第111話 ユーカリの樹 19 

文字数 1,360文字


 稔は絵を持って、増田の家へいった。
「出かけてるんや」
 増田の母親が、引き戸を少しだけ開けていった。
「いつ頃に帰ってきはるか、わかりますか?」
「そこの市場やから、もうすぐやと思うんやけどな」
「また、後で来ます」
 稔がそういうと、引き戸はすぐに閉まった。

 次は、達也の家へ向かった。
 家に居なくて公園で遊んでいる時間だけど、テレビを見ているかもしれないと思ったのだ。
「公園へ行ってるけど……」
 姉の美也子が出て来て、怪訝そうに首を傾げた。
「そしたら、公園へ行ってみるわ」
 そういったものの、稔は公園には行きたくなかった。
 雪子に会うと、酷い事をいってしまうかもしれないからだ。

 どうしていいかわからなくて、稔は線路沿いの道をぼおっと歩いていた。
 横を通り過ぎる京阪電車を目で追うと、その先にリヤカーを曳いているたこジイの姿があった。
 稔は急いで走り寄った。
「冷やしあめか?」
「お金、持ってないんや」
「なんや、えらい必死の形相で走って来るから、よっぽど喉が渇いてると思ったわ」
  稔は片手で頬を叩いた。
「そんなひどい顔をしてたんか」
「エンマさんも逃げ出しそうな顔やったで。わしも逃げよと思ったわ」
 リヤカーをとめたたこジイが、首にかけていた手拭いで額の汗を拭いた。
 稔は公園へ行かなくてよかったと思った。
「お父ちゃんかお母ちゃんに怒られたんか?」
「……」
「何があったんや」
「この絵を描いてたら、お母ちゃんが怒ったんや」
 稔が画板を差し出すと、たこジイは両手で持って目を細めた。
「これは、芸術やな」
「芸術? 慰めよと思って、大げさにいわんでもええわ」
「ほんまにそう思ってるんや。うまい絵とか、きれいに描いている絵が並んでいるとこに、この絵があったら、一番目につくはずや」
「……そうかもしれへんけどな」
「この絵を見て、なんで樹が倒れてる絵を描いたんやろとか、どんな人が描いたんやろかと考えるやろ。見る人に、いろんなことを考えさせるんが芸術や」
「でも、お母ちゃんが怒りはったわ」
「文句をいわれて、やめるか続けるかは、芸術家の頑張りどころや。なんせ、理解してくれる人は少ないもんやからな」
「……やめる気はないわ」
「それやったら、続けて芸術家になったらええ」
「うん。そうするわ」

「それは、よかったわ。景気づけに冷やしあめを飲ませてやりたいけど、こっちも商売やから、今度お金を持って来たときに、おまけしたるわ」
 たこジイがリヤカーを曳き始めたので、稔は横に並んだ。
「おじちゃんは、この町の子どもはみんな知ってるんやな」
「まあ、そうやな」
「お屋敷通りの華房って六年生も知ってるんか?」
「あそこは、わしらのようなもんを蔑(さげす)みよるから、行かへんのや。そやから、どんな子が住んでるか知らんな」
「さげすみはるんか……」
 稔は春香の顔を思い浮かべた。
「ああ、不衛生やいうてな。そやから、あそこの子どもたちは不幸やで、わしの自慢の冷やしあめを一生飲むことがでけへんのやから」
 華房と小百合の顔がうかんだ。
「たこジイのたこ焼きも食べられへんもんな」
「そうや、水あめも、このリヤカーに積んでるもんは、絶対に食べられへん」
「えらい不幸やわ」
 そういって、稔は笑った。
「ちょっとは、元気が出たか」
「うん。おおきに」
 
 ユーカリの樹 20 に続く。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み