第30話 銀玉鉄砲 5

文字数 3,482文字



 翌朝、稔は目を覚ますと、すぐ裏庭に目をやった。窓ガラスが濡れている。無花果の葉を打つ雨の音も聴こえてきたのでほっとした。一日中雨が降れば、公園に行かないで済む。
 昨夜、風呂で見た美也子の胸が夢のなかで、律子の乳房に変ってしまったのだ。今まで通りに律子と話すことが出来ないだろうと思うと、顔を合わせたくなかった。
 文江が起こしに来ても、稔は頭が痛いといって蒲団から出ないでいた。
「朝ごはんも食べられへん」と横を向いた。
 稔の額に文江の手のひらが降りて来た。
「熱は無いようやな」
 文江は稔の頬を両手で包むと、目を覗き込んで来た。
「何を拗ねてるのか知らんけど、飢え死にする前に起きてや」
 そういってから立ち上がると、吊っていた蚊帳を片付けた。

 ミシンの音と、ラジオから流れる歌謡曲が耳に届く。文江が一緒に唄う「誰よりぃもぉ君を愛すぅ」が聴こえてくる。
稔は開いているふすまの陰までごろごろ回っては、蒲団まで転がって戻ることを繰り返した。
「達也ちゃんが来てくれたで」
 文江の声に、「帰ってもらって」と応えてから、雨なのにどうしてと首をかしげた。
 稔は起き上がると四つん這いになって、ふすまから顔を出した。達也が文江と話している。ミシンの音が止まっているのに、耳を澄ませても聴き取れないぐらい小さな声だ。
 達也がこっちに顔を向けたように思って、急いで蒲団に潜り込んだ。
「みのる。頭が痛いんか?」
 枕元に来た達也は、しょんぼりとしていて、いつもの元気が無い。
「どこか、悪いんか?」
 寝ている稔が訊いた。
「あんなぁ……」といって畳に膝を付けた達也がいった。
「律ちゃんが、大怪我したそうや」
「えっ!」
 思わず飛び起きた。
「昨日、梅田で車に轢かれたんや」小さな声になった。「わざとぶつかって、おっちゃんがお金もらうんや。母ちゃんがいうてたわ」
 稔は文江に確かめるために、シャツの山を飛び越えた。
「律ちゃんのおっちゃんのこと、知ってたんか!」
「……」
「なんで何もせえへんかったんや。なんでや!」
 文江の肩をつかんで揺らす。文江はミシンをかける手を止めなかった。
 胸の辺りが狭くなって、息がうまく出来ない。シャツを踏んで裏庭の縁側まで行った。

 雨の中に無花果の木が、しんとして立っていた。繁っている葉や実がくっきりと見える。ガタガタとガラス戸を開けると、みかん箱を持って裏庭に降りた。
「何するんや」
 達也の声が遠くに聞こえる。
「律ちゃんに、いちじくの実を食べさせてあげるんや」
 つま先立ちになって、右手で実をつかむ。震える指に力を入れて引くと、揺れた枝から葉に溜まっていた雫が降りそそいだ。
 白い汁が手につくのもかまわずに、無花果の実を両手で包む。指のあいだを白い液が流れる。  そこだけ、ひりひりと熱い。
 葉を打つ雨の音だけが、静けさを切りきざんでいた。
 みかん箱の上にうずくまった稔は、身体の震えを止めることが出来ないでいた。
 
 稔は一日中、蒲団から出なかった。
 律子と一緒に遊んだことや、三角山へ行った日のこと。その何もかもがよみがえってきて、しかも、それがあまりにも鮮明で、手を伸ばすと律子に届きそうだった。
「じゃあ、また遊ぼぉ」
 そういって別れた。さよならだけど、また元気に会えることを疑わなかった。
 吐き気がして、気分が悪い。昼も夜も食べる気がしなかった。
 寛之が工場から帰って来たことに気付かないで眠っていた。目を覚ますと、寛之が打つノミの音と文江がかける足踏みミシンの音が聴こえる。 
 何ひとつ変わらない日常が稔を待ち受けていた。涙があふれ出た。

 夜中にひどく汗をかいた。その汗で目覚める。
 稔は起き上がって蚊帳をぬけて廊下に出た。乏しい月光の下で、銀玉鉄砲を手に取った。
プラスチックの棒を噛んで、歯で引く。カチッと玉が装填した音が大きく響いた。
あのとき律子が発射した銀玉が、裕二の胸を撃ち抜けばよかったのに、その考えが頭に浮かぶ。 
 この先の気持ちに触れてしまうと、戻ってこれないような気がした。
 急に恐くなり嗚咽が漏れ出てきた。稔は声が漏れないように口を手で押さえた。
「みのる。風邪を引くぞ。早く蒲団に戻れ」
 低い声で呼ばれた。
 顔を向けると、蚊帳の中でマッチの火がぽっと赤く見えた。煙草をくわえた寛之の顔が一瞬だけ浮かんだ。稔は鉄砲を元に戻してから、息を吸って立ち上がった。
 文江がタオルで身体を拭いて下着を取り替えてくれたが、稔は不機嫌なままでいた。母親と一緒になんかいられない。一生、口をきかないとさえ思った。
 煙草のにおいが流れてくる。薄く目をあけると、闇の中で煙草の先が蛍のように赤く瞬いていた。

 翌日の朝も食べないでいた。
 稔は蒲団に座り込んで裏庭の無花果の木を見つめていた。美味しそうな実が成っている。
「みのる、遊ぼぅ」
 達也がいつもの時間にやって来た。
 文江が小さな声で何かを話している。稔は文江が達也を家に上がらせないで、帰らすのではないかと耳を澄ませた。畳を踏む足音が近づいてきたので、稔は急いで蒲団に戻った。
「みのる。まだ寝てるんか?」
 達也が顔を覗かせたので、稔はほっとした。
「頭が痛いんや。それより、律ちゃんのことなにか知ってるか?」
「大きな病院で手術をしたそうや」
「手術したんか……。痛かったやろな」
 稔は両手で、自分の身体を抱きしめた。
「昨日から、なんにも食べてへんみたいやな」
 達也が心配そうに顔を近づけて来た。
「お母ちゃんが作ったもんなんか。食べたくないわ」
「今晩は、みのるの好きなカレーライスと目玉焼きを作ってくれはるみたいやで」
 稔の腹が鳴った。
「そやから昼は、おかゆさんかお茶漬けを食べて力をつけとかんとあかん」
「絶対に、食べへんわ」
 稔は寝返りをして、背を向けた。
「おばちゃんに怒っても、しょうがないやろ」
 それは稔にもわかっていたけれど、許せない気持ちが強かった。
「こんなことしてたら、律ちゃんが戻ってくるころには、みのるが飢え死にしてるわ」
「……」
 稔には、なにをどうすればいいのかわからない。ただ、いまはこうするしかないのだ。
 達也が立ち上がった。
「雪子のことも心配やから、公園へ行ってくるわ」
 稔は寝返って達也に顔を向けた。
「悪いけど、面倒をみたってな」
「そう思うんやったら、みのるが早く元気になれや」
「……」
 稔は何もいい返せない。

 いつの間にか眠っていた稔は、香ばしい匂いで目を覚ました。
 たこ焼きの匂いだと気が付くと、喉と腹が同時に鳴った。、開けてあるふすまの向こうから漂ってくる。
 おずおずとふすまの陰から顔を出した。
 文江と達也がちゃぶ台に向かい合って座っている。時計に目をやると10時を少し過ぎていた。
「達也ちゃんが心配してくれるから、奮発してご馳走してるんや。みのるの分もあるよ」
 たこ焼きをつまようじに刺して、みのるに突き出した。
 ちゃぶ台の上に、たこ焼きが入った竹の舟皿が二つ置いてある。一つの舟皿に8個、もう一つには半分ほど残っていた。
「たこジイのたこ焼きや。本物のたこが入ってるんやで、コンニャクと違うんや」
 たこ焼きは四個で十円、たこの代わりに小さく切ったコンニャクを入れた「焼き玉」は一個一円だった。
「みのるが要らんかったら、おれが代わりにみんな食べたるわ」
「一個だけ……、食べよかな」
 稔は文江の顔を見ないようにして、這ってちゃぶ台の前まで行った。
「あとは、ふたりで食べてええわ」
 そういい残して文江は席を立った。
 稔はたこ焼きを口に入れた。噛むとまだ表面にカリッとした歯触りが残っていて、なかからトロリとした熱さが流れ出てくる。

 ダッダッダッダッと足踏みミシンを掛けている文江の背中を見ながら、もう一個につまようじを刺した。
 稔が8個のたこ焼きが入っていた舟皿の4個を食べても、達也がつまようじを延ばしてこない。目で訊くと「全部みのるの分や」と笑った。
 舟皿が空になってから、達也が喋り始めた。
「おれが買ってきた熱々のたこ焼きを、おばちゃんがみのるの鼻先に持って行って、匂いをかがせたんやで」。
 思い出し笑いを浮かべながら続ける。「みのるの鼻の孔が膨らんできて、目を覚ましそうになったんで、急いでちゃぶ台の前に座ったんや」
 そして、「作戦成功やな」と声を出して笑った。
 稔もつられて小さく笑う。
「雪子のこともあるし、公園へ行って話をせんとあかんと思うんや」
 達也にいわれて稔は思わず身震いをした。自分のことばかり考えていて、雪子のことに思いが行かなかったのだ。


銀玉鉄砲 6 に続く。


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