第41話、陳宮と呂布
文字数 10,456文字
呂布がどうして、曹操の空巣をねらってその本拠地へ攻めこんできたのであろうか。
少し過去へとさかのぼる。
すると
「ああ、近頃は天下の名馬も、無駄に肥えておりますな」
呂布の顔の側へきて、わざと皮肉に呟いた男があった。
――変なことをいう奴だ。
呂布は
それは、
先頃、陶謙に頼まれて、曹操の侵略を
呂布がいうと、
呂布の顔色に血がさした。
それからのことである。
虚を衝いて兗州へ侵入した呂布の手勢は、曹操の本拠地を占領してから、さらに、勢いにのって、
× × ×
曹操は、唇を噛んだ。
われながら不覚だったと悔いたがもう遅い。彼は、徐州攻略の陣中で、その早打ちを受けとると、
と、進退きわまったものの如く、一時は
けれど、彼の頭脳は、元来が非常に明敏であった。一時の当惑から脱すると、すぐ鋭い機智が働いて、常の顔いろに返った。
それから彼は、劉備の使いに、
と、
偶然だが、劉備の一文がよくこの奇効を奏したので、城兵の
と、劉備は、なんとしても
曹操は、大軍をひっさげて、国元へ引っ返した。
彼は、難局に立てば立つほど、壮烈な意気にいよいよ
とばかり、すでに相手をのんでいた。奪われた
軍を二つに分け、旗下の曹仁をして兗州を囲ませ、自身は
濮陽に迫ると、
と、彼は兵馬にひと息つかせ、真ッ紅な夕陽が西に沈むまで、動かなかった。
その前に、旗下の曹仁が、彼に向って注意した言葉を、彼はふと胸に思い出した。
それは、こういうことだった。
「呂布の大勇にはこの近国で誰あって当る者はありません。それに近頃彼の側には例の陳宮が付き従っているし、その下には
曹操は、その言葉を今、胸に反復してみても、格別、恐怖をおぼえなかった。呂布に勇猛あるかも知れぬが、彼には智慮がない。策士陳宮の如きは、たかの知れた素浪人、しかも自分を裏切り去った卑怯者、目にもの見せてやろうと考えるだけであった。
一方。
呂布は、曹操の襲来を知って、
という意気で、陳宮の諫めも用いず、総軍五百余騎をもって
曹操の
と見た。
で、暗夜に山路を越え、
呂布はその日正面の野戦で曹操の軍をさんざんに破っていたので、
と、注意したにもかかわらず、そう気にもかけず眠っていた。
陳宮は西の寨を早々とあきらめ、寨に敵が攻めてきたら逃げるように指示し、その周辺に兵を伏せておいた。
西の寨はたちまちに陥落して曹操の兵が旗を立てた。
と、指揮に当ると、彼の
山間の嶮をこえて深く入り込んだ奇襲の兵は、もとより大軍でないし、地の理にも
乱軍のうちに、夜は白みかけている。身辺を見るとたのむ味方もあらかた散ったり討死している。曹操は死地にあることを知って、
にわかに寨を捨てて逃げ出した。
そして南へ馳けて行くと、南方の野も一面の敵。東へ逃げのびんとすれば、東方の森林も敵兵で充満している。
彼の馬首は、行くに迷った。ふたたびゆうべ越えて来た北方の山地へ
「すわや、曹操があれに落ちて行くぞ」
と、呂布軍は追跡して来た。もちろん、呂布もその中にいるだろう。
曹操は、鞭も折れんばかり馬腹を打って来た。するとまたもや前面にむらがっていた敵影の中から、カンカンカンカンと
さすがの曹操も、思わず悲鳴をあげながら、身に集まる箭を切り払っていた。
――時に、彼方から誰やらん、おうっ――と吠えるような声がした。
見れば、左右の手に、重さ八十斤もあろうかと見える
矢攻めの中に立ち往生している曹操へ向って、彼は近よるなり大声で注意した。
誰かと思えば、これなん先ごろ召抱えたばかりの
曹操は急いで馬を跳び下り、彼のいう通り地へ這った。
悪来も馬を降りた。両手の戟を風車のように揮って矢を払った。そして敵軍に向って濶歩しながら、
と、豪語した。
「小癪なやつ。打殺せ」
五十騎ほどの敵が一かたまりになって馳けて来た。
悪来は善く戦い、彼の戟はもう
彼は、
けれど矢の雨はなお、主従を目がけて
と命じた。
そして、自身は従者に持たせていた槍を数本握りしめ、
と、後ろで彼の従者が教えた。
とたんに、悪来は、
と、手に握っていた槍の一本をひゅっと投げた。
われこそと躍り寄って来た敵の一騎に槍が突き刺さり、どうっと、鞍からもんどり打って転げ落ちた。
また、後ろで聞えた。
と、槍が宙を切って行く。
敵の騎馬武者が見事に落ちる。
「十歩っ」
槍はすぐ飛魚の光を見せて
そうして、槍を補給しながら、十騎ほどの敵を突き殺せば、怖れをなしたか、土煙の中に馬の尻を見せて逃げ散った。
悪来はふたたび曹操の馬の
曹操は、悪来へ云った。――夜に入って大雨となった。越えてゆく山嶮は
帰ってから悪来の
ここ呂布は連戦連勝だ。
失意の
謀士の陳宮が、唐突に云い出したことである。呂布も近頃は、彼の智謀を大いに重んじていたので、また何か策があるかと、
陳宮は、声をひそめて、なにかひそひそと呂布に説明していた。
それから数日後。
ひとりの百姓が、竹竿の先に
「
「これを大将に献じたい」と、伏し拝んでいう。
「密偵だろう」
と、有無をいわさず、曹操の前へ引っぱって来た。すると百姓は態度を変えて、
「人を払って下さい、いかにも私は密使です。けれど、あなたの不為になる使いではありません」
と、いった。
近臣だけを残して、士卒たちを遠ざけた。百姓は、鶏の
見ると、城中第一の旧家で富豪という聞えのある田氏の書面だった。呂布の暴虐に対する城中の民の恨みが綿々と書いてある。こんな人物に城主になられては、わたくし達は他国へ
そして、密書の要点に入って、
(――今、
曹操は、破顔してよろこんだ。
使いを
策士の
曹操も、その意見を可として、三段に軍を立てて、徐々と敵の城下まで肉薄して行った。
曹操はほくそ笑んだ。
果たせるかな、大小の敵の
曹操は左右へいって、
と、
城下の商戸はみな戸を閉ざし、市民はみな逃げ去って、町は昼ながら夜半のようだった。曹操の軍馬はそこ此処に
果たして、城兵は奇襲して来た。辻々で少数の兵が衝突して、一進一退をくり返しているうちに陽はやがて、とっぷり暮れて来た。
薄暮のどさくさまぎれにひとりの百姓が曹操のいる本陣へ走りこんできた。捕えて詰問すると、
「田氏から使いです」と密書を示していう。
曹操は聞くとすぐ取寄せてひらいてみた。紛れもない田氏の筆蹟である。
城上に
機、逸し給うなかれ、
衆民、貴軍の
全城を挙げて閣下に献ぜん
曹操は、密書の示す策によって、すぐ総攻撃の配置にかかった。
しかし李典は、城内の空気に、なにか変な静寂を感じたので、
と、忠言してみた。
曹操は気に入らない顔をして、
といって
月はまだ昇らないが満天の星は宵ながら
「やっ、なんだっ」
寄手の諸将はためらい合ったが、曹操はもう
と、振向いてどなった。
とたんに、正面の城門は、内側から八文字に開け放されていた。――さては、田氏の密書に嘘はなかったかと、諸将も勢いこんで、どっと門内へなだれ入った。
――が、とたんに、
「わあっ……」
と、闇の中で、
すると、どこからともなく、石の雨が降って来た。石垣の陰や、州の政庁の建物などの陰から、同時に無数の
疑う間に投げ松明だ。軍馬の上に、大地に、兜に、袖に、火の雨がそそがれ出したのである。曹操は仰天して、
と、声をかぎりに後ろへ叫んだ。
彼につづいて突入してきた全軍は、たちまち混乱に墜ちた。奔馬と奔馬、兵と兵が、方向を失って渦巻くところへなお、
「どうしたっ?」
「早く出ろ」と、後続の隊は、後から後からと押して来た。
「退却だっ」
「退くのだっ」
混乱は容易に救われそうもない。
石の雨や投げ松明の雨がやんだと思うと、城内の四門がいちどに口を開いて、中から呂布の軍勢が、
と、東西から
度を失った曹操の兵は、網の中の魚みたいに意気地もなく
さすがの曹操も狼狽して、
と憤然、唇を噛みながら、一時北門から逃げ退こうとしたが、そこにも敵軍が充満していた。南門へ出ようとすれば南門は火の海だった。西門へ
彼を呼んだのは悪来の典韋であった。典韋は、歯をかみ
曹操は、
熱風を恐れて馬は狂いに狂う。鞍つぼにも、兜へも、パラパラと火の粉は降りかかる。
曹操は、絶望的な声で、
と、後ろを見て云った。盛んに敵兵の声が聞こえた。
悪来は、火よりも赤い顔に、
門は一面焔につつまれている。城壁の上には、沢山な
しかし、活路はここしかない。
悪来の乗っている馬の尻に、びゅんッと凄い音がした。彼の姿はとたんに馬もろとも、火焔の洞門を突破して行った――と見るや否、曹操も、
一瞬に、呼吸がつまった。
眉も、耳の穴の毛までも、焼け縮れたかと思われた時は、曹操の胸がもう一歩で、楼門の向う側へ馳け抜けるところだった。
――が、その刹那。
楼上の一角が、焼け落ちて来たのである。何たる惨! 火に包まれた巨大な
曹操は、仰向けにたおれながら、手をもってその火の
彼は手脚を突っ張ってそり返ったまま焔の下に、気を失ってしまった。
しきりと自分を呼ぶ者がある。――どれくらい時が経っていたか、とにかくかすかに意識づいた時は、彼は、何者かの馬上に引っ抱えられていた。
夜は白々と明けた。
将も兵もちりぢりばらばらに味方の
しかも、生きて還ったのは、全軍の半分にも足らなかったのである。
そこへ、悪来と
「何。将軍が戦傷なされたと?」
「ご重傷か」
「どんなご容体か」
聞き伝えた幕僚の将校たちは、曹操の抱えこまれた陣幕の内へ、どやどやと群れ寄ってきた。
「しッ……」
「静かに」
と、中の者に制されて、なにかぎょっとしたものを胸に受けながら、将校たちは急に厳粛な無言を守り合っていた。
手当てに来ていた典医がそっと戻って行った。典医の顔も憂色に満ちている。それを見ただけで、幕僚たちは胸が迫ってきた。
――すると、突然
「わははは、あははは」
曹操の笑う声がした。
しかも、平常よりも快活な声だ。
驚いて一同、彼の横臥している周りを取巻いて、その容体をのぞきこんだ。
右の肱から肩、
片目で幕僚を見まわしながら、曹操は強いて笑いを見せて、
すこし身をねじろうとしたが、体が動かない。無理に首だけ動かして、
「ご名策です」
幕僚は、その場で皆、
――曹操死す。
の声が伝わった。まことしやかに
と膝を叩き、念のため、
馬陵山の葬儀日を狙って、呂布は濮陽城を出て、一挙に敵を葬り尽そうとしたところ。
起伏する丘陵一帯の陰から、たちまち鳴り起った
呂布は、命からがら逃げた。一万に近い犠牲と面目を馬陵山に捨てて逃げた。――以来、それにこりごりして、濮陽を堅く守り、容易にその城から出なかった。
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