第105話、巻中の秘計

文字数 7,696文字

 ここ、周瑜(しゅうゆ)の得意は思うべしであった。まさに常勝将軍の概がある。夷陵(いりょう)を占領し、無事に甘寧(かんねい)を救い出し、さらに、勢いを数倍して、南郡の城を取り囲んだ。

「……はてな? 敵の兵はみな逃げ支度だぞ。腰に兵糧をつけておる」


 城外に高い井楼(せいろう)を組ませて、その上から城内の敵の防禦ぶりを望見していた周瑜は、こうつぶやきながらなお、眉に手をかざしていた。

 見るに、城中の敵兵は大体三手にわかれている。そしてことごとく外矢倉(そとやぐら)や外門に出て、その本丸や主要の(かき)の陰には、すこぶる士気のない紙旗や(のぼり)ばかり沢山に立っていて、実は人もいない気配であった。

「さては、敵将の曹仁も、ここを守り難しとさとって、外に頑強に防戦を示し、心には早くも逃げ支度をしておると見える。――よし。さもあらばただ一撃に」

 と、周瑜は、みずから先手の兵を率い、後陣を程普(ていふ)に命じて、城中へ突撃した。

 すると一騎、むらがる城兵の中から躍り出て、

「来れるは周瑜か。湖北の驍勇(ぎょうゆう)曹洪(そうこう)とは我なり。いざ、出で会え」

 と、名乗りかけて来た。

 周瑜は、一笑を与えたのみで、

「夷陵を落ちのびた逃げ上手の曹洪よな。さる恥知らずの敗将と(ほこ)を交えるが如き周瑜ではない。誰か、あの野良犬を撲殺(ぼくさつ)せい」
 と、鞭をもって部下をさしまねいた。
「心得て候う」

 と、陣線を越えて、彼方へ馬を向けて行ったのは呉の韓当(かんとう)であった。

 人交(ひとま)ぜもせず、二人は戦った。交戟(こうげき)三十余合、曹洪はかなわじとばかり引きしりぞく。

 するとすぐ、それに代って、曹仁が馬を駈け出し、大音をあげて、

気怯(きおく)れたか周瑜、こころよく出て、一戦を交えよ」

 と、呼ばわった。

 呉の周泰(しゅうたい)がそれに向って、またまた曹仁を追い退けてしまった。ここに至って、城兵は全面的に崩れ立ち、呉軍は勢いに乗って、滔々(とうとう)と殺到した。

 喊鼓(かんこ)、天をつつみ、奔煙、地を捲いて、

「今なるぞ。この期をはずすな」


 と、周瑜の猛声は、味方の潮を率いてまっ先に突き進んでゆく。

 息もつかせぬ呉兵の急追に、度を失ったか曹仁、曹洪をはじめ、城門へも逃げ込み損ねた守兵は、みな城外の西北へ向って雪崩(なだ)れ打って行った。

 すでに周瑜は城門の下まで来ていた。見まわすところ、ここのみか城の四門はまるで開け放しだ。――いかに敵が狼狽して内を虚にしていたかを物語るように。

「それっ、城頭へ駈け上って、呉の旗を立てろ」

 と、もう占領したものと思いこんでいた周瑜は、うしろにいる旗手を叱咤しながら、自身も城門の中へ駈けこんだ。

 すると、門楼の上からその様子をうかがっていた長史(ちょうし)陳矯(ちんきょう)が、

「ああ、まさに曹丞相の計略は図にあたった。――曹丞相が書きのこされた巻中の秘計は神に通ずるものであった!」

 と、感嘆の声を放ちながら、かたわらの狼煙筒(のろしづつ)へ火を落すと、轟音(ごうおん)一声、門楼の宙天に黄いろい煙の傘がひらいた。

 とたんに、あたりの墻壁(しょうへき)の上から弩弓(いしゆみ)、石鉄砲の雨がいちどに周瑜を目がけて降りそそいで来た。周瑜は仰天して、馬を引っ返そうとしたが、あとから盲目的に突入してきた味方にもまれ、うろうろしているうちに、貴殿の大地が一丈も陥没(かんぼつ)した。

 (おと)(あな)であったのだ。上を下へとうごめく将士は、(あな)から這い上がるところを、殲滅的に打ち殺される。周瑜は、からくも馬を拾って、飛び乗るや否、門外へ逃げ出したが、一(せん)の矢うなりが、彼を追うかと見るまに、グサと左の肩に立った。

 どうっと馬から転げ落ちる。そこを敵中の一将牛金(ぎゅうきん)が、首を掻こうと駈けてくるのを、呉の丁奉(ていほう)徐盛(じょせい)らが、馬の諸膝(もろひざ)()ぎ払って牛金を防ぎ落し、周瑜の体をひっかついで呉の陣中へ逃げ帰った。



 壕におちいって死ぬ者、矢にあたって斃れる者など、城の四門で同様な混乱におとされた呉軍の損害は、実におびただしい数にのぼった。


退鉦(ひきがね)っ。退鉦をっ」

 と、程普(ていふ)はあわてて、総退却を命じていた。

 そして、南郡の城から、思いきって遠く後退すると、早速、

「何よりは、都督のお生命(いのち)こそ……」


 と、軍医を呼んで、中軍の帳の内に横たえてある周瑜の矢瘡(やきず)を手当させた。

「ああ、これはご苦痛でしょう。(やじり)は左の肩の骨を割って中に喰いこんでいます」

 医者はむずかしそうな顔をしかめて、患部をながめていたが、傍らの弟子に向って、

(のみ)木槌(きづち)をよこせ」と、いった。

 程普が驚いて、

「こらこら、何をするのだ」

 と、怪しんで訊くと、医者は、患者の瘡口(きずぐち)を指さして、

「ごらんなさい。素人(しろうと)が下手な矢の抜き方をしたものだから、矢の根本から折れてしまって、鏃が骨の中に残っているではありませんか。こんなのが一番われわれ外科の苦手(にがて)で、荒療治をいたすよりほか方法はありません」と、いった。

「ううむ、そうか」


 と、ぜひなく(つば)をのんで見ていると、医者は(のみ)(つち)をもって、かんかんと骨を()りはじめた。


「痛い痛いっ。たまらん。やめてくれ」


 周瑜は、泣かんばかり、悲鳴を発した。医者は、弟子の男と、程普に向って、

「こう、暴れられては、手術ができません。手脚を抑えていてくれ」

 と、その間も、こんこん木槌を振っていた。

 荒療治の結果はよかった。苦熱は数日のうちに()え、周瑜はたちまち病床から出たがった。

「まだまだ、そう軽々しく思ってはいけません。何しろ(やじり)には毒が塗ってありますからな。なにかに怒って、気を激すと、かならず骨傷と肉のあいだから再び病熱が発しますよ」

 医者の注意を守って、程普はかたく周瑜を止めて中軍から出さなかった。また諸軍に下知して、

「いかに敵が挑んできても、固く陣門を閉ざして、相手に出るな」

 と、厳戒した。

 城兵は以来ふたたび城中に戻って、いよいよ勢いを示し、中でも曹仁の部下牛金は、たびたびここへ襲せて来ては、

「どうした呉の(やから)。この陣中に人はないのか。中軍は空家(あきや)か。いかに敗北したからとて、いつまで、ベソをかいているのだ。いさぎよく降伏するなり、然らずんば、旗を捲いて退散しろ」

 と、さんざんに悪口を吐きちらした。

 けれど、呉陣は、まるでお通夜のようにひッそりしていた。牛金はまた日をあらためてやって来た。そして、前にもまさる悪口雑言を浴びせたが、

「静かに。静かに……」

 と、程普は、ただ周瑜の病気の再発することばかり怖れていた。

 牛金の来訪は依然やまない。来ては(はずかし)めること七回に及んだ。程普はひとまず兵を収めて、呉の国元へ帰り、周瑜の(きず)が完全に癒ってから出直そうという意見を出したが、諸将の衆評はまだそれに一致を見なかった。

 かかる間に、城兵は、いよいよ足もとを見すかして、やがては曹仁自身が大軍をひきいて()せてくるようになった。当然、いくら秘しても周瑜の耳に聞えてくる。周瑜もさすがに武人、がばと病床に身を起き直して

「あの(とき)の声はなんだ」

 と、訊ねた。

 程普が、答えて、

「味方の調練です」
 というと、なお耳をすましていた周瑜は、俄然、起ち上がって、
(よろい)を出せ。剣をよこせ」
 と、(ののし)った。そして、
「将たる者が、国を出てきたからには(かばね)を馬の(かわ)につつんで本国に帰るこそ本望なのだ。これしきの負傷に、無用な気づかいはしてくれるな」

 と、云い放ち、遂に帳外へ躍り出してしまった。

 まだ()えきらない(うし)(きず)の身に鎧甲(がいこう)を着けて、周瑜は剛気にも馬にとびのり、自身、数百騎をひきいて陣外へ出て行った。

 それを見た曹仁の兵は、

「やッ周瑜はまだ生きていたぞ」と、大いに怖れて動揺した。

 曹仁も、手をかざして、戦場を眺めていたが、

「なるほど、たしかに周瑜にちがいないが、まだ金瘡(きんそう)は癒っておるまい。およそ金瘡の病は、気を激するときは破傷して再発するという。一同して彼を罵り辱めよ」

 と、軍卒どもへ命令した。

 そこで、曹仁自身も先に立ち、

周瑜(しゅうゆ)孺子(じゅし)。さき頃の矢に閉口したか。気分は如何。(ほこ)は持てるや」

 などと嘲弄(ちょうろう)した。

 彼の将士も、その尾について、さんざん悪口を吐きちらすと、たちまち、怒面を朱泥(しゅでい)のようにして、周瑜は、


「おのれ、曹仁匹夫の首を引き抜け」


 と叫び、自身も馬首を奮い立てて進まんとした。

 途端に、周瑜は、くわっと口を開き、血でも吐いたか、両手で口をふさぎながら、どうと、馬の背から転げ落ちた。

 それと見て、敵の曹仁は、

「ざまを見よ。彼奴(きゃつ)、血を吐いて死したり」

 と、一斉に斬り入ってきた。

 呉軍は色を失って、総くずれとなり、周瑜の身を拾って、陣門へ逃げこんだ。この日の敗北もまた惨たるものであった。

 憂色深き中に周瑜は取巻かれていた。だが、彼は案外、元気な容子で、医者のすすめる薬湯など飲みながら、味方の諸将へ話しかけて、

「きょう馬から落ちたのは、わざとしたので、金瘡(きんそう)が破れたのではない。曹仁が漫罵(まんば)の計を逆用して、急に血を吐いた真似をして見せたのだ。さっそく陣々に喪旗(もき)を立て、弔歌(ちょうか)(かな)でて、周瑜死せりと噂するがいい」

 と、いった。

 次の日の夕方ごろ、曹仁の部下が城外で、呉兵の一将隊を捕虜にして来た。訊問してみると彼らは、

「昨夜ついに、呉の大都督周瑜は、金瘡の再発から大熱を起して陣歿されました。で、呉軍は急に本国へ引揚げることに内々きまったようですから、所詮、呉に勝ち目はありません。勝ち目のない軍について帰っても、雑兵は、いつまで雑兵で終るしかありませんから、一同談合して降参に来たわけです。もしわれわれをお用い下さるなら、今夜、呉陣へ案内いたします。喪に服して意気銷沈(しょうちん)している所へ押襲(おしよ)せれば、残る呉軍を殲滅し得ることは疑いもありませぬ」

 曹仁、曹洪、曹純、陳嬉(ちんき)、牛金などは、鳩首して密議にかかった。その結果、深更に及んで、呉の陣へ、大襲を決行した。

 ところが、陣中は、旗ばかり立っていて、人影もなかった。寥々として、()(かがり)が所々に燃え残っている。

「さては早、ここを払って、引揚げたか?」

 と疑っていると、たちまち、東門から韓当、蒋欽(しょうきん)、西門から周泰、潘璋(はんしょう)。南の門からは徐盛、丁奉。北の柵門からも陳武、呂蒙(りょもう)などという呉将の名だたる手勢手勢が、(とき)を作り、銅鑼(どら)をたたき、一度に取籠(とりこ)めて猛撃して来たため、空陣の袋に入っていた曹仁以下の兵は、度を失い、さわぎ立って、蜂の巣のごとく叩かれたあげく、士卒の大半を討たれて、八方へ潰乱した。

 曹仁、曹純、曹洪など、みな自分らの南郡へ向って逃げたが、途中、呉の甘寧(かんねい)が道をさえぎっていたので、城内へ入ることもできず、遂に、襄陽(じょうよう)方面へ遁走(とんそう)するのほかなかった。

 死せる周瑜(しゅうゆ)は生きていた。この夜、周瑜は十分に勝ちぬいて、意気すこぶる(さかん)に、程普(ていふ)をつれて、乱軍の中を縦横し、いでこの上は南郡の城に、呉の征旗を高々と掲げんものと、壕の辺まで進んでくると、こは(そも)いかに、城壁の上には、見馴れない旗や幟が、夜明けの空に、翩翻(へんぽん)と立ちならんでいる。

 そしてそこの高櫓(たかやぐら)の上には、ひとりの武将が突っ立って、厳に城下を見下していた。


 怪しんで、周瑜が、


「城頭に立つは、何者か」
 と、壕ぎわから大音にいうと、先も大音に、
「常山の趙雲(ちょううん)子龍、孔明の下知をうけて、すでにこの城を占領せり。――遅かりし周瑜都督、お気の毒ではあるが、引っ返し給え」

 と、城の上から答えた。

 周瑜は仰天して、空しく馬を返したが、すぐ甘寧をよんで荊州の城へ馳せ向け、また凌統(りょうとう)をよんで、

「即刻、襄陽を奪い取れ」

 と、命じた。

 ――われ、孔明に出しぬかれたり!

 周瑜の心中は、すこぶる穏やかでなかったのである。この上は、時を移さず、荊州(けいしゅう)、襄陽の二城を取って、その後に南郡の城を取り返そうと肚をきめたものだった。

 ところが、たちまち、早馬が来て、

「荊州の城にもすでに張飛の手勢が入っている」と、告げた。

「げッ、何として?」

 と疑っているところへ、またまた、襄陽からも早馬が飛んで来て、

「時すでに遅しです。襄陽城中には、関羽の軍がいっぱいに入って、城頭高く、劉備の旗をひるがえしている」と、報らせてきた。

 周瑜が、その仔細を聞くと、こうであった。孔明は南郡の城を取るや否や、すぐ曹仁の兵符(わりふ)(印章)を持たせて人を荊州に派し、(南郡あやうし、すぐ救え)と云い送った。

 荊州城の守将は、兵符を信じて、すぐ救援に駈け出した。留守を測っていた孔明は、すぐ張飛を向けてそこを占領し、同時にまた、同様な手段で、襄陽へも人をやった。

(われ今あやうし。呉の兵を外より破れ)と、いう檄である。

 襄陽を守っていた夏侯惇(かこうじゅん)も、曹仁の兵符を見ては、疑っているいとまもなく、直ちに城を出で、荊州へ走った。

 かねて孔明の命をうけていた関羽は、すぐ後を乗っ取ってしまった。かくて南郡、襄陽、荊州の三城は、血もみずに、孔明の一(あく)に帰してしまったものである。

 周瑜の驚きかたは、ひと通りや二通りではない。失神せんばかり面色を変えて、

「いったい、どうして、曹仁の兵符が、孔明の手になんかあったのか」

 と、叫んだ。

 程普が、首を垂れていった。

「孔明、すでに荊州を取る。荊州の城にいた魏の長史陳矯(ちんきょう)は、城に旗の揚がるよりも先に、孔明に生擒(いけど)られてしまったにちがいありません。兵符は常に、陳矯が帯びていたものです」

 聞くや否、周瑜(しゅうゆ)は、


「――あっ」

 と床に倒れた。

 怒気を発したため、金瘡(きんそう)の口が破れたのだった。こんどは(はかりごと)ではない。ほんとに再発したものである。

 だが、人々の看護によって、ようやく蘇生の色をとりもどすと、周瑜はなお(きば)を噛んで、

「だから、だからおれは疾くから、孔明を危険視していたのだ。もし孔明を殺さずんば、いつの日かこの心は安んずべき。見よ、今に!」

 と、罵った。

 そしてひたすら南郡の奪回を策していると、一日、魯粛(ろしゅく)が来て、

「いかがです。ご気分は」

 と、見舞った。

 周瑜はもう寝てなどいなかった。意気軒昂を示して、

「近々のうち、劉備、孔明と一戦を決し、かの南郡を手に入れた上はいちど呉へ帰って少し養生しようと思う」

 と、語った。すると、魯粛は、

「無用です、無用無用」と、首を振った。

 魯粛はいう。

「いま、曹操と戦って赤壁(せきへき)大捷(たいしょう)を得たといっても、まだ曹操そのものは倒しておりません。成敗の分れ目はこれからです。一面に、呉君(ごくん)孫権には、先頃からまた、合淝(がっぴ)方面を攻めておらるる由。――そんな態勢をもって、ここでまたも、劉備と戦端を開いたら、これは曹操にとって、もっとも乗ずべき機会となりましょう」

 周瑜にも、その不利は、当然分っていたが、彼のやみ難い感情が、頑として、いうのであった。


「わが大軍が、赤壁に魏を打破るためには、いかに莫大なる兵力と軍費の犠牲を払ったか知れない。然るに、その戦果たる荊州地方を何もせぬ劉備に横奪りされて黙止しておられるか」

「ごもっともです。それがしが劉備に対面して、(とく)と、道理を説いてみましょう」


 魯粛はすぐ南郡城へ使いした。その姿を見るや、城頭のいただきから、守将趙雲が声をかけた。


「呉の粛公(しゅくこう)。何しに見えられたか」


「備公にお目にかからんがために」


劉皇叔(りゅうこうしゅく)には、荊州の城においで遊ばされる。荊州へ行き給え」

 ぜひなく、彼はその足で、荊州へ急いだ。

 荊州の城を訪うてみると、旌旗(せいき)も軍隊も街の声も、今はすべて劉備色にいろどられている。――ああと、魯粛は嘆ぜさるを得なかった。


「やあ、お久しゅうございました」


 迎えたのは、孔明である。

 魯粛は彼を責めた。


「曹軍百万の南征で、第一に擒人(とりこ)となるものは、おそらくあなたのご主君備公であったろうと思う。それをわが呉の国が莫大な銭粮(せんろう)を費やし、兵馬大船を動員して、必死に当ったればこそ、彼を撃破し、お互いに難なきを得ました。その戦果として、荊州は当然、呉に属していいものと考えられるが、ご辺はどう思われるか」

 孔明は、笑って、


「これは異なおことば。荊州は荊州の主権のもので、曹操のものでもなし、呉に属さねばならぬ理由もない国です」


「とは、なぜか」


「荊州の主、劉表(りゅうひょう)は死なれた。しかし遺孤(いこ)劉琦(りゅうき)――すなわちその嫡子はなおわが劉皇叔のもとに養われている。皇叔と劉琦とは、もとこれ同宗の家系、叔父甥(おじおい)のあいだがら、それを扶けて、この国を復興するに、何の不道理がありましょうや」


 魯粛は、ぎくとした。

 ここまでの深謀が孔明にあったとは、さすがの彼も気づかなかったからである。


「いや。……その劉琦は、たしか江夏(こうか)の城にいると聞いておる。よも、この荊州の(あるじ)としてはおられまい」


 孔明は、左右の従者に向って、


「――賓客には、お疑いとみえる。琦君(きくん)をこれへ」

 と、小声で命じた。

 やがて後ろの屏風が開くと、弱々しい貴公子が、左右の手を侍臣に取られて、数歩前に歩いて客に立礼した。見ると、まぎれなき劉琦である。

「ご病中なれば、失礼遊ばされよ」


 孔明のことばに、琦君は、すぐ屏をふさいで奥へかくれた。魯粛は、黙然と首をたれてしまう。孔明はなおいった。


「琦君、一日あれば、一日荊州の主です」
「では、もし劉琦が世を辞し給う日となったら、この荊州は、呉へ還し給え」
 劉琦の容子を思い、魯粛はいった。
「もちろん、それなら誰も異論を立てるものはありますまい」
 それから大いに馳走を出して歓待したが、魯粛は心もそぞろに、帰りを急ぎ、すぐ周癒(しゅうゆ)に会って仔細を話した。

「――長いことはありません。劉琦の血色をみるに、近々、危篤におちいりましょう。ここしばらく」


 と、なだめているところへ、折も折、呉主孫権から早馬が来て、総軍みな荊州を捨てて柴桑(さいそう)まで引揚げろ、という軍令であった。


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登場人物紹介

劉備玄徳

劉備玄徳

ひげ

劉備玄徳

劉備玄徳

諸葛孔明《しょかつこうめい》

張飛

張飛

髭あり

張飛

関羽

関羽


関平《かんぺい》

関羽の養子

趙雲

趙雲

張雲

黄忠《こうちゅう》

魏延《ぎえん》

馬超

厳顔《げんがん》

劉璋配下から劉備配下

龐統《ほうとう》

糜竺《びじく》

陶謙配下

後劉備の配下

糜芳《びほう》

糜竺《びじく》の弟

孫乾《そんけん》

陶謙配下

後劉備の配下

陳珪《ちんけい》

陳登の父親

陳登《ちんとう》

陶謙の配下から劉備の配下へ、

曹豹《そうひょう》

劉備の配下だったが、酒に酔った張飛に殴られ裏切る

周倉《しゅうそう》

もと黄巾の張宝《ちょうほう》の配下

関羽に仕える

劉辟《りゅうへき》

簡雍《かんよう》

劉備の配下

馬良《ばりょう》

劉備の配下

伊籍《いせき》

法正

劉璋配下

のち劉備配下

劉封

劉備の養子

孟達

劉璋配下

のち劉備配下

商人

宿屋の主人

馬元義

甘洪

李朱氾

黄巾族

老僧

芙蓉

芙蓉

糜夫人《びふじん》

甘夫人


劉備の母

劉備の母

役人


劉焉

幽州太守

張世平

商人

義軍

部下

黄巾族

程遠志

鄒靖

青州太守タイシュ龔景キョウケイ

盧植

朱雋

曹操

曹操

やけど

曹操

曹操


若い頃の曹操

曹丕《そうひ》

曹丕《そうひ》

曹嵩

曹操の父

曹洪


曹洪


曹徳

曹操の弟

曹仁

曹純

曹洪の弟

司馬懿《しばい》仲達《ちゅうたつ》

曹操配下


楽進

楽進

夏侯惇

夏侯惇《かこうじゅん》

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

韓浩《かんこう》

曹操配下

夏侯淵

夏侯淵《かこうえん》

典韋《てんい》

曹操の配下

悪来と言うあだ名で呼ばれる

劉曄《りゅうよう》

曹操配下

李典

曹操の配下

荀彧《じゅんいく》

曹操の配下

荀攸《じゅんゆう》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

徐晃《じょこう》

楊奉の配下、後曹操に仕える

史渙《しかん》

徐晃《じょこう》の部下

満寵《まんちょう》

曹操の配下

郭嘉《かくか》

曹操の配下

曹安民《そうあんみん》

曹操の甥

曹昂《そうこう》

曹操の長男

于禁《うきん》

曹操の配下

王垢《おうこう》

曹操の配下、糧米総官

程昱《ていいく》

曹操の配下

呂虔《りょけん》

曹操の配下

王必《おうひつ》

曹操の配下

車冑《しゃちゅう》

曹操の配下、一時的に徐州の太守

孔融《こうゆう》

曹操配下

劉岱《りゅうたい》

曹操配下

王忠《おうちゅう》

曹操配下

張遼

呂布の配下から曹操の配下へ

張遼

蒋幹《しょうかん》

曹操配下、周瑜と学友

張郃《ちょうこう》

袁紹の配下

賈詡

賈詡《かく》

董卓

李儒

董卓の懐刀

李粛

呂布を裏切らせる

華雄

胡軫

周毖

李傕

李別《りべつ》

李傕の甥

楊奉

李傕の配下、反乱を企むが失敗し逃走

韓暹《かんせん》

宋果《そうか》

李傕の配下、反乱を企むが失敗

郭汜《かくし》

郭汜夫人

樊稠《はんちゅう》

張済

張繍《ちょうしゅう》

張済《ちょうさい》の甥

胡車児《こしゃじ》

張繍《ちょうしゅう》配下

楊彪

董卓の長安遷都に反対

楊彪《ようひょう》の妻

黄琬

董卓の長安遷都に反対

荀爽

董卓の長安遷都に反対

伍瓊

董卓の長安遷都に反対

趙岑

長安までの殿軍を指揮

徐栄

張温

張宝

孫堅

呉郡富春(浙江省・富陽市)の出で、孫子の子孫

孫静

孫堅の弟

孫策

孫堅の長男

孫権《そんけん》

孫権

孫権

孫堅の次男

朱治《しゅち》

孫堅の配下

呂範《りょはん》

袁術の配下、孫策に力を貸し配下になる

周瑜《しゅうゆ》

孫策の配下

周瑜《しゅうゆ》

周瑜

張紘

孫策の配下

二張の一人

張昭

孫策の配下

二張の一人

蒋欽《しょうきん》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

孫権を守って傷を負った

陳武《ちんぶ》

孫策の部下

太史慈《たいしじ》

劉繇《りゅうよう》配下、後、孫策配下


元代

孫策の配下

祖茂

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

韓当

孫堅の配下

黄蓋

孫堅の部下

黄蓋《こうがい》

桓楷《かんかい》

孫堅の部下


魯粛《ろしゅく》

孫権配下

諸葛瑾《しょかつきん》

諸葛孔明《しょかつこうめい》の兄

孫権の配下


呂蒙《りょもう》

孫権配下

虞翻《ぐほん》

王朗の配下、後、孫策の配下

甘寧《かんねい》

劉表の元にいたが、重く用いられず、孫権の元へ

甘寧《かんねい》

凌統《りょうとう》

凌統《りょうとう》

孫権配下


陸遜《りくそん》

孫権配下

張均

督郵

霊帝

劉恢

何進

何后

潘隠

何進に通じている禁門の武官

袁紹

袁紹

劉《りゅう》夫人

袁譚《えんたん》

袁紹の嫡男

袁尚《えんしょう》

袁紹の三男

高幹

袁紹の甥

顔良

顔良

文醜

兪渉

逢紀

冀州を狙い策をねる。

麹義

田豊

審配

袁紹の配下

沮授《そじゅ》

袁紹配下

郭図《かくと》

袁紹配下


高覧《こうらん》

袁紹の配下

淳于瓊《じゅんうけい》

袁紹の配下

酒が好き

袁術

袁胤《えんいん》

袁術の甥

紀霊《きれい》

袁術の配下

荀正

袁術の配下

楊大将《ようたいしょう》

袁術の配下

韓胤《かんいん》

袁術の配下

閻象《えんしょう》

袁術配下

韓馥

冀州の牧

耿武

袁紹を国に迎え入れることを反対した人物。

鄭泰

張譲

陳留王

董卓により献帝となる。

献帝

献帝

伏皇后《ふくこうごう》

伏完《ふくかん》

伏皇后の父

楊琦《ようき》

侍中郎《じちゅうろう》

皇甫酈《こうほれき》

董昭《とうしょう》

董貴妃

献帝の妻、董昭の娘

王子服《おうじふく》

董承《とうじょう》の親友

馬騰《ばとう》

西涼の太守

崔毅

閔貢

鮑信

鮑忠

丁原

呂布


呂布

呂布

呂布

厳氏

呂布の正妻

陳宮

高順

呂布の配下

郝萌《かくほう》

呂布配下

曹性

呂布の配下

夏侯惇の目を射った人

宋憲

呂布の配下

侯成《こうせい》

呂布の配下


魏続《ぎぞく》

呂布の配下

王允

貂蝉《ちょうせん》

孫瑞《そんずい》

王允の仲間、董卓の暗殺を謀る

皇甫嵩《こうほすう》

丁管

越騎校尉の伍俘

橋玄

許子将

呂伯奢

衛弘

公孫瓉

北平の太守

公孫越

王匡

方悦

劉表

蔡夫人

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

蒯良

劉表配下

蒯越《かいえつ》

劉表配下、蒯良の弟

黄祖

劉表配下

黄祖

陳生

劉表配下

張虎

劉表配下


蔡瑁《さいぼう》

劉表配下

呂公《りょこう》

劉表の配下

韓嵩《かんすう》

劉表の配下

牛輔

金を持って逃げようとして胡赤児《こせきじ》に殺される

胡赤児《こせきじ》

牛輔を殺し金を奪い、呂布に降伏するも呂布に殺される。

韓遂《かんすい》

并州《へいしゅう》の刺史《しし》

西涼の太守|馬騰《ばとう》と共に長安をせめる。

陶謙《とうけん》

徐州《じょしゅう》の太守

張闓《ちょうがい》

元黄巾族の陶謙の配下

何曼《かまん》

截天夜叉《せってんやしゃ》

黄巾の残党

何儀《かぎ》

黄巾の残党

田氏

濮陽《ぼくよう》の富豪

劉繇《りゅうよう》

楊州の刺史

張英

劉繇《りゅうよう》の配下


王朗《おうろう》

厳白虎《げんぱくこ》

東呉《とうご》の徳王《とくおう》と称す

厳与《げんよ》

厳白虎の弟

華陀《かだ》

医者

鄒氏《すうし》

未亡人

徐璆《じょきゅう》

袁術の甥、袁胤《えんいん》をとらえ、玉璽を曹操に送った

鄭玄《ていげん》

禰衡《ねいこう》

吉平

医者

慶童《けいどう》

董承の元で働く奴隷

陳震《ちんしん》

袁紹配下

龔都《きょうと》

郭常《かくじょう》

郭常《かくじょう》の、のら息子

裴元紹《はいげんしょう》

黄巾の残党

関定《かんてい》

許攸《きょゆう》

袁紹の配下であったが、曹操の配下へ

辛評《しんひょう》

辛毘《しんび》の兄

辛毘《しんび》

辛評《しんひょう》の弟

袁譚《えんたん》の配下、後、曹操の配下

呂曠《りょこう》

呂翔《りょしょう》の兄

呂翔《りょしょう》

呂曠《りょこう》の弟


李孚《りふ》

袁尚配下

王修

田疇《でんちゅう》

元袁紹の部下

公孫康《こうそんこう》

文聘《ぶんぺい》

劉表配下

王威

劉表配下

司馬徽《しばき》

道号を水鏡《すいきょう》先生

徐庶《じょしょ》

単福と名乗る

劉泌《りゅうひつ》

徐庶の母

崔州平《さいしゅうへい》

孔明の友人

諸葛均《しょかつきん》

石広元《せきこうげん》

孟公威《もうこうい》

媯覧《ぎらん》

戴員《たいいん》

孫翊《そんよく》

徐氏《じょし》

辺洪

陳就《ちんじゅ》

郄慮《げきりょ》

劉琮《りゅうそう》

劉表次男

李珪《りけい》

王粲《おうさん》

宋忠

淳于導《じゅんうどう》

曹仁《そうじん》の旗下《きか》

晏明

曹操配下

鍾縉《しょうしん》、鍾紳《しょうしん》

兄弟

夏侯覇《かこうは》

歩隲《ほしつ》

孫権配下

薛綜《せっそう》

孫権配下

厳畯《げんしゅん》

孫権配下


陸績《りくせき》

孫権の配下

程秉《ていへい》

孫権の配下

顧雍《こよう》

孫権配下

丁奉《ていほう》

孫権配下

徐盛《じょせい》

孫権配下

闞沢《かんたく》

孫権配下

蔡薫《さいくん》

蔡和《さいか》

蔡瑁の甥

蔡仲《さいちゅう》

蔡瑁の甥

毛玠《もうかい》

曹操配下

焦触《しょうしょく》

曹操配下

張南《ちょうなん》

曹操配下

馬延《ばえん》

曹操配下

張顗《ちょうぎ》

曹操配下

牛金《ぎゅうきん》

曹操配下


陳矯《ちんきょう》

曹操配下

劉度《りゅうど》

零陵の太守

劉延《りゅうえん》

劉度《りゅうど》の嫡子《ちゃくし》

邢道栄《けいどうえい》

劉度《りゅうど》配下

趙範《ちょうはん》

鮑龍《ほうりゅう》

陳応《ちんおう》

金旋《きんせん》

武陵城太守

鞏志《きょうし》

韓玄《かんげん》

長沙の太守

宋謙《そうけん》

孫権の配下

戈定《かてい》

戈定《かてい》の弟

張遼の馬飼《うまかい》

喬国老《きょうこくろう》

二喬の父

呉夫人

馬騰

献帝

韓遂《かんすい》

黄奎

曹操の配下


李春香《りしゅんこう》

黄奎《こうけい》の姪

陳群《ちんぐん》

曹操の配下

龐徳《ほうとく》

馬岱《ばたい》

鍾繇《しょうよう》

曹操配下

鍾進《しょうしん》

鍾繇《しょうよう》の弟

曹操配下

丁斐《ていひ》

夢梅《むばい》

許褚

楊秋

侯選

李湛

楊阜《ようふ》

張魯《ちょうろ》

張衛《ちょうえい》

閻圃《えんほ》

劉璋《りゅうしょう》

張松《ちょうしょう》

劉璋配下

黄権《こうけん》

劉璋配下

のち劉備配下

王累《おうるい》

王累《おうるい》

李恢《りかい》

劉璋配下

のち劉備配下

鄧賢《とうけん》

劉璋配下

張任《ちょうじん》

劉璋配下

周善

孫権配下


呉妹君《ごまいくん》

董昭《とうしょう》

曹操配下

楊懐《ようかい》

劉璋配下

高沛《こうはい》

劉璋配下

劉巴《りゅうは》

劉璋配下

劉璝《りゅうかい》

劉璋配下

張粛《ちょうしゅく》

張松の兄


冷苞

劉璋配下

呉懿《ごい》

劉璋の舅

彭義《ほうぎ》

鄭度《ていど》

劉璋配下

韋康《いこう》

姜叙《きょうじょ》

夏侯淵《かこうえん》

趙昂《ちょうこう》

楊柏《ようはく》

張魯配下

楊松

楊柏《ようはく》の兄

張魯配下

費観《ひかん》

劉璋配下

穆順《ぼくじゅん》

楊昂《ようこう》

楊任

崔琰《さいえん》

曹操配下


雷同

郭淮《かくわい》

曹操配下

霍峻《かくしゅん》

劉備配下

夏侯尚《かこうしょう》

曹操配下

夏侯徳

曹操配下

夏侯尚《かこうしょう》の兄

陳式《ちんしき》

劉備配下

杜襲《としゅう》

曹操配下

慕容烈《ぼようれつ》

曹操配下

焦炳《しょうへい》

曹操配下

張翼

劉備配下

王平

曹操配下であったが、劉備配下へ。

曹彰《そうしょう》

楊修《ようしゅう》

曹操配下

夏侯惇

費詩《ひし》

劉備配下

王甫《おうほ》

劉備配下

呂常《りょじょう》

曹操配下

董衡《とうこう》

曹操配下

李氏《りし》

龐徳の妻

成何《せいか》

曹操配下

蒋済《しょうさい》

曹操配下

傅士仁《ふしじん》

劉備配下

徐商

曹操配下


廖化

劉備配下

趙累《ちょうるい》

劉備配下

朱然《しゅぜん》

孫権配下


潘璋

孫権配下

左咸《さかん》

孫権配下

馬忠

孫権配下

許靖《きょせい》

劉備配下

華歆《かきん》

曹操配下

呉押獄《ごおうごく》

典獄

司馬孚《しばふ》

司馬懿《しばい》の弟

賈逵《かき》


曹植


卞氏《べんし》

申耽《しんたん》

孟達の部下

范疆《はんきょう》

張飛の配下

張達

張飛の配下


関興《かんこう》

関羽の息子

張苞《ちょうほう》

張飛の息子

趙咨《ちょうし》

孫権配下

邢貞《けいてい》

孫桓《そんかん》

孫権の甥

呉班

張飛の配下

崔禹《さいう》

孫権配下

張南

劉備配下

淳于丹《じゅんうたん》

孫権配下

馮習

劉備配下


丁奉

孫権配下

傅彤《ふとう》

劉備配下

程畿《ていき》

劉備配下

趙融《ちょうゆう》

劉備配下

朱桓《しゅかん》

孫権配下


常雕《じょうちょう》

曹丕配下

吉川英治


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