第29話 銀玉鉄砲 4

文字数 3,585文字



 その夜、仕事から帰って来た父親の寛之が、銭湯に行くといい出した。工場で嫌なことがあったんだと稔は思った。
「髪の毛を洗いたかったので、ちょうど良かったわ。みのるも足を伸ばして、ゆっくりとお湯に浸りたいやろ」
 文江はタンスから手早く下着を出した。
「みのるは、お父ちゃんと一緒に入ったらええわ」
 そういって、寛之の下着の上に稔の着替えを重ねた。
「嫌や、お母ちゃんと入る」
 稔は下着を文江のズロースの上に置き直した。

 下着を入れた手提げ袋を両手に提げて、稔は玄関を飛び出た。
 夏の夕空はまだ明るくて風も暑い。文江が洗い桶を二つ重ねて持った。寛之が玄関の鍵をかけていると、向いの家から灰色の作業服を着た増井隆司が、カバンを脇に挟んで姿をあらわした。
「こんばんは」
 文江が会釈すると、挨拶を返した増井が近寄って来た。
「たかし兄ちゃん、これから工場へ行くんか」
 稔が先に声をかけた。
「浦山さんとこは、仲がよくて羨ましいわ」
 増井はいつも「ウラヤマさんが、ウラヤマしい」と駄洒落をいうのだ。
 笑わないで黙っていた。
「おかげさんで、楽しく暮らさせてもらってます」
 文江が応えて離れようとしたけれど、声が追いかけてくる。
「みのるちゃんも良い子に育ててはるわ」
「もうちょっと勉強してくれたら、ええんやけどね」
 立ち止まった文江と稔に構わず、寛之はさっさと歩いて行った。
「みのるちゃん。『しばしばつかれる嘘は、受け入れられた真実となる。』やで。ソビエトのレーニンはんの言葉や」
 稔は意味が全くわからなかったけど、面倒なのでうなずいた。
「人さまの邪魔をしてんと、早よ仕事に行っといで」
 増井の母親の声がはっきり聞こえた。
「はい、はい、はい」
 増井はくっくっくと笑うと、路地を反対の方へ歩いて行った。
 文江が増井の家の玄関に向かって頭を下げたので、稔も遅れて会釈をした。玄関の隙間で光が揺れた。増井の母親がお辞儀を返したのかもしれないと稔は思った。

 銭湯の番台に、稔は自分で渡すといって預かった中人の料金、十三円を置いて先に入った。文江が、十二歳以上の大人料金、十七円を二人分と洗髪料十円をまとめて払った。
「先に髪の毛を洗うから、みのるは湯に浸かっといて」
 文江が男湯とのあいだにある壁側の洗い場に座った。
 稔は長方形の湯舟を二つに分けてある小さい方に入った。大人の裸で混んでいる大きくて深い湯舟には文江と一緒の時にしか入らない。
 風呂場の中を見回しても六人ほどいる子どもの中で自分が一番年上のようだった。

「みのるちゃん、まだ女湯に入ってんの?」
 稔はまさにいま考えていることを耳にして、飛び上るほど驚いた。
 風呂場に入ろうとしていた達也の姉の美也子が、脱衣所に戻るように一歩下がった。稔はいい返すことが出来なくて黙っていた。
「美也子ちゃん、久し振りやね」
 文江が声をかけたので、タオルで腰を隠すようにして隣に行った。
「達也ちゃんは?」
「二人でお風呂にくるようになってから、男風呂に放りこんだわ」
「達也ちゃん、もう一人で洗えるの?」
「誰かがいつも面倒見てくれはるわ」
 稔はちらっと美也子のほうを見た。

 文江の見慣れた裸の横に美也子の白いお尻がある。
中学二年生の美也子は、痩せているのに胸のところだけふっくらと丸い。
「洗ってあげるから出ておいで」
 文江に呼ばれても「もうちょっと入ってるわ」と断った。
「長いこと入っていると、茹でダコになってしまうで」
 稔の視線がどうしても美也子の胸に行く。
「たつや! みのるちゃん、そっちに呼んであげて」
美也子が急に男湯に向かって大きな声でいった。
「みのるも来てたんか。こっちにこいや!」
 達也の陽気な声が天井に当たって反響した。
「すぐ行くわ!」
 稔は救われた思いで大きく返事をした。

 番台の前の跳ね戸を押して男湯の脱衣所に入ると、「ぼうず、女風呂はどうやった。大きい乳した女の人入ってたか」「様子を教えてくれや」と大人にからかわれた。
 達也が身体に泡を付けたまま、ガラス戸から首だけ出して待っていた。
「おっちゃんに洗ってもらってんねん。湯に入って待っといて」
 達也は洗い場で、こっちを見ていたでっぷりと太ったおじさんの前に行った。

 男湯に入った稔は、洗い場に座っている寛之を目にして驚いた。家では堂々としている寛之が、背中にタオルを張り付けるようにして、傷痕を隠していた。寛之の周りだけ、違う空気が流れている。
 稔は寒気を感じて、小さい方の湯舟に飛び込んだ。
 なるべく寛之に顔を向けないようにしようとするのだけれど、目が追いかけてしまう。寛之も稔が来たことを知っているはずなのに見ようともしなかった。
 身体を洗い終わった達也が湯舟に入って来た。
「みのるは、お父ちゃんに身体を洗ってもらわんとええんか」
「もう、お母ちゃんに洗ってもろたわ」
 嘘をいった。

「おっちゃん。背中の傷、痛かったやろな」
 稔はその言葉にドキッとした。今まで気味が悪いとしか思っていなかったのだ。
「あの傷、どうして出来たんや?」
「訊いてへんから知らんわ」
 文江に大きな手術の跡だと、教えてもらっていた。
「何でや? おれやったら訊いて、みんなに自慢するわ」
「訊いても教えてくれはれへんわ」
「そんなこというても、訊いてみんとわかれへんやろ」
「決まってるんや」
「みのるは頭がええから、訊かんでもわかるんやな」
 稔はぶくぶくと湯に顔を沈めた。

 小さいほうの湯舟に浸かっていた老人が、ウンコが浮いていると騒ぎ始めた。稔と達也は他の子どもと端に寄って、ひと塊になった。
「おれらと違うで」
 達也がまっ先に声を上げた。
「みのると一緒でよかったわ。一人やと、犯人にされてしまうからな」
 最初に騒いだ老人が、湯桶でウンコを掬いあげている。
「誰か知らんけど、もうしたらあかんぞ」
 子どもたちをひと睨みしてから、湯桶を持って出て行った。便所に捨てに行くようだ。老人がいなくなったので、稔たちは湯舟に広がった。
「どの子がしたんやろな」
 稔は湯舟を見回していった。
「あのおじいかもしれんで。年寄りはお湯に入って気持ちが良うなると、お尻の穴が緩むらしいで」
「ウンコを調べたら、子どもか大人かわかるやろ」
「そやから、すぐにウンコを捨てに行ったんや。おれはこのまま逃げてしまうと思ってんねん」
 老人は戻ってこなかった。
「達也は名探偵やな」
 エッヘン! と咳払いをした達也が、隅にある小さい湯舟を指した。
「薬湯に入ろか」
 真ん中辺りにポコポコと泡が出ていて、異様な臭いがする薬湯は女湯にもあった。
 茶色く濁っていて底が全く見えないので、どこまでも沈んでしまいそうで恐くて入れなかったのだ。
「みのるは入ったことないのか?」
「達ちゃんは、いつから入れるようになったんや」
「お父ちゃんと来た時に、何度も入ってるから平気や」
 達也は何の躊躇もしないで薬湯に入った。
 稔は達也が沈んでいかないことを確認してから、恐る恐る足を沈めていった。
「ちんちんの先っぽが、じんじんするやろ」
 耳元で達也にいわれた。
 稔は身体中がじんじんして、それどころではなかった。
「鉄砲で挟んだとこも、じんじんするわ」
 達也が右手を薬湯から出して広げた。
「なんで律ちゃんに頼んだんや?」
「みのるに舐めてもらうよりも気持ちがええもん」
 白い歯を見せる達也が憎らしくなった。達也の後ろに回って抱きつくと、顎の先に力をこめて頭を沈める。
 稔の顔も薬湯に入った。鼻の奥が痛くなって顔を上げると、茶色い湯からぷはぁっと達也の顔が飛び出て来た。
「耳の中もじんじんするわ」
 笑っている達也を羨ましいと思うしかなかった。

 いきなり頭上にげんこつが落ちて来た。顔を上げると、寛之が睨んでいる。
「ここは遊ぶ場所と違うぞ」
 稔は頭を両手で押さえて黙ったままでいた。
「おっちゃん、ごめんやで」
 達也が代わりに謝ってくれた。
 寛之が出たあとを追って、稔と達也も脱衣所に行った。
「ぼく服を女湯に置いたままやったわ」
 稔は服を着るために女湯に行こうとした。しかし、足が番台の前で止まってしまった。急に自分の顔が熱を持ったように感じる。
「なんや、みのる。耳まで真っ赤やで」
 達也が横に来て顔を覗き込んだ。
「おれが持って来たるわ」
 そういうと、達也は素早く番台の前の跳ね戸を押して消えた。
 すぐに達也の声が聞こえて来た。
「みのるのおばちゃん。みのるの服、取りに来たわ。どこに置いてあるんや」
「たつや! 女湯に入って来たらあかん」
 美也子の声に、女湯から笑い声が上がった。

 しばらくすると、達也が番台の前を通り抜けて来た。持っている脱衣かごに稔の服が入っている。
「姉ちゃんのおっぱいが、大きくなってたわ」
 達也から脱衣かごを受け取った稔は、顔がますます熱くなっていくのを感じた。


銀玉鉄砲 5 に続く。

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