第155話、夷陵の戦い

文字数 15,632文字

 陸遜が新たに総司令官として戦場へ臨むという沙汰が聞えると、呉の前線諸陣地にある諸将は、甚だしく不満をあらわして、口々に、

「あんな黄口(こうこう)小児(しょうに)が、大都督護軍将軍に任ぜられるとはいったい何事だ」

「呉王のお(むね)()し難い。これは何か周囲の者の策謀によるものだろう」

 などと、早くも呉の全面的崩壊(ほうかい)を口にいう者すらあった。

 そこへ陸遜は着任した。

 荊州諸路の軍馬を集め、丁奉(ていほう)徐盛(じょせい)などの諸将を新たに加えて、堂々と新鋭の旗幟(きし)を、総司令部に植えならべた。

 けれど従前から各部署にいる大将連は、昂然(こうぜん)として、みな敢えて服さない色を示していた。賀を()べてくる者すらない。

 陸遜はすこしも気にかけるふうもなく、日を(はか)って、

(軍議をひらくにより参集あるべし)と通告を発し、その日、やむなく集まってきた諸将を下に、彼は一段高い将台に立って、こう云い渡した。

「自分が建業を発するとき、呉王は親しくこの身に宝剣印綬(いんじゅ)を授けたまい、(しきい)の内は王これを(つかさど)らん、閾の外の事は将軍これを制せよ。もし配下に(みだ)す者あらば、まず斬って後に報ずべしとまで仰せられた。――自分は王の、このご信任に感泣して、一身を顧みるいとまもなく赴任してきたわけである」

 と、まず抱懐の一端をのべて味方のうちにある根拠なき妄説(もうせつ)の一つを粉砕し、また、


「軍中つねに法あり。王法に親なしともいう。各部隊は層一層、軍律を厳に守られたい。もし()かずんば、敵を破るまえに、内部の賊を斬らん」

 と、語尾つよく宣言した。

 諸人は黙然としてただ仏頂面(ぶっちょうづら)をそむけていた。するとその不満組の一人たる周泰がすこしすすんで将台の上へ呼びかけた。

「さきに前線へ来て悪戦苦闘を続けておられたわが呉王の甥君(おいぎみ)たる孫桓(そんかん)は、先頃から夷陵(いりょう)の城に取り籠められ、内に兵糧なく、外は蜀兵に遮断されておる。いま大都督の幸いにこれに臨まれた上は、一日もはやく妙計をめぐらして、まず孫桓を救い出し、もって呉王のお旨を安め奉り、あわせてわれらの士気を昂揚されたい。――借問(しゃもん)す、大都督には、かかる大計をお持ちなりや」

 陸遜はほとんど問題にしなかった。


「孫桓はよく部下を用いる人だから必ず力を協せてよく守るだろう。急に救わなくても落城する気づかいはない。むしろ自分が破ろうとするのは蜀軍の中核にある。敵の中核が崩れれば、夷陵の如きはひとりでに囲みが解けてしまうのである」


 聞くと諸将はみな、どっとあざ笑って、

「果たせるかな、この人、無策」と侮蔑(ぶべつ)のささやきを交わしながら退散した。

 韓当(かんとう)、周泰のふたりなどは、

「かかる大都督を上にいただいていては滅ぶしかない」と、面色を変えたほどだった。

 すると次の日、大都督の名をもって、各部署へ、

(攻め口をかたく守り、敢えて進まんとするなかれ。一人出でて戦うもこれを禁ず)

 という軍令が下った。

「ばかな。もう黙ってはいられない」

 諸将は、憤懣、不平の(まなじり)をそろえて、大都督部へ難詰(なんきつ)に押しかけた。


「われわれは戦に来ているものだ。すでに命を捨ててここに来ている。しかるに、これ以上、手を(こまね)いて、自滅を待つような命を発せられるとは、如何なるお考えであるか。よも、わが呉王としても、そんな消極的なお旨で貴公を任じられたわけではあるまい」


 韓当、周泰などを先にして、口を極めて反対すると、陸遜は手に剣をとって、


「自分は呉王に代って諸君に令を下すものである。これ以上、異論をさしはさむにおいては、何者たるを問わず、斬って軍律を明らかにするぞ」


 と声を励まして叱咤した。

 諸将はみな帰ってしまった。しかし誰ひとり陸遜に服しはしない。むしろ来た時よりも、憤懣(ふんまん)を内にふくんで、

「青書生めが、急に権力をもつと、ああしてやたらに威張ってみたくなるのだろう」

 などと帰路でめいめい口ぎたなく嘲笑を交わしていた。



 こういう間に、士気いよいよ高い蜀の大軍は、猇亭(こてい)から川口にいたる広大な地域に、四十余ヵ所の陣屋と壕塁(ごうるい)を築き、昼は旌旗(せいき)(くも)(まが)い、夜は篝火(かがりび)に天を焦がしていた。

「呉軍の総司令は、こんど陸遜(りくそん)とかいう者に代ったそうだが、聞いたことのない人物である。たれか彼を知っておらぬか」


 敵の組織に改革が行われたと伝えられてきた日、蜀帝はすぐ左右に問うた。

 答えたのは、馬良である。


「敵は思い切った人物を登用したものです。陸遜は、まだ若年ですが、呉の呂蒙(りょもう)が高く評価していたと聞いています。深才遠計、ちょっと底が知れない男です」


「それほどな才略を、なぜ今日まで呉は用いずにきたのであろう」

「おそらく彼の親しい友人でも、彼にそんな器量があろうとは、誰も知らなかったのではないでしょうか。さすがに呂蒙は目が高かったとみえ、はやくから彼を用い、呉軍が荊州を襲ったのも、関羽を一敗地に介したのも、呂蒙の奇略といわれていますが、実はすべて、陸遜の智嚢(ちのう)から出たものでした」


「では、陸遜こそ、わが義弟を討った仇ではないか」


「そう云ってもよろしいでしょう」


「なぜはやく告げなかった。さる仇敵ならば一日とて、朕が旗の前に誇らしてはおかなかったものを。すぐ兵を進めよ」


「まず、ご熟慮を仰ぎます。陸遜の才は、あなどれません」


「汝は、朕の兵略が、黄口の豎子(じゅし)にすら及ばんというか」

 馬良はこれ以上いさめる語を知らなかった。帝劉備は、諸将に令して、陣を押し進めた。

 とかく一致を欠いていた呉の陣営も、蜀の猛陣をまぢかに見ては、もう私議私憤をとり交わしてはいられない。俄然、団結して総司令部の帷幕(いばく)にかたまり、いかに迎え撃つべきかの指令を、陸遜の眉に求めた。

「現状固守、みだりに動くなかれ。それだけだ」


 陸遜はそれだけいうと、


「や。あの山上は、韓当(かんとう)の持ち場ではないか。鋭気があり過ぎる」

 心もとなく思ったか、自身馬をとばして、そこへ馳せて行った。そして、


「韓当。軽々しく山を下るな」


 と、今しも、兵馬を揃えて、敵前へ駈け下ろうとする彼を押し止めた。

 韓当はいきり立って、


「大都督、あれを見ないか、野にひるがえる黄羅(こうら)傘蓋(さんがい)こそ、まさしく蜀帝の陣坐するところだ。目前、それを見ながら、内に(かが)んでいるほどなら、もう(いくさ)などはせぬがいい」


「敵の奇変を見ず、ただ形を見れば、そう思うのはむりもない。蜀の劉備ともある者が目に見えるだけの布陣を以て、身を呉の陣前にさらすわけはない。――浅慮(あさはか)に彼の(わな)へ士卒を投じるの愚をなすな。幸いなるかな、ときは今、大夏のこの炎天。われ出でず戦わず、ひたすら陣を守って日を移しておるならば、彼は、曠野の烈日に、日々気力をついやし、水に(かっ)し、ついには陣を引いて山林の陰へ移るであろう。そのときに至れば、かならず陸遜は号令一下、諸将の奮迅をうながすであろう。将軍、これも呉国のためだ。乞う、涼風(すずかぜ)懐中(ふところ)に入れて、敵の盲動と挑戦を、ただ笑って見物して居給え」

 全線どこの部署も、うごかないので、韓当もやむなく、拳を握って、陸遜の命のままに、じっとしていた。

 蜀軍はさんざん悪口嘲弄(ちょうろう)を放って、呉の怒りをしきりに誘ったが、呉軍は動かなかった。

 そこで、蜀軍はわざと虚陣の油断を見せたり、弱兵を前に立てたり、日々工夫して、釣りだしを策してみたが、呉は土龍(もぐら)のように、依然として陣地から一歩も出てこなかった。

 一木の日陰もない曠野だった。夜はともかく昼の炎暑は草も枯れ土も燃えるようだった。それに水は遠くに求めなければならないし、病人は続出するし、士気はだれて、どうにも収拾がつかなくなった。


「いかん。一応、ほかへ陣を移そう。どこか涼しい山陰か水のある谷間(たにあい)へ」


 劉備も、ついにこの布令(ふれ)をなさずにはいられなくなった。

 すると馬良が注意して、


「いちどにこれだけの軍を退いては大変です。かならず陸遜の追撃を喰いましょう」

「案じるなかれ、弱々しい老兵を殿軍(しんがり)にのこし、いつわり負けて逃ぐるをば、敵がもし図に乗って追ってきたら、(ちん)みずから精鋭を伏せて、これを討つ。敵に計ありと覚れば、うかと長追いはして来ないだろう」


 諸将は、それこそ帝の神機妙算なりとたたえた。けれど、こう説明を聞いてもまだ馬良は不安そうに、


「この頃、諸葛孔明(しょかつこうめい)はお留守のいとまに、折々、漢中まで出てきて、諸所の要害を、いよいよ大事と固めている由です。漢中といえば遠くもありませんから、大急ぎでこの辺りの地形布陣を図に写して使いにもたせ、軍師の意見をご下問になられてみた上、然るべしとあれば、その後で陣をお移し遊ばしても遅くはないかと思われますが」


 と、なお止めたい顔をしていた。劉備は微笑して、


「朕も兵法を知らない者ではない。遠征の途に臨んで、何でいちいち孔明に問合わせを出しておられよう。しかし折よく孔明が漢中まで来ておる時であるから、汝が行って、朕の近況を伝え、また戦の模様を語っておくのもよかろう。そして何か意見あらば聞いてまいれ」


 と、馬良にその使いをいいつけた。

 馬良は承って、敵味方の布陣から地形など、克明に写して行った。こう紙の上に描き取ってみると、それは四至八道という対陣になっていた。



 次の日である。

 呉の物見は、ひとつの山の上から(まり)の転がるように駈け下りて、

「蜀の大軍が、次々と、遠い山林の方へ、陣を移しだしました」

 と、韓当、周泰の前に急報した。

「やっ。そうか」

 と、ふたりはまた、大都督陸遜(りくそん)の陣まで馬を飛ばして、

「只今、かくかくの報らせがあった」と、告げた。

 このときの陸遜の顔はちょうど旱天(かんてん)に雨雲を見たように、何ともいえぬ歓びを明るい眉にあらわしていた。

「オオ。そうか!」


「大都督。すぐ全軍へ。追撃の令を発して下さい」


「いや、待った。――来給え我輩と一緒に」


 馬を並べて、高地へ馳けた。

 報告だけでは、まだうかつに行動できないとするもののように、彼はその目で、曠野を一(ぼう)に見た。


「……なるほど鮮やか」


 陸遜は、感嘆の声を放った。兵を退くのは進む以上の技術を要するという。今見れば蜀の大軍は掃いたようにもうあらかた引き揚げていた。そして、呉の陣線の前には、殿軍(しんがり)の一隊が、一万たらず、残っていた。


「しまった。兵機は一瞬に過ぎるというに、大都督の悠長さが、またしても、絶好なときを逸してしまったではないか。この上は、韓当とそれがしとで、あの一万だけでも、殲滅(せんめつ)してくれねば気がすまん」


 周泰が地だんだ踏んでいうと、陸遜はそれすら抑えて、


「いや、もう三日待ち給え」


 と、鞭をあげて、あらぬ方角を指しながら、あえて、(はや)り立つふたりの言は、耳にもいれなかった。

 周泰は、憤然として、


「一刻を過ったために、この勝機を逸したのに、三日も待っていたら、一体どうなるのだ」


 相手にするもばかばかしいといわんばかり横を向いて地に(つば)した。

 しかし陸遜は、なお鞭をあげたまま彼方を指して、


「弱体の老兵ばかり一万も残して、敵が遠く退いたのは、われを誘わんとする、見えすいた(はかりごと)にちがいない」

 と説明した。そしてかたく一同の出撃を禁じ、本陣へ帰ってしまった。

「何たる懦弱(だじゃく)さ」

「書生論の兵学だ。いやはや……」

 人々は陸遜の怯懦(きょうだ)(わら)って、もう成るようにしかならない戦と――(さじ)投げ気味に部署についていた。

 その足もとをつけ込んでか、蜀の老兵は、呉の陣前で、わざと(よろい)を解いて昼寝したり、大あくびをしてみせたり、またさんざんに悪口を放ったりして、

「出てこい。来られまい」

 と、揶揄(やゆ)しつづけた。

「もう我慢ができない」

 と周泰、韓当などの諸将は、三日目にまた陸遜のところへ詰めかけてきた――が、陸遜は依然としてゆるさず、


匹夫(ひっぷ)の勇に(はや)るなどは、責任のある者の任ではあるまい」

 と、ほろ苦い顔して圧えた。

 周泰は喰ってかかるように、

「もし蜀勢がことごとく、遠く退陣してしまったら何となさる?」

 と、たたみかけた。陸遜は一言の下に、


「それこそ我輩(わがはい)のねがう所で、大慶この上もない」

 と、いった。

 人々は大いに笑った。なるほど、それを唯一の願いとしているのでは無理もない。呆れ果てた大都督よと、その人の目の前で手を叩くという有様であった。

 するとここへまた、物見隊の一将が来て、

「今朝がた、霜ふかきうちに、敵の老兵ども一万も、いつのまにか殿軍(しんがり)の地を退いて消え失せ、間もなくまた、谷間の底地から、約七、八千の蜀勢があらわれ、黄羅(こうら)傘蓋(さんがい)を囲んで、悠々、遠くへ退いてゆくのが見えました」と、報告した。

「ああ、それこそ劉備だ。討ち洩らしたり」

 と諸将はまた口惜しがったが、陸遜は、次のような解釈を下してなだめた。

「劉備は一世の英雄。いかに切歯(せっし)したところで、彼が正陣を布いているうちは、打ち破ることはできない。ただ長陣となっては、この炎暑と病人の続出と、士気の()することは、如何ともすることができず、ために、水辺へ陣を移したのだが、それにも入念に計を設け、わざと弱々しい老兵軍をのこして我を誘い、自身は精鋭をそろえて、谷間にかくれていたものだろう。しかし、三日を待つといえども、わが呉軍がうごかないので、ついにしびれを切らして立ち去ってしまった。――順風徐々と我に利あり、見給え諸君、もう十日も出ないうちに、こんどこそ蜀軍は四分五裂の滅亡を遂げるから」

 諸人は、またかという顔して、鼻先で聞いていた。ことに韓当はいまいましげに、


「なるほど。わが大都督は、立派な理論家でいらっしゃる」

 と、嘲言を(ろう)した。

 それらの者を目にも入れず、陸遜は即座に一書簡をしたためた。呉王孫権へ(のぼ)すものであった。その書中にも彼は、

(蜀軍の全滅は近きにあります。大王以下、建業城中の諸公も、もはや枕を高うして可なりと信じます)

 と、書いていた。

 蜀軍のほうでは、その主力を水軍に移し始めていた。陸路には猇亭(こてい)の要害があり、陸遜の重厚な陣線がある。いずれも(ねば)りづよく頑張るのでいたずらに日を費やすのみと、劉備はやや急を求め始めたのだった。そして呉国の本土へ深く攻め入り、有無なく、呉王孫権との決戦を心に期していたものと思われる。

 それかあらぬかここ数日間、蜀の軍船は続々と長江を下り、江岸いたるところの敵を追ってはすぐそのあとに基地とする水寨(すいさい)を築いていた。



 蜀と呉の開戦は、魏をよろこばせていた。いまや魏の諜報機関は最高な活躍を示している。

 大魏皇帝曹丕(そうひ)は、或るとき、天を仰いで笑った。


「蜀は水軍に力を入れて、毎日百里以上も呉へ前進しているというが、いよいよ劉備の死際(しにぎわ)が近づいてきた」


 側臣は怪しんで訊ねた。

「そのおことばは如何なる御意によるものですか」


「わからんか、お前たちには。すでに蜀軍は陸に四十余ヵ所の陣屋をむすび、今また数百里を水路に進む。この蜿蜒(えんえん)八百里にわたる陣線に、その大軍を配すときは、蜀七十五万の兵力も、極めて薄いものとなってしまう。加うるに、陸遜の陣を()いて、水路から突き出したのは、劉備が運の極まるものというべきだ。古語にもいう――叢原(ソウゲン)ヲ包ンデ(タムロ)スルハ兵家ノ(イミ)――と。彼はまさにその忌を犯したものだ。見よ、近いうちに蜀は大敗を招くから」


 だが、群臣はなお信じきれず、かえって蜀の勢いを怖れ、

「国境の備えこそ肝要ではありませんか」

 と云ったが、曹丕は否と断言して――


「呉が蜀に勝てば、その勢いで、呉が蜀へ雪崩(なだ)れこむだろう。この時こそ、わが兵馬が、呉を取るときだ」

 と、掌を指すごとく情勢を説き、やがて曹仁に一軍をさずけて濡須(じゅしゅ)へ向わせ、曹休に一軍を付けて洞口方面へ急がせ、曹真に一軍を与えて南郡へやった。かくて三路から呉をうかがって、ひたすら待機させていたのは、さすがに彼も曹操の血をうけた者であった。



 蜀の馬良は、漢中に着いた。ときに孔明は漢中に来ていた。


「ご意見もあらば伺ってこいとの帝の仰せでありました。わが軍は、八百余里のあいだ、(こう)に添い、山に拠り、いまや四十数ヵ所の陣地をむすび、その先陣は舟行続々呉へ攻め下っている勢いにあります」


 自分で写してきた例の絵図をも取り出して、つぶさに戦況を伝えた。

 しまったといわぬばかりに、孔明ははたと膝を打って嘆じた。


「ああいけない! 誰がそんな作戦をおすすめしたのか」


「他人の容喙(ようかい)ではありません。帝御自ら遊ばした布陣です」


「ううむ……漢朝の命数すでに尽きたか」


「なぜさように落胆なされますか」


「水流にまかせて攻め下るは(やす)く、水を(さかのぼ)って退くは難い。これ一つ。また叢原をつつんで陣屋をむすぶは兵家の(いみ)、これ二つ。陣線長きに失して力の重厚を欠く、これ三つ。……そうだ、馬良、貴殿はすぐ大急ぎで戦場へ帰れ。そして孔明の言を奏して、禍いを避け給えと、極力お(いさ)め申しあげてくれ」

「もしその間に、陸遜の軍にお敗れ遊ばしたときは?」


「否々。陸遜は深くは追ってこない。何となれば、彼は魏が機会を狙っていることを、知らないでいるはずはない。――もし事急に迫った場合は、帝を白帝城に入れ奉るがよい。先年、自分が蜀に入るとき、後日のため、そこの魚腹浦(ぎょふくほ)に、兵を伏せておいた。もし陸遜がうかうか追ってくれば、彼は生捕られるばかりだろう」

「魚腹浦なら何度も往来していますが、ついぞ一兵も見たことはありません。嘘でしょう、今のおことばは」


「いや、今に分る」


 一書をしたためて、孔明は成都へ帰り、馬良はふたたび呉の戦場へ馬をとばした。


 呉の陸遜はすでに行動を開始していた。――機到れりと、諸軍をわけて、まず江南第四の蜀軍を捕捉にかかったのである。

 そこは蜀の一将傅彤(ふとう)が守っていた。これへの夜襲に、呉の凌統(りょうとう)、周泰、韓当などが、われこそと挙って先鋒を志願したが、陸遜は何か思う旨があるらしく、


淳于丹(じゅんうたん)に命じる」


 と、特に指名して五千騎をさずけ、徐盛、丁奉を後詰(ごづめ)にさし向けた。



 特に選ばれた奇襲の任を名誉として、その夜、蜀の第四陣へ()せた淳于丹は、思いもかけぬ南蛮勢や敵将傅彤の武勇に撃退されて、ひどい損害をうけたのみか、一命まで危ういところを、辛くも後詰の丁奉と徐盛の二軍に救われて帰ってきた。


「面目もありません。軍律に照して、敗戦の罪をお(ただ)し下さい」

 満身にうけた矢を抜きもあえず、彼は陸遜(りくそん)の前に出て詫び入った。


「少しもご辺の罪ではない」


 陸遜はあえて(とが)めない。むしろ自分の罪だといって、


「まこと昨夜の奇襲は、蜀の虚実を知るため、淳于丹をもって、当らせてみたのだ。おけげで、蜀を破る法を悟った」


 徐盛がすかさず質問した。

「破る法とは?」


「これ天が我輩に成功を与えるものだ」


 螺手(らしゅ)を呼んで、彼は貝をふかせた。陣々大小の将士はそれによってたちまち彼の前に集合した。それから陸遜は軍令(だん)に立って諸大将に大号令を下した。


「われ戦わぬこと百数十日、天(あめ)を注がぬこと月余。いまや機は熟し、天の利、地の利、人の利ことごとく我にあり矣。――まず朱然(しゅぜん)は、(かや)(しば)の類を船手に積み、江上に出て風を待て、おそらくは明日の(うま)の刻を過ぎる頃から東南の風が波浪を捲くだろう。風起らば江北の敵陣へ寄せ、硫黄(いおう)焔硝(えんしょう)を投げて、彼の陣々を風に従って焼き払え。――また韓当は一軍を(ひき)いて、同時に江北の岸へ上陸する。周泰は江南の岸へ攻めかかれ。そのほかの手勢は臨機に我輩のさしずを待て。かくて明夜をいでず、劉備のいのちは呉の()のうちのものとなろう。いざ()け」
 大都督の就任以来、このように積極的な命令が発せられたのは初めてであるから、朱然、韓当、周泰などもみな勇躍して準備についた。
 翌日午の刻の頃おいから、江上一帯に風波が立ちはじめた。その折、蜀の中軍に高々と(ひるがえ)っていた旗が折れた。
「そも何の(しるし)か」

 劉備が眉をひそめると、程畿(ていき)が奉答した。


「これ、夜襲(ようち)の兆と古くからいわれています」


 するとそこへ江岸を見張っている番の一将が来て知らせた。

「昨夜から江の上に、無数の舟が漂って、この風浪にも立ち去りませんが」

 劉備はうなずいて、

「それはもう聞いておる。擬兵の計であろう。令なきうちは、みだりに動くなと、舟手へも厳戒しておけよ」


 次にまた一報があった。

「呉軍の一部が、東へ東へと、移動してゆくそうであります」

「しきりに誘いを試みておるものと思われる。まだうごく時機ではない」

 やがて日没の頃、江北の陣地から煙があがった。失火だろうと眺めていると、少し下流の陣からもまた火があがった。

「この強風に心もとない。関興(かんこう)、見廻って来い」

 宵になっても火は消えない。いや北岸ばかりでなく、南岸にも火災が起った。劉備はすぐ張苞を走らせて、万一の救けにさし向けた。


「いぶかしい火である」


 夜空はいよいよ真っ赤に()げただれるばかりだった。波の音か、人間の叫喚(きょうかん)か、すさまじい烈風が飛沫(しぶき)を捲き、砂をとばした。

「や、や。ご本陣の近くにも」

 誰やらがふいに絶叫した。

 乾ききッている木の葉がちりちり焼け出している。それは帝劉備の陣坐するすぐ附近の林からであった。

「すわ」

 と、彼の帷幕(いばく)が狼狽を起したときは、敵か味方か、見分けもつかぬ人影が、右往左往、煙の中を馳け乱れていた。

「敵だっ。呉兵だっ」

 劉備の眼の前で、もう激しい戦闘が描きだされた。彼は、諸人に囲まれて、馬の背へ押し上げられていた。けれど、そこから味方の馮習(ふうしゅう)の陣まで走るあいだに、戦袍(せんぽう)の袖にも、馬の鞍にも、火が燃えついていた。いや走る大地の草も空の梢も火となっている。


 ――ところが、辿(たど)りついた馮習の陣も、真っ黒な混乱の最中だった。ここでは火ばかりでなく、呉の大将徐盛が襲って、猛烈な炎を味方として、攻め立てていたのである。
「こは、何事?」

 と、劉備は茫然としかけた。敵の計の渦中に墜ちているときは、自身の位置が的確に分らないものだった。劉備の心理はそれに似ていた。


「だめです。ここも危険です。この上は、白帝城へ、一刻も早く白帝城へ」


 孔明の元から慌てて駆けつけた馬良であった。すでに破れたりと判断した馬良は孔明の言葉どおり、劉備を白帝城へ逃げるよう叫んだ。その声はわななき、それに答える声は、煙にむせぶ。

 夢中で、劉備は馬をとばした。焔の中を。煙の中を。それを見て、馮習は、

「お供せん」
 と、十数騎つれて、追い慕ってきたらしかったが、途中、徐盛に出合って、部下もろとも討たれてしまった。

「それ、劉備を生捕れ」


 と馮習の首をあげた徐盛は、勢いを加えて、道を急いだ。

 劉備の前にはまた、呉の丁奉が一軍を伏せて待っていた。

 当然、挟撃されて、進退きわまってしまった。

 もしここへ、味方の傅彤(ふとう)張苞(ちょうほう)などが馳けつけて来なかったら、彼の運命は呉の大将どもに託されていただろう。しかし折よく彼を慕ってきた味方の救いが間に合ったので、だんだんと厚い囲みに守られ、馬鞍山(ばあんざん)をさして逃げ落ちた。

 山の(いただき)まで逃げ上って、劉備は初めて人心地をよびもどした。そこの高きから一方の闇を見渡せば、驚くべし、蜿蜒七十里にも連なる火焔の車輪陣が、地をやき空を焦がしている。ここに立って初めて、劉備は陸遜の遠大な火計の全貌を知ったのであった。


「恐るべきは陸遜だ」


 時すでに遅く、彼が天を仰いで痛嘆したとき、その陸遜の軍は、馬鞍山のふもとを厚く取り巻いていた。そしてこの一山も火と化してしまうつもりか、諸方の山道から火をかけた。百千の大火龍は、宙をのぞんで、()じのぼって来る。

 金鼓のあらし、声のつなみ、劉備を囲む一団は、立往生のほかなかった。しかし血気な関興、張苞などが側にある。

 火炎のうすい一道から江岸へ出る麓へ向って遮二無二かけ降って行った。

 ところが、焔の見えないこの道には陸遜軍の伏兵が待っていた。突破して、危地は抜けたものの、伏兵は数を加えてどこまでも追撃してくる。

「火攻めの敵は火で防げ」

 誰やらが、とっさの機智で、道芝へ火をつけた。だが急場の支えに足りない火勢なので、蜀軍はみな矢を折り、(よろい)を投げこみ、旗竿まで焼いて、火勢の助けとした。

 そのため、火は樹々の枝へのぼって、いちどに猛烈な火力をあらわし、追撃してくる呉兵をようやく喰いとめた。

 しかしそうして江岸へ出るや、また新手の敵に出会った。呉の大将朱然がひかえていたのである。

 引き返して、谷へ避けると、(とき)の声とともに、谷の底から陸遜の旗が湧いてきた。いまは、ここに死なんと、劉備が絶望のさけびを放ったとき、ふたたび思いがけない援軍が彼の前にあらわれた。

 常山の趙雲(ちょううんしりゅう)であった。

 どうして、趙雲がこれへ来たかといえば、彼の任地江州は漢中よりもどこよりも最も戦場に近かったので、孔明が馬良と別れて、成都へ帰る際に、


(即刻行って、帝を助けよ)

 と、一書を飛ばした。

 趙雲の来援は、地獄に仏であった。が、それにしても何と変ったことだろう。かつて劉備が初めてこの白帝城に入ったときは、七十五万の大軍が駐屯していたものなのに、今はわずか数百騎の供しか扈従(こじゅう)していなかったという。

 もっとも趙雲や関興、張苞などの輩は、帝が城に入るのを見とどけると敗軍の味方を糾合(きゅうごう)すべく、すぐ城外からもとの路へ引き返していた。


 全軍ひとたび総崩れに()ちてからは、七百余里をつらねていた蜀の陣々も、さながら(みなぎ)る洪水に分離されて浮島のすがたとなった村々と同じようなもので、その機能も連絡も失ってしまい、各個各隊思い思いに、闘うほかなかった。

 そのため、わずか昨日から今日にかけて討死をとげた蜀の大将は、幾人か知れなかった。

 傅彤(ふとう)は、呉の丁奉軍に包囲されて、


「勝ち目のない戦いに益なき死力を振うよりは、呉に降参して、長く武門の栄誉を(にな)わんか」


 と、丁奉からすすめられたのに対して、傅彤は、最後の姿を陣頭にあらわして、


「いやしくも我は漢の大将。何ぞ呉の犬に降らんや」


 と、大軍の中へ駈け入って、華々しく玉砕を遂げた。

 また蜀の祭酒(さいしゅ)程畿(ていき)は、身辺わずか十数騎に討ち減らされ、この上は、舟手の味方に合して戦おうと江岸の(ほとり)まで走ってきたところが、そこもすでに呉の水軍に占領されていたので、たちまち、進退きわまってしまった。

 すると、呉軍の一将が、

程畿(ていき)程畿(ていき)。水陸ともにもう蜀の一旗も立っているところはない。馬を降りて降伏せよ」

 と、いった。

 程畿は髪を風に立てて、


「われ主君に従って今日まで、戦いに出て逃ぐるを知らず、敵に会っては敵を打ち砕く以外を知らぬわ」

 と怒号して答え、四角八面に馬を躍らせて、これまた、自ら首を刎ねて見事な最期を遂げてしまった。

 蜀の先鋒張南は、久しく夷陵(いりょう)の城を囲んで、呉の孫桓を攻めたてていたが、味方の趙融(ちょうゆう)が馬を飛ばしてきて、

「中軍が敗れたので、全線崩れ立ち、帝のお行方もわからない」

 と、告げて来たので、

 囲みを解き、劉備のあとをたずねて、中軍に(まと)まろうとしたが、

「時こそ来れ」

 と、城中の孫桓が追撃に出て、各所の呉軍とむすびあい、張南、趙融の行く先々をふさいだので、二人も、やがて乱軍の中に、()えなく戦死してしまった。

 こういう蜀軍の幹部が相次いで討たれたのみか、遠く南蛮から援軍に参加していた例の蛮将沙摩柯(しゃまか)にいたるまで、呉の周泰軍に捕捉されて、遂にその首をあげられ、さらに、蜀将の杜路(とろ)劉寧(りゅうねい)の輩は、手勢を引いて、呉の本営へ降人となって、余命を託すというあわれな始末だった。

「わが事成る、わが事成れり。いまは蜀帝劉備を生捕りにする一事あるのみだ」

 と、呉の総帥陸遜(りくそん)は、今こそ本来の面目を示し、この大捷を機に、自ら大軍を率いて、敵に息つく間も与えず、劉備の逃げた方向へ、ひた押しに追いつめて行った。

 すでに、魚腹浦(ぎょふくほ)のてまえまで迫ってきた。ここに古城の一関があったので、陸遜は、野営して兵馬を休め、物見の兵を放った。


 ほどなく、物見の兵が次々に帰ってきたが、云い合わしたように、同じような報告ばかりもたらした。

「おりません。敵らしい者は、一兵も見えません」

 とあった。


「はて」

 陸遜は首をかしげた。

 伏兵を置くとしたら、ここしかなく、もし、ここにいなければ、呉の兵は、白帝城まで、たやすくたどり着くことができる。ここに、伏兵をおき、呉軍の勢いを少しでも、そいでおこうとするはずだが、一兵もいないということに不審がった。

 陸遜は、もう一度、今度は、物見の数を増やし探らせた。


 朝方ようやく、物見が帰ってきた。報告を聞くと、

「いくら仔細に探っても、彼処(かしこ)に敵兵はおりませんでした。ですが、山の奥に入ると、いくつか村落がありました。よく見るに、女子供の姿が見えず、百姓にしては眼光鋭く、物々しいものを感じたので、夜陰にまじって村の中を調べてみると、あちこちに武具のたぐいを隠し持っていました。そういった村がいくつかあったようです」

 物見の話を聞き、陸遜はしばらく考え込み、

「おそらく、ずいぶん前から、兵を百姓に見せかけ、村をいくつも作って住まわせていたのだろう。他にも兵を隠しているに違いない。孔明の仕業としたら、これ以上、深追いするのは得策ではないな」


 陸遜はそれ以上は進まず、劉備を追うのはやめて呉へ引き返した。



 蜀を破ったこと疾風迅雷(しっぷうじんらい)だったが、退くこともまた電馳奔来(でんちほんらい)の迅さであった。で、勝ち(おご)っている呉の大将たちは、陸遜(りくそん)に向って、

「せっかく白帝城へ近づきながら急に退いてしまったのは、一体いかなるわけですか、ほんものの孔明が現れたわけでもありますまいに」

 と、半ばからかい気味に訊ねた。

 陸遜は、真面目に云った。


「然り、我輩が孔明を怖れたことは確かだ。けれど引き揚げた理由はべつにある。それは今日明日のうちに事実となって諸公にも分ってくるだろう」


 人々は、一時のがれの遁辞(とんじ)だろうとおよそに聞いていたが、一日おいて二日目。この本営には、(くし)の歯をひくような急変の報らせが、呉国の諸道から集まってきた。すなわちいう、

()の大軍が、三路にわかれ、一道は曹休軍が洞口に進出し、曹真は南郡の境に迫り、曹仁ははや濡須(じゅしゅ)へ向って、雲霞(うんか)の如く南下しつつあります」――と。


「果たして!」

 と、陸遜は手を打って、自分の明察の(あやま)たなかったことを自ら祝し、また呉国のために、大幸なりしよと、すぐさま対戦の姿勢をとった。

 一方。――彼のために再起し(あた)わぬ大敗をうけた帝劉備は、白帝城にかくれた後、まったく往年の意気もどこへやら、

「成都に帰って群臣にあわせる顔もない」


 と、深宮の破簾(はれん)、ただこの人の傷心をつつんでいた。


「今さらいっては愚痴になるが、丞相のことばに従っておれば、今日のような憂き目には立つまいに」
 と、いたく嘆いて、遠く彼を慕った。

 その頃、蜀の水軍の将黄権(こうけん)が、魏に入って、曹丕(そうひ)に降ったという噂が聞えた。

 蜀の側臣は、劉備に告げて、

「黄権の妻子一族を斬ってしまうべきでしょう」

 と、すすめたが、劉備は、


「いやいや黄権(こうけん)が魏に降ったのは、呉軍のためまったく退路を遮断されて、行くにも戻るにも道がなくなったからであろう。黄権われを捨つるに非ず、朕が黄権を捨てた罪だ」


 といって、かえって彼の家族を保護するようにいいつけた。

 その黄権は魏に降って、曹丕にまみえたとき、鎮南(ちんなん)将軍にしてやるといわれたが、涙をながすのみで少しも歓ばなかった。で、曹丕が、


「いやか」


 と、問うと、


「敗軍の将、ただ一死を免れるを得ば、これ以上のご恩はありません」

 と、暗に仕えるのを拒んだ。

 そこへ一名の魏臣が入って、わざと大声で、

「いま蜀中から帰った細作(さいさく)の報らせによると、黄権の妻子一族は、劉備の怒りにふれ、ことごとく斬刑に処されたそうであります」と、披露した。

 聞くと、黄権は苦笑して、

「それはきっと何かのお間違いか、虚説です。わが皇帝はそんなお方では決してありません」

 と、かえってそれらの者の無事を信ずるふうであった。

 曹丕は、もう何もいわずに、彼を退(しりぞ)けた。そしてその後ですぐ三国の地図を拡げ、ひそかに賈詡(かく)を招き入れた。

「賈詡、(ちん)が天下を統一するには、まず蜀を先に取るべきか、呉を先に攻めるべきだろうか」


 賈詡は、黙考久しゅうして、


「蜀も難し、呉も難し……。要は両国の虚を計るしかありません。しかし陛下の天威、かならずお望みを達する日はありましょう」


「いま、わが魏軍は、その虚を計って、三道から呉へ向っておる。この結果はどうか」


「おそらく何の利もありますまい」


「さきには、呉を攻めよといい、今は不可という。汝の言には終始一貫したものがないではないか」


「そうです。さきに呉が蜀軍に圧されて敗退をつづけていた時ならば、魏が呉を侵すには絶好なつけ目であったに相違ございません。しかるにいまは形勢まったく逆転して、陸遜は全面的に蜀を破り、呉は鋭気日頃に百倍して、まさに不敗の強味を誇っております。故に、今では呉へ当り難く、当るは不利だと申しあげたわけであります」

「御林の兵はすでに呉の境へ出ておる。朕の心もすでに定まっておる」


 曹丕は耳もかさなかった。そして三路の大軍を補強して、さらに、彼自身、督戦に向った。

 一面蜀を打ち、一面魏を迎え、この(かん)、神速円転、用兵の妙を極めた陸遜の指揮のために、呉は何らのうろたえもなく、堂々、三道の魏軍に接して、よく防ぎよく戦った。

 就中(なかんずく)。――呉にとってもっとも枢要な防禦線は、主都建業に近い濡須(じゅしゅ)の一城であった。

 魏は、この攻め口に、曹仁をさしむけ、曹仁は配下の大将王双(おうそう)諸葛虔(しょかつけん)に五万余騎をさずけて、濡須を囲ませた。


「ここを陥とせば、敵府建業の中核へ、まさに匕首(ひしゅ)を刺すものである。全軍それ励めよ。大功を立つるは今ぞ」

 濡須の守りに当った呉の大将は、年まだ二十七歳の朱桓(しゅかん)であった。

 朱桓は若いが胆量(たんりょう)のある人だった。さきに城兵五千を()いて、羨渓(せんけい)の固めに出してしまったので、城中の兵は残り少なく、諸人がみな、

「この小勢では、とても眼にあまる魏の大軍を防ぎきれまい。今のうちにここを退いて、後陣と合するか、後陣をここへ入れて、建業からさらに新手の(うし)(まき)を仰がねば、互角の戦いをすることはできまい」

 恟々(きょうきょう)と、ふるえ上がっているのを見て、朱桓(しゅかん)は、主なる部下を会して告げた。


「魏の大軍はまさに山川(さんせん)を埋めている観がある。しかし彼は遠く来た兵馬であり、この炎暑にも疲労して、やがてかえって、自らの数に苦しむときが来るだろう。陣中の悪疫(あくえき)と食糧難の二つが彼を待っておる。それに反して、寡兵(かへい)なりといえ、われは山上の涼地に籠り、鉄壁の険に加うるに、南は大江をひかえ、北は峩々(がが)たる山険を負う。――これ(いつ)をもって労を待つ(かたち)。兵法にもこういっておる。――客兵倍ニシテ主兵半バナルモノハ、主兵ナオヨク客兵ニ勝ツ――と。平川曠野(へいせんこうや)の戦いは兵の数よりその掛合いにあること古来幾多の戦いを見てもわかる。ただ士気乏しきは凶軍である。貴様たちはこの朱桓の指揮を信じて、百戦百勝を信念せよ。われ明日城を出て、その(しるし)を明らかにその方たちの眼にも見せてやるであろう」

 次の日、彼はわざと、虚を見せて、敵勢を近く誘った。

 魏の常雕(じょうちょう)は、短兵急に、城門へ攻めかけて来た。――が、門内は(せき)として、一兵もいないようであった。

「敵に戦意はない。或いはすでに搦手(からめて)から逃散したかもしれぬぞ」

 兵はみな不用意に城壁へつかまり、常雕(じょうちょう)(ごう)のきわまで馬を出して下知していた。

 轟音一発。数百の旗が、矢倉、望楼、石垣、楼門の上などに、万朶(ばんだ)の花が一ぺんに開いたように(ひるがえ)った。

 (いしゆみ)征矢(そや)が、魏兵の上へいちどに降りそそいできた。城門は八文字にひらかれ、朱桓は単騎乱れる敵の中へ入って、魏将の常雕を、ただ一太刀に斬って落とした。

 前隊の危急を聞いて、中軍の曹仁は、即座に、大軍をひきいて進んできたが、何ぞはからん振り返ると、羨渓(せんけい)の谷間から雲のごとく湧き出した呉軍が、退路を切って、うしろからとうとうと金鼓を打ち鳴らしてくる。

 実に、この日の敗戦が、魏軍にとって、()(ぐせ)のつき始まりとなった。以後、連戦連敗、どうしても朱桓の軍に勝てなかった。

 ところへまた、洞口、南郡の二方面からも、敗報が伝わった。悪くすると、曹丕皇帝の帰り途すら危なくなって来たので、曹丕もついに断念し、無念をのみながら、敗旗を巻いて、ひとまず魏へ引き揚げた。


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登場人物紹介

劉備玄徳

劉備玄徳

ひげ

劉備玄徳

劉備玄徳

諸葛孔明《しょかつこうめい》

張飛

張飛

髭あり

張飛

関羽

関羽


関平《かんぺい》

関羽の養子

趙雲

趙雲

張雲

黄忠《こうちゅう》

魏延《ぎえん》

馬超

厳顔《げんがん》

劉璋配下から劉備配下

龐統《ほうとう》

糜竺《びじく》

陶謙配下

後劉備の配下

糜芳《びほう》

糜竺《びじく》の弟

孫乾《そんけん》

陶謙配下

後劉備の配下

陳珪《ちんけい》

陳登の父親

陳登《ちんとう》

陶謙の配下から劉備の配下へ、

曹豹《そうひょう》

劉備の配下だったが、酒に酔った張飛に殴られ裏切る

周倉《しゅうそう》

もと黄巾の張宝《ちょうほう》の配下

関羽に仕える

劉辟《りゅうへき》

簡雍《かんよう》

劉備の配下

馬良《ばりょう》

劉備の配下

伊籍《いせき》

法正

劉璋配下

のち劉備配下

劉封

劉備の養子

孟達

劉璋配下

のち劉備配下

商人

宿屋の主人

馬元義

甘洪

李朱氾

黄巾族

老僧

芙蓉

芙蓉

糜夫人《びふじん》

甘夫人


劉備の母

劉備の母

役人


劉焉

幽州太守

張世平

商人

義軍

部下

黄巾族

程遠志

鄒靖

青州太守タイシュ龔景キョウケイ

盧植

朱雋

曹操

曹操

やけど

曹操

曹操


若い頃の曹操

曹丕《そうひ》

曹丕《そうひ》

曹嵩

曹操の父

曹洪


曹洪


曹徳

曹操の弟

曹仁

曹純

曹洪の弟

司馬懿《しばい》仲達《ちゅうたつ》

曹操配下


楽進

楽進

夏侯惇

夏侯惇《かこうじゅん》

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

韓浩《かんこう》

曹操配下

夏侯淵

夏侯淵《かこうえん》

典韋《てんい》

曹操の配下

悪来と言うあだ名で呼ばれる

劉曄《りゅうよう》

曹操配下

李典

曹操の配下

荀彧《じゅんいく》

曹操の配下

荀攸《じゅんゆう》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

徐晃《じょこう》

楊奉の配下、後曹操に仕える

史渙《しかん》

徐晃《じょこう》の部下

満寵《まんちょう》

曹操の配下

郭嘉《かくか》

曹操の配下

曹安民《そうあんみん》

曹操の甥

曹昂《そうこう》

曹操の長男

于禁《うきん》

曹操の配下

王垢《おうこう》

曹操の配下、糧米総官

程昱《ていいく》

曹操の配下

呂虔《りょけん》

曹操の配下

王必《おうひつ》

曹操の配下

車冑《しゃちゅう》

曹操の配下、一時的に徐州の太守

孔融《こうゆう》

曹操配下

劉岱《りゅうたい》

曹操配下

王忠《おうちゅう》

曹操配下

張遼

呂布の配下から曹操の配下へ

張遼

蒋幹《しょうかん》

曹操配下、周瑜と学友

張郃《ちょうこう》

袁紹の配下

賈詡

賈詡《かく》

董卓

李儒

董卓の懐刀

李粛

呂布を裏切らせる

華雄

胡軫

周毖

李傕

李別《りべつ》

李傕の甥

楊奉

李傕の配下、反乱を企むが失敗し逃走

韓暹《かんせん》

宋果《そうか》

李傕の配下、反乱を企むが失敗

郭汜《かくし》

郭汜夫人

樊稠《はんちゅう》

張済

張繍《ちょうしゅう》

張済《ちょうさい》の甥

胡車児《こしゃじ》

張繍《ちょうしゅう》配下

楊彪

董卓の長安遷都に反対

楊彪《ようひょう》の妻

黄琬

董卓の長安遷都に反対

荀爽

董卓の長安遷都に反対

伍瓊

董卓の長安遷都に反対

趙岑

長安までの殿軍を指揮

徐栄

張温

張宝

孫堅

呉郡富春(浙江省・富陽市)の出で、孫子の子孫

孫静

孫堅の弟

孫策

孫堅の長男

孫権《そんけん》

孫権

孫権

孫堅の次男

朱治《しゅち》

孫堅の配下

呂範《りょはん》

袁術の配下、孫策に力を貸し配下になる

周瑜《しゅうゆ》

孫策の配下

周瑜《しゅうゆ》

周瑜

張紘

孫策の配下

二張の一人

張昭

孫策の配下

二張の一人

蒋欽《しょうきん》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

孫権を守って傷を負った

陳武《ちんぶ》

孫策の部下

太史慈《たいしじ》

劉繇《りゅうよう》配下、後、孫策配下


元代

孫策の配下

祖茂

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

韓当

孫堅の配下

黄蓋

孫堅の部下

黄蓋《こうがい》

桓楷《かんかい》

孫堅の部下


魯粛《ろしゅく》

孫権配下

諸葛瑾《しょかつきん》

諸葛孔明《しょかつこうめい》の兄

孫権の配下


呂蒙《りょもう》

孫権配下

虞翻《ぐほん》

王朗の配下、後、孫策の配下

甘寧《かんねい》

劉表の元にいたが、重く用いられず、孫権の元へ

甘寧《かんねい》

凌統《りょうとう》

凌統《りょうとう》

孫権配下


陸遜《りくそん》

孫権配下

張均

督郵

霊帝

劉恢

何進

何后

潘隠

何進に通じている禁門の武官

袁紹

袁紹

劉《りゅう》夫人

袁譚《えんたん》

袁紹の嫡男

袁尚《えんしょう》

袁紹の三男

高幹

袁紹の甥

顔良

顔良

文醜

兪渉

逢紀

冀州を狙い策をねる。

麹義

田豊

審配

袁紹の配下

沮授《そじゅ》

袁紹配下

郭図《かくと》

袁紹配下


高覧《こうらん》

袁紹の配下

淳于瓊《じゅんうけい》

袁紹の配下

酒が好き

袁術

袁胤《えんいん》

袁術の甥

紀霊《きれい》

袁術の配下

荀正

袁術の配下

楊大将《ようたいしょう》

袁術の配下

韓胤《かんいん》

袁術の配下

閻象《えんしょう》

袁術配下

韓馥

冀州の牧

耿武

袁紹を国に迎え入れることを反対した人物。

鄭泰

張譲

陳留王

董卓により献帝となる。

献帝

献帝

伏皇后《ふくこうごう》

伏完《ふくかん》

伏皇后の父

楊琦《ようき》

侍中郎《じちゅうろう》

皇甫酈《こうほれき》

董昭《とうしょう》

董貴妃

献帝の妻、董昭の娘

王子服《おうじふく》

董承《とうじょう》の親友

馬騰《ばとう》

西涼の太守

崔毅

閔貢

鮑信

鮑忠

丁原

呂布


呂布

呂布

呂布

厳氏

呂布の正妻

陳宮

高順

呂布の配下

郝萌《かくほう》

呂布配下

曹性

呂布の配下

夏侯惇の目を射った人

宋憲

呂布の配下

侯成《こうせい》

呂布の配下


魏続《ぎぞく》

呂布の配下

王允

貂蝉《ちょうせん》

孫瑞《そんずい》

王允の仲間、董卓の暗殺を謀る

皇甫嵩《こうほすう》

丁管

越騎校尉の伍俘

橋玄

許子将

呂伯奢

衛弘

公孫瓉

北平の太守

公孫越

王匡

方悦

劉表

蔡夫人

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

蒯良

劉表配下

蒯越《かいえつ》

劉表配下、蒯良の弟

黄祖

劉表配下

黄祖

陳生

劉表配下

張虎

劉表配下


蔡瑁《さいぼう》

劉表配下

呂公《りょこう》

劉表の配下

韓嵩《かんすう》

劉表の配下

牛輔

金を持って逃げようとして胡赤児《こせきじ》に殺される

胡赤児《こせきじ》

牛輔を殺し金を奪い、呂布に降伏するも呂布に殺される。

韓遂《かんすい》

并州《へいしゅう》の刺史《しし》

西涼の太守|馬騰《ばとう》と共に長安をせめる。

陶謙《とうけん》

徐州《じょしゅう》の太守

張闓《ちょうがい》

元黄巾族の陶謙の配下

何曼《かまん》

截天夜叉《せってんやしゃ》

黄巾の残党

何儀《かぎ》

黄巾の残党

田氏

濮陽《ぼくよう》の富豪

劉繇《りゅうよう》

楊州の刺史

張英

劉繇《りゅうよう》の配下


王朗《おうろう》

厳白虎《げんぱくこ》

東呉《とうご》の徳王《とくおう》と称す

厳与《げんよ》

厳白虎の弟

華陀《かだ》

医者

鄒氏《すうし》

未亡人

徐璆《じょきゅう》

袁術の甥、袁胤《えんいん》をとらえ、玉璽を曹操に送った

鄭玄《ていげん》

禰衡《ねいこう》

吉平

医者

慶童《けいどう》

董承の元で働く奴隷

陳震《ちんしん》

袁紹配下

龔都《きょうと》

郭常《かくじょう》

郭常《かくじょう》の、のら息子

裴元紹《はいげんしょう》

黄巾の残党

関定《かんてい》

許攸《きょゆう》

袁紹の配下であったが、曹操の配下へ

辛評《しんひょう》

辛毘《しんび》の兄

辛毘《しんび》

辛評《しんひょう》の弟

袁譚《えんたん》の配下、後、曹操の配下

呂曠《りょこう》

呂翔《りょしょう》の兄

呂翔《りょしょう》

呂曠《りょこう》の弟


李孚《りふ》

袁尚配下

王修

田疇《でんちゅう》

元袁紹の部下

公孫康《こうそんこう》

文聘《ぶんぺい》

劉表配下

王威

劉表配下

司馬徽《しばき》

道号を水鏡《すいきょう》先生

徐庶《じょしょ》

単福と名乗る

劉泌《りゅうひつ》

徐庶の母

崔州平《さいしゅうへい》

孔明の友人

諸葛均《しょかつきん》

石広元《せきこうげん》

孟公威《もうこうい》

媯覧《ぎらん》

戴員《たいいん》

孫翊《そんよく》

徐氏《じょし》

辺洪

陳就《ちんじゅ》

郄慮《げきりょ》

劉琮《りゅうそう》

劉表次男

李珪《りけい》

王粲《おうさん》

宋忠

淳于導《じゅんうどう》

曹仁《そうじん》の旗下《きか》

晏明

曹操配下

鍾縉《しょうしん》、鍾紳《しょうしん》

兄弟

夏侯覇《かこうは》

歩隲《ほしつ》

孫権配下

薛綜《せっそう》

孫権配下

厳畯《げんしゅん》

孫権配下


陸績《りくせき》

孫権の配下

程秉《ていへい》

孫権の配下

顧雍《こよう》

孫権配下

丁奉《ていほう》

孫権配下

徐盛《じょせい》

孫権配下

闞沢《かんたく》

孫権配下

蔡薫《さいくん》

蔡和《さいか》

蔡瑁の甥

蔡仲《さいちゅう》

蔡瑁の甥

毛玠《もうかい》

曹操配下

焦触《しょうしょく》

曹操配下

張南《ちょうなん》

曹操配下

馬延《ばえん》

曹操配下

張顗《ちょうぎ》

曹操配下

牛金《ぎゅうきん》

曹操配下


陳矯《ちんきょう》

曹操配下

劉度《りゅうど》

零陵の太守

劉延《りゅうえん》

劉度《りゅうど》の嫡子《ちゃくし》

邢道栄《けいどうえい》

劉度《りゅうど》配下

趙範《ちょうはん》

鮑龍《ほうりゅう》

陳応《ちんおう》

金旋《きんせん》

武陵城太守

鞏志《きょうし》

韓玄《かんげん》

長沙の太守

宋謙《そうけん》

孫権の配下

戈定《かてい》

戈定《かてい》の弟

張遼の馬飼《うまかい》

喬国老《きょうこくろう》

二喬の父

呉夫人

馬騰

献帝

韓遂《かんすい》

黄奎

曹操の配下


李春香《りしゅんこう》

黄奎《こうけい》の姪

陳群《ちんぐん》

曹操の配下

龐徳《ほうとく》

馬岱《ばたい》

鍾繇《しょうよう》

曹操配下

鍾進《しょうしん》

鍾繇《しょうよう》の弟

曹操配下

丁斐《ていひ》

夢梅《むばい》

許褚

楊秋

侯選

李湛

楊阜《ようふ》

張魯《ちょうろ》

張衛《ちょうえい》

閻圃《えんほ》

劉璋《りゅうしょう》

張松《ちょうしょう》

劉璋配下

黄権《こうけん》

劉璋配下

のち劉備配下

王累《おうるい》

王累《おうるい》

李恢《りかい》

劉璋配下

のち劉備配下

鄧賢《とうけん》

劉璋配下

張任《ちょうじん》

劉璋配下

周善

孫権配下


呉妹君《ごまいくん》

董昭《とうしょう》

曹操配下

楊懐《ようかい》

劉璋配下

高沛《こうはい》

劉璋配下

劉巴《りゅうは》

劉璋配下

劉璝《りゅうかい》

劉璋配下

張粛《ちょうしゅく》

張松の兄


冷苞

劉璋配下

呉懿《ごい》

劉璋の舅

彭義《ほうぎ》

鄭度《ていど》

劉璋配下

韋康《いこう》

姜叙《きょうじょ》

夏侯淵《かこうえん》

趙昂《ちょうこう》

楊柏《ようはく》

張魯配下

楊松

楊柏《ようはく》の兄

張魯配下

費観《ひかん》

劉璋配下

穆順《ぼくじゅん》

楊昂《ようこう》

楊任

崔琰《さいえん》

曹操配下


雷同

郭淮《かくわい》

曹操配下

霍峻《かくしゅん》

劉備配下

夏侯尚《かこうしょう》

曹操配下

夏侯徳

曹操配下

夏侯尚《かこうしょう》の兄

陳式《ちんしき》

劉備配下

杜襲《としゅう》

曹操配下

慕容烈《ぼようれつ》

曹操配下

焦炳《しょうへい》

曹操配下

張翼

劉備配下

王平

曹操配下であったが、劉備配下へ。

曹彰《そうしょう》

楊修《ようしゅう》

曹操配下

夏侯惇

費詩《ひし》

劉備配下

王甫《おうほ》

劉備配下

呂常《りょじょう》

曹操配下

董衡《とうこう》

曹操配下

李氏《りし》

龐徳の妻

成何《せいか》

曹操配下

蒋済《しょうさい》

曹操配下

傅士仁《ふしじん》

劉備配下

徐商

曹操配下


廖化

劉備配下

趙累《ちょうるい》

劉備配下

朱然《しゅぜん》

孫権配下


潘璋

孫権配下

左咸《さかん》

孫権配下

馬忠

孫権配下

許靖《きょせい》

劉備配下

華歆《かきん》

曹操配下

呉押獄《ごおうごく》

典獄

司馬孚《しばふ》

司馬懿《しばい》の弟

賈逵《かき》


曹植


卞氏《べんし》

申耽《しんたん》

孟達の部下

范疆《はんきょう》

張飛の配下

張達

張飛の配下


関興《かんこう》

関羽の息子

張苞《ちょうほう》

張飛の息子

趙咨《ちょうし》

孫権配下

邢貞《けいてい》

孫桓《そんかん》

孫権の甥

呉班

張飛の配下

崔禹《さいう》

孫権配下

張南

劉備配下

淳于丹《じゅんうたん》

孫権配下

馮習

劉備配下


丁奉

孫権配下

傅彤《ふとう》

劉備配下

程畿《ていき》

劉備配下

趙融《ちょうゆう》

劉備配下

朱桓《しゅかん》

孫権配下


常雕《じょうちょう》

曹丕配下

吉川英治


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