第96話 ユーカリの樹 4

文字数 1,744文字


 足洗い場で稔は、腰を折り曲げて、顔を逆さにすると、蛇口に吸い付くようにして水を飲んだ。
 口からあふれ出る水が胸にしたたる。
 雪子も隣で、同じ様にして半袖のシャツを濡らしている。
「勉強をせなアカン時間が過ぎてしまった」
 昇降口を覗いていた長沢が、大きな壁時計で時間を確認したみたいだ。
「はよ帰らんと怒られるわ」
 そういって、自転車に飛び乗ると、電池式ブザーを鳴らしながら慌てて帰っていった。
 
 稔は、汗と水で濡れたランニングシャツを脱いだ。
 低いコンクリートで仕切ってある足洗い場に放り込むと、水道の栓を回す。
 雪子も半袖のシャツを脱いで裸になった。
「パンツも脱いで洗いたいわ」
 雪子が本当にスカートに手を掛けて、下しそうな仕草をした。
「学校で真っ裸になったら、校長先生に怒られるで」
 校長先生の言葉が効き目があったみたいで、雪子の手がとまった。
 稔はシャツを排水口の上で踏みながらいった。
 水がゆっくりと溜まっていく。
 雪子は水を蹴散らしながら足でシャツを洗った。

 二階建ての木造校舎が作る影で休みながら、シャツが乾くのを待つ。
 稔は去年の夏休みに、律子と川で遊んだときのことを思い出していた。
 あの時も裸になってシャツを乾かしていた。
「雪子は大きくなったら、なんになりたいんや」
 稔が訊いた。
「ゆきこ、はやく二ねんせいになりたい」
「それはなれるけど、もっと大きくなったらや」
「それやったら、みのるくんのおよめさんや」
 真顔でいう雪子から稔は目をそらせて、ユーカリの樹を見た。
 夏の光陽の下で樹は、何か神々しいまでの威厳と美しさを感じさせている。

 あの日のことを、律子は雪子にどのようにいっているのだろう。
 雪子に律子のことを訊くと、期限が悪くなるのだけれど、稔は訊かないではいられなかった。
「去年の夏休みに、三角山へ行ったこと、律ちゃん何かいうてはるか?」
「なんべんもいうてるわ。ゆきこ、もうききたくないねん」
「なんでや?」
「なきはるねん」
 律子は話すたびに泣き出すというのだ。
 稔にとっては楽しい思い出が、律子には悲しい思い出になってしまっているのか……。
 そういえば、稔も律子が交通事故に遭ってから、三角山を見なくなったと達也にいわれたことを想い出した。
「お姉ちゃん。せなかに、はねがはえたら、さんかくやまへとんでいきたいんやて」
「……」
「ゆきこも、さんかくやまにつれてってほしいわ」
「……そうやな」
「ウマのウンコをふんで、それから、お姉ちゃんのウマになったんやろ」
 律子はそんなことまで話していたのか……。
 稔はしばらく感慨にひたっていた。
「ゆきこのウマになって」
 急に雪子が言い出した。
「えっ、ぼく一人やから無理や」
「おんぶでええわ」
 雪子が裸のままで背中に貼り付いて来た。
 稔はいつかの感触を思い出すと、さらに身体の中に不思議な感覚が湧き起った。
「ゆきこ、下りろ!」
 身体を曲げて雪子を振り落とそうとしたが、「きゃっ、きゃっ」と喉を鳴らして、強い力でしがみついてくる。
「わかった。ちゃんと馬になったるから、一回おりてくれ」
「ほんまか?」
「ほんまやから、下りてくれ」
「ほんまに、ほんまか?」
「うん。ほんまに、ほんまのほんまや」
 そういっても雪子は下りようとはしない。
 稔は雪子の腕を掴んで、投げ飛ばしたい衝動に襲われた。
 その時、声が飛んで来た。
「こらっ! 裸になって、遊んでたらアカンやろ」
 用務員の声は怒っているが、顔は笑っていた。
 雪子が慌てて飛び降りた。
「このことは、校長先生に報告せなあかんな」
 校長先生のことを知っている稔は平気だが、雪子はしゅんとしている。
「ゆきこのせいで、怒られてしまったで」
「そんなん、しらんわ」
 口では強気にいったが、不安そうな表情をしている。
「もう一人はどうしたんや」
「勉強をしに帰ったわ」
「そりゃ、感心なことやな。でも、スイカは食べられへんのが残念やな」
「スイカを切ってくれたんか?」
「ああ、食べたかったら、みんなを集めてや」
 そういうと、用務員は校庭に向き直った。
「スイカ、食べに来い!」
 大きな声を出した。
 稔も雪子も「スイカ、たべにこーい」と叫んだ。
 熱い陽射しのなかを、数人の黒い影が走り寄ってきた。


ユーカリの樹 5 に続く。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み