第155話、夷陵の戦い
文字数 15,632文字
陸遜が新たに総司令官として戦場へ臨むという沙汰が聞えると、呉の前線諸陣地にある諸将は、甚だしく不満をあらわして、口々に、
「あんな
「呉王のお
などと、早くも呉の全面的
そこへ陸遜は着任した。
荊州諸路の軍馬を集め、
けれど従前から各部署にいる大将連は、
陸遜はすこしも気にかけるふうもなく、日を
(軍議をひらくにより参集あるべし)と通告を発し、その日、やむなく集まってきた諸将を下に、彼は一段高い将台に立って、こう云い渡した。
と、まず抱懐の一端をのべて味方のうちにある根拠なき
と、語尾つよく宣言した。
諸人は黙然としてただ
陸遜はほとんど問題にしなかった。
「孫桓はよく部下を用いる人だから必ず力を協せてよく守るだろう。急に救わなくても落城する気づかいはない。むしろ自分が破ろうとするのは蜀軍の中核にある。敵の中核が崩れれば、夷陵の如きはひとりでに囲みが解けてしまうのである」
聞くと諸将はみな、どっとあざ笑って、
「果たせるかな、この人、無策」と
「かかる大都督を上にいただいていては滅ぶしかない」と、面色を変えたほどだった。
すると次の日、大都督の名をもって、各部署へ、
(攻め口をかたく守り、敢えて進まんとするなかれ。一人出でて戦うもこれを禁ず)
という軍令が下った。
「ばかな。もう黙ってはいられない」
諸将は、憤懣、不平の
「われわれは戦に来ているものだ。すでに命を捨ててここに来ている。しかるに、これ以上、手を
韓当、周泰などを先にして、口を極めて反対すると、陸遜は手に剣をとって、
と声を励まして叱咤した。
諸将はみな帰ってしまった。しかし誰ひとり陸遜に服しはしない。むしろ来た時よりも、
「青書生めが、急に権力をもつと、ああしてやたらに威張ってみたくなるのだろう」
などと帰路でめいめい口ぎたなく嘲笑を交わしていた。
敵の組織に改革が行われたと伝えられてきた日、蜀帝はすぐ左右に問うた。
答えたのは、馬良である。
「おそらく彼の親しい友人でも、彼にそんな器量があろうとは、誰も知らなかったのではないでしょうか。さすがに呂蒙は目が高かったとみえ、はやくから彼を用い、呉軍が荊州を襲ったのも、関羽を一敗地に介したのも、呂蒙の奇略といわれていますが、実はすべて、陸遜の
馬良はこれ以上いさめる語を知らなかった。帝劉備は、諸将に令して、陣を押し進めた。
とかく一致を欠いていた呉の陣営も、蜀の猛陣をまぢかに見ては、もう私議私憤をとり交わしてはいられない。俄然、団結して総司令部の
陸遜はそれだけいうと、
心もとなく思ったか、自身馬をとばして、そこへ馳せて行った。そして、
と、今しも、兵馬を揃えて、敵前へ駈け下ろうとする彼を押し止めた。
韓当はいきり立って、
全線どこの部署も、うごかないので、韓当もやむなく、拳を握って、陸遜の命のままに、じっとしていた。
蜀軍はさんざん悪口
そこで、蜀軍はわざと虚陣の油断を見せたり、弱兵を前に立てたり、日々工夫して、釣りだしを策してみたが、呉は
一木の日陰もない曠野だった。夜はともかく昼の炎暑は草も枯れ土も燃えるようだった。それに水は遠くに求めなければならないし、病人は続出するし、士気はだれて、どうにも収拾がつかなくなった。
劉備も、ついにこの
すると馬良が注意して、
諸将は、それこそ帝の神機妙算なりとたたえた。けれど、こう説明を聞いてもまだ馬良は不安そうに、
「この頃、
と、なお止めたい顔をしていた。劉備は微笑して、
「朕も兵法を知らない者ではない。遠征の途に臨んで、何でいちいち孔明に問合わせを出しておられよう。しかし折よく孔明が漢中まで来ておる時であるから、汝が行って、朕の近況を伝え、また戦の模様を語っておくのもよかろう。そして何か意見あらば聞いてまいれ」
と、馬良にその使いをいいつけた。
馬良は承って、敵味方の布陣から地形など、克明に写して行った。こう紙の上に描き取ってみると、それは四至八道という対陣になっていた。
次の日である。
呉の物見は、ひとつの山の上から
「蜀の大軍が、次々と、遠い山林の方へ、陣を移しだしました」
と、韓当、周泰の前に急報した。
「やっ。そうか」
と、ふたりはまた、大都督
「只今、かくかくの報らせがあった」と、告げた。
このときの陸遜の顔はちょうど
馬を並べて、高地へ馳けた。
報告だけでは、まだうかつに行動できないとするもののように、彼はその目で、曠野を一
陸遜は、感嘆の声を放った。兵を退くのは進む以上の技術を要するという。今見れば蜀の大軍は掃いたようにもうあらかた引き揚げていた。そして、呉の陣線の前には、
周泰が地だんだ踏んでいうと、陸遜はそれすら抑えて、
と、鞭をあげて、あらぬ方角を指しながら、あえて、
周泰は、憤然として、
相手にするもばかばかしいといわんばかり横を向いて地に
しかし陸遜は、なお鞭をあげたまま彼方を指して、
と説明した。そしてかたく一同の出撃を禁じ、本陣へ帰ってしまった。
「何たる
「書生論の兵学だ。いやはや……」
人々は陸遜の
その足もとをつけ込んでか、蜀の老兵は、呉の陣前で、わざと
「出てこい。来られまい」
と、
と周泰、韓当などの諸将は、三日目にまた陸遜のところへ詰めかけてきた――が、陸遜は依然としてゆるさず、
と、ほろ苦い顔して圧えた。
周泰は喰ってかかるように、
と、たたみかけた。陸遜は一言の下に、
と、いった。
人々は大いに笑った。なるほど、それを唯一の願いとしているのでは無理もない。呆れ果てた大都督よと、その人の目の前で手を叩くという有様であった。
するとここへまた、物見隊の一将が来て、
「今朝がた、霜ふかきうちに、敵の老兵ども一万も、いつのまにか
「ああ、それこそ劉備だ。討ち洩らしたり」
と諸将はまた口惜しがったが、陸遜は、次のような解釈を下してなだめた。
諸人は、またかという顔して、鼻先で聞いていた。ことに韓当はいまいましげに、
と、嘲言を
それらの者を目にも入れず、陸遜は即座に一書簡をしたためた。呉王孫権へ
と、書いていた。
蜀軍のほうでは、その主力を水軍に移し始めていた。陸路には
それかあらぬかここ数日間、蜀の軍船は続々と長江を下り、江岸いたるところの敵を追ってはすぐそのあとに基地とする
蜀と呉の開戦は、魏をよろこばせていた。いまや魏の諜報機関は最高な活躍を示している。
大魏皇帝
側臣は怪しんで訊ねた。
「そのおことばは如何なる御意によるものですか」
「わからんか、お前たちには。すでに蜀軍は陸に四十余ヵ所の陣屋をむすび、今また数百里を水路に進む。この
だが、群臣はなお信じきれず、かえって蜀の勢いを怖れ、
「国境の備えこそ肝要ではありませんか」
と云ったが、曹丕は否と断言して――
と、掌を指すごとく情勢を説き、やがて曹仁に一軍をさずけて
蜀の馬良は、漢中に着いた。ときに孔明は漢中に来ていた。
自分で写してきた例の絵図をも取り出して、つぶさに戦況を伝えた。
しまったといわぬばかりに、孔明ははたと膝を打って嘆じた。
一書をしたためて、孔明は成都へ帰り、馬良はふたたび呉の戦場へ馬をとばした。
呉の陸遜はすでに行動を開始していた。――機到れりと、諸軍をわけて、まず江南第四の蜀軍を捕捉にかかったのである。
そこは蜀の一将
と、特に指名して五千騎をさずけ、徐盛、丁奉を
特に選ばれた奇襲の任を名誉として、その夜、蜀の第四陣へ
満身にうけた矢を抜きもあえず、彼は
陸遜はあえて
劉備が眉をひそめると、
するとそこへ江岸を見張っている番の一将が来て知らせた。
「昨夜から江の上に、無数の舟が漂って、この風浪にも立ち去りませんが」
劉備はうなずいて、
次にまた一報があった。
「呉軍の一部が、東へ東へと、移動してゆくそうであります」
「しきりに誘いを試みておるものと思われる。まだうごく時機ではない」
やがて日没の頃、江北の陣地から煙があがった。失火だろうと眺めていると、少し下流の陣からもまた火があがった。
宵になっても火は消えない。いや北岸ばかりでなく、南岸にも火災が起った。劉備はすぐ張苞を走らせて、万一の救けにさし向けた。
夜空はいよいよ真っ赤に
「や、や。ご本陣の近くにも」
誰やらがふいに絶叫した。
乾ききッている木の葉がちりちり焼け出している。それは帝劉備の陣坐するすぐ附近の林からであった。
「すわ」
と、彼の
「敵だっ。呉兵だっ」
劉備の眼の前で、もう激しい戦闘が描きだされた。彼は、諸人に囲まれて、馬の背へ押し上げられていた。けれど、そこから味方の
と、劉備は茫然としかけた。敵の計の渦中に墜ちているときは、自身の位置が的確に分らないものだった。劉備の心理はそれに似ていた。
孔明の元から慌てて駆けつけた馬良であった。すでに破れたりと判断した馬良は孔明の言葉どおり、劉備を白帝城へ逃げるよう叫んだ。その声はわななき、それに答える声は、煙にむせぶ。
夢中で、劉備は馬をとばした。焔の中を。煙の中を。それを見て、馮習は、
と馮習の首をあげた徐盛は、勢いを加えて、道を急いだ。
劉備の前にはまた、呉の丁奉が一軍を伏せて待っていた。
当然、挟撃されて、進退きわまってしまった。
もしここへ、味方の
山の
時すでに遅く、彼が天を仰いで痛嘆したとき、その陸遜の軍は、馬鞍山のふもとを厚く取り巻いていた。そしてこの一山も火と化してしまうつもりか、諸方の山道から火をかけた。百千の大火龍は、宙をのぞんで、
金鼓のあらし、声のつなみ、劉備を囲む一団は、立往生のほかなかった。しかし血気な関興、張苞などが側にある。
火炎のうすい一道から江岸へ出る麓へ向って遮二無二かけ降って行った。
ところが、焔の見えないこの道には陸遜軍の伏兵が待っていた。突破して、危地は抜けたものの、伏兵は数を加えてどこまでも追撃してくる。
「火攻めの敵は火で防げ」
誰やらが、とっさの機智で、道芝へ火をつけた。だが急場の支えに足りない火勢なので、蜀軍はみな矢を折り、
そのため、火は樹々の枝へのぼって、いちどに猛烈な火力をあらわし、追撃してくる呉兵をようやく喰いとめた。
しかしそうして江岸へ出るや、また新手の敵に出会った。呉の大将朱然がひかえていたのである。
引き返して、谷へ避けると、
常山の
どうして、趙雲がこれへ来たかといえば、彼の任地江州は漢中よりもどこよりも最も戦場に近かったので、孔明が馬良と別れて、成都へ帰る際に、
と、一書を飛ばした。
趙雲の来援は、地獄に仏であった。が、それにしても何と変ったことだろう。かつて劉備が初めてこの白帝城に入ったときは、七十五万の大軍が駐屯していたものなのに、今はわずか数百騎の供しか
もっとも趙雲や関興、張苞などの輩は、帝が城に入るのを見とどけると敗軍の味方を
全軍ひとたび総崩れに
そのため、わずか昨日から今日にかけて討死をとげた蜀の大将は、幾人か知れなかった。
と、丁奉からすすめられたのに対して、傅彤は、最後の姿を陣頭にあらわして、
と、大軍の中へ駈け入って、華々しく玉砕を遂げた。
また蜀の
すると、呉軍の一将が、
「
と、いった。
程畿は髪を風に立てて、
と怒号して答え、四角八面に馬を躍らせて、これまた、自ら首を刎ねて見事な最期を遂げてしまった。
蜀の先鋒張南は、久しく
と、告げて来たので、
囲みを解き、劉備のあとをたずねて、中軍に
と、城中の孫桓が追撃に出て、各所の呉軍とむすびあい、張南、趙融の行く先々をふさいだので、二人も、やがて乱軍の中に、
こういう蜀軍の幹部が相次いで討たれたのみか、遠く南蛮から援軍に参加していた例の蛮将
と、呉の総帥
すでに、
ほどなく、物見の兵が次々に帰ってきたが、云い合わしたように、同じような報告ばかりもたらした。
「おりません。敵らしい者は、一兵も見えません」
とあった。
陸遜は首をかしげた。
伏兵を置くとしたら、ここしかなく、もし、ここにいなければ、呉の兵は、白帝城まで、たやすくたどり着くことができる。ここに、伏兵をおき、呉軍の勢いを少しでも、そいでおこうとするはずだが、一兵もいないということに不審がった。
陸遜は、もう一度、今度は、物見の数を増やし探らせた。
朝方ようやく、物見が帰ってきた。報告を聞くと、
「いくら仔細に探っても、
物見の話を聞き、陸遜はしばらく考え込み、
陸遜はそれ以上は進まず、劉備を追うのはやめて呉へ引き返した。
蜀を破ったこと
「せっかく白帝城へ近づきながら急に退いてしまったのは、一体いかなるわけですか、ほんものの孔明が現れたわけでもありますまいに」
と、半ばからかい気味に訊ねた。
陸遜は、真面目に云った。
人々は、一時のがれの
「
と、陸遜は手を打って、自分の明察の
一方。――彼のために再起し
と、深宮の
その頃、蜀の水軍の将
蜀の側臣は、劉備に告げて、
「黄権の妻子一族を斬ってしまうべきでしょう」
と、すすめたが、劉備は、
といって、かえって彼の家族を保護するようにいいつけた。
その黄権は魏に降って、曹丕にまみえたとき、
と、問うと、
と、暗に仕えるのを拒んだ。
そこへ一名の魏臣が入って、わざと大声で、
「いま蜀中から帰った
聞くと、黄権は苦笑して、
と、かえってそれらの者の無事を信ずるふうであった。
曹丕は、もう何もいわずに、彼を
賈詡は、黙考久しゅうして、
曹丕は耳もかさなかった。そして三路の大軍を補強して、さらに、彼自身、督戦に向った。
一面蜀を打ち、一面魏を迎え、この
魏は、この攻め口に、曹仁をさしむけ、曹仁は配下の大将
濡須の守りに当った呉の大将は、年まだ二十七歳の
朱桓は若いが
「この小勢では、とても眼にあまる魏の大軍を防ぎきれまい。今のうちにここを退いて、後陣と合するか、後陣をここへ入れて、建業からさらに新手の
次の日、彼はわざと、虚を見せて、敵勢を近く誘った。
魏の
兵はみな不用意に城壁へつかまり、
轟音一発。数百の旗が、矢倉、望楼、石垣、楼門の上などに、
前隊の危急を聞いて、中軍の曹仁は、即座に、大軍をひきいて進んできたが、何ぞはからん振り返ると、
実に、この日の敗戦が、魏軍にとって、
ところへまた、洞口、南郡の二方面からも、敗報が伝わった。悪くすると、曹丕皇帝の帰り途すら危なくなって来たので、曹丕もついに断念し、無念をのみながら、敗旗を巻いて、ひとまず魏へ引き揚げた。
(ログインが必要です)