第64話 ニセ百円札 23

文字数 2,170文字


 路地の入口に付くと達也がいった。
「姉ちゃんにまた頭しばかれるから、一回、帰えってくるわ」
 ランドセルを置いてすぐに戻って、一緒に文江の話を聞きたいというのだ。
 達也の走っていく後ろ姿を見送ってから、家へ向かった。
「ただいま」
 稔が引き戸を開けると、ミシンの前にいつもの文江の顔があった。
 しかし、よく見ると化粧が薄く残っているみたいで、いつもよりはきれいに見える。
「お帰り。今日は、驚いたやろ」
 文江が今にも話し出そうとするので、稔は慌ててとめた。
「達ちゃんも話を聞きたいっていってるんや。すぐ来るからちょっと待ってて」
 三畳間に上がると、足の踏み場もないぐらいシャツに埋まっている。
 稔は、シャツをタンス側に積み上げて通った。

「おばちゃん、今日はほんまにきれいやったわ」
 達也は玄関に入って来ると、すぐに声をかけた。
「おおきに、達也ちゃんだけや。何度も褒めてくれるのは」
「今も、きれいやわ」
 三畳間で、シャツを畳んでいた稔もいった。
「おあいそをいうても遅いわ」
 文江に信じてもらえないみたいで、稔は帰った時にすぐいえばよかったと悔やんだ。
「おばちゃん、何があったか教えて」
 達也が三畳間に上がると、文江がニシン掛けをしながら話し始めた。
「稔が家を出てからすぐに、春香さんがきはったんや。着物姿で、『これから用意をして、一緒に行きましょう』なんていわれて、びっくりしたわ」
 文江は仕事があるので、一人で行くと断った。
「そしたら、『あら、あら。いま目の前のお金で必死になるよりも、そのお金で失うもののことを考えたほうがいいですよ』なんていわはったんや」
 文江は春香の口調を真似ていった。
 その言葉で、文江は春香に従ったのだ。
「外に出ると、青い自動車が待ってて、運転席に倉井さんがいたので、またびっくりしたわ」
「倉井さんのお母さんとは、うまくいったみたいやな」
 稔が確認するために訊いた。
「親しくするつもりがないから、何もいわんとニコニコしてたわ」
 それから、華房の家へ行き、用意をしていた着物を着せてもらって、学校へいったというのだ。
「お母ちゃんは、ぼうっとしてただけや。春香さんが、お化粧も着物の着付けもしてくれはったんや。あの春香さんの手際は見事やったわ」
 稔はもしかすると、華房が考えて春香にやらせたのではないかと思った。
「なんで、おばちゃんに着物を着せたんや?」
 達也が訊いた。
「デモンストレーションや」
 稔が答えた。
「デモン……。アンポ反対のデモに関係あるんか?」
「それは知らんけど、校長先生に、仲間割れせえへんことを、始めに思い知らせるんや」
「なるほどな。阪神タイガーズのユニホームみたいなもんやな」
 達也を相手にしないで、稔は先を促した。
「それで、話し合いはどうなったんや」
 校長室には、好調と副校長、稔の担任の東野先生の他に、華房と倉井の担任の先生がいたという。
「東野先生が、えらい怒ってはって、問題発言をした児童に、生徒会を任せることが出来ないので、辞退するように説得して欲しいといわはったんや」
 春香が主に答えたという。
「善処致します。いうだけで、具体的なことは何もいわへんから、東野先生や校長先生も泡を食ってはったわ」
 文江の方が揺れた。
 その時のことを思い出したのか、背中を見ても笑っていることがわかる。
「ぜんしょって、どういう意味や?」
 稔が訊いた。
「難しい言葉はわからへんけど、なんにもせえへんみたいな感じやったわ」
「先生に宿題をいわれた時も、善処致しますを使えるんかな」
 達也の言葉を受けて、文江がいった。
「お母ちゃんも、今度無理をいわれたら、善処致しますっていってみようかな」
 そんなことをすると、すぐ首を切られてしまう。
「いわんほうがええ!」
 思わず稔は、強くいってしまった。
 文江が驚いたので、「あの兄ちゃん、きっと意味がわかれへんわ」と付け足した。
「そうやな、怒らせてしまうなぁ」
「おばちゃん、おおきに。忙しいのに、ジャマして悪かったわ」
「わたしも、話して楽しかったわ」
「みのるは、公園に行かへんのか?」
「今日は、学校へ来てもらったから、その分、シャツを畳むわ」
 稔がいうと、文江がミシンをとめて顔を向けて来た。
「春香さんにいわれて気がついたんや。目の前の五百枚のために、みのるを使わんことにしたわ。家のことは親がするから、みのるは外で遊んできたらええんや」
 文江に追い建てられて、仕方なく外に出た。

 公園へ向かうのだが、足取りは重かった。
 稔は春香が、あの家でゆったりと暮らしているので、あんなことをいえるのではないかと思った。
「おばちゃんに、いったほうがええんと違うか?」
「ミシンが古いから首になるなんて、いわれへんわ」
「そうやけど、このまま黙ってるわけにはいけへんやろ」
「そうやな。でも、せっかくええ気持ちになってるんやから、今は黙っとくわ」
「みのるも、つらいな」
 前から激しく鳴る自転車のブザーの音が聴こえて来た。
「長沢が、なんか慌てて来るで」
「ゆきこが、また、おっちゃんに連れていかれたんかな?」
 この前も、長沢が教えに来てくれたのだ。
  急ブレーキをかけて、長沢が二人の目の前に停まった。
「大変や! ゆきこが、ニセの百円札を使ったいうて、連れていかれたわ」


 ニセ百円札 24 に続く。
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