第14話、妖術
文字数 7,909文字
潁川の地へ行きついてみると、そこにはすでに官軍の一部隊しか残っていなかった。大将軍の
と、張飛はしきりと、今のうちに功を立てねば、いつの時か風雲に乗ぜんと、
劉備玄徳は、独りいった。
黄河を渡った。
兵たちは、馬に水を飼った。
劉備は、黄いろい大河に眼をやると、
つぶやいた。
四、五年前に見た黄河もこの通りだった。おそらく百年、千年の後も、黄河の水は、この通りにあるだろう。
天地の悠久を思うと、人間の一瞬がはかなく感じられた。小功は思わないが、しきりと、生きている間の生甲斐と、意義ある仕事を残さんとする誓願が念じられてくる。
茶を思えば、同時に、母が憶われてくる。
この秋、いかに
いやいや母は、そんなことすら忘れて、ひたすら、子が大業をなす日を待っておられるであろう。それと共に、いかに聡明な母でも、実際の戦場の事情やら、また実地に当る軍人同士のあいだにも、常の社会と変らない難しい感情やら争いやらあって、なかなか武力と正義の信条一点張りで、世に出られないことなどは、お察しもつくまい。ご想像にも及ぶまい。
だから以来、なんのよい便りもなく、月日をむなしく送っている子をお考えになると、
と、さだめしふがいない者と、
劉備は、思いつめて、騎の鞍をおろし、その鞍に結びつけてある旅具の中から、
駒に水を飼って、休んでいた兵たちも、劉備が
「おれも」
「吾も」
と、何か書きはじめた。
誰にも、故郷がある。姉妹兄弟がある。劉備は思いやって、
兵たちは、それぞれ紙片や木皮へ、何か書いて持ってきた。劉備はそれを一
と、路費を与えて、すぐ立たせた。
そして落日に染まった黄河を、騎と兵と荷駄とは、黒いかたまりになって、浅瀬は
先頃から河南の地方に、何十万とむらがっている賊の大軍と戦っていた大将軍
「いかがはせん」と、内心
そこへ、
と、幕僚から知らせがあった。
朱雋はそれを聞くと、
と、前とは、打って変って、鄭重に待遇した。陣中ながら、洛陽の美酒を開き、料理番に牛など裂かせて、
と、歓待した。
単純な張飛は、前の不快もわすれて、すっかり感激してしまい、
などと酔った機嫌でいった。
劉備と関羽は腑に落ちない顔をした。
翌日。
と、朱雋は、劉備らの軍に、そこから約三十里ほど先の山地に陣取っている頑強な敵陣の突破を命じた。
否む理由はないので、
やがて、山麓の野に近づくと天候が悪くなった。雨こそ降らないが、密雲低く垂れて、烈風は草を飛ばし、沼地の水は霧になって、兵馬の行くてを
「やあ、これはまた、賊軍の大将の張宝が、妖気を起して、われらを皆ごろしにすると見えたるぞ。気をつけろ。樹の根や草につかまって、烈風に吹きとばされぬ用心をしたがいいぞ」
朱雋からつけてよこした部隊から、誰いうとなく、こんな声が起って、恐怖はたちまち全軍を
関羽は怒って、
と大声で鼓舞したが、
「妖術にはかなわぬ。あたら生命をわざわざおとすようなものだ」
と、朱雋の兵は、なんといっても前進しないのである。
聞けば、この高地へ向った官軍は、これまでにも何度攻めても、全滅になっているというのであった。黄巾賊の
そう聞くと張飛は、
「妖術とは、
と、軍のうしろにまわって、手に
朱雋の兵は、敵の妖術にも恐怖したが、張飛の蛇矛にはなお恐れて、やむなくわっと、黒風へ向って前進しだした。
その日は、天候もよくなかったに違いないが、戦場の地勢もことに悪かった。寄手にとっては、甚だしく不利な地の利にいやでも置かれるように、そこの高地は自然にできている。
「鉄門峡まで行かぬうちに、いつも味方はみなごろしになる。どうか無謀はやめて、引っ返し給え」
と、朱雋の軍隊の者は、部将からして、
だが、張飛は、
と、声をからした。
先鋒は、ゆるい
すると、たちまち、一陣の風雷、天地を震動して木も砂礫も人も、中天へ吹きあげられるかとおぼえた時、一方の山峡の頂に、陣鼓を鳴らし、
――わあっ。わあっ。
と、烈風も圧するような
遠目にもわかる異相の巨漢があった。髪をさばき、
「やあ、魔軍が来た」
「賊将張宝が、
朱雋の兵は、わめき合うと、逃げ惑って、途も失い、ただ右往左往うろたえるのみだった。
張飛の督戦も、もう
事実。
そうしている間に、無数の矢や岩石や火器は、うなりをあげ、煙をふいて、寄手の上に降ってきたのである。またたくうちに、全軍の半分以上は、動かないものになっていた。
敗軍を収めて、約二十里の外へ退き、その夜、劉備は関羽、張飛のふたりと共に、
と、張飛がいう。
関羽は、腕を
劉備は、沈痛にいった。
関羽、張飛の二人も、唇をむすんで、陣の曠野へ眼をそらした。
折から仲秋の月は、満目の曠野に露をきらめかせ、二十里外の彼方に黒々と見える臥牛のような山岳のあたりは、味方を悩ませた悪天候も嘘ごとのように、大気と月光の
さらに、三名は、密議をねって、翌る日の作戦に備えた。
一方、張飛、関羽の両将に、幕下の
そしてなお、士気を鼓舞するために、すべての兵が
敵を前にしながら、わざとそんな所で、おごそかな祈祷の儀式などしたのは、劉備直属の義軍の中にも、張宝の幻術を内心怖れている兵がたくさんいるらしく見えたからであった。
式が終ると、
兵は答えるに、万雷のような
関羽と張飛は、それと共に、
「それ、魔軍の
と軍を二手にわけて、峰づたいに張宝の本拠へ攻めよせた。
地公将軍の
すると、思わざる山中に、突然
と、訊ねた。
実際、そう考えたのは、彼だけではなかった。裏切り者裏切り者という声が、何処ともなく伝わった。
張宝は、
と、そこの守りを、賊の一将にいいつけて、自身、わずかの部下を連れて、背後の山谷の奥にある渓谷を、馬に鞭打って移動した。
するとかたわらの沢の密林から、一すじの矢が飛んできて、張宝のこめかみにぐざと立った。張宝はほとばしる黒血へ手をやって、わッと口を開きながら矢を抜いた。しかし
劉備の大音声がきこえると、四方の山沢、みな鼓を鳴らし、奔激の渓流、
山谷の奥からも、同時に黒煙
上流から流れてくる渓水は、みるまに紅の奔流と化した。山吠え、谷叫び、火は山火事となって、三日三晩燃えとおした。
首
朱雋は、劉備を見ると、
何とかして欲しいという気持ちがあって送り出したが、まさか、こんなあっさり、やってのけるとは思っていなかった。
劉備は、なんの感情にも動かされないで、軽く笑った。
朱雋は、さらにいう。
それにも、劉備はただ、笑ってみせたのみであった。
然るところ、ここに、先陣から伝令が来て、一つの異変を告げた。
とのことだった。
朱雋は、聞くと、
総攻撃の令を下した。
大軍は陽城を囲み、攻めること急であった。しかし、賊城は要害堅固をきわめ、城内には多年積んだ食物が豊富なので、一月余も費やしたが、城壁の一角も奪れなかった。
朱雋は本営で時折ため息をもらしたが、劉備は聞えぬ顔をしていた。
よせばいいに、そんな時、張飛が朱雋へいった。
朱雋は、むむむと、顔を赤らめた。
そこへ遠方から使いが来て、新しい情報をもたらした。それはしかし朱雋の機嫌をよくさせるものではなかった。
曲陽の方面には、朱雋と共に、討伐大将軍の任を負って下っていた
董卓と皇甫嵩のほうは、朱雋のいういわゆる武運がよかったのか、七度戦って七度勝つといった按配であった。ところへまた、黄賊の総帥張角が、陣中で病没したため、総攻撃に出て、一挙に賊軍を潰滅させ、降人を収めること十五万、辻に
(戦果かくの如し)と、報告した。
大賢良師張角と称していた
朝廷の
(征賊第一勲)
として、
自分が逆境の中に、他人の栄達を聞いて、共によろこびを感じるほど、
と、幕僚をはげました。
もちろん、劉備らも、協力を惜しまなかった。攻撃に次ぐ攻撃をもって、城壁に当り、さしも頑強な賊軍をして、眠るまもない防戦に疲れさせた。
城内の賊の中に、
と、軍門に降ってきた。
陽城はあっけなく落ち、陽城を
と、朱雋の軍六万は、
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