭から潜りこんだ。中に入れていた豆炭(まめたん)あんかを胸に抱く。
やぐらこたつの炭が真っ暗な中で、ちりちりと燃えている。息苦しくなるまで見ていた稔は、鼻と口だけこたつふとんの外へ出した。
ミシンの音に混じって母親の文江が口ずさむ『高原列車は行く』の歌が聴こえてきた。その曲に合わせて稔は、あんかを包んでいる袋に指を入れて爪先で金属面を弾く。
あんかの金属面は一晩経っているのに、まだ火傷をするぐらい熱かった。
「ラララララァ ラララララララァ」
と歌う箇所は稔も声を出した。
文江の歌う声が聴こえなくなったことに気付いた瞬間、こたつ布団をまくり上げられた。
「いつまでお正月してるんや! 今日から学校やで」
驚いた稔は、あんかの金属面に指先を押し付けてしまった。
「熱っ! 火傷したわ」
右手を宙に広げて振った。
「目が覚めて、ちょうどええわ」
文江はそう言い残して、磨りガラス戸を開けたままミシンに戻って行った。
三畳の部屋には、タグを縫い終わった白いシャツが積み上げられている。
「今日は早く帰って来るから、ぼくの仕事を残しておいてや」
むっくり起き上がった稔は、ミシンに戻った文江の背中に言った。
シャツを百枚折りたたむと、一円のこずかいになる。
お年玉で『巻玉鉄砲』買った。それに使う一個、二円する『巻き玉火薬』を十個買ったけど、火薬も残りのお年玉も、冬休みの間に使い切ってしまっていた。
巻紙鉄砲はロール状の紙に火薬の粒が一定間隔で並んでいる巻き玉火薬を鉄砲に装てんして、引き金を引くたびにロール紙が少しずつ回転するので『百連発』とも呼ばれていた。
稔は三畳間と台所を分ける柱の前に置いてある大きな丸火鉢の前で、袋から取り出したオレンジ色のあんかを置いた。留め具を外して灰が落ちないように気を遣いながら爪先で二つに広げる。真ん中の穴に灰になっていない炭の残りが赤く燃えている。火ばしで残り炭を挟んで火鉢の中に移した。
「もうじき達ちゃんが来る時間や。寒い中、待たせたら悪いで!」
文江の声が急かす。
「分かってるわ」
まだ熱いあんかを両手で持ち上げて、灰を火鉢の中に落とした。
ジャンバーを着て稔はポケットの中身を確かめた。手の中にすっぽり入る大きさの石が二個と、紺色の小さな布袋が三つ入っている。
稔が文江に頼み込んで作ってもらった厚い生地を使った巾着袋は、中に石を入れるためのものだ。
「行ってきます」
ランドセルを背負った稔は、ミシンの横を通り抜けて外へ出た。
急に冷たい空気を吸い込んだので、鼻の奥がつんと痛くなる。
朝の光を浴びて路地がきらめいている。向かい側に並んでいる家の前の日陰に霜柱が立っていた。
玄関前に敷いてある砂利の上で足踏みをして、幼馴染の植野達也が来るのを待つ。達也は同じ三年八組だ。
稔はかじかんできた指先に息を吹きかける。吐いた息が白く空中を漂った。
国道の向こう側を京阪電車が、路地に強い風を残して通り過ぎていく。
稔は数歩進んで日陰に入ると、高く盛り上っている霜柱を踏みしめた。しゃりしゃりと小気味いい音を立てて砕ける霜柱の感触が、ゴム靴の底から伝わる。
「お早う!」
路地に姿を表した達也も、稔と一緒になって霜柱を押しつぶし始めた。二人でざくざくと音を鳴らしてはしゃいでいると、すぐそばにある増井の家の引き戸が開いた。
「朝からうるさいな」
頭に白い包帯を巻いた増井が出てきた。
青白い顔に、まっ黒な顎ひげが伸びている。
「俺のとこの霜柱、壊さんといてくれや」
稔の足元を見て言った。
「俺はな、寒い冬の朝に、つるつるした霜柱が立っているのを見るのが大好きやねん」
「兄ちゃんの霜柱と違うわ」
「じゃあ、みのるの霜柱なんか」
「違うけど、みんなの霜柱や」
「みんなの霜柱やったら、みんなで大切にせなあかんやろ」
増井は新聞受けから朝刊を取り出しながら言った。
「そうやけど……、」
言葉に詰まった稔の代わりに、横の達也が言い返す。
「兄ちゃんが、早起きしたらええんや」
「まあ、ええわ。明日から潰したらあかんで」
増井はクックックと笑うと、新聞を持って家の中に入っていった
稔は達也の耳もとに口を近付けた。
「増井の兄ちゃん、デモで頭を怪我したから変なこと言うんや」
稔は大人たちから聞きかじった言葉を言った。
「デモって何や?」
「デモはデモや!」
強く言って話を打ち切った。
路地から国道に出る。電車の轟音が近付くと、二人はさっと両手で顔を隠した。風に飛ばされた砂粒が手の裏を打ちつける。
国道から公園に続く横道に入った。
「お母ちゃんに石袋作ってもらったんや」
稔は達也に三つの袋を見せた。
「達ちゃんの分も作ってもらったで」
残りの一つは四年生の金田律子の分だ。
「おれ要らんわ。こんなええ物を持って帰ったら母ちゃんが気い悪うすると思うわ」
喜ぶものだと思っていた稔は黙ってしまった。
達也がとりなすように言葉を足す。
「すぐに失くしてしまうから、おばちゃんに悪いし。おれはこれでええわ」
達也はジャンバーのポケットから小さく折った新聞紙を取り出した。
それでも稔が黙っていた。
「手が冷たくなったら、みのるのポケットを借りるし」
そう言って後ろからズボンのポケットに手を入れようとしてくる。
「達ちゃんは、ちんちん触るからいやや」
稔は達也の脇腹を肘で突いて、公園まで走った。
2017年4月、緑内障の手術をしたのだけれど、本を読むことが出来なくなるという皮肉な結果となった。
21日間の入院後、見えにくい状態なのだが、文学学校には通い続けた。
長年通い慣れた道順を迷いながらも通うことが出来たのは、治るものだと強く信じていたからだと思う。
この『石袋(いしぶくろ)』を書いた2019年6月には、定期的な通院治療を行ってはいるものの、本を読む視力は戻らないという現実を受けとめていた。
向かい側の家に住む増井を若い青年とした。
ねこバアが初登場する。
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『石袋(いしぶくろ)』
稔が便所の横に植えてある南天(なんてん)の葉を引っ張ると、たわわにみのった紅い実が頬に触れた。手を拭いて清めてから離すと大きく揺れて戻った。
水が冷たい朝は、南天手水(ちょうず)で済ませている。
曇り空の下に立っている無花果の木も、葉が落ちて枝ばかりになって寒そうだった。稔は生まれる前から裏庭にある無花果の木が、自分を見守ってくれているように思っていた。
縁側の突き当りの壁と壁に挟まれた狭い場所に、稔の学校で使う者や遊び道具が置いてある。
そこからジャンバーとランドセルを持って部屋に入った。
三畳間に続く磨りガラス戸の向こうから、ガダガダガダと足踏みミシンの音が聴こえる。
母親の文江が、朝ごはんを食べ終えるとすぐに玄関の土間に板を敷いた上でミシン掛けをしているのだ。
ランドセルをこたつの横に置いてから、ふとんの端を持ち上げて頭から潜りこんだ。中に入れていた豆炭(まめたん)あんかを胸に抱く。
やぐらこたつの炭が真っ暗な中で、ちりちりと燃えている。息苦しくなるまで見ていた稔は、鼻と口だけこたつふとんの外へ出した。
ミシンの音に混じって母親の文江が口ずさむ『高原列車は行く』の歌が聴こえてきた。その曲に合わせて稔は、あんかを包んでいる袋に指を入れて爪先で金属面を弾く。
あんかの金属面は一晩経っているのに、まだ火傷をするぐらい熱かった。
「ラララララァ ラララララララァ」
と歌う箇所は稔も声を出した。
文江の歌う声が聴こえなくなったことに気付いた瞬間、こたつ布団をまくり上げられた。
「いつまでお正月してるんや! 今日から学校やで」
驚いた稔は、あんかの金属面に指先を押し付けてしまった。
「熱っ! 火傷したわ」
右手を宙に広げて振った。
「目が覚めて、ちょうどええわ」
文江はそう言い残して、磨りガラス戸を開けたままミシンに戻って行った。
三畳の部屋には、タグを縫い終わった白いシャツが積み上げられている。
「今日は早く帰って来るから、ぼくの仕事を残しておいてや」
むっくり起き上がった稔は、ミシンに戻った文江の背中に言った。
シャツを百枚折りたたむと、一円のこずかいになる。
お年玉で『巻玉鉄砲』買った。それに使う一個、二円する『巻き玉火薬』を十個買ったけど、火薬も残りのお年玉も、冬休みの間に使い切ってしまっていた。
巻紙鉄砲はロール状の紙に火薬の粒が一定間隔で並んでいる巻き玉火薬を鉄砲に装てんして、引き金を引くたびにロール紙が少しずつ回転するので『百連発』とも呼ばれていた。
稔は三畳間と台所を分ける柱の前に置いてある大きな丸火鉢の前で、袋から取り出したオレンジ色のあんかを置いた。留め具を外して灰が落ちないように気を遣いながら爪先で二つに広げる。真ん中の穴に灰になっていない炭の残りが赤く燃えている。火ばしで残り炭を挟んで火鉢の中に移した。
「もうじき達ちゃんが来る時間や。寒い中、待たせたら悪いで!」
文江の声が急かす。
「分かってるわ」
まだ熱いあんかを両手で持ち上げて、灰を火鉢の中に落とした。
ジャンバーを着て稔はポケットの中身を確かめた。手の中にすっぽり入る大きさの石が二個と、紺色の小さな布袋が三つ入っている。
稔が文江に頼み込んで作ってもらった厚い生地を使った巾着袋は、中に石を入れるためのものだ。
「行ってきます」
ランドセルを背負った稔は、ミシンの横を通り抜けて外へ出た。
急に冷たい空気を吸い込んだので、鼻の奥がつんと痛くなる。
朝の光を浴びて路地がきらめいている。向かい側に並んでいる家の前の日陰に霜柱が立っていた。
玄関前に敷いてある砂利の上で足踏みをして、幼馴染の植野達也が来るのを待つ。達也は同じ三年八組だ。
稔はかじかんできた指先に息を吹きかける。吐いた息が白く空中を漂った。
国道の向こう側を京阪電車が、路地に強い風を残して通り過ぎていく。
稔は数歩進んで日陰に入ると、高く盛り上っている霜柱を踏みしめた。しゃりしゃりと小気味いい音を立てて砕ける霜柱の感触が、ゴム靴の底から伝わる。
「お早う!」
路地に姿を表した達也も、稔と一緒になって霜柱を押しつぶし始めた。二人でざくざくと音を鳴らしてはしゃいでいると、すぐそばにある増井の家の引き戸が開いた。
「朝からうるさいな」
頭に白い包帯を巻いた増井が出てきた。
青白い顔に、まっ黒な顎ひげが伸びている。
「俺のとこの霜柱、壊さんといてくれや」
稔の足元を見て言った。
「俺はな、寒い冬の朝に、つるつるした霜柱が立っているのを見るのが大好きやねん」
「兄ちゃんの霜柱と違うわ」
「じゃあ、みのるの霜柱なんか」
「違うけど、みんなの霜柱や」
「みんなの霜柱やったら、みんなで大切にせなあかんやろ」
増井は新聞受けから朝刊を取り出しながら言った。
「そうやけど……、」
言葉に詰まった稔の代わりに、横の達也が言い返す。
「兄ちゃんが、早起きしたらええんや」
「まあ、ええわ。明日から潰したらあかんで」
増井はクックックと笑うと、新聞を持って家の中に入っていった
稔は達也の耳もとに口を近付けた。
「増井の兄ちゃん、デモで頭を怪我したから変なこと言うんや」
稔は大人たちから聞きかじった言葉を言った。
「デモって何や?」
「デモはデモや!」
強く言って話を打ち切った。
路地から国道に出る。電車の轟音が近付くと、二人はさっと両手で顔を隠した。風に飛ばされた砂粒が手の裏を打ちつける。
国道から公園に続く横道に入った。
「お母ちゃんに石袋作ってもらったんや」
稔は達也に三つの袋を見せた。
「達ちゃんの分も作ってもらったで」
残りの一つは四年生の金田律子の分だ。
「おれ要らんわ。こんなええ物を持って帰ったら母ちゃんが気い悪うすると思うわ」
喜ぶものだと思っていた稔は黙ってしまった。
達也がとりなすように言葉を足す。
「すぐに失くしてしまうから、おばちゃんに悪いし。おれはこれでええわ」
達也はジャンバーのポケットから小さく折った新聞紙を取り出した。
それでも稔が黙っていた。
「手が冷たくなったら、みのるのポケットを借りるし」
そう言って後ろからズボンのポケットに手を入れようとしてくる。
「達ちゃんは、ちんちん触るからいやや」
稔は達也の脇腹を肘で突いて、公園まで走った。