96 『石袋(いしぶくろ)』(30枚) 4
文字数 2,127文字
*
公園に戻るには路地を抜けた方が近いが、ぬかるんでいるので表通りを進んだ。
「何でケンちゃんに石袋をあげたんや」
達也が急に言い出した。
「ほかにあげる物、なかったからや」
「みのるはアホや。村木は欲しがってるけど、ケンちゃんは使うかどうか分かれへんやろ」
「そやけど、あの袋を見たらぼくのこと思い出してくれるやろ」
「友だちや無いのに覚えておいて欲しいんか」
「根こそぎやねんで、転校するのは根こそぎ抜かれてしまうんやで」
「意味が分かれへん」
稔はもどかしくて仕方がない。
「お前ら、俺の前を黙って通り過ぎるんか!」
大きな声で呼び止められて、顔を向けると、村木が立っていた。仲間らしい2人が少し離れたところで靴に付いた泥を、石に擦り付けている。横道のぬかるんだ路地から出てきたようだ。
「お前、明日あの袋を持ってきたら、焚き火に入れて燃やすからな」
「何で……や」悔しいけど稔の声が震えた。
「見せびらかしやがって、目障りなんや。ええか、俺の言う通りにしたら、今日は許したる。左を向けや」
稔と達也は、渋々その通りにした。
目の前の路地は、所々ぬかるんでいる。
「そのまま真っすぐ歩け。ちょっとでも後ろを振り向いたらしばくからな。前に進め!」
村木の言う通りに路地に入る。
「鉄人28号ごっこと思えばええんや」そう言った達也の声に悔しさが滲んでいる。
きっと自分に言いきかせているのだ。
一歩踏み出すごとに「ギーコ」と言いながらぬかるみの中に入った。
靴が泥の中に沈む。
後ろからあざけるような笑い声が聞こえた。
歩くたびに、悔しい思いが足し算ではなくて掛け算で増えてくる。足が重いのは泥が付いたせいだけじゃない。
「振り返ったらあかん。もうすぐ通りを抜けるからな」
達也が稔の気配を感じたように言った。
あの角を曲がればいいのだ。
そう考えた時に、文江の言葉を思い出した。
ーー自分を嫌いになるようなことをしてほしくない。神さまがよそ見してる時でも、自分は見てるやろ。自分のしたことは忘れられへんもんや。ーー
「達ちゃんは帰ったらええ」
勢いよく振り返った。
「しかたないなぁ」
達也も振り向く。
見張っていると言った村木の姿が無い。
稔はぬかるんだ泥を跳ね上げて駈けた。
表通りに戻ると、村木たちの後ろ姿が小さくなっている。稔と達也が歩き出すと、すぐに帰ったみたいだ。
「村木の言いなりにならへんかったからええやん」
追い付いてきた達也が言った。
「馬鹿にされたまま、黙ってられへん」
達也の止める手を振り切って走った。
「うわぉ!」
稔は振り向いた村木の目の前に飛び込んだ。
右腕を突き出すと、握りしめた拳に固いものが当たる。地面に尻もちをついた村木の鼻から、血が流れ出ていた。
横にいた村木の仲間に腕を押さえられたが、それでもかまわずに、稔は前に出ようとした。立ち上がった村木に殴り返された。
「やめてくれ!」
達也の叫び声が聴こえた。
「お前ら、何やってるんや!」
大人の声がすると、稔は地面に放り投げられた。
村木が仲間たちと逃げるように走っていった。
「大丈夫か?」
男の人が、心配そうに覗き込んできた。
「ちょっと血が出てるだけや。ツバをつけたら治るわ」
達也が稔の代わりに答えた。
「根性はありそうやな」
しばらく稔の顔を見ていた男の人は、ニヤリと笑った。
稔は達也に肩を抱えられて歩いた。
「唇から血が出てるで」
舌の先で舐めると血の味がした。
「もっとぼこぼこにされると思って、びびったわ」
「みのるは危険な男やな」達也が強張った顔を向けた。
稔は、初めて殴り合いをしたことに興奮していた。
家に帰った稔は、文江に問いただされて、村木と殴り合いをしたことを白状した。
しかし、文江に作ってもらった巾着袋が原因だということは黙っていた。
稔が先に手を出したことを聞いた文江は、仏壇の前から菓子箱を取って村木の家に謝りに行くと言った。
「ケンちゃんのおばちゃんに悪いで」
「稔に持って来てくれはったんやから、稔のために使うのは許してくれはるわ」
文江を案内して、村木の家まで行った。
玄関に顔を出した村木の母親は、文江から話を聞いて稔が3年生だと初めて知ったようだ。
「喧嘩の相手は、6年生や言うてたんやけど」
そう言って、稔をまじまじと見た。
文江が「お詫びに」と言って菓子箱を渡す。
「こんなことは初めてや。いつもは私が謝りに回っているんですわ」
子どもの喧嘩ですからと笑った。
村木は顔を出さなかった。
稔は、石袋の代わりにお菓子が村木のとこへ行ったと思うと複雑な気持ちだった。
でも、母親に作ってもらった石袋を好きでもない相手に渡すことは出来ない。
その日の夜、父親の寛之が工場から帰ってくると文江がすぐに稔のことを話した。その間、稔は炬燵の前で正座をして聞いていた。
「殴った手は痛むか?」寛之にジロリと睨まれたので、稔は背筋を伸ばした。
「はい」指を動かすと、関節がズキンズキンと痛い。
「喧嘩は殴っても殴られても痛いんや。拳よりも頭を使って、喧嘩せんでもええように考えなあかん」
黙ったまま頷いた稔は、しばらくシャツをたたむことは出来ないなと思った。
終わり。
公園に戻るには路地を抜けた方が近いが、ぬかるんでいるので表通りを進んだ。
「何でケンちゃんに石袋をあげたんや」
達也が急に言い出した。
「ほかにあげる物、なかったからや」
「みのるはアホや。村木は欲しがってるけど、ケンちゃんは使うかどうか分かれへんやろ」
「そやけど、あの袋を見たらぼくのこと思い出してくれるやろ」
「友だちや無いのに覚えておいて欲しいんか」
「根こそぎやねんで、転校するのは根こそぎ抜かれてしまうんやで」
「意味が分かれへん」
稔はもどかしくて仕方がない。
「お前ら、俺の前を黙って通り過ぎるんか!」
大きな声で呼び止められて、顔を向けると、村木が立っていた。仲間らしい2人が少し離れたところで靴に付いた泥を、石に擦り付けている。横道のぬかるんだ路地から出てきたようだ。
「お前、明日あの袋を持ってきたら、焚き火に入れて燃やすからな」
「何で……や」悔しいけど稔の声が震えた。
「見せびらかしやがって、目障りなんや。ええか、俺の言う通りにしたら、今日は許したる。左を向けや」
稔と達也は、渋々その通りにした。
目の前の路地は、所々ぬかるんでいる。
「そのまま真っすぐ歩け。ちょっとでも後ろを振り向いたらしばくからな。前に進め!」
村木の言う通りに路地に入る。
「鉄人28号ごっこと思えばええんや」そう言った達也の声に悔しさが滲んでいる。
きっと自分に言いきかせているのだ。
一歩踏み出すごとに「ギーコ」と言いながらぬかるみの中に入った。
靴が泥の中に沈む。
後ろからあざけるような笑い声が聞こえた。
歩くたびに、悔しい思いが足し算ではなくて掛け算で増えてくる。足が重いのは泥が付いたせいだけじゃない。
「振り返ったらあかん。もうすぐ通りを抜けるからな」
達也が稔の気配を感じたように言った。
あの角を曲がればいいのだ。
そう考えた時に、文江の言葉を思い出した。
ーー自分を嫌いになるようなことをしてほしくない。神さまがよそ見してる時でも、自分は見てるやろ。自分のしたことは忘れられへんもんや。ーー
「達ちゃんは帰ったらええ」
勢いよく振り返った。
「しかたないなぁ」
達也も振り向く。
見張っていると言った村木の姿が無い。
稔はぬかるんだ泥を跳ね上げて駈けた。
表通りに戻ると、村木たちの後ろ姿が小さくなっている。稔と達也が歩き出すと、すぐに帰ったみたいだ。
「村木の言いなりにならへんかったからええやん」
追い付いてきた達也が言った。
「馬鹿にされたまま、黙ってられへん」
達也の止める手を振り切って走った。
「うわぉ!」
稔は振り向いた村木の目の前に飛び込んだ。
右腕を突き出すと、握りしめた拳に固いものが当たる。地面に尻もちをついた村木の鼻から、血が流れ出ていた。
横にいた村木の仲間に腕を押さえられたが、それでもかまわずに、稔は前に出ようとした。立ち上がった村木に殴り返された。
「やめてくれ!」
達也の叫び声が聴こえた。
「お前ら、何やってるんや!」
大人の声がすると、稔は地面に放り投げられた。
村木が仲間たちと逃げるように走っていった。
「大丈夫か?」
男の人が、心配そうに覗き込んできた。
「ちょっと血が出てるだけや。ツバをつけたら治るわ」
達也が稔の代わりに答えた。
「根性はありそうやな」
しばらく稔の顔を見ていた男の人は、ニヤリと笑った。
稔は達也に肩を抱えられて歩いた。
「唇から血が出てるで」
舌の先で舐めると血の味がした。
「もっとぼこぼこにされると思って、びびったわ」
「みのるは危険な男やな」達也が強張った顔を向けた。
稔は、初めて殴り合いをしたことに興奮していた。
家に帰った稔は、文江に問いただされて、村木と殴り合いをしたことを白状した。
しかし、文江に作ってもらった巾着袋が原因だということは黙っていた。
稔が先に手を出したことを聞いた文江は、仏壇の前から菓子箱を取って村木の家に謝りに行くと言った。
「ケンちゃんのおばちゃんに悪いで」
「稔に持って来てくれはったんやから、稔のために使うのは許してくれはるわ」
文江を案内して、村木の家まで行った。
玄関に顔を出した村木の母親は、文江から話を聞いて稔が3年生だと初めて知ったようだ。
「喧嘩の相手は、6年生や言うてたんやけど」
そう言って、稔をまじまじと見た。
文江が「お詫びに」と言って菓子箱を渡す。
「こんなことは初めてや。いつもは私が謝りに回っているんですわ」
子どもの喧嘩ですからと笑った。
村木は顔を出さなかった。
稔は、石袋の代わりにお菓子が村木のとこへ行ったと思うと複雑な気持ちだった。
でも、母親に作ってもらった石袋を好きでもない相手に渡すことは出来ない。
その日の夜、父親の寛之が工場から帰ってくると文江がすぐに稔のことを話した。その間、稔は炬燵の前で正座をして聞いていた。
「殴った手は痛むか?」寛之にジロリと睨まれたので、稔は背筋を伸ばした。
「はい」指を動かすと、関節がズキンズキンと痛い。
「喧嘩は殴っても殴られても痛いんや。拳よりも頭を使って、喧嘩せんでもええように考えなあかん」
黙ったまま頷いた稔は、しばらくシャツをたたむことは出来ないなと思った。
終わり。