第115話、許褚と馬超
文字数 7,603文字
渭水は大河だが、水は浅く、流れは無数にわかれ、河原が多く、瀬は早い。
所によって、深い淵もあるが、浅瀬は馬でも渡れるし、徒渉もできる。
ここを挟んで、曹操は、北の平野に、野陣を布いて、西涼軍と対していたが、夜襲朝討ちの不安は絶え間がない。
曹操は常に急き立てていた。
半永久的な寨の構築をである。曹仁は、築造奉行となって、渭水の淵に船橋を架け、二万人の人夫に石材木を運搬させ、沿岸三ヵ所に仮城を建つべく、日夜、急いでいた。
西涼の馬超は、知っていたが、
そして工事が八、九分ぐらいまでできたかと見えたところで、
と、河の南北からわたって、焔硝、枯れ柴、油弾などを仮城へ投げかけ、河には油を流して火をかけた。
船筏も浮橋も、見事に炎上してしまった。何で製したものか、梨子か桃の実ぐらいな鞠をぽんぽんほうる。踏みつぶしても消えない。ばっと割れると油煙が立ち、大火傷をする。そしてなお燃えさかる。
こういう厄介な武器を持つ西涼軍に対して、さすがの曹操も、ほとんど頭を悩ましてしまった。
智者荀攸がいう。
「渭水の堤を利用し、土塁を高く築いて、蜿蜒、数里のあいだを、壕と土壁との地下城としてしまうに限りましょう」
「地下城。なるほど。土の地下城では、焼討ちも計れまい」
さらに、人夫三万を加え、孜々として、地を掘らせた。
坑から上げた土は、厚い土壁とし、数条の堤となし、壇となし、ここに蟻地獄のような土工業が約一ヵ月も続いた。
さながら埃及のピラミッドを見るような土城が竣工しつつある。西涼軍のほうからも眺められていたにちがいない。しかし、手を下しかねているものか、しばらく夜襲も焼討ちもなかった。
すると、渭水の水が一日増しに涸れて来た。かなり雨が降り続いても水が増えない。変だと思っていると、一夜、豪雨が降りそそいだ。その翌朝である。
「津浪だっ」
「洪水だっ」
物見が絶叫した。
人馬を高い所へ移すいとまもなく、遥か上流のほうから、真っ黒な水煙をあげて、奔々の激浪が押してきた。
遠い上流のほうで、もう半月も前から、西涼軍が、堰を作って、河水を溜めていたものである。
なんで堪ろう。小石まじりの河原土なので、土城は一朝にして崩れてしまった。壕も坑も埋まって跡形もない。
九月に入った。
北国のならいで、もう雪が降りだしてくる。灰色の密雲がふかく天をおおって、ここ幾日も雪ばかりなので、両軍とも、兵馬をひそめたまま睨み合っていた。
「西涼の胡夷どもは、寒さに強いし、また潼関へも引き籠れるが、味方はこの野陣のままでは、冬中吹雪にさらされておらねばならぬ。何とか、よい工夫はないか」
曹操とその幕将が、その日もしきりに討議しているところへ、飄然、名を告げて、この陣営へ訪れて来たものがある。
「わしは、終南山の隠居、道号を夢梅という翁でござる」
容も凡ではない。
曹操が、見て、
「この夏頃から、丞相には、渭水の北に城寨を築こうとなされているらしいが、なぜ火水に潰えぬ城をお造りにならぬかと、愚案を申しあげに来ましたのじゃ」
「これから必ず北風が吹きましょう。小石まじりの河原土でも、急に、それを構築し、築地した後へすぐ水をかけておけば、一夜にして凍りつき、いちど凍った堅さは、これから春までは解けません。要するに、氷の城ですから、火に焼かれるおそれもなく、河水に流される心配もありますまい」
告げ終ると、老翁はすぐ、飄乎として、どこかへ立ち去った。
一日、北風が吹き出した。曹操は、夢梅居士の教えを行う日と、昼から三、四万の人夫を動員しておいた。
日が暮るるとすぐ、
と、命じた。
この夜は、将士もすべて、総がかりに、それへかかった。
基礎のあった上であるから、夜明け近くにはほぼ構築された。
数万の革の嚢が用意されてあった。河水を汲んでは手渡しから手渡しに運び、土門、土楼、土壁、土塁、土孔、土房、土窓、築くに従って水をかけ、また水をかけた。
西涼の軍勢は、夜明けの光に、対岸をながめ、驚き合っていた。
「やあ、城ができている」
「いつの間に」
「たった一夜のうちだ」
「見ろ。あれは、この前の土城ではない。氷の城郭だ。氷城だ」
馬超、韓遂なども出て、大いに怪しみながら、小手をかざしていたが、
「また何か、曹操の小策に違いあるまい。馳け破って、城郭の正体を見届けてくれん」
と、にわかに、鼓を打ち、大兵を集結して、河をわたった。
曹操は馬を進めて、待っていた。
馬超は、例によって、
と、牙を咬み、一躍して、曹操を突き殺そうとしたが、その側に、朱面虎髯、光は百錬の鏡にも似た眼を、じっとこちらへ向けている武将が身構えていて油断もない。
(これだな、虎痴の綽名のある例の男は?)
直感したので、馬超は、いつになく自重して、わざと試しにいってみた。
「西涼の大将たるものは、いえば必ず行い、行えば必ず徹底して実を示す。聞き及ぶ、曹操は、口頭の雄で、逃げ上手だというが、汝そこを動かず、必ず馬超と一戦するの勇気があるか」
「知らないか、田舎漢、予の側には常に、虎痴許褚という猛将がおることを。――なんで天下の鼠をはばかろうや」
云いもあえず、曹操のかたわらから馬を乗り出したその虎痴が、
「すなわち、譙郡の許褚とはおれのこと。汝、そこを動かず、一戦するの勇気があるのか」
と、いった。
その声は人臭いが、猛気が百獣の王に似ている。
いつぞや韓遂にいわれたことばを思い出して、馬超も、心に怕れを生じたか、
と云い捨てたまま馬をかえし、軍を退いてしまった。
これを見ていた両軍の兵は、駭然として、
(馬超すら恐れる許褚というものはいったいどれほど強いのか)
と、身の毛をよだてぬ者はなかったという。
曹操は、氷城の陣営にかくれると諸将をあつめて、
「どうだ、きょうの虎侯、皆見たか。真にわが股肱というべしである」
と、高言した。
すなわち、その日彼は、敵へ宛てて決戦状を送り、
「明日、出馬しなかったら、天下に嗤ってやるぞ」
と返書して、夜が白むや、龐徳、馬岱、韓遂など、陣容物々しく、押し寄せてきた。
「待っていた」とばかり、許褚は馬を躍らせて、馬超へ呼びかけた。おうっと、一言、馬超もきょうは敢然と出て戦った。
戦うこと百余合、双方とも、馬を疲らせてしまったので、陣中に引き分れ、ふたたび馬をかえて人まぜもせず戦い直した。
勝負は果てない。
火華をちらし、槍を砕き、また戟をかえて、鏘々、戛々、斬り結ぶこと実に百余合。
「ああ……」
と、両軍の陣は、ただ手に汗を握り、うつろにひそまり返って見ているだけだった。
(――虎痴許褚を相手に、あれほど戦い得る馬超も馬超なり、また西涼の馬超を敵にまわして、これ程に戦う者も、許褚をおいてはあるまい。実に、虎痴も虎痴なり)
と、ことばに出す余裕もないが、誰とて、感嘆しないものはなかった。
そのうちに、許褚は、
「ああ暑い。この大汗では眼をあいて戦えぬ。馬超、待っておれ」
斬り合っているうち、ふいに、こう吐き捨てると、またまた、ぷいと味方の陣中へ引っ込んでしまった。
(どうしたのか?)
怪しんでいると、許褚は、鎧兜も戦袍も脱ぎ捨てて、赤裸になるやいな、
ふたたび大刀をひっさげて現れてきた。
その間に、馬超も、汗を押しぬぐい、新しい槍を持ちかえて、一息入れていた様子。――たちまち、砂塵を捲いて、霹靂に似た喚きに狂う龍虎両雄の、三度目の一騎討ちが始まった。
威震八荒の許褚、
と、吠えて、馬上、相手へ迫ると、馬超もまた、壮年悍勇、さながら火焔を噴くような烈槍を、りゅうりゅう眼にもとまらぬ早業で突き捲くってくる。
一刀、かつんと、槍の柄に鳴った。――馬超、さッと引く。許褚ふたたび振りかぶる。
身をかわしざま、馬超は、敵の心板を狙って、猛烈に突いた。
と牙を咬んで、許褚はそれを横に払い、刀を地に投げるや否、退く槍の柄をつかんで、ぐいと、小脇に挟んでしまった。
奪られじ。
奪らん。
ふたりは、雷と雷が黒雲を捲いて吠え合っているようだった。――奪られたほうがすぐその槍で突かれるのだ。渡せない。離せない。
ばきッと、槍が折れた。だだだだっと、双方の馬がうしろへよろめく。いなないて竿立ちになる。すでにまた、ふたりは槍の半分ずつを持って猛烈な激闘を交えていた。
曹操はさけんでいた。大事な虎痴に万一があっては、全軍の士気にも関わると見たからである。
が、この微妙な戦機に、龐徳、馬岱の勢は、いちどに、曹軍の陣角へ、わっと強襲してかかった。
その手の敵、夏侯淵、曹洪など、面もふらず戦ったが、全体的には西涼軍の士気強く、ひた押しに圧され、乱軍中、許褚も肘へ二本の矢をうけた程だった。
曹操は、氷城をとざした。氷の城郭も、こうなるとものをいう。この日馬超も、軍を収めてから、
「自分も幼少からずいぶん手ごわい人間にも遭ったが、まだ許褚の如きものは見ない。真に彼は虎痴だ」
と、舌を巻いていた。
その後、曹操のほうにも、何ら、良計はなく、徐晃と朱霊のふたりに四千騎をさずけて、渭水の西に伏せ、自身、河をわたって、正面を衝こうとしたが、事前に、馬超のほうから軽兵数百騎をひきい、氷城の前に迫り、人もなげに、諸所を蹂躙して去った。
土楼の窓から、それを眺めていた曹操は、かぶっていた兜をほうって、
「実に馬超という敵は尋常な敵ではない。彼の生きてあらん限りはこの曹操の生は安んじられない」
「これほどお味方に人もあるものを、ただ一人の馬超のため、それまで御心を傷ましむるとは、何たることか。われ誓って、馬超と共に刺しちがえん」
と、その夜、曹操が止めるもきかず、部下千騎をひきいて討って出た。
案のじょう、それから程なく夏侯淵の手勢、苦戦に陥つ、と報らせが来た。
捨ててもおけず、曹操はすぐ自身救援におもむいたが、敵勢は、
「曹操が出てきたぞ」と伝えあうや、かえって、意気を旺にした。
のみならず、馬超は、曹操の中軍を割って、
と、彼を追い馳け追い廻した。
所詮、力ずくではかなわぬと思ったか、曹操はまた氷の城塞へ逃げこんでしまった。しかし、その間に、苦戦をしのんで、一方の兵力を割き、渭水の西から、大兵を渡していた。
「出よ、曹操。――汝は蓑虫の性か、穴熊の生れ変りか」
馬超は氷城の下まで迫って、罵っていた。
ところへ、後陣の韓遂から伝令があって、
と、いう急報。
暁早く、馬超は総勢を収めて、陣地へ帰った。その日、情報によると、
「昨夜、渭水の西をわたった大軍は早くもお味方の背後へまわって、陣地の構築を始めています」
掌から水が漏れたように、韓遂は、
そこで韓遂は、万事は休すと思ったか、方針一転を馬超に献言した。如かず、これまで斬り取った地を一時曹操に返し、和睦をして、この冬を休戦し、春とともにべつな計をお立てなさい、というのである。戦機を観ること、さすが慧眼だった。
楊秋、侯選などの幕将も、
「もっともなお説」
と、みな馬超を諫めた。
数日の後、楊秋は一書をたずさえて、曹操の陣へ使いした。和睦の申入れである。
曹操は内心、渡りに舟と思ったが、まず使者を返して後、謀将の賈詡にこれを計った。
賈詡はいう。
「明らかに偽降です。が、突き放す策もよくありません。和睦をゆるし、こちらはこちらで、手を打てばよい」
「馬超の強さは、韓遂の戦略があればこそです。韓遂の作戦は、馬超の勇があってこそ、生きてきます。ふたりを相疑わせて疎隔してしまえば、西涼勢とて、枯れ葉を掃くようなものじゃありませんか」
次の日。
馬超の手もとへ、曹操から返簡が来た。色よい返事である。しかし、馬超はなお数日疑っていた。
「曹軍は、この二、三日、後方の支流に浮橋を架けて、都へ引き揚げる通路を作っているが、いかにもわざとらしい。曹操の部下徐晃と朱霊の軍は、なお渭水の西にあってうごかないじゃないか」
「奇、正。この二態は、軍隊の性格で怪しむに足らんが、要心は必要だろう」
と、韓遂も油断せず、一陣は西に備え、一陣は曹操の正面に向け、厳として気をゆるめなかった。
敵方の警戒ぶりを聞くと、曹操は、賈詡をかえりみて笑った。
やがて約束の日、曹操は盛装をこらして、おびただしい諸大将や武者をひきつれ、自身条約のため、場所へ出向いた。
まだこのような豪壮絢爛な軍隊を見たこともなく、曹操の顔も知らない西涼の兵隊は、途々に堵列して、
「あれは何だろ?」
「あれが曹操か」
などと、物珍しげに、指さし合う。
曹操は、駿馬にまたがり、錦袍金冠のまばゆき姿を、すこし左右にうごかして、
「やよ、西涼の兵ども、予を見て、珍しと思うか。見よ、予にも、眼は四つはなく、口は二つないぞ。ただ異なるのは智謀の深さだけだ」
と、戯れをいった。
戯れにはちがいないが、西涼の軍勢は、その笑い顔に震い怖れて、みな口を結んでしまった。
その後、韓遂の幕舎へ、ふいに、曹操の使いが来た。
使いのもたらした書面をひらいてみると曹操の直筆にちがいなく、こうしたためてある。
君ト予トハ元ヨリ仇デハナク、君ノ厳父ハ、予ノ先輩デアリ、長ジテハ、君ト知ッテ、史ヲ語リ、兵ヲ談ジ、天下ノ為、大イニ成スアランコトヲ、誓イアッタ友ダッタ。
端ナクモ、過グル頃ヨリ敵味方トワカレ、矢石ノアイダニ別ルルモ、旧情ハ一日トテ、忘レタコトハナイ。
イマ幸イニ、和議成ッテ、予ナオ数日、渭水ノ陣ニアリ。
乞ウ、一日、旧友韓遂トシテ来リ給エ。
韓遂は、旧情をうごかされて、翌日、甲も着ず、武者も連れず、ぶらりと、曹操を訪れた。
曹操はなぜか、内へ導かない。自分のほうから陣外へ出てきて、いとも親しげに、平常の疎遠を詫びた。
そしてなお、いうには、
「お忘れではあるまい。あなたの厳父とは、共に孝廉に挙げられ、少壮の頃には、いろいろお世話になったものだ。後あなたも都の大学を出、共に官途へ進んでからは、いつともなく疎遠に過ぎた」
「むかし、都にあって、共に、青春の少年であった時代は、よく書を論じ、家を出ては、白馬金鞍、花を尋ねて遊んだこともあった」
「ははは。いつか、ふたたび太平の時を得て、むかしの童心に返ろうではないか。――おう今日は、折角、此方から書面しながら失礼ですが、幕中、折わるく諸将を会して要談中なので」
韓遂は、気軽に戻った。
この態を、見ていたものが、すぐ馬超へ、ありのままを話した。
安からぬ顔色をしていたが、翌る日、馬超はほかの用事にことよせて、韓遂を呼び、
「時に、貴公は昨日、渭水のほとりで、曹操と、何か親しげに、密談をしておられた由だが……」
「青空の下の立ち話。密談などした覚えはない。また軍事については、爪の垢ほども、語りはせんよ」
「いや、貴公が云いださなくとも、曹操のほうから何か」
「少年時代、共に都にあった事どもを、二、三話して別れただけだ」
「そうか。そんなに古くから、彼とは、親しい仲であられたのか」
馬超は、嫉ましげな眸をした。が、韓遂は、まったく、何の後ろ暗いこともないので、笑い話をして帰った。
ひそやかな、陣中の一房へ、曹操はその晩、賈詡を呼びよせていた。
「もちろん、もう馬超の耳へ入っておりましょう。が、もう一つ足りません。あれでは、まだ韓遂を、心から疑わせるまでには行きますまい」
「丞相からもう一度、親書を韓遂にあててお書きなさい」
「そうそう、用もないのに、書簡をやるのもおかしかろう」
「かまいません。文章をもって、相手を動かすのが目的ではありませんから。――文字などもわざと朧にしたため、肝要らしい所は、思わせぶりに、失筆で塗りつぶし、また削り改めたりなどして、一見、おそろしく複雑で重要そうに見えさえすればよろしいのです」
「兵馬を費うことを考えれば、そのくらいな労は、何ほどでもありますまい。必定、受取った韓遂も、一体、何だろうと、おどろき怪しんで、きっとそれを、馬超の所へ見せに行くに違いありません。ここまで来れば、はや計略は、成就したも同じことです」
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