第75話、集結
文字数 7,915文字
「どうも、相済まん。兄貴、悪く思ってくれるな。……ともかく、おれの古城へ来てくれ。落着いてゆっくり話そう」
「それがしに二心のないことがわかってくれたか」
張飛は大いにてれた顔して、三千の手下に向い、二夫人の御車を擁して、谷間を越え渡れと大声で下知しはじめた。
その晩、山上の古城には、有るかぎりの燭がともされ、原始的な音楽が雲の中に聞えていた。
二夫人を迎えて張飛がなぐさめたのである。
「ここから汝南へは、山ひとこえですし、もう大船に乗った気で、ご安心くださるように」
ところが、その翌日。望楼に立っていた物見が、
「弓箭をたずさえた四、五十騎の一隊がまっしぐらに城へ向って寄せてくる」
と、城中へ急を告げた。張飛は聞いて、
と、自身で南門へ立ち向った。騎馬の弓箭隊は、ことごとくそこで馬をおりていた。見れば、徐州没落のとき別れたきりの味方、糜竺、糜芳の兄弟が、そのなかに交じっている。
「されば、徐州このかた皇叔のお行方をたずねていたが、皇叔は河北にかくれ、関羽は曹操に降服せりと、頼りない便りばかり聞いて、いかにせんかと、雁の群れの如く、こうして一族の者どもと、諸州を渡りあるいていたところ、近ごろこの古城に、虎髯の暴王が兵をあつめしきりと徐州の残党をあつめておると聞き、さては貴殿にちがいあるまいと、急にこれへやって来たわけだが」
「そいつは、よく来てくれた。関羽はすでに都を脱して、昨夜からこの城中におる」
糜竺兄弟は、さっそく通って、二夫人に謁し、また、関羽に会って、こもごも、久濶の情を叙した。
二夫人は、人々にたいして、許都逗留中の関羽の忠節をつぶさに語った。
張飛は今さら面目なげに、感嘆してやまなかった。
そして羊を屠り山菜を煮て、その夜も酒宴をひらいた。
けれど関羽は、
「ここに家兄皇叔がおいであれば、どんなにこの酒もうまかろう。家兄を思うと、酒も喉を下らない」
「もう汝南は近いのですから、明日でも、早速あなたと行って、皇叔にお目にかかりましょう」
関羽としては、何よりそれを望んでいたのである。夜が明けるか明けぬうちに、彼はもう孫乾と連れ立って、汝南へ道を急いでいた。
そして、汝南城へ行って、劉辟に対面したところ、劉辟がいうには、
「いや、その劉備玄徳どのなら、四日ほど前までここにおられたが、城中の小勢を見て、この勢力では事を成すに至難だと仰せられ――また各自の消息も、皆目知れないので、ふたたび河北の方へもどって行かれた。まったく一足ちがい――」
しきりと惜しがって劉辟はいうのである。
一歩の差が時によると千里の距てとなる例もままある。関羽は憂いを面にみなぎらし、怏々と汝南を去った。
むなしく古城へ帰ってきたが、孫乾はなぐさめて、
「この上は、拙者がもう一度、河北へ行ってみましょう。ご心配あるな。かならずお伴れ申しますから」
すると張飛が、河北へなら自分が行こう、と進んで云いだした。けれど関羽は、
「いま、この一つの古城は、われわれ家なき義兄弟にとっては、重要な拠点だから君は断じてここを動いてはいかん」
と、遂に孫乾を案内とし、わずかの従者をつれて、関羽は遠く河北まで、劉備をさがしに立った。
その途中、臥牛山の麓までくると、彼は周倉を呼んで、
「いつぞや、ここで別れた裴元紹のところへ、使いに参ってくれい」
と、一言を託した。
周倉はひとり関羽に別れて、臥牛山の奥へはいって行った。そこには、さきに機会を待てと止めてある裴元紹が、約五百の手勢と五、六十匹の馬をもってたて籠っている。関羽はその裴元紹にむかって、
「近いうちに自分が皇叔をお迎えして帰りにはここを通るから、その折に、一勢を引き具して、途中でお迎えしたがよかろう」
と、伝言してやったのである。
孫乾はそばでそれを聞いていたので、関羽が誰にたいしても、かならず約束をたがえないのに感心していた。
日を経て関羽と孫乾は、やがて冀州の堺まできた。
明日からの道は、もう袁紹の領土である。孫乾は大事をとって、
「あなたは、この辺で仮の宿をとって、待っていてくれ。拙者はただひとり、冀州に入って、ひそかに皇叔にお会いし、つれてくるから」
と、告げて別れた。
関羽はわずかな従者と共に、近くの村へ入ってただの旅人のごとく装い、村のうちでもたたずまいのいい一軒の門をたたいた。
主は、快く泊めてくれた。数日いるうちに、その心根も分ったので、何かのはなしの折、主の問うまま、自分は関羽であると姓氏を打明けた。
主は、驚きもしたり、また非常な歓びを示して、
「それはそれはなんたる奇縁でしょう。てまえの家の氏も関氏で、わたくしは関定というものです」
と、二人の子息を呼んで、ひきあわせた。
どっちも秀才らしい良い息子だった。兄は関寧といって、儒学に長じ、弟のほうは関平とて、武芸に熱心な若者だった。
二十騎の従者をこの家にかくして、関羽はひたすら孫乾の便りを待っていた。――その孫乾は、冀州へまぎれ入って、やがて首尾よく劉備の居館をさぐり当て、ようやく近づくことができた。
その後の一部始終から一族の健在を聞いて、劉備のよろこびは何にたとえんようもなかった。しかし今にして悔ゆることは、この冀州の領内へわざわざ帰ってしまったことである。
「もう一度の脱出を、どうして果たそうか。何せい、わしの行動はいま、袁紹や藩中の者どもから、注目されている折ではあるし……」
劉備の心は、飛び立つほどだったが、身は鉄鎖に囲まれていた。
「……そうだ、簡雍の智恵をかりてみよう。簡雍は近ごろ、袁紹にも信頼されて、おるらしいから」
孫乾は、初耳なので、驚きの目をみはった。
その簡雍も、以前の味方だ。聞けば近ごろ劉備を慕って、この冀州へきていたが、そう見えては袁紹の心証がよくあるまいと察して、わざと劉備には冷淡にして、つとめて袁紹の気に入るよう城中に仕えているということだった。
そういう間がらなので、簡雍はちょっと来てすぐ帰ったが、目的はその短時間に足りていた。
簡雍から授けられた策を胸に秘して、劉備は次の日、冀州城に上がり、袁紹に会ってこう説いた。
「曹操とお家との戦いは、否応なく、ついに長期にわたりそうです、強大両国の実力は伯仲していずれが勝れりともいえません。……けれどここに外交と戦争とを併行して、荊州の劉表を味方に加えるの策に成功したら、もはや曹操とて完敗の地に立つしかありますまい」
「それはそうだとも。……しかし劉表も、ここは容易にうごくまい。龍虎ともに傷つけば、かれは兵を用いずして、漁夫の利をうる位置にある」
「いや、それが外交です。九郡の大藩荊州を見のがしておくなど愚かではありませんか」
「それは貴公がいわなくても、とくに気づいて、数度の使者をつかわしたが、劉表あえて結ぼうとせんのじゃ。この上の使いは、わが国威を落すのみであろう」
「いえいえ、不肖劉備が参れば、期してお味方に加えて見せます。なんとなれば、私と彼とは、共に漢室の同宗で、いわば遠縁の親族にあたりますから」
袁紹は考えこんだ。大いに意のうごいた容子である。劉備はかさねて云った。
「それに近頃また、関羽も許都を脱出して、諸所をさまようておるやに伝えられております、私をして、荊州へおつかわし下さるならかならず関羽にも会い、お味方に伴れもどりましょう」
「彼は、顔良、文醜を討った讐ではないか。わしにその関羽を献じて、首を刎ねよと申すのか」
「いえいえ、そんなわけではありません。顔良、文醜は、たとえば二匹の鹿です。二つの鹿を失っても、一匹の虎をお手に入れれば、償うて余りあるではございませんか」
「あははは、いや今のは、いささか戯れをいうてみたまでのこと。わしも実は深く関羽を愛しておる。真実、其許が荊州に赴いて劉表を説き、併せて関羽を連れてくるなら、何でわしが不同意をいおう。すぐ出発してくれい」
「承知しました。……が、大策は前に洩れると行えません。私が荊州に行き着くまでは、お味方に極めてご内分になしおかれますように」
劉備はそういって、一夜に身支度をととのえ、翌日ひそかに袁紹の書簡をうけ、風の如く関外へ走り去った。
そのあとで、すぐ簡雍は袁紹の前へ出た。そして袁紹を不安に陥れた。
「彼を荊州へお遣わしになったそうですが、実に飛んでもないことをなされました。劉備はあのような温和な人物ですから、反対に劉表に説き伏せられて、荊州へついてしまう惧れがありはしませんか。劉表も遠大な野心を抱いていますし、彼と彼とは、ともに宗族で親類も同様ですからな」
「木乃伊取りが木乃伊になっては何もならん。いや後日の大害だ。どうしたらいいだろう」
「では、てまえが随員として、劉備について行きましょう。断じて、ご使命を裏切らぬように」
と、関門の割符を与えてしまった。
簡雍が馬を飛ばして、どこかへ急いで行ったというのを、郭図が耳にしたのは夕方だった。部下に調べさせてみると、その前に劉備は荊州の旅へ立って行ったという。
愴惶として、郭図は冀州城にのぼり、袁紹に謁してこう忠言した。
「何たる不覚をなされたのですか。さきに劉備が汝南から帰ってきたのは、汝南はまだ兵力も薄く、自分の事を計るには足らないから見限ってきたのです。こんどはそうは行きません。荊州へ行ったら必ず二度と帰ってはきますまい。それがしに追い討ちをおゆるしあれば、長駆追撃して、彼を首とするか、生捕ってくるか、どっちかにします。どうかご決断ください」
しかし袁紹はゆるさなかった。劉備のことばだけでは、まだ惑ったかも知れないが、簡雍が二重の計にかけてあるので、深く信じこんでおり、疑ってみようともしないのである。
郭図は、長嘆したが、黙々退出するしかなかった。
簡雍はすぐ劉備に追いついていた。うまく行ったな、と相顧みて一笑した。
冀州の堺も無事に脱けた。
孫乾はさきに廻って、ふたりを待ちうけ、道の案内をしてやがて関定の家へついた。見れば――
関定の家の門前には、主の関定やら関羽以下の面々が立ち並んで出迎えている。久しやと、相見かわす眼は、彼もこなたも、共にはやいっぱいな涙であった。
瞬間ふたりの唇から洩れたものは、それでしかない。関羽も劉備も、無言は百言にまさる思いだった。
関定は二人の子息とともに、門を開いて劉備を奥に招じた。住居はわびしい林間の一屋ながら、心からな歓待は、これも善美な贅にまさるものがある。
やや人なき折を見て劉備と関羽は、はじめて手を取りあって泣いた。関羽は、劉備の沓に頬を寄せ、劉備はその手を押しいただいて額につけた。
そのささやかな歓宴の座で、劉備は、関定の子息関平のどこやら見どころある為人を愛でて、
「関羽にはまだ子もないから、次男の関平を養子に乞いうけてはどうか」
と、いった。
ふたりある息子のひとりである。関定は願ってもないことと歓んだ。関羽もひそかに関平の才を愛していたし、談はたちどころにまとまった。
「袁紹の討手が向わぬうちに」と、一同は次の朝すぐここを出発した。
急ぎに急いで、旅は日ごとにはかどった。やがて雲表に臥牛山の肩が見えだす。次の日にはその麓路へさしかかっていた。
すると、かねて関羽のさしずで、この付近へ手勢をひきいて出迎えに出ているはずの裴元紹の手下が、彼方から猛風におわれたように逃げ散ってきた。
と、関羽は、その中にいた周倉を見つけてただすと、周倉がいうには、
「誰やら為体が分りませぬ。われわれどもが、今日のお迎えのため、勢揃いして山上からおりてまいると、途中一名の浪人者が、馬をつないで路上に鼾睡しています。先頭の裴元紹が、退けと罵ると、山賊の分際で白昼通るは何奴かと、はね起きるやいな裴元紹を殴り倒してしまったのです。――それっと手下の者ども、総がかりとなって、相手の浪人を取り押さえようとしましたが、その者の膂力絶倫で、如何とも手がつけられません。およそ世の中にあんな武力の持ち主というものは見たこともありません」
「さらば、その珍しい人物と、この青龍刀とを、久しぶり交じえてみよう」
と、一騎でまっ先に立って、山麓の高所へ馳け上って行った。
劉備も鞭をあててすぐその後につづいた。すると、彼方の岩角に、鷲の如く、馬を立てていた浪人者は、劉備のすがたを見ると、たちまち鞍からおりて、関羽が来てみた時は、もう地上に平伏していた。
劉備も関羽も、ひとつ口のように叫んだ。浪人者は面をあげて、
これなん真定常山の趙雲、字は子龍その人であった。
趙子龍はずっと以前、公孫瓚の一方の大将として、劉備とも親交があった。かつては劉備の陣にいたこともあるが、北平の急変に公孫瓚をたすけ、奮戦百計よく袁紹軍を苦しめたものである。が、力ついに及ばず、公孫瓚は城とともに亡び、以来、浪々の身によく節義をまもり、幾度か袁紹にも招かれたが袁紹には仕えず、諸州の侯伯から礼をもって迎えられても禄や利に仕えず、飄零風泊、各地を遍歴しているうち、汝南州境の古城に張飛がたて籠っていると聞いてにわかにそこを訪ねてみようものと、ここまできた途中である。――と語った。
劉備はここで君に会うとは、天の賜であると感激して、さらにいった。
「君を初めて見た時から、ひそかに自分は、君に嘱す思いを抱いていた。将来いつかは、刎頸を契らんと」
「拙者も思っていました。あなたのような方を主と仰ぎ持つならば、この肝脳を地にまみれさせても惜しくはないと――」
関羽にあい、また、ゆくりなくも趙子龍に出会って、劉備の左右には、兵馬の数こそとぼしいが、はやくも将星の光彩が未来をかがやかしていた。
やがて、古城は近づいた。
待ちかねていた望楼の眸は、はやそれと遠くから発見して、
「関羽将軍が劉皇叔をお迎えして参られましたぞ」と、大声で下へ告げた。
喨々たる奏楽がわきあがった。奥の閣からは二夫人が楚々たる蓮歩を運んで出迎える。服装こそ雑多なれ、ここの山兵もきょうはみな綺羅びやかだった。大将張飛も最大な敬意と静粛をもって、出迎えの兵を閲し、黄旗青旗金繍旗日月旗など、万朶の花の一時にひらくが如く翩翻と山風になびかせた。
劉備以下、列のあいだを、粛々と城内へとおった。
「あの君が、これからの総帥となるのか。あの人が、関羽というのか」
通過のあいだに、ちらと見ただけで、兵卒たちの心理は、その一瞬から変った。もう古城の山兵でも烏合の衆でもなかった。
楽器の音は、山岳を驚かせた。空をゆく鴻は地に降り、谷々の岩燕は、瑞雲のように、天に舞った。
まず何よりも、二夫人との対面の儀が行われた。関羽は、堂下に泣いていた。
夜は、牛馬を宰して、聚議の大歓宴が設けられた。
と、劉備はいった。
張飛、趙雲、孫乾、簡雍、周倉、関平などみな杯を交歓して、
「これからだっ! これからだっ!」と、どよめき合った。
使者をうけて、汝南の劉辟と龔都もやがて馳けつけ、賀をのべてさていった。
「この狭隘な地では、守るによくとも、大志は展べられません。かねてのお約束、汝南を献じます。汝南を基地として、次の大策におかかりください」
古城には、一手の勢をのこして、劉備は即日、汝南へ移った。徐州没落このかた、実に何年ぶりだろうか。こうして君臣一城に住み得る日を迎えとったのは。
顧みれば――
それはすべて忍苦の賜だった。また、分散してもふたたび結ばんとする結束の力だった。その結束と忍苦の二つをよく成さしめたものは、劉備を中心とする信義、それであった。
さて、日の経つほどに。
ようやく、焦躁と不安に駆られていたのは袁紹である。
「荊州からなんの消息もくるわけはありません。劉備は関羽、張飛、趙雲などを集めて、汝南にたて籠っておる由です」
そう聞いたときの彼の憤激はいうまでもない。
河北の大軍を一度にさし向けようとすら怒ったほどである。
郭図が、うまいことをいった。
「劉備の変は、いわばお体にできた疥癬の皮膚病です。捨ておいても、今が今というほど、生命とりにはなりません。何といっても、心腹の大患は、曹操の勢威です。これを延引しておいては、ご当家の強大もついには命脈にかかわりましょう」
「そうか。……ううム、しかしその曹操もまた急には除けまい。すでに戦いつつあるが、戦いは膠着の状態にある」
「荊州の劉表を味方にしても、大局は決しますまい。何となれば、彼には大国大兵はあっても、雄図がありません。ただ国境の守りに怯々たる事なかれ主義の男です。――あんな者に労を費やすよりは、むしろ南方の呉国孫策の勢力こそ用うべきでありましょう。呉は、大江の水利を擁し、地は六郡に、威は三江にふるい、文化たかく産業は充実し、精兵数十万はいつでも動かせるものとみられます。いま国交を求むるとせば、新興の国、呉を措いてはありません」
と、熱心に説いた。
袁紹の重臣陳震が、書を載せて、呉へ下ったのはそれから半月ほど後のことだった。
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