70 『王将落ち』 初稿 4  

文字数 3,120文字


 拾い集めたビラを手にして、意気揚々と公園に戻った。
 小百合がまだ居ることに驚いた。老人は稔たちが将棋をしていたベンチに腰かけている。
 達也が小百合のところへ走った。ビラを見せに行くのだろう。稔は律子の元に急いだ。
 雪子には絵の描いてあるビラを、律子には色の付いたビラを選んだ。
「おじいが将棋をしたいんやて」
 達也が小百合に頼まれたと言いに来た。
 老人はしきりに口を動かして小百合に何かを言っている。
「負けるの決まってるから嫌や」
「そんなこと言うたら情けないで、律子ちゃんもそう思うやろ」
「やりたくないのは、断ったらええんや」
 律子の口調はいつになく強かった。
「みのるが断れ」
 達也が稔の腕をつかんで放さない。そのまま小百合と老人のいる藤棚へ連れていかれた。
「ごめんやけど、大じいさまの相手をして欲しいの」
 小百合に頼まれるのは心地いい。
 気乗りがしないけど、仕方なく将棋をすることになった。

 稔と老人がダンボールの将棋盤を挟んで向かい合う。
「みのる、おじいに何の駒を落としてもらうんや」
「平手(ひらて)でええわ」
「駒落ちしてもらわなくてもええんか。強そうなおじいと平手で指すなんて、みのるは凄いな」
 将棋を強い相手とする時は同数の駒を使う平手ではなくて、駒を落として調整する。
 強い方が『飛車』を使わない『飛車落ち』または、『角行』を使わない『角落ち』。『飛車』と『角行』の両方とも使わない『二枚落ち』。『飛車』と『角行』に二枚の『香車(きょうしゃ)』を加える『四枚落ち』や、それに二枚の『桂馬(けいま)』まで落とす『六枚落ち』まである。
 稔はどの駒を落としてもらっても負けるだろう。どうせ負けるのなら平手のほうがいいと思ったのだ。
 稔は手際よく駒を並べてから、老人の顔をしげしげと見た。
 顔が小刻みに揺れている。稔が会ったことのあるもっとも歳を取った人間だ。稔の心に敬意と恐怖の入り混じった気持ちを引き起こした。

 公園で遊んでいた子どもたちが二人のまわりに寄ってきた。
 小百合は将棋に興味が無いみたいで離れたところにいる。
 律子と目が合う。口を動かしている。声は届かないけど、ガンバッテと言っていた。稔は大きく頷いた。
 明日の矢島との再試合も応援に来てくれることになっている。
 稔が『玉将』の駒を使い先手で対局を始めた。老人の指し手は、いつも稔がする相手と明らかに違っていた。老人はゆっくりと態勢を整えていく。稔が攻め込もうとしてもスキがない。せっかく飛び出した飛車も、攻め手がないので元の場所に戻した。全体的にじわじわと押し込められていく。
 突破口はないかと盤を穴の空くほど見つめた。
 負けるのは時間の問題だ。

 稔は「あっ」という声を漏らした。
 老人が思いがけない一手を指したのだ。そこから自分で崩れていった。
 老人が細い両腕で身体を支えて、将棋盤の上にかがみこむ。
 しばらくして顔を上げた。目をまわりに走らせる。
 稔は老人の視線を追った。子どもたちが遊んでいる滑り台、お墓の端に立っている椿の木、色々なかたちをした墓石。老人はけっして見つからない何かを探しているようだった。
「ここは、どこだ?」
 目が怯えている。
「正月公園やけど」
 稔が答えた。
「なに言うてんねん。負けそうになって、とぼけてるんか」
 達也の言葉に老人の顔がみるみる赤くなった。突然、老人が将棋盤の駒をかき回して立ち上がった。駒が散って落ちる。
「何するんや」
 稔が見上げると、老人は握った右手を振り上げている。殴られると思って両腕で顔を覆った。 
 走り寄ってきた小百合が、老人の腕を押さえた。
 日差しを遮っている藤棚からの漏れ陽が、老人の顔をまだらに照らす。
 何かを言おうとして口を動かしている。しかし、かすれた声は不鮮明で、ほとんど理解することが出来ない。
 取り囲んでいた子どもたちが後ろに下がって遠巻きに見ている。
「ごめんね。大じいさまの調子が悪くなったみたい」
 小百合に手を引かれて老人が歩きだす。ぶつぶつ言っていたけど、よく聞き取れなかった。
「みのるの勝ちやな」
 達也が公園を出て行く二人の後ろ姿を見ながら言った。
「わけ分からへんわ」
「すごいわ。みのるくんが勝った。勝った」
 雪子がはしゃいで飛び跳ねた。
 稔は律子が拾い集めてくれた駒を、将棋盤に並べた。
「王将が足らへん」
 稔たちは周囲に目をやって探したけど見つからない。
「あのおじい、負けることが悔しくて持って行ったんと違うか」
 達也が言い出した。
「王将泥棒や!」
 雪子が大声を出す。
 ベンチの下を覗き込んでいた稔は顔を上げた。
 頭の中でさっきのことを再現する。確かに老人は右手を握りしめていた。

「メスゴリラの家、知ってるか?」
「知らん」
「追いかけるぞ」
 達也の言葉に稔は急いで駒を箱に入れた。
「うちも追いかける」
 そう言い出した雪子を律子が抱き止める。
 将棋盤を小脇に抱えた稔は、達也に付いて公園を飛び出した。手に持った箱が駒の当たる音を立てる。
 四つ角に出たとこれで、左の遠くの方に二人の姿を見つけた。

「どうかしたの」
 小百合は、追いかけて来た稔たちを見て驚いている。
 稔は息を整えてから「王将が無くなったんや」と言って、老人の反応を窺った。
 半ば閉じた老人の目は不気味なほど無表情だった。
「おじいに王将を盗ったか聞いて欲しい」
 稔の言葉に、小百合は声を上げて笑った。
「そんなこと、するはずないわ」
 稔は老人の右手に目をやる。まだ手のひらを握っている。
「その右手、開いて見せて欲しいわ」
 小百合は答えなかったが、顔が強ばった。老人が王将を盗んだと決め付けている口ぶりが嫌なのだろう。
 小百合が手をのばして、歩き出そうとしていた老人を引き留めると、身を寄せて耳に何かをつぶやいた。
「わしは知らん。馬鹿者!」 
 いきなり稔たちに向かって怒鳴った。
「嘘つきは泥棒の始まりや」
 達也が一歩近づいて言った。
 老人が右手の拳を上げた瞬間、小百合が達也の頬を叩いた。達也が言葉にならない声をあげて飛びかかろうとした。
「たっちゃん。あかん!」
 稔が後ろから達也を抱き止めた。将棋盤と駒を入れた箱が落ちた。
「最低ね」
 小百合の声で、達也の身体から力が抜けた。

 遠ざかって行く二人を目で追うと、お屋敷通りと呼ばれている方に曲がった。達也は今にも泣きだしそうな顔をしている。
「泣いてへんわ」
「嘘つきは泥棒の始まりやで」
「痛いから涙は出たけど、泣いてへん。暑いときに、汗が出るのと同じや」
 半泣きの顔に笑顔を浮かべようとしている。
「さっきは、止めてくれてありがとう。女の子を殴るとこやった」
「男を下げるとこやったな」
 稔は将棋盤と箱を拾った。
「もうええわ、帰ろ」
「ここで帰ったら、泣き寝入りやで」
 達也が躊躇している稔の腕をつかんだ。歩き出してから、「おれ、泣いてへんけどな」と言葉を足した。

 広い庭がある大きな家が並んでいる通りに入ると、場違いなところに来た心細さで足取りが重くなった。
 稔は達也と目を合わせて大きく息を吸う。見上げると太陽は高く、空は公園で見た色と同じだった。
 稔と達也は一軒ずつ表札を確認しながら歩いた。
 門柱に取り付けられた表札に『倉井』と彫られている家の前で立ち止まる。
「ここかな?」
 門の横にある通用口の呼び鈴を押せば誰かが出てくるようだ。
 高い塀で囲まれた庭には、大きな木が植えられている。門の前を何度か行ったり来たりする。目に見えない境界線が引かれてあるように感じた。
「この家やったら、あのヒヨコたちも幸せになるやろな」
 大切にしてもすぐに死ぬことを、達也には話せない。
 稔と律子だけの秘密だ。


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