87 2019・6・14(金) 阿礼さん 評 

文字数 1,239文字


『石袋』を読んで   阿礼

 岡田賢一くんの転校をきっかけに、賢一が(給食の牛乳とおかずのやりとりで取引をしていただけと思っていた稔を友達と思ってくれていたこと)、稔はみんなといっしょに 賢一のことを、頭がカラッポと鉄人28号と呼んでいたことなど、稔の心のうちを読者も一緒になってたどれる深い作品だと思います。

 寒さの中で、手袋もなく、こたつや火鉢に暖をとる時代、母の作ってくれた石袋を大事にしながら、それが村木との間に問題を生みながら、賢一への贈り物となったり、読み終えた後にタイトルが心に浸透していきます。

「ぼくもみんなと一緒に、ケンちゃんの頭がカラッポやって笑ったんや。そやから、友だちと違うねん」という言葉が作品の核になっているかと思います。転校について、「子どもは根こそぎ抜かれてしまう」という母の言葉も、その言葉の強さが核になっています。

「お母ちゃんは、みのるを自分を嫌いになるようなことをしてほしくないだけや」という言葉が、その意味はよくわかりますが、やや唐突に聞こえます。

 賢一の全体像がややつかみにくいです。「友だちができた」と母には話せる。小さい頃に口が回らんことをからかわれて、喋らんようになった。最後の日直をやるために転校の日も学校に来る。稔が話しかけても表情は変わらない。

 賢一は、浦山さんの小学校時代に一緒に過ごした子がモデルなのかもしれません。やや発達に遅れがあって、言葉もでにくいのかもしれません。そんな子が、教室の最後の場面で泣くそぶり(セーターの袖で顔を拭ったところ)をみせている。強い感情がおこれば、そのときだけ「ううー」とか「あっ」とかの声が漏れ出たり、目の奥になんらかの感情の高ぶりをみせたりすることもあるのではないでしょうか?
 それは、大人にはわからなくても、ほかの子より賢一をみている稔にはそれを察することができるとか。

「四年生もケンちゃんと同じクラスになりたい」と言ったのは、給食のおかずを食べてもらいたいからだったと。

 いま、学校では統合教育(以前は発達、視覚、聴覚に障害がある子は特殊学校にいくのが普通だったのが、いまは障害の程度によっては、普通学校にいき、不足する部分は支援学級で補う)が勧められています。

 自分自身大人になってしまい、障害のある子をどうしても保護する立場でみてしまいます。
 子どものときの感性で、障害のある子をそのまま受け止めることができません。
(小児眼科をやっていることもあり、身体や視覚障害を持つお子さんの、学校の進路を心配しながら見守っています)

 稔がケンちゃんと同じクラスになりたかったのには、給食以外のなにかを期待するのは、私が大人の目でみてしまうからなのでしょうか?
 なにかなかったでしょうか。
 話せない分、発達に遅れがある分、普通の子にはない、良い部分が。

 考えていた感想とは違う方向に向かってしまいました。

 見えにくい状況の中で書き続けておられる浦山さんに敬意の念をいつも抱いております。 

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