73 『王将落ち』 初稿 7 

文字数 2,959文字


 日曜日はいつも家で仏像を彫っていた父親の寛之が、朝から組合の集まりへ行くことが多くなった。 今日も彫りかけの仏像が布で覆われている。
 時間を約束していなかった矢島が公園に来たら、達也が呼びにくることになっている。

 稔はシャツを折りたたみながら、昨日の千円札を思い浮かべていた。千個の山だとこの家には収まりきらない。ため息が続けて出る。
「みのる」
 母親に声をかけられてびくっとした。
「当て付けのようにため息をつかんといてや」
「そんなんと違うわ」
 言ってはみたものの、シャツの山を数えると、ため息が出た。
 稔がそろそろ公園へ行こうかと迷っているところに、達也が顔を見せた。
「みのる! 矢島が来よったわ」
「王将が無いから、将棋したないな」
「王将落ちでやったらええやん。取られへんから、絶対に負けへんで」
「そんなん、ナンセンスや」
「またナンセンスかぁ」
 達也がおどけた。
 稔はシャツの山を数えると、文江にメモ帳を渡した。
「昨日のことがあるから、今日は五つおまけしてあげるわ」
 文江は帳面に線を五本付け加えてくれた。
「それやったら、これから毎日ため息をつくわ」
 すぐに頭の中で計算をした。
 ニ百日で千円になる。大金と思っていた千円を身近に感じる。昨日の文江の毅然とした態度が蘇る。あそこで千円を貰っていたら、ため息はニ百日では終わらないだろう。そう考えると少し気が晴れてきた。
 文江から受け取ったメモ帳をタンスの小物入れに戻した。

「律子ちゃんを誘って行くからな」
 稔は外に出ると達也の後から声をかけた。
 振り向いた達也が、ポケットからキャラメルの箱を取り出した。
「昨日、二個食べたけど、みのるの分は残してるからな」
「要らん言うてるやろ」
 昨日の場面を思い出すと、もう一度キャラメルの箱を投げつけたくなる。
「そしたら、全部おれのもんや」
 達也がキャラメルを口に入れた。
「あぁ美味しい。みのるも食べたらええのに」
「要らんわ」
 道路に出て、ふた筋離れた路地に入った。古い家が寄り添って並んでいる。錆びたトタン塀で囲んでいる共同便所の隣が律子の家だ。
ガラス戸に呼びかけると、雪子が飛び出してきた。
「お姉ちゃんは、お父ちゃんの手伝いに行きはった。みのるくんに謝るように頼まれてるわ。ごめんなさい」
 雪子が前屈をするように頭を下げた。
「うちも一緒に連れて行って欲しかったのに、お姉ちゃんがあかんって言うんやで。一人でずるいわ」
 不満がたまっていたみたいで、一気に喋った。達也がキャラメルを一個渡すと、飛び上がって喜んだ。
「みのるが要らんて言うから、ゆきこにあげるんやで」
「うわぁ、みのるくん、おおきに」
 稔はあいまいに頷いた。
「みのるも食べたらええねん。何かあったんやろけど、キャラメルは甘いで」
「要らん。何でキャラメルにこだわるんや」
「こだわってるのは、みのるの方や」
「けんかはあかんで、キャラメル要らんかったら、うちが食べたるわ」
 達也がもう一個、雪子に渡した。雪子は「お姉ちゃんにあげる」とスカートのポケットに入れた。
 律子は手伝いで、嫌なことをさせられているのではと想像するだけで、胸の内側が痛くなる。雪子と手を繫いで公園に行く間、そのことばかり考えていた。

「悪いけど玉将を使って、ぼくは五円玉を王将の代わりにするわ」
 矢島は何も言わないで頷いた。すでに達也から、王将のない理由を聞いているようだ。
 将棋盤に駒を並べても、五円玉だと緊張感がない。序盤から押されている。ようやく持ち直して将棋に没頭できるようになった。
「昨日のお姉ちゃんが来はったわ」
 ブランコに乗って遊んでいた雪子が教えに来てくれた。
 稔よりも先に、達也が驚きの声を上げた。

 小百合は藤棚の近くまで来て立ち止まった。
 小さな巾着袋を提げている。達也が知らない振りを装っているのがよく分かる。小百合の視線を強く感じて、稔は将棋を指す手を止めた。顔を向けても視線を外さない。将棋盤に目を戻しても、気になって集中できない。
「タンマや」
「えぇっ、またぼくの勝ちになるやんか」
 矢島は不満の声を上げた。

 稔が小百合のいる場所へ行くと、達也も付いてきた。
「ごめんなさい。大じいさまが浦山くんの王将を持っていたわ」
 達也が稔を押し退けて前に出た。
「やっぱり、おじいが王将泥棒やったんや」
 小百合が悔しくてたまらないという顔つきをした。しかし、達也はかまわず訊く。
「何でおれらを追い返したんや」
「あの時は、まだ知らなかったのよ。私がお稽古に行く前に、お姉さまが、大じいさまが手に王将を握っていることに気がついたの」
「あの暴力男には言ってないのか?」
「大じいさまの恥は、家の恥になるからって、お母さまが……。だから月曜日に、キャラメルと一緒に学校へ持って行こうと思っていたのよ」
「キャラメル?」
 達也が稔に顔を向けた。
「お姉さまがお詫びに、キャラメルを渡したって言ってたわ」
「そんなこと、知らんかったわ」
 稔が達也に言い訳をするように言った。
「キャラメルはおれが貰ったわ」
 小百合は意味が分からなくてきょとんとしている。
「ぼくは王将を返してくれたらええ。何も文句ないわ」
「それが……」と言いよどんだ。「あんなに大騒ぎになったから、お母さまが捨ててしまったの。本当にごめんなさい」
 小百合が頭を下げた。
「なんでや」
「証拠いんめつやな。悪いことをしたのを隠すために燃やすんや」
「えっ! ぼくの王将、燃やされたんか?」
 小百合は首を横に振った。
「燃やしてはないと思う。代わりに、これを受け取って」
 持っていた巾着袋から木箱を取り出した。稔が受け取って蓋を開けると中に将棋の駒が入っている。
「彫り駒や、えらい値打ち物やで」
「これ、おじいが渡してこいって言うたんか?」
 小百合は答えないで、唇を強くかんでいる。
「クラスの風紀係に、泥棒のまねをさせることは出来へんわ」
 稔は蓋をして、木箱を差し出した。しばらく木箱を見つめていた小百合は、手に取って巾着袋に戻した。
「昨日のヒヨコ、元気にしてるか?」
 稔が気になっていたことを訊いた。
「青いヒヨコがすぐに死んじゃったから、お庭に埋めたわ」
「あとの二羽のヒヨコが大きくなったらええな」
「赤いヒヨコよりも黄色の方がメスみたいなの。お化粧してるからかな」
 稔は複雑な思いで聞いていた。

「おれにも謝って欲しいわ」
 達也の言葉を無視して、小百合は帰ろうとした。
「明日、絶対にスカートめくったるからな。覚悟しとけ」
 通りに行きかけた小百合が、立ち止まって振り返った。声は届かないけど、口の動きで「最低ね」と言っているのが分かった。

「ぼく、二連勝やけど、真剣勝負をして、決着をつけたいわ」
 矢島が再々挑戦をしてきた。
 稔も望むところだ。ふと思いついて雪子を呼んだ。
「律子ちゃんに渡すキャラメルを、ちょっと貸して」
 ビクッとした雪子は、目を大きく見開いた。
「もう、舐めてしもたわ」
 舌を出してペロリと回すと、ブランコへ走って行った。
「たっちゃん、キャラメルあるか」
「最後の一個や」
 達也がポケットから取り出した箱に、銀紙で包まれたキャラメルが残っていた。

 風が通りすぎる。稔は大きく息を吸った。
 駒を並べる。
 王将の代わりに、今度はキャラメルを置いた。

 終わり

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