第5話 いちじくの実 5

文字数 4,978文字


「でも、これからどうするんや? 律ちゃんが歩かれへんさかい帰られへんのとちゃうか」
 達也のいう通りだと稔は思った。
  ここまで一歩一歩、足を引きずってきた律子が、あの遠い距離を帰るのにどれだけの時間がかかるのかわからなかった。長沢の自転車があれば、みんなで支えて帰ることも出来たのに……、あのときに引き返せばよかったのかもしれない。
 稔が考えこんでいると、達也がいいことを想いついたようにいった。
「父ちゃんに、車で迎えに来てもらえばええんや」
 達也の父親は、会社の運転手をしているのだ。
「どうやって、ぼくらがここにいてることを知らせるんや」
「伝書バトを使うんや。映画で観たけど、子どもと一緒に悪者に捕まった主人公が、手品でハトを出したんや。それを飛ばして仲間に助けてもらったんやで」
「じゃあ、達ちゃんが手品を使ってハトを出してくれるんやな」
「主人公は、おれと違う。雅やんや」
 達也が雅史に顔を向けて、手品をするようにとうながした。
「手品の修業をしてへんから無理や」
 雅史が間地寝な顔をしていったので、達也が拍手をしながら笑った。

 しばらく考えごとをしていた雅史が、やがて宣言するようにいった。
「電車で帰ることにする」
「えっ、電車にのるんか? 電車賃なんか持ってないで」
 雅史の言葉に稔は驚いた。
「おれもお金を持ってきてへんわ。雅やんも冷やしあめで使ったやろ」
「心配せんでもええ。ぼくに任せとけ」
 自信たっぷりな雅史の声に稔は黙ってしまった。
 しかし、達也は心配を口にした。
「子どもだけで乗ってもええんか。怒られるで」
「達ちゃんは、怒られるの平気やろ」
「先生やったら慣れてるけど、駅長さんや車掌さんに怒られたことはないわ」
「ぼくが怒られへんように、ちゃんと話しをつけるから大丈夫や」
「駅までどうやって行くんや」
 稔が訊いた。
「ぼくらが馬になって、律ちゃんを運べばええ」
「馬って、騎馬戦の馬か。それやったらもっと早くすればよかったな」
「木の杖も嫌がったやろ。歩けるときにいっても、絶対に断ると思ったんや」
「雅やんはすごいな。大人の考えみたいや」
 感心したような達也の声で、稔は自分が何も考えていなかったことに気付かされた。
「うち、恥ずかしい」
「それは、ぼくらも同じや。顔を見られるのが嫌やったら、隠すモノを探したらええ」
 雅史に顔を向けられた稔は、すぐに答えた。
「馬になるのは、少しも恥ずかしくないわ」
「おれも平気や。それに、馬のウンコを踏んだから、もう足は馬になってるわ」
 達也がその場で大きく跳ね上がった。
「恥ずかしいなんていって、悪かったわ。かんにんして」
 律子の言葉に、雅史はほっとした表情を浮かべた。
「そしたら決まりやな」
「でも、馬のウンコを踏んだクツで、電車に乗られへんな」
 達也は稔の足元を指した。
 青色だった稔のズッククツは土ぼこりとウンコにまみれて、白茶色になっている。他の三人も似たようなものだった。

 川でクツと汗臭いランニングシャツを洗うことにした。
 クツ底を岩に何度も擦りつけて、こびりついた馬のウンコを落とした。近くの雑草を取って川に入り、クツ底をごしごし洗う。雅史は膝の深さのところで、腰を曲げて洗っている。稔は達也と水をかけあって遊んでいた。
「ふざけていると、クツを流してしまうぞ」
 雅史に注意されて、クツを近くの岩の上に置いた。そして、ふたりで跳ねるようにじゃぶじゃぶと川に入っていった。

 律子がスカートを脱いで、シャツのまま川に入ってきた。
 肩まで浸かってから、シャツを脱いで洗い始めた。
「律ちゃんの近くに行ったらあかんで」
 達也に注意されて稔はむっとした。
「裸なんか見いへんわ」
「ちがう、ちがう。きっとおしっこしてるからいったんや」
「えっ!」
「ずっとせえへんかったやろ。おれもさっき、みのるの隣でしたわ」
 そういうと、達也はくるっと向きを変えて平泳ぎで向こう岸に泳ぎ出した。
 稔も肩を沈めて泳ぎ始めた。
「深いとこ行ったらあかんぞ!」
 雅史の声が聞こえたので立ち上がった。
「雅やんも入ったらええのに」
「泳ぐの苦手なんや」
 雅史が、稔を見ないようにしていった。
 なんでもできる雅史が、泳げないことを知って稔は驚いた。でもそれは、大人のように見えていた雅史を近くに感じさせた。
「ここやったら、足が立つで。みのるも泳いでこい!」
 達也の呼びかけに稔は手を振って応えた。
「助けに行けへんからな。ほんまに知らんからな!」
 雅史が怒って突き放したみたいにいった。
 稔は身体にまとわりつく冷ややかな感触を楽しみながら、達也の方に泳いでいった。
「みのるの平泳ぎは、あまりうまくないな。おれが教えたる」
「ぼくより、雅やんに教えてあげたらええわ」
 雅史が泳げないことを告げた。
「おーい、雅やん! 泳ぎ方を教えたるわ!」
 達也が快活な声で叫んだ。

 太陽を反射して、水面がぎらぎら光っている。
どれぐらいのあいだ、川の中で遊んだかわからない。ようやく、よろめくように岸にあがった。
「服が乾くまで、ここで休んでいこ」
 クツと服を太陽が照り付ける岩の上に置いて、橋の陰に入った。空腹を思い出したのでキャラメルを食べることにした。
 達也は雅史にいわれてパンツをはいたのだが、ふざけて前と後ろを逆にしている。注意して欲しいことをわかっていたが、稔は面倒なので黙っていた。視線はスカートを胸元まで引き上げて座っている律子に向いてしまう。
「川遊びは楽しいな」
 達也がキャラメルを口に入れると、満足そうにうなずいた。
「うちも、川に入ったのは久し振りやわ」
 律子はキャラメルの包み紙を、指の先で広げてから器用に折始めた。
 ねちゃねちゃと音をたてて食べながら達也が訊いた。
「雅やんは大人みたいやけど、大きくなったら何になりたいんや?」
「ぼくは、学校の先生になる」
 雅史は自信に満ちたいい方をした。
「雅やんのお父ちゃんは、中学の先生やもんな。おれは、バスの運転手やな」
 ふたりとも、父親と同じ仕事をしたいといっている。稔は寛之が工場でどんな仕事をしているか知らない。疲れた顔をして家に帰ってきて、仏像を彫っている姿しか見ていない。
「みのるは何になりたいんや?」
 雅史が訊いてきた。
「ぼくはわからへん」
「みのるは絵が上手やから、絵描きさんになったらええねん。芸術家や」
「そんなん、無理に決まってる」
「やってみればええのに」
 律子はもつれた髪を眉の上からかきあげた。
「律ちゃんは、何になりたいと思ってるんや」
「うちは、鳥になりたいわ」
「とりって、空を飛んでる鳥のことか?」
 稔は律子の言葉を聞き間違えたのかと思った。
「そうや、そしたらどこへでもいけるし、なんでも好きなことができるやろ」
 律子が空を見あげた。
 茶色っぽい鳥が翼を広げて空をゆったりと飛んでいる。
「背中に翼が生える薬が出来たらええのにな。そしたら、律ちゃんも疲れへんですむもんな」
 達也がいった。

 馬鹿々々しい話なのに、稔は気持ちが沸き立つのを隠せなかった。
 しばらく空を舞っている鳥を眺めていた。
「そんな夢みたいなこと考えてもしょうがない。律ちゃんはきれいなんやから、お嫁さんになったらええ」
 雅史が現実に引き戻した。
「……」
 律子は黙ってしまった。
 稔もそう思ったのだが、律子の顔が強張っているのを見て口にしなかった。
「お嫁さんやったら、おれの母ちゃんみたいにきれいやなくてもなれるし、律ちゃんは足が悪いから座り仕事したらええんや」
 達也がいうと律子が笑った。
「そうやね。みのるくんのお母さんにミシンを教えてもらおうかな」
「えっ、ミシン……」
 稔は律子が文江の代わりにミシンをかけている姿を思い浮かべた。
 律子の手が、はずみ車を回す。ダッダッダッダッ。タグを縫い付けていく。ダッダッダッダッ。ペダルを踏む。ダッダッ……。文江は両足を使っている。律子の右足で踏めるのかな……。
「おれの母ちゃんもメリヤス工場でミシンをやってるけど、疲れて文句ばっかりいってるわ。ミシンなんかやめとき。それより、声もきれいやしラジオのアナウンサーがええと思うわ」
 達也がいった。
「アナウンサー……」
 律子は自分がニュースを読んでいる姿を想像しているみたいで、表情が明るくなった。
「テレビでニュースを読んでる女の人も座ってるし、アナウンサーになったらええわ。みのるもそう思うやろ」
「そうやな。アナウンサーになったらええ」
「それやったら、勉強して大学に行かんとあかんな」
 雅史の言葉に、律子が下くちびるを噛んだまま黙ってしまった。
 稔はどういえばいいのか解らない。ただ、悲しいような、悔しいような、そんな気持ちに律子がじっと耐えているように思えた。溶けるような暑さの中で、稔は泣きたい気持ちにかられた。
「雪子も学校に行くし、これからなんぼでもお金いるんよ」
 稔は言葉もなく、律子をみつめていた。律子は微笑を見せたが、その裏に隠しているものがあることは目をみればわかる。
「このままやったら、学校どころか、明日のお米も買えんようになる」
 視線をはずした律子が静かにいった。
「そんなこと、子どものおれらが考えても答えはでえへんわ。夏休みの最後の日や。もう一回、川で遊びたいわ」
 達也が立ち上がると、律子が急に笑い出した。
「なんで笑うんや」
「赤ちゃんのおしめ、してるみたいやもん」
 パンツの前と後ろを逆にはいているので、おしめに見えなくもない。
「達ちゃんは、赤ちゃんやからちんちんみせても平気やねんな」
「赤ちゃんと違うわ!」
 達也が必死になればなるほど可笑しくて、律子も雅史も笑った。
「もう、むちゃくちゃでごじゃりまするがな」
 稔が笑いながら漫才師の花菱アチャコの物まねをすると、笑い声が止まった。

 橋の陰に腰をかけて、それぞれ服が乾くまで休んだ。
 目を閉じると、蝉の声と川のせせらぎが柔らかく溶け合って耳に届く。その不思議な響きが心地いい。
 乾いた服を着るだけで、出発の準備が終わった。
「馬のウンコを踏んだことは、内緒やで」
 雅史が右手の小指を突き出した。
「わかってる。絶対にいわへんわ。おれらだけの秘密や」
 達也が小指を絡ませると、律子も同じようにした。
「達ちゃんがちんちんだして泳いだこともやな」
 そういって、稔は最後に小指を出した。
「そんなん、秘密にせんでもええ。それより、律ちゃんがきん玉を掴んだことは秘密にせなあかん」
「うちは、別にかまへん」
 絡まった四本の小指が、笑い声の中で上下する。
「それやったら、泣いたことも秘密にせんでもええんか」
「それは、内緒にして欲しい」
「じゃあ、雅やんが泳がれへんことは?」
「もうええかげんに出発しようや」
 雅史が声を出す。
 四人が合せて「指切ったあぁ」と小指を放した。

「駅まで行くぞ!」
 雅史のかけ声で、稔たちは馬を作るために片方の足を立てて座った。
先頭の雅史の肩を後ろから稔と達也が、それぞれ内側の手で掴む。外側の手を雅史の後ろ手としっかり指を絡め合った。
 律子がその手のひらに左の素足を乗せて、曲げることが出来ない右足は伸ばしたままで雅史の肩に置いたふたりの腕に座った。雅史の頭に手を置いているのだけれど、片方の手でクツを持っているのでバランスが悪いみたいで、お尻を動かしている。
 律子の身体をしっかり支えようと腕に力を入れて立ち上がる。
 何か、かけがえのないものを預けられた気持ちになった。

 河川敷を駈け上がる。
 転びそうになって、危ないときほど律子が笑い声を上げる。それにつられた稔たちの笑い声が重なり合って空に広がっていった。
 三角山に向かって歓声をあげた。それから、太陽の光が乱反射する川を後にして駅へ向かった。
 木々が並ぶ小さな通りを次々に抜ける。自転車に乗った男が、道の脇によけると、通りすぎる稔たちを見つめる。路地を抜け、国道を横断して、線路に沿って髪から汗をとび散らせながら走った。
 すれちがう人が顔をしかめたり、驚いて口をぽかんとあけて見上げたり、ばかにした目つきで通り過ぎたりする。なかには面白がって手を叩くひともいた。稔は、恥ずかしいなんて思わなかった。
 雅やんと達ちゃんとぼくとで、律ちゃんを運んでいる。
 この一瞬が宝物のように思えた。


いちじくの実 6 に続く。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み