第10話 石袋(いしぶくろ) 4

文字数 5,367文字



 警報機が鳴ると、黒と黄の縞模様の長い竹が両側から弧を描いて降りてくる。広い踏切のすぐ横に天満橋行のホームがあった。
 国鉄の大阪駅には京橋で乗り換えて行くことは稔も知っている。改札口の上にある大きな時計は一時三十分を指している。稔は頭の中で計算した。賢一の家がこの駅のすぐそばでなければまだ電車には乗っていないはずだ。
  冷たい風をよけるために、切符売り場の横の壁に貼りついた。
「みのるはケンちゃんに、何かええことしたことあったんか?」
「無いと思うけど……」
 稔はジャンパーのポケットに入れた手で、石袋を転がしながら考えていた。

 電車が着くと、改札口からパラパラと人が出てくる。
「あっ! 律ちゃんや」
 達也の声で、稔は顔を上げた。
 疲れた様子の律子が、父親の裕二と改札口から出てきた。赤いコートの前ボタンをしていないので、黄色いワンピースを着ているのがわかった。
 律子もふたりの姿に気付いて、目を大きく見開いている。
「律ちゃん、きれいやな」
 達也の言葉で律子の頬が紅くなった。
「みのるくん。石袋、ありがとう」
「……うん」
 気恥かしくて、稔は何もいえない。
「誰か待ってんのか?」
 裕二が機嫌のいい声で訊いてきた。
「転校する友だちを、お見送りするんや」
 達也がはっきりと答えた。
「学校が始まったばかりやのにもう転校か。忙しいことやな」
 裕二が笑うと不揃いな歯のあいだから、空気が漏れる耳障りな音がする。
「おっちゃんも勤め人みたいな恰好してるし、梅田で買い物でもしてきたんか?」
 達也は裕二が手にぶら下げているデパートの紙袋を見ていった。
「デパートで、律子に服を買ってやったんや」そういってから、裕二が「先に帰っとくぞ」といって背中を向けた。
 その背中を見ている律子の目が暗かった。

「どんな服を買ってもろたんや」
 達也が訊くと、律子がその場でゆっくりと回った。
「この赤いコート」
 暗かった顔が明るくなった。
 稔はお尻のとこが少し汚れているのに気づいたが、口に出さないでいた。
 律子はコートのポケットに手を入れて、長い板のチョコレートを取り出した。
 銀紙だけにして二つに割った。
「半分でごめん。ふたりで分けて食べて。雪子にも食べさせたいから」
「遠慮せんと貰うわ。サンキューべりー、マッチ一本火の用心や」
 達也が受け取る。
「達ちゃんは、いつも面白いな」
「アリが十匹や」
「……」
「アリガトウってことや」
 律子が小さく笑った。
「雪子はねこバアに面倒見てくれるよう頼んだから、公園で遊んでるわ」
 稔が口を挟んだ。
「いつも、面倒見てくれてありがとう」
「そこは、アリが十匹っていうとこや。律ちゃん、頭が悪いで」
「ほんまやね」
 今度は声を立てて笑った。
「帰ってから公園に遊びに行くか?」
「何かしんどいし、やめとくわ」
「おれらも、いつ公園に行けるかわかれへん。明日、遊ぼぉ」
「そうやね」
 律子が右足を引きずるたびに、肩が左右に揺れる。

 後ろ姿をじっと見つめている稔に達也がいった。
「あんなきれいな服を着てる律ちゃん、始めて見たわ」
「きれいやったな」
 稔は律子の暗い表情が気になっていた。
「大きい方のチョコレートをやるわ」
 稔の目の前に差し出された銀紙は、どう見ても小さい。
「達ちゃんの分を見せて」
 達也は自分のチョコレートを素早く割って、口に放り込んだ。
「ほら、小さいやろ」
 残った欠片(かけら)を見せて笑った。
 その笑顔を見ると稔は怒る気持ちにならない。稔もチョコレートを割って口に入れて、舌の上でゆっくりと溶け始める感触を味わう。チョコレートを食べているあいだに、もう一度賢一のことを考えた。

 二学期の終わりに先生がいったことを思い出した。「年が明けて四月になれば、お前たちも四年生になる。冬休みのあいだに四年生になった時に何をやるか、つまり抱負を考えておくこと」
その後の休み時間に、稔は賢一の席に行って「四年生もケンちゃんと同じクラスになりたい」といったのだ。
 嫌いな給食のおかずを食べてもらいたいからだった。
 あの言葉を賢一が勘違いしたに違いない。そして家で母親に「友だちが出来た」と喜んでいったのだ。
「達ちゃん、どうしょう」
 稔は思い出したことを達也に喋った。
「ケンちゃんに、友だちやないっていうんか? それやったら、会わんと帰った方がええわ」
「……」
 残りのチョコレートを食べ終えた達也が、親指と人差し指を舌で舐めた。
「……」
 稔はどうしていいかわからない。ただ迷うばかりだ。
「チョコレート貰えたし。もう帰ろ。きっと、ケンちゃんと会わんほうがええんや」
「達ちゃんは、さっき友だちのお見送りやっていうたやろ」
「そんなこと、いうたかな」
「いいかげんやな。達ちゃんは帰ってええで。ぼくは、友だちのお見送りをするわ」
「いつから、ケンちゃんと友だちになったんや」
 大げさに溜め息をついた達也が、何かを思い付いたように顔を向けた。
「そうや、もっと友だちになりたかったっていえばええねん」
「もっと友だちに……」
 つま先に目を落として考える。
「嘘やないやろ」
「それは……、そうやけど」
 何かその言葉をいうと、稔の気持ちを覆い隠すような気がする。

 賢一と母親が姿をあらわしたのは、三十分ほど経ってからだった。
 重そうなボストンバッグを下げている賢一と、黒い革のハンドバッグを左腕にかけて、右手に小型の旅行かばんを持っている母親は、稔を見て不思議なものでも発見したような目をした。
「待っててくれたの?」
 稔はコクリとうなずいた。
「おれ、ケンちゃんと同じクラスの植野達也です。みのると一緒でケンちゃんの友だちです」
「ありがとう」
 賢一の母親は旅行カバンを足元に置くと、ハンドバッグからハンカチを取り出して目をぬぐった。そのままハンカチを口元に押し当てて、じっと目を閉じていた。
「賢一、ごめんね。お母さんの勝手で、お友だちと別れさせて、本当にごめんね」
 声が震えている。
 賢一が母親の背中を軽くポンポンと叩いた。
 稔は賢一がものすごく大人のように見えて仕方がなかった。

 ポケットに入れていた布袋を取り出した。
「これ、お母ちゃんに作ってもらったんやけど、ケンちゃん貰ってくれへんか」
 もう片方のポケットから石が入っている袋を出すと、話を続けた。
「ぼくは、焼いた石を中に入れて学校まで暖まるんやけど、ケンちゃんは好きに使ったらええわ」
 賢一の手に押し付けて、その手を両手で掴んだ。
「ケンちゃんのこと鉄人28号って、からかったりしてごめんやで」
 賢一の表情を読み取ろうとしてじっと見つめた。しかし変化はない。
 天満橋行きの電車が到着するとアナウンスが聴こえて、賢一の母親は切符を買いに窓口へ行った。
「ケンちゃん、ぼくの嫌いなおかずを食べてくれてありがとう」
 賢一は手を上げると、足元に置いていたボストンバッグを持ちあげて背を向けた。

「ぼく、クジラの肉を食べるようにするわ」
 思わず口から飛び出した。
 ホームで賢一の母親が何度もお辞儀をする。横の賢一の背中が揺れていた。
「みのる。ねこバアの頼まれごと忘れてるで」
 稔は改札の柵に両手を置いて身体を乗り出した。
「ケンちゃん! タニシを食べたら、水あたりせえへん。兵隊さんもタニシを食べて戦争に行ったんやぁ」
 ホームに到着した電車に乗る前に、振り返った賢一は右腕で目を隠している。顔は見えなかったが、その手に布袋が握られていた。
「タニシを食べたら、水あたりせえへん! タニシやで、タニシを食べやぁ」
 稔は遠ざかる電車に、腕がちぎれるほど手を振り続けた。

「ケンちゃん、最後まで喋らへんかったな」
 稔の気持ちはすっきりしなかったのだけれど、出来ることはしたという満足感はあった。
 公園に戻るには表通りを外れて、最初の角を左に曲がって路地を抜けた方が近いのだが、ひどくぬかるんでいるので真っすぐに進む。
「何でケンちゃんに石袋をあげたんや」
 達也が急にいい出した。
「ほかにあげる物、なかったからや」
「みのるはアホや。村木は欲しがってるけど、ケンちゃんは使うかどうかわかれへんやろ」
「使えへんかも知らん。でも、あの袋を見たらぼくのこと思い出してくれるやろ」
「なんや、それ。友だちや無いのに覚えておいてほしいんか」
「根こそぎやねんで、転校するのは根こそぎ抜かれてしまうんやで」
「意味がわかれへん」
 稔はもどかしくて仕方がない。うまく説明しようと思っても言葉にできない。
「それに、なんで嫌いなクジラを食べるなんていうたんや」
「わかれへん」
「えっ! 今日のみのるは、おかしなことばっかりいうな」
「クジラを食べたら……、ケンちゃんのこと忘れへんかなと思ったんや」
 大嫌いな鯨のたつた揚げを、賢一に食べてもらってから始まった仲だった。それに、黒いコートを着ている賢一の背中がクジラのようにも思えたのだ。
「ようわからへんけど、給食に出たらほんまに食べるか見張ってるからな」
「そんなん、すぐに食べるんと違う。食べるようにするっていうたんや」
「あかん、あかん。それやったら、いつまでも食べられへんわ」

 公園の近くまできたところで、突然、呼び止められた。
「お前ら、俺の前を黙って通り過ぎるんか!」
 顔を向けると村木が立っていた。
同じ五年生らしい男子が少し離れたところでクツに付いた泥を、石に擦り付けて落としている。
 横道のぬかるんだ路地から出てきたみたいだ。
「お前、明日あの袋を持ってきたら、焚き火に入れて燃やすからな」
「何で……や」
 悔しいけど声が震えた。
「見せびらかしやがって、目ざわりなんや」
「先に行くぞ!」
 待っていた男子が村木を呼んだ。
 通行人の目を気にしている男子は、関わりたくないようだった。稔は助かったと思った。
「ちょっと、待ってくれ」
 男子に声をかけてから、村木が向き直った。
「ええか、俺のいう通りにしたら、今日は許したる。左を向けや」
 稔と達也はその通りにした。
 目の前の路地は、所々ぬかるんでいる。
「そのまま真っすぐ歩け。ちょっとでも後ろを振り向いたらしばくからな。前に進め!」
村木のいう通りに路地に入る。
 後ろからあざけるような笑い声が聞こえた。

 なんだか、「悔しさ」を背負わされたような気分だった。
「鉄人28号ごっこと思えばええんや」
 そういった達也の声に悔しさが滲んでいる。
 きっと自分にいいきかせているのだ。
 一歩踏み出すたびに、悔しい思いが足し算ではなくてかけ算で増えてくる。身体中に悔しさが詰まって溢れ出す気がする。足が重たいのは泥が付いたせいだけじゃない。
 何もしないまま歩き続けようとしている自分が情けない。振り向け! しかし、身体は思う方向に動いてくれない。
「振り返ったらあかんで、もうすぐ通りを抜けるからな」
 達也が稔の気配を感じたようにいった。
 ジャンパーのポケットに入れた手で石袋を強く握る。

 路地を半分ほど進んだ。このまま村木のいう通りにして、あの角を曲がればいいのだ。
文江の言葉を思い出す。
 ----みのるに自分を嫌いになるようなことをしてほしくない。
 ----神さまが見てへん時でも、自分は見てるやろ。自分のしたことは忘れられへんもんや。
稔はポケットの中で悔しさを握りしめて立ち止まる。
「達ちゃんは帰ったらええ」
 そういうと勢いよく振り返った。
「しかたないなぁ」
 達也も振り向く。

 見張っているといった村木の姿が無かった。
 稔は石袋を握りしめたまま、ぬかるんだ泥を跳ね上げて駈けた。表通りに戻ると、村木と男子の後ろ姿が小さくなっている。稔と達也が歩き出してから、すぐに行ってしまったにちがいない。
 何に対して悔しいのかはわからなかったが、屈辱だけを感じていた。
「おれら途中で戻ったから、村木のいいなりにならへんかったやん」
 追い付いてきた達也がいった。
「ここまで馬鹿にされたら、黙ってられへん」
「やめとけ!」
 達也が右腕を掴んだ。稔はその手を振り切って走った。何人かの通行人を追い越して村木のすぐ後ろまで迫った。
「うわぉ!」
 稔は振り向いた村木の目の前に飛び込ぬと、振り上げた右腕を夢中で突き出した。握りしめた拳に固いものが当たった感触にはっとする。気が付くと、村木が地面に尻もちをついていた。
「お前! 何するんや」
 さっと立ち上がった村木が、掴みかかってきた。鼻から血が流れ出ている。
「やめろ!」
 達也の声と同時に、男子が村木を羽交い絞めにした。
「こんな人目につくとこでケンカするのはアホや。学校に連絡されてしまうぞ」
 稔は唇を噛み締めたまま、視線を逸らせなかった。村木の目が動いた。
「許さへんからな。覚えておけ」
 ニヤリと唇を歪めた村木が、稔を突き飛ばす。その身体を達也が受け取めた。
「すぐ忘れてしまうわ」
 興奮して口がきけない稔の代わりに達也が応えた。
 男子が村木を宥めるようにして歩いていく。
 風に乗って「絶対、仕返ししてやる」声が聴こえたような気がした。

「ぼこぼこにされると思って、びびったわ」
 達也が強張った顔を向けた。
稔は人を殴ったことに、まだ興奮していた。
「唇から血が出てるで」
 達也にいわれて、強く噛みしめていた歯を浮かす。舌の先で舐めると血の味がした。

石袋(いしぶくろ) 5 に続く。

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