第52話、呂布の和平交渉
文字数 6,937文字
江南江東八十一州は、今や、時代の人、
諸将を分けて、各地の要害を守らせる一方、ひろく賢才をあつめて、善政を
「爾来、ごぶさたをいたしていましたが」
と、久しぶりに消息を送って、さて、その使者をもって、こういわせた。
「かねて、お手許へお預けしておいた
× × ×
時に。
その後の袁術の勢力はどうかというに、彼もまた
その日。
袁術は、三十余名の諸大将へ向って
「真面目にご返辞などやるには当りますまい、黙殺しておけばよろしい」
一人の大将がいう。
すると、次席の将がまた、
「孫策は、忘恩の徒だ。――ご当家で養われたばかりか、偽って、三千の兵と、五百頭の馬を拝借して去ったまま、今日まで何の沙汰もして来ない。――便りをしてきたと思えば、預けた品を返せとはなんたる無礼か」と、罵った。
袁術の顔色は良かった。
諸臣はみな彼の野望をうすうす知っていた。で、一斉に、
「よろしく江東に派兵して、忘恩の徒を
しかし、楊大将は反対して、
袁術は、即座にその説を取り上げた。
先に、劉備と戦った折、呂布へ与えると約束して与えなかった糧米、金銀、織布、名馬など、莫大なものが、ほどなく徐州へ向けて
呂布の歓心を求める為に。
そして、劉備を孤立させ、その劉備を
もとより、意欲では歓んだが、同時に疑心も起した。
数日の後。
果たせるかな情報が入った。
袁術の幕将の一人たる
もちろん、袁術から、先に代償を払っているので、徐州の呂布には懸念なく、軍を進めているらしい。
一方、小沛にある
「不測の大難が湧きました。至急、ご救援をねがいたい」
と、呂布へ向って早馬を立てた。
呂布は、ひそかに動員して、小沛へ加勢をまわしたのみか、自身も両軍の間に出陣した。
淮南軍は、意外な形勢に呂布の不信を鳴らした。大将の紀霊からは、激越な抗議を呂布の陣へ持込んできた。
呂布は、双方の板ばさみになったわけだが、決して困ったような顔はしなかった。
袁術からも、劉備からも、双方ともにおれを恨まぬように裁いてやろう。
呂布のつぶやくのを聞いて、陳宮は、彼にそんな器用な
呂布は、二通の手紙を書いた。
そして紀霊と劉備を同日に、自分の陣へ招待した。
小沛の県城からすこし出て、劉備も手勢五千たらずで対陣していたが、呂布の招待状が届いたので、「行かねばなるまい」と、起ちかけた。
関羽は、断じて引止めた。
劉備は、呂布の迎えよりも、彼の暴勇のほうをはるかに恐れて、
と左右へいった。
張飛はもう剣を払って馳けだしていたが、人々に抱き止められてようやく連れ戻されて来た。
関羽は張飛を
張飛は、
と、劉備に従って、自分もあわてて馬に乗った。
関羽が苦笑すると、
と、まるで子どもの喧嘩腰である。
呂布の陣へ来ると、なおさら張飛の顔はこわばったまま、ニコともしない。さながら
関羽も、油断せず劉備のうしろに
やがて、呂布が席についた。
と、いった。
張飛、関羽の二つの顔がむらむらと燃えている。――が、劉備は
そこへ、呂布の家臣が、
「淮南の大将紀霊どのが見えました」
呂布は、軽く命じて、けろりと澄ましているが、劉備は驚いた。
紀霊は、敵の大将だ。しかも交戦中である。あわてて席を立ち、
と、避けてそこをはずそうとすると、呂布は押止めて、
そのうちに、もう紀霊が、つい外まで案内されて来た様子。
呂布の臣となにか話しながらやってくるらしく、豪快な笑い声が近づいてくる。
「こちらです」
案内の武士が、営門の
と、顔色を変えて、そこへ足を止めてしまった。
劉備、関羽、張飛。
敵方の三人が、揃いも揃ってそこの席にいたのである。――紀霊にしても驚いたのはむりもない。
呂布は、振返って、
と、
しかし、紀霊は、疑わずにいられなかった。恐怖のあまり彼は身をひるがえして、外へ戻ってしまった。
呂布は立って行って、彼の
と、声を荒げた。
呂布は、くすくす笑って、
平和主義も顔負けしたろう。
それも、余人がいうならともかく、呂布が自分の口で、(おれは平和主義だ)と、
もとより紀霊も、こんな平和主義者を、信用するはずはない。おかしいよりも、彼は、なおさら疑惑に
紀霊は、呆っ気にとられた。
その顔つきを煙にまいて、呂布は、彼の臂を引っ張ッたまま席へつれてきた。
変なものができあがった。
座中の空気は白けてしまう。紀霊と劉備とは、ここで、客同士だが、戦場では当面の敵と敵である。
酒宴になった。
だが、酒のうまかろうはずがない。どっちも、黙々と、杯の端を
そのうちに呂布が、
と、ひとり飲みこんで杯を高くあげた。
しかし、挙がった手は、彼の手だけだった。
ここに至っては、紀霊も黙っていられない。席を蹴らんばかりな顔をして、
劉備は、黙然と聞いていたが、その後ろに立っていた関羽、張飛の双眼には、ありありと、烈火がたぎっていた。
――と思うまに、張飛は、劉備のうしろから
あわや剣を抜いて躍りかかろうとするかの血相に、関羽は驚いて、張飛を抱きとめ、
すると、張飛は、
と、髪は乱れ、髯は
そう張飛に挑戦されては、紀霊もしりごみしてはいられない。
剣を鳴らして起ちかけた。
呂布は、双方を睨みつけて、
と、後ろへもどなった。
そして馳け集まって来た家臣らに向い、
と、すさまじい語気でいいつけた。
出来合いの平和主義も、意のままにならないので、立ち所に
「どうなることか」と、見まもっている。
画桿の大戟は彼の手に渡された。それを引っ抱えながら一座を
なに思ったか、呂布は、そういうや、否、ぱっと、閣から走りだして、彼方、
そしてまた云うには、
一同は、彼の指さすところへ眼をやった。なんのために、あんな所へ戟を立てたのか、ただいぶかるばかりだった。
「――そこでだ。あの戟の枝鍔を狙って、ここからおれが一矢射て見せる。首尾よくあたったら、天の命を奉じて、和睦をむすんで帰り給え。あたらなかったら、もっと戦えよという天意かも知れない。おれは手を退いて干渉を止めよう。勝手に、合戦をやりつづけるがいい」
奇抜なる提案だ。
紀霊は、あたるはずはないと思ったから、同意した。
劉備も、
と、家臣へどなった。
閣の前へ出て、呂布は正しく片膝を折った。
弓は小さかった。
ぶツん!
弦はぴんと返った。切ってはなたれた矢は笛の如く風に鳴って、一線、鮮やかに微光を描いて行ったが、カチッと、彼方で音がしたと思うと、戟の枝鍔は、星のように飛び散り、矢は砕けて、三つに折れた。
呂布は、弓を投げて、席へもどった。そして紀霊に向い、
彼を、追いかえすと、呂布は劉備へ、得意になって云った。
売りつける恩とは知りながらも、劉備は、
と、拝謝して、ほどなく小沛へ帰って行った。
(ログインが必要です)