第99話、苦肉の計
文字数 10,983文字
魯粛の語る始終を
と、長大息すると、ありありと
さすがに周瑜も一方の人傑である。
やがて、孔明が見えたと聞くと彼は自ら歩を運んで、
と、問うた。
周瑜は偽らず、
席をあらためて、酒宴に移ったが、その酒中でも、周瑜はかさねて云った。
「実はきのうも呉君孫権からお使いがあって、一日も早く曹操をやぶるべきに、空しく大兵大船をとどめて何をしているぞとのお叱りです。とはいえまだ不肖の胸には必勝の策も得られず、確たる戦法も立っておりません。お恥かしいが、曹操の堅陣に対し、その
直ちに硯をとりよせると、互いに筆を頒ち、
と、
孔明はそういいながら掌をひらいた。周瑜も共に掌をひらいた。
見ると――
孔明の掌にも、火の一字が書いてあったし、周瑜の掌にも、火の字が書かれてあった。
二人は高笑してやまなかった。魯粛も盃を挙げて、両雄の一致を祝した。ゆめ、人には洩らすなかれと、互に秘密を誓い合って、その夜は別れた。
このところ魏軍江北の陣地は、士気すこぶる
うまうまと孔明の
謀将の
埋伏の毒を
曹操のことばに、荀攸は、考えを打ち明けた。
「さればで。――まず丞相が二人を召されて、よく彼らの心をなだめ、また利と栄達をもって励まし、江南へ放って、呉軍へ
曹操はうなずいて、荀攸の心にまかせた。翌る日、荀攸は、謹慎中の二人を訪うて、まず
曹操は二人に酒をすすめ、将来を励まして、
二人とも非常な意気込みを示した。曹操は満足して、このことが成功したあかつきには、恩賞はもちろん末長く功臣として重用するであろうと約した。
大言をのこして、蔡兄弟は、次の日出発した。もちろん脱陣の偽装をつくってゆく必要がある。船数艘に、部下の兵五百ばかり乗せ、取る物も取りあえず、命がけで脱走してきたという風を様々な形でそれに満載した。
帆は風をはらみ、水はこの数艘を送って、呉の北岸へ送った。――折ふし呉の大都督
と、営中に待ちかまえていた。
やがて
悄然と、二人は頭を垂れて、落涙をよそおいながら答えた。
「われわれ両名は、曹操のために殺された魏の水軍司令、
周瑜は、即座に、
と、これを
ふたりは、心中に、
と、舌を吐きながらも、表面はいと
と、疑わしげに、彼の心事を確かめた。
周瑜は、得々として
と笑うのみで、
魯粛は、その日、例の船中で孔明に会ったので、周瑜の
すると、孔明は笑っている。何故、笑い給うかと、魯粛がなじると、
と、孔明は初めて、周瑜の心に、
と、深く悟って帰った。
その夜、呉陣第一の老将
黄蓋は孫堅以来、三代呉に仕えてきた功臣である。白雪の眉、
「ああ、ではやはり、ご老台の工夫とも一致したか。――ではお打明けするが、実は、降人の蔡仲、
周瑜は、あたりを見まわした。陣中
何事か、二人はしめし合わせて、暁に立ち別れた。周瑜は、一睡してさめると、直ちに、中軍に立ち出で、
孔明も来て、陣座のかたわらに
と命じた。
すると、先手の部隊から、大将
周瑜は、
黄蓋も
面に朱をそそいで、周瑜の指は、
甘寧が、それへ
しかし黄蓋も黙らないし、周瑜の怒りもしずまらなかった。果ては、甘寧まで、その間から刎ね飛ばされてしまう。
「すわ、一大事」と諸大将も、今はみな色を失って、こもごもに仲裁に立った。いやともかく大都督周瑜に対して抗弁はよろしくないと、諸人地に
「国の功臣、それに年も年、なにとぞ憐みを垂れたまえ」と、哀願した。
周瑜はなお肩で大息をついていたが、
と、云い放った。
即ち、獄卒に命じて
怒りにふるえ、
「一打! 二打 三打!」
杖を持った獄卒は、黄蓋の左右から、打ちすえた。黄蓋は地にうッ伏して、五つ六つまでは、歯をくいしばっていたが、たちまち、悲鳴をあげて跳び上がった。
そこをまた、
「十っ……。十一っ……」
杖は唸って、この老将を打ちつづけた。血はながれて白髯に染み、肉はやぶれて
「九十っ。九十一っ……」
百近くなった時は、打ちすえる獄卒のほうも、へとへとに疲れていた。もちろん黄蓋ははや虫の息となって、昏絶してしまった。周瑜もさすがに、顔面蒼白になって、
云い捨てると、そのまま、営中へ休息に入ってしまった。
諸将はその後で、黄蓋を抱きかかえ、彼の陣中へ運んで行ったが、その間にも、血は流れてやまず、蘇生してはまたすぐ絶え入ること幾度か知れないほどだったので、日頃、彼と親しい者や、また呉の建国以来、治乱のあいだに苦楽を共にしてきた老大将たちは、みな涙をながして
この騒ぎを後に、孔明はやがて黙々と、自分の船へ帰って行った。そして独り船の
「――ならば、貴公はまだ、兵法に
魯粛は、気の寒うなるのを覚えた。けれどなお半信半疑なここちで、その夜、ひそかに帳中で、周瑜と語ったとき、周瑜から先にこう云い出したのを幸いに、
周瑜は会心の笑みをもらして、初めて魯粛に心中の秘を打ち明けた。
ここ四、五日というもの
「まったくお気の毒な目にあわれたものだ」
と、入れ代り立ちかわり諸将は彼の枕頭を見舞いに来た。
或る者は共に悲しみ、或る者は共に
日ごろ親しい参謀官の
と、無理に身を起して云った。
闞沢は、傷ましげに
と、訊ねた。
黄蓋は顔を振って、
黄蓋は彼の
枕の下から厚く封じた一通を手渡した。
それから幾夜の後とも知れず、魏の曹操が
悠々千里の流れに
――だがこのところ、ひどく神経の鋭くなっている曹軍の見張りは、あまりに漁師が水寨に近づいて釣りをしているので、
「怪しい漁師?」
と見たか、たちまち
軍庁の一閣に、侍臣は燭をとぼし、曹操は
(呉の参謀官
これに依ってみると、水寨の番兵に捕まった漁師は、魏の陣中へ引かれてくるとすぐ、
(自分こそは、呉の参謀
――程なく。
曹操の面前には、みすぼらしい一漁師が、部将たちに取り囲まれて引かれてきた。――が、さすがに一かどの者、端然と、階下に座をとり、すこしも周囲の威圧に動じるふうも見えなかった。
曹操も
黙然と、見つめていたが、やがて闞沢は、ふふふふと、唇を抑えて失笑した。
独り嘆じるが如く、うそぶいた。
曹操は、眉をひそめた。――変なことをいう
「さればよ! 丞相。これに来る以上、それがしとても、命がけでなくては
眼をみひらき、耳を
と、
曹操は、机の上にひらいて、十遍あまり読み返していたが、どんと
云いすてるや否、黄蓋の書状は、その手に引き裂かれていた。
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