第94話、呉、紛糾
文字数 16,593文字
やがて魯粛は賓閣へ迎えられた。彼は、劉琦に弔慰を述べ、劉備には礼物を贈って、
と、まずは型の如き使節ぶりを見せた。
後、後堂で酒宴となり、こんどは劉備から遠来の労をねぎらった。
魯粛は、酔い大いに発すると、劉備へ向ってずけずけ訊ね出した。
「あなたは年来、曹操から眼の仇にされて、彼と戦いをくり返しておいでだから、よくご存じであろうが――いったい曹操という者は、天下統一の大野心を抱いているのでしょうか、それとも慾心はただ自己の繁栄に止まっている程度でありましょうか」
「彼の帷幕ではいま、誰と誰とが、もっとも曹操に用いられておりましょうな」
「曹操の持つ総兵力というものは、実際のところ、どのくらいでしょう」
何を問われても、劉備は空とぼけていた。これは孔明の忠告によるものだった。
魯粛は少し色をなして、
「新野、当陽そのほか諸所において、曹操と戦ってきたあなたが、敵について、何の知識もないわけはないでしょう」
と、詰問ると、劉備はなお茫漠たる面をして、
「いや、いつの戦いでも、こちらは、曹操来ると聞けば、逃げ走ってばかりいたので、くわしいことはまったく不明です。ただ孔明なら少しは心得ているであろうが」
「いま呼んでおひきあわせ致そうと考えていたところだ。誰か、孔明を召し連れてこい」
劉備の命にひとりが立ち去って行くと、やがて孔明もここへ姿をあらわして、物やわらかに席に着いた。
「亮先生。――自分は先生の実兄とは、年来の親友ですが」
と魯粛は、個人的な親しさを示しながら、彼に話しかけた。
「されば、このたびの門出にも、お会いしてきました。何やらお言伝でも承って参りたいと存じたが、公のお使い、わざと差し控えてきましたが」
「いや、余事はおいて、時に、わが主、劉備におかれては、かねてより呉の君臣に交友を求め、相たずさえて曹操を討たんと欲しられていますが、貴下のお考えでは如何であろうか」
「自惚れではありませんが、呉もまたわれわれと結ばなければ、存立にかかわりましょう。もしわが主、劉備が、一朝に意気地を捨てて、曹操につけば、これ自己の保身としては、最善でしょうが、呉にとっては脅威でしょう。南下の圧力は倍加するわけですから」
ことばは鄭重だがその言外に大国の使臣を強迫しているのである。魯粛は恐れざるを得なかった。孔明のいうような場合が実現しない限りもないからである。
「自分は呉の臣ですが――劉皇叔のために――個人としてここだけのことをいえば、貴国の交渉如何によっては、わが主孫権も決して動かないことはなかろうと信じられます。ただ、その使節は大任ですが」
「まあ、そうです。幸い、亮先生の兄上は、呉の参謀であり、主君のご信頼もふかいお方ですから、ひとつ先生自身、呉へ使いされたらどうかと思いますが」
そばで聞いていた劉備は顔のいろを失った。呉の計略ではないかと考えたからである。魯粛がすすめれば勧めるほど、彼は許す気色もなかった。
孔明は、なだめて、
「事すでに急を要します。信念をもって行ってきます。どうかお命じください」
と、再三、許しを仰いだ。そして数日の後には、ついに魯粛と共に、下江の船に乗ることを得た。
長江千里、夜が明けても日が暮れても、江岸の風景は何の変化もない。水は黄色く、ただ滔々淙々と舷を洗う音のみ耳につく。
船は夜昼なく、呉の北端、柴桑郡をさして下っている。――その途中、魯粛はひそかにこう考えた。
(痩せても枯れても、劉備は一方の勢力にちがいない。その軍師たり宰相たる重職にある孔明が、身に一兵も伴わず、まったくの単身で、呉へ行くという意気はけだし容易な覚悟ではない。――察するに孔明は一死を胸にちかい、得意の弁舌をもって、呉を説かんとする秘策をもっているものであろう)
同船して、幾日かの旅を共にしているうち、彼は悲壮なる孔明の心事に同情をよせていた。けれどまた、
(もし、孔明に説かれて、主君孫権が劉備のために曹操と戦うような場合に立ち到るときは――勝てばよいが、負けたらその時、呉はどうなるのだ?)
今、自分が連れてきている孔明の弁舌一つで、国の命運が分かれることに、魯粛は恐ろしい思いを抱いた。
やがて船は潯陽江(九江)の入江に入り、そこから陸路、西南に鄱陽湖を望みながら騎旅をすすめた。
そして柴桑城街につくと、魯粛は孔明の身をひとまず客館へ案内して、自身はただちに城へ登った。
府堂のうちでは折しも文武の百官が集まって、大会議中のところだった。魯粛帰れり! とそこへ聞えたので孫権は、
と、呼び入れて、彼にも当然、一つの席が与えられた。
孫権は、さっそく訊ねた。
「なに、分らぬ。――はるばる、江をさかのぼって、その地を通過しながら、何も見てこなかったのか」
「いささか、所感がないでもありませんが、それがしの視察は別にご報告申しあげます」
と、孫権も敢て追及しなかった。そして手もとにあった檄文の一通を、
といって、魯粛へ渡した。
曹操からの「最後通牒」である。われに降って共に江夏の劉備を討つや。それとも、わが百万の大軍と相まみえて、呉国を強いて滅亡へ導くつもりなりや否や、即刻、回報あるべし――という強硬なる半面威嚇、半面懐柔の檄文だった。
「いまなお、決しないが……満座の大半以上は、戦わぬがいいということに傾いておる」
そういって、孫権がふたたび沈吟すると、張昭そのほかの重臣は皆、口を揃えて、
「もし、呉の六郡と、呉の繁栄とを安穏に保ち、いよいよ富強安民を計らんとするなれば、ここは曹操に降って、彼の百万の鋭鋒を避け、他日を期すしかありません」
と、不戦論を唱えた。
百万の陸兵だけならまだ怖れるに足らぬとしても、曹操の手には今、数千艘の水軍も調っている。水陸一手となって、下江南進して来た場合、それを防ぐには、呉の兵馬軍船も大半以上損傷されるものと覚悟しなければならない。
不戦論を主張する人々は、こぞってその非を鳴らした。
「たとえ勝ったところで、その消耗からくる国の疲弊は、三年や四年では取り返しつきますまい、降伏に如くなしです」
評議は長くなるばかりだ。孫権の肚はなお決まらないのである。彼はやや疲れを見せて、
と席を立って殿裡へ隠れた。衣をかえるとは、休息の意味である。
魯粛はひとり彼について奥へ行った。孫権は意中を察して、
「魯粛。そちは最前、別に意見があるといったが、ここでならいえるであろう。そちの考えではどうか」
と、親しく訊ねた。
魯粛は、重臣間に行われている濃厚な不戦論に接して、反感をそそられていた。その気持は、孔明に抱いていた同情とむすびついて、勃然と、主戦的な気を吐くに至った。
「宿将や、重臣の大部分が、云い合わせたように、わが君へ降参をおすすめする理由は、みな自己の保身と安穏をさきに考えて、君のお立場も国恥も大事と考えていないからです。――彼らとしては、主君をかえて、曹操に降参しても、すくなくも位階は従事官を下らず、牛車に乗り、吏卒をしたがえ、悠々、士林に交遊して、無事に累進を得れば、州郡の太守となる栄達も約束されているわけです。それに反して、わが君の場合は、よく行っても、車一乗、馬数匹、従者の二十人も許されれば、降将の待遇としては関の山でしょう。下手をすれば、密かに始末される可能性もあります。わが君を始末したところで、呉が無くなれば、曹操に逆らうことのできるような勢力は、もはやありませんからね。仮にうまく生き延びたところで、南面して天下の覇業を行わんなどという望みは、もう死ぬまで持つことはできませんでしょう」
当然、若い孫権は動かされた。彼はなお多分に若い。消極論には迷いを抱くが、積極性のある説には、本能的にも、血が高鳴った。
「なお詳しいことは、臣が江夏からつれてきた一客を召して、親しくそれにお訊ね遊ばしてごらんなさい」
孫権も彼の名は久しく聞いている。しかも自分の臣諸葛瑾の弟でもある。さっそく会いたいと思ったが、しかし、その日のこともあるので評議は一応取止め、明日また改めて参集すべし――と諸員へ云いわたした。
次の日の早朝、魯粛は、孔明をその客館へ誘いに行った。前の夜から報らせがあったので、孔明は
斎戒沐浴して、はや身支度をととのえていた。
柴桑城の一閣には、その日、かくと聞いて、彼を待ちかまえていた呉の智嚢と英武とが二十余名、峩冠をいただき、衣服を正し、白髯黒髯、細眼巨眼、痩躯肥大、おのおの異色のある威儀と沈黙を守って、
(さて。どんな人物?)と、いわぬばかりに居並んでいた。
孔明は、すがすがしい顔をして、魯粛に導かれて入ってきた。そして居並ぶ人々へ、いちいち名を問い、いちいち礼をほどこしてから、
と、静かに客位の席へついた。
その挙止は縹渺、その眸は晃々、雲をしのぐ山とも見え、山にかくされた月とも思われる。
(さてはこの人、呉を説いて、呉を曹操に当らせんため――単身これへ来たものだな)
さすが呉国第一の名将といわれる張昭は、じろと瞬間に、そう観やぶっていた。
一同こもごもの挨拶がすむと、やがて張昭は、孔明に向って云った。
「劉予州が、先生の草廬を三度まで訪ねて、ついに先生の出廬をうながし、魚の水を得たるが如し――と歓ばれたという噂は、近頃の話題として、世上にも伝えられていますが、その後、荊州も奪らず、新野も追われ、惨めな敗亡をとげられたのは一体どういうわけですか。われわれの期待は破られ、人みな不審がっておりますが」
皮肉な質問である。
孔明はじっと眸をその人に向け直した。
張昭は、呉の偉材だ。この人を説服し得ないようでは、呉の藩論をうごかすことは至難だろう。――そう胸には大事を期しながら、孔明はにこやかに、
「されば、――もしわが君劉予州が荊州を奪ろうとなされば、それは掌を返すよりたやすいことであったでしょう。けれど君と故劉表とは同宗の親、その国の不幸に乗って、領地を横奪するがごとき不信は、余人は知らず、わが仁君劉備にはよくなさりません」
「それはたいそうご立派な、お話ですが、今の春秋の管仲、楽毅と呼ばれる、あなたほどの方が、劉予州についておきながら、前後の事情や私心にとらわれ、曹操の軍に遭うては、甲を投げ矛をすてて、僻地へ敗走してしまうなど、どう贔屓目に見てもあまり立派な図とは思われぬが」
「いや、あなた方のお眼に、そう映るのは無理もありません。大鵬という鳥がある。よく万里を翔破します。しかし大鵬の志は燕雀の知る限りではない。古人もいっている――善人が邦を治めるには百年を期して良く残に克ち殺を去って為す――と。たとえば重い病人を治すには、まず粥を与え、やわらかな薬餌から始める。そして臓腑血気の調うのを待って、徐々、強食をすすめ、精薬を以てその病根をきる。――これを逆にして、気脈もととのわぬ重態に、いきなり肉食猛薬を与えたら、病人の生命はどうなりましょう。いま天下の大乱は、重病者の気脈のごとく、万民の窮状は、瀕死の者の気息にも似ている。これを医し癒さんに、なんで短兵急にまいろうか。――しかも天下の医たるわが劉予州の君には、汝南の戦にやぶれ、新野の僻地に屈み、城郭堅からず、甲兵完からず、粮草なおとぼしき間に、曹操が百万の強襲をうけ給う。これに当るはみずから死を求めるのみ。これを避けるは兵家の常道であり、また百年の大志を後に期し給うからである。――とはいえ、白河の激水に、夏侯惇、曹仁の輩を奔流の計にもてあそび、博望の谿間にその先鋒を焼き爛し、わが軍としては、退くも堂々、決して醜い潰走はしていません。――ただ当陽の野においては、みじめなる離散を一時体験しましたが、これとて、新野の百姓老幼数万のものが、君の徳を慕いまいらせ、陸続ついて来たために――一日の行程わずか十里、ついに江陵に入ることができなかった結果です。それもまた主君劉備の仁愛を証するもので、恥なき敗戦とは意義が違う。むかし楚の項羽は戦うごとに勝ちながら、垓下の一敗に倒るるや、高祖に亡ぼされているでしょう。韓信は高祖に仕え、戦えど戦えど、ほとんど、勝ったためしのない大将であるが、最後の勝利は、ついに高祖のものとしたではありませんか。これ、大計というもので、いたずらに晴の場所で雄弁を誇り、局部的な勝敗をとって功を論じ、社稷百年の計を、坐議立談するが如き軽輩な人では、よく解することはできますまい」
ことばこそ爽かなれ、面こそ静かなれ、彼の態度は、微塵の卑下も卑屈もなかった。
張昭は沈黙した。さしもの彼も心を取りひしがれたような面持に見えた。
一座やや白けたかと見えた時である。突として立った者がある。会稽郡余姚の人、虞翻、字は仲翔であった。
「率直にお訊ねするの不遜をおゆるしありたい。いま曹操の軍勢百万雄将千員、天下を一呑みにせんが如き猛威をふるっておるが、先生には何の対策かある。乞う、吾々のために聴かせ給え」
「百万とは号すが、袁紹を攻めては、その北兵を編入し、荊州をあわせては、劉表の旧臣を寄せたもの、いわゆる烏合の勢です。何怖れるほどなものがありましょう」
「あははは。いわれたりな孔明先生。あなたは新野を自燼し、当陽に惨敗し、危うく虎口をのがれたばかりではないか。その口で、曹操如きは怖るるに足らんというのは、ちとおかしい。耳をおおうて鈴を盗むの類だ」
「いや、わが劉予州の君に従う者は、少数ながら、ことごとく仁義の兵です。何ぞ、曹操が残暴きわまる大敵に当って、自ら珠を砕くの愚をしましょう。――これを呉に較べてみれば、呉は富強にして山川沃地広く、兵馬は逞しく、長江の守りは嶮。然るにです、その国政にたずさわる諸卿らは、一身の安きを思うて国恥を念とせず、ご主君をして、曹賊の軍門に膝を屈せしめようとしておられるではないか。――その懦弱、卑劣、これをわが劉予州の麾下の行動と較べたら、同日の談ではありますまい」
孔明の面は淡紅を潮している。言語は徐々、痛烈になってきた。
虞翻が口を閉じると、すぐまた、一人立った。淮陰の歩隲、字は子山である。
「敢て訊くが、其許は蘇秦、張儀の詭弁を学んで、三寸不爛の舌をふるい、この国へ遊説しにやってきたのか。それが目的であるか」
「ご辺は蘇秦、張儀を、ただ弁舌の人とのみ心得ておられるか。蘇秦は六国の印をおび、張儀は二度まで秦の宰相たりし人、みな社稷を扶け、天下の経営に当った人物です。さるを、曹操の宣伝や威嚇に乗ぜられて、たちまち主君に降服をすすめるような自己の小才をもって推しはかり、蘇秦、張儀の類などと軽々しく口にするはまことに小人の雑言で、真面目にお答えする価値もない」
一蹴に云い退けられて、歩隲が顔を赤らめてしまうと、
と、唐突に問う者があった。
孔明は、間髪をいれず、
と、答えた。
すると、質問した沛郡の薛綜は、その解釈が根本的に誤謬であると指摘して、
「古人の言にも――天下は一人の天下に非ず、すなわち天下の天下である――といっておる。故に、尭も天下を舜に譲り、舜は天下を禹に譲っている。いま漢室の政命尽き、曹操の実力は天下の三分の二を占むるにいたり、民心も彼に帰せんとしておる。賊といわば、舜も賊、禹も賊、武王、秦王、高祖ことごとく賊ではないか」
「ご辺の言は、父母もなく君もない人間でなければいえないことだ。人と生れながら、忠孝の本をわきまえぬはずはあるまい。曹操は相国曹参の後胤で、累世四百年も漢室に仕えてその禄を食みながら、いま漢室の衰えるを見るや、その恩を報ぜんとはせず、かえって、乱世の奸雄たる本質をあらわして簒虐をたくらむ。――思うにご辺は天数循環の歴史を、現実の一人間の野望に附加して、強いて理由づけようとしておられるらしい。そういうお考え方もまた逆心といえる。借問す、貴下は、貴下の主家が衰えたら、曹操のように、たちまち主君の孫権をないがしろになされるか」
呉郡の陸績、字は公紀。
すぐ続いて、孔明へ論じかけた。
「いかにも、先生のいわるる通り、曹操は相国曹参の後胤、漢朝累代の臣たること、まちがいない。――しかし劉予州は如何に。これは自称して、中山靖王の末裔とはいい給えど、聞説、その生い立ちは、蓆を織り履を商うていた賤夫という。――これを較ぶるに、いずれを珠とし、いずれを瓦とするや。おのずから明白ではあるまいか」
「オオ君はその以前袁術の席上において、橘をふところに入れたという陸郎であるな。まず安坐してわが論を聞け。むかし周の文王は、天下の三分の二を領しながらも、なお殷に仕えていたので、孔子も周の徳を至徳だとたたえられた。これあくまで君を冒さず、臣は臣たるの道である。――後、殷の紂王、悪虐のかぎりを尽し、ついに武王立って、これを伐つも、なお伯夷、叔斉は馬をひかえて諫めておる。見ずや、曹操のごときは、累代の君家に、何の勲だになく、しかも常に帝を害し奉らん機会ばかりうかがっていることを。家門高ければ高きほど、その罪は深大ではないか。見ずやなおわが君家劉予州を。大漢四百年、その間の治乱には、必然、多くの門葉ご支族も、僻地に流寓し、あえなく農田に血液をかくし給うこと、何の歴史の恥であろう。時来って草莽のうちより現われ、泥土去って珠金の質を世に挙げられ給うこと、また当然の帰趨のみ。――さるを履を綯えばとて賤しみ、蓆を織りたればとて蔑むなど、そんな眼をもって、世を観、人生を観、よくも一国の政事に参じられたものではある。民にとって天変地異よりも怖ろしいものは、盲目な為政者だという。けだし尊公などもその組ではないか」
陸績は胸ふさがって、二の句もつげなかった。
昂然、また代って立ったのは、彭城の厳畯、字は曼才。
「さすがは孔明、よく論破された。わが国の英雄、みな君の弁舌におおわれて顔色もない。そも、君はいかなる経典に依ってそんな博識になったか。ひとつその蘊蓄ある学問を聴こうではないか」
と、揶揄的にいった。
孔明は、気を揮って、それへ一喝した。
「末梢を論じ、枝葉をあげつらい、章句に拘泥して日を暮すは、世の腐れ儒者の所為。何で国を興し、民を安んずる大策を知ろう。漢の天子を創始した張良、陳平の輩といえども、かつて経典にくわしかったということは聞かぬ。不肖孔明もまた、区々たる筆硯のあいだに、白を論じ黒を評し、無用の翰墨と貴重の日を費やすようなことは、その任でない」
「こは、聞き捨てにならぬことだ。では、文は天下を治むるに、無用のものといわれるか」
駁してきたのは、汝南の程秉であった。孔明は面を横に振りながら、
「早のみ込みをし給うな。学文にも小人の弄文と、君子の文業とがある。小儒はおのれあって邦なく、春秋の賦を至上とし、世の翰墨を費やして、世の子女を安きに惑溺させ、世の思潮をいたずらににごすを能とし、辞々句々万言あるも、胸中一物の正理もない。大儒の業は、まず志を一国の本におき、人倫の道を肉づけ、文化の健全に華をそえ、味なき政治に楽譜を奏で、苦しき生活にうるおいをもたらし、暗黒の底に希望をもたらす。無用有用はおのずからこれを導く政治の善悪にあって、腐文盛んなるは悪政の反映であり、文事健調なる――その国の政道明らかなことを示すものである。――最前からの声音を通して、この国の学問を察するに、その低調、愍然たるものをおぼゆる。この観察はご不平であるや、如何に」
すでに満座声もなく、鳴りをひそめてしまったので、ここに至って、こう孔明のほうから一問した。
けれど、それに対して、もう起って答える者のなかった時、沓音高く、ここへ入ってきた一人物があった。
――一同、その一沓音にふりかえって、誰かと見ると、零陵泉陵の産、黄蓋、字は公覆といって、いま呉の糧財奉行、すなわち大蔵大臣の人物だった。
ぎょろりと、大堂を見わたしながら、天井をゆするような声で、
「諸公はいったい何しとるんかっ。賓客にたいし、愚問難題をならべ、無用な口を開いていたずらに腸を客に見するなど、呉の恥ではないか。主君のお顔よごしでもある。慎まれいっ」
そして孔明に向っては、きわめて慇懃に、
「最前からの衆臣の無礼、かならずお気にかけて給わるな。主君孫権には、はやくより清堂を浄めて、お待ちしておりまする。せっかくな金言玉論、どうかわが主君にお聴かせ下さい」
と、先に立って、奥へ案内して行った。
ばかな目を見たのは、むきになって討論に当った諸大将であった。もとよりこれは黄蓋が叱ったわけではない。誰か孫権へ告げた者があって、孫権の考えから、賓客のてまえ、こう一同にいわざるを得なくなり、黄蓋が旨をふくんできたものにちがいない。何にせよ、それからの鄭重なことは国賓を迎えるようであった。黄蓋と共に、魯粛も案内に立ち、粛々、中門まで通ってくると、開かれたる燦碧金襴の門扉のかたわらに、黙然、出迎えている一名の重臣があった。
孔明は、はたと足をとめた。
その人も、凝然と、彼を見まもった。
これなん、呉の参謀、孫権が重臣、そして孔明にとって実の兄たる諸葛瑾であった。
久しいかな、兄弟相距ち、また相会うこと。
幼い者が手をつなぎあって、老いたる従者や継母などと一緒に、遠く山東の空から南へ流れ流れて来た頃の、あの時代のお互いのすがたや、惨風悲雨の中にあった家庭のさまが、瞬間、ふたりの胸にはこみあげるように思い出されていたにちがいない。
「呉へ来たなら、なぜ早く、わしの邸へ訪ねてくれなかったか。旅舎からちょっと沙汰でもしてくれればよかったのに」
「このたびの下江は、劉予州のお使いとして来ましたので、わたくしの事は、すべて後にと控えていました。ご賢察くださいまし」
「それも道理。――いやいずれ後でゆるりと会おう。呉君にもお待ちかねであらせられる」
諸葛瑾は、呉の臣に返って、うやうやしく賓客を通し、飄として、立ち去った。
豪壮華麗な大堂がやがて孔明の目前にあった。珠欄玉階、彼の裳は、一歩一歩のぼってゆく。
やおら身を掻い起して、それへ立ち迎えに出てきたのは、呉主孫権であるこというまでもない。
孔明は、ひざまずいて再拝した。
孫権は鷹揚に、半礼を返し、
と、座へ請じた。
その上座をかたく辞して、孔明は横の席へ着いた。
そして劉備からの礼辞を述べた。声音すずやかで言葉にもむだがない。対する者をして何かしら快い感じを抱かせるような風が汲みとられる。
孫権はねぎらう。
文武の大将は遠く排列して、ただひそやかに一箇の賓客を見まもっている。
孔明の静かなひとみは、時折、孫権の面にそそがれた。
孫権の人相をうかがうに眼は碧にちかく髯は赤をおびている。漢人本来の容貌や形態でない。
また腰かけていると、その上躯は実に堂々と見えるが、起つと腰から下がはなはだ短い。これも彼の特徴であった。
孔明は、こう観ていた。
(これはたしかに一代の巨人にはちがいない。しかし感情昂く、内は強情で、精猛なかわりに短所も発し易い。この人を説くには、わざとその激情を励ますのがよいかも知れぬ)
香の高い茶が饗された。
孫権は、孔明にすすめながら、共に茶をすすって、
「新野の戦はどうでした。あれは先生が劉予州を扶けて戦った最初のものでしょう」
「敗れました。兵は数千に足らず、将は五指に足りません。また新野は守るに不適当な城地ですから」
「いったい曹操の兵力は――実数はです――どのくらいのところが本当でしょう」
「いや、確実なところです。北の青州、兗州を亡ぼした時、すでに四、五十万はありました。さらに、袁紹を討って四、五十万を加え、中国に養う直属の精鋭は少なくも二、三十万を下るまいと思われます。私が百万と申しあげたのは、この国の方々が、曹操の実力百五、六十万もありといったら驚かれて気も萎えてしまうであろうと、わざと少なく評価してお答えいたしたのです」
「良将二、三千人。そのうち稀代の智謀、万夫不当の勇など、選りすぐっても四、五十人は数えられましょう」
「私ごときものは、車に積み、桝で量るほどいます」
「いま、曹操の陣容は、どこを攻めるつもりであろうか」
「水陸の両軍は、江に添って徐々南進の態勢にあります。呉を図らんとする以外、どこへあの大量な軍勢の向け場がありましょうや」
ここで孔明は軽く笑った。
ぽいと、かわされたかたちである。孫権は気がついたもののごとく、急に慇懃の辞をかさねて、
「――実は、魯粛が先生の徳操をたたえること非常なもので、予もまた、久しくご高名を慕うていたところなので、ぜひ今日は、金玉の名論に接したいと考えていたのです。願わくば、この大事に当ってとるべき呉の大方向をご垂示にあずかりたい」
「愚存を申しあげてもよいと思いますが、しかしおそらく将軍のお心にはかないますまい。お用いなき他説をお聴きになっても、かえって迷う因ではありませんか」
「では忌憚なく申しあげる。――四海大いに乱るるの時、家祖、東呉を興したまい、いまや孫家の隆昌は、曠世の偉観といっても過言ではありません。一方、わが劉予州の君におかれても、草莽より身を起し、義を唱え、民を救い、上江遠からず曹操の大軍と天下をあらそっています。これまた史上未曾有の壮挙にあらずして何でしょう。然るに、恨むらくは、兵少なく、地利あらず、いま一陣にやぶれて、臣孔明に万恨を託され、江水の縁を頼って、呉に合流せんことを衷心ねがっているわけであります。――もし閣下が、偉大なる父兄の創業をうけて、その煌々たるお志をもつがんと欲するなれば、よろしくわが劉予州と合して、呉越の兵をおこし、天下分け目のこの秋にのぞんで、即時、曹操との国交をお断ちなさい。……またもしそのお志なく、到底、曹操とは天下を争うほどな資格はないと、ご自身、諦めておいでになるなら、なおほかに一計がなきにしもあらずです。それは簡単です」
「戦わずに、しかも国中安穏にすむ、良い計策があるといわるるか」
「そのお膝をかがめて、曹操の眼の下に、憐みを乞えば、これは呉の諸大将が閣下へすすめている通りになる。甲を脱ぎ、城を捨て、国土を提供して、彼の処分にまかせる以上、曹操とても、そう涙のないことはしないでしょう」
孫権は、黙然と首を垂れていた。父母の墳にぬかずく以外には、まだ他人へ膝をかがめたことを知らない孫権である。――孔明はじっとその態を見つめていた。
孔明はなおいった。孫権のうつ向いている上へ、云いかぶせるようにいった。
「大きな誇りをお持ちでしょう。またひそかには、男児と生れて、天下の大事を争うてみたいという壮気も疼いておられましょう。……ところが呉の宿将元老ことごとく不賛成です。まず安穏第一とおすすめ申しあげておる。閣下の胸中も拝察できます。――けれど事態は急にしてかつ重大です。もし遅疑逡巡、いたずらに日をすごし、決断の大機を失い給うようなことに至っては、禍いの襲いくること、もう遠い時期ではありませんぞ」
孫権はいよいよ黙りこむ一方であった。孔明はしばらく間をおいてまた、
「何よりも、国中の百姓が、塗炭の苦しみをなめます。閣下のお胸ひとつのために。――戦うなら戦う、これもよし。降参するならする、これもまたよしです。いずれとも、早く決することです。同じ降参するなら、初めから恥を捨てたほうが、なお幾分、あなたに残されるものが残されるでしょう」
と、孫権は面をあげた。内に抑えつけていた憤懣が眼に出ている、唇に出ている、色に出ている。
「先生の言を聞いておると、他人の立場はどうにでもいえる――という俗言が思い出される。いわるる如くならば、なぜ先生の主、劉予州にも降服をすすめられぬか。予以上、戦っても勝ち目のない劉備へ、その言そのままを、献言されないか」
「いみじくも申された。むかし斉の田横は、一処士の身にありながら、漢の高祖にも降らず、ついに節操を守って自害しました。いわんやわが劉予州は、王室の宗親。しかもその英才は世を蓋い、諸民の慕うこと、水に添うて魚の遊ぶが如きものがある。勝敗は兵家のつね、事成らぬも天命です。いずくんぞ下輩曹操ごときに降りましょうや。――もし私が、閣下へ申しあげたような言をそのままわが主君へ進言したら、たちどころに斬首されるか、醜き奴と、生涯さげすまれるにきまっております」
云い終らないうちである。
孫権は急に顔色を変えて、ぷいと席を起ち、大股に後閣へ立ち去ってしまった。
小気味よしと思ったのであろう。屏立していた諸大将はぶしつけな眼や失笑を孔明に投げながらぞろぞろと堂後へ隠れた。
ひとり魯粛はあとに残って、
「あんな不遜な言を吐かれたら孫将軍でなくても怒るにきまっています」
「あははは。何が不遜。自分はよほど慎んで云ったつもりなのに。――いやはや、大気な人間を容れる雅量のないおひとだ」
「では別に何か先生には、妙計大策がおありなのですか」
「もちろん。――なければ、孔明のことばは、空論になる」
「真に大計がおありならば、もう一応、主君にすすめてみますが」
「気量のものを容れる寛度をもって、もし請い問わるるならば、申してもよい。――曹操が百万の勢も孔明からいわしめれば、群がれる蟻のようなものです。わが一指をさせば、こなごなに分裂し、わが片手を動かさば、大江の水も逆巻いて、立ちどころに彼が百船も呑み去るであろう」
烱々たる眸は天の一角を射ていた。魯粛は、その眸を、じっと見て、狂人ではないことを信念した。
孫権のあとを追って、彼は後閣の一房へ入った。主君は衣冠をかえていた。魯粛はひざまずいて、再度すすめた。
「ご短慮です。まだ孔明は真に腹蔵を吐露してはおりません。曹操を討つ大策は、軽々しくいわぬといっています。そしてまた、何ぞ気量の狭いご主君ぞと、大笑していました。……もう一度、彼の胸を叩いてごらん遊ばしませ」
「なに、予のことを、気量の狭い主君だといっていたか」
孫権は、王帯を佩きながら、ふと面の怒気をひそめていた。
重大時期だ。国土の興亡のわかれめだ。孫権は、努めて思い直した。
「魯粛。もう一度、孔明にその大策を質してみよう」
「いや自分こそ、国主の威厳を犯し、多罪、死に値します」
「ふかく思うに、曹操が積年の敵と見ているものは、わが東呉の国と、劉予州であった」
「しかし、わが東呉十余万の兵は、久しく平和に馴れて、曹操の強馬精兵には当り難い。もし敢然、彼に当るものありとすれば、劉予州しかない」
「安んじたまえ。劉予州は、ひとたび当陽に敗れたりとはいえ、後、徳を慕うて、離散の兵はことごとくかえっております。関羽がひき連れてきた兵も一万に近く、また劉琦君が江夏の勢も一万を下りません。ただし、閣下のご決意はどうなったのですか。乾坤一擲のこの分れ目は、区々たる兵数の問題でなく、敗れを取るも勝利をつかむも、一にあなたのお胸にあります」
「予の心はすでに決まった。われも東呉の孫権である。いかで曹操の下風につこうか」
「さもあらば大事を成すの機今日にあり! です。彼が百万の大軍もみな遠征の疲れ武者、ことには、当陽の合戦に、あせり立つこと甚だしく、一日三百里を疾駆したと聞く。これまさに強弩の末勢。――加うるにその水軍は、北国そだちの水上不熟練の勢が大部分です。ひとたび、その機鋒を拉がんか、もともと、荊州の軍民は、心ならずも彼の暴威に伏している者ばかりですから、たちまち内争紛乱を醸し、北方へ崩れ立つこと、眼に見えるようなものです。この賊を追わば、荊州へ一挙に兵を入れ給うて、劉予州と鼎足のかたちをとり、呉の外郭をかため、民を安んじ、長久の治策を計ること、それはまず後日に譲ってもよいでしょう」
「即時、兵馬の準備だ。曹操を撃砕するのだ。諸員に出動を触れ知らせい」
魯粛は、駈け走った。
孔明に向っては、ひとまず客舎へもどって、休息し給えと云いのこして、孫権は力づよい跫音を踏みしめながら東郭の奥へ入った。
おどろいたのは、各所に屯していた文武の諸大将や宿老である。
「開戦だっ。出動。出動の用意」という触れを聞いても、
「嘘だろう?」と、疑ったほどであった。
それもその筈で、つい今し方、賓殿の上で、孔明の不遜に憤った主君は、彼を避けて、奥へかくれてしまったと、愉快そうに評判するのを聞いていたばかりのところである。
「間違いだろう、何かの」
がやがやいっている所へ、魯粛は意気ごみぬいて、触れて廻ってきた。やはり開戦だという。人々は急にひしめきあった。色をなして、開戦反対の同志をあつめた。
「孔明に出しぬかれた! いざ来い、打ち揃って、直ぐさま君をご諫止せねばならん」
張昭を先に立て、一同気色ばんで、孫権の前へ出た。――孫権も、来たな、という顔を示した。
「臣張昭、不遜至極ながら、直言お諫めしたい儀をもって、これへ伺いました」
「おそれながら、君ご自身と、河北に亡んだ袁紹とを、ご比較遊ばしてみて下さい」
「あの袁紹においてすら、あの河北の強大をもってすら、曹操には破られたではございませぬか。しかもその頃の曹操はまだ、今日のごとき大をなしていなかった時代です」
「伏して、ご賢慮を仰ぎまする。――ゆめ、孔明ごとき才物の弁に、大事を計られ、国家を誤り給わぬように」
「劉備はいま、手も足も出ない状態に落ちています。孔明を使いとしてわが国を抱きこみ、併せて、曹操に復讐し、時至らば自己の地盤を拡大せんとするものでしかありません」
「そんな輩に語らわれて、曹操の大軍へ当るなど、薪を負うて猛火の中へ飛びこむようなものです」
「主君! 火中の栗をひろい給うなかれ!」
この時、魯粛は堂外にいたが、様子を見て、
と苦慮していた。
孫権はやがて、諸員のごうごうたる諫言に、責めたてられて、耐えられじと思ったか、
といって、奥なる私室へ急ぎ足にかくれた。
その途中を、廊に待って、魯粛はまた、自分の主張を切言した。
「彼らの多くは文弱な吏と、老後の安養を祈る老将ばかりです。主君に降服をおすすめするも、ただただ、家の妻子と富貴の日を偸みたい気もち以外に何もありはしません。決して、左様な惰弱な徒の言に過られ給わぬように、しかと、ゆるがぬ覚悟をすえて下さい。家祖孫堅の君には、いかなるご苦労をなされたか。また御兄君孫策様のご勇略はいかに。おふた方の血は正しくあなた様の五体にも脈々ながれているはずではございませぬか……」
弱った様子を見せた。
後堂前閣のここかしこでは、
「戦うべしだ」
「いや、戦うべからず」
議論紛々だった。一部の武将と全部の文官は、開戦に反対であり、一部の少壮武人には、主戦論が支持されていた。それを数の上から見れば、ちょうど七対三ぐらいにわかれている。
「――内事決せずんばこれを張昭に問え。外事紛乱するに至らばこれを周瑜に計るべし――、兄上の遺言だ」
孫権は一書をしたため、魯粛にそれを持たせ、柴桑からほど遠からぬ鄱陽湖へ急がせた。水軍都督周瑜はいまそこにあって、日々水夫軍船の調練にあたっていた。
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