その頃、北海(山東省・寿光県)の太守孔融は、将軍に任命されて、都に逗留していたが、河北の大軍が、黎陽まで進出してきたと聞いて、すぐさま相府に馳けつけ、曹操に謁して、こう直言した。
「袁紹とは決して軽々しく戦えません。多少は彼の条件を容れても、ここはじっとご自重あって対策を他日に期して和睦をお求めあることが万全であろうと考えられますが」
「勢いのあるものへ、あえて当って砕けるのは愚の骨頂です」
「旺勢は避けて、弱体を衝く。――当然な兵法だな。――だがまた、装備を誇る驕慢な大軍は、軽捷な寡兵をもって奇襲するに絶好な好餌でもあるが?」
曹操はそうつぶやいて、是とも非とも答えずにいたが、再び口を開いて、
「ともあれ、諸人の意見に問おう。きょうの軍議には、御身もぜひ列席してくれい」
と、いった。
その日の評議にのぞんで、曹操は満堂の諸将にむかい、
忌憚なき意見をもとめた。
荀彧が、まず云った。
「袁紹は、名門の族で、旧勢力の代表者です。時代の進運をよろこばず、旧時代の夢を固持している輩のみが、彼を支持して、時運の逆行に焦心っているのであります。かくの如き無用な閥族の代表者は、よろしく一戦のもとに、打ち破るべきでありましょう」
「河北は、沃土ひろく、民性は勤勉です。見かけ以上、国の内容は強力と思わねばなりますまい。のみならず、袁紹一族には、富資精英の子弟も多く、麾下には審配、逢紀などのよく兵を用うるあり、田豊、許攸の智謀、顔良、文醜らの勇など、当るべからざる者もあります。また沮授、郭図、高覧、張郃、于瓊などという家臣も、みな天下に知られた名士である。どうして、彼の陣容を軽々と評価されようか」
荀彧は、孔融の演舌がすむと、やおら答えて、
「貴殿は、一を知って二を知りたまわず、敵を軽んずるのと、敵の虚を知るのとは、わけがちがう。そもそも袁紹は国土にめぐまれて富強第一といわれているが、国主たる彼自身は、旧弊型の人物で、事大主義で、新人や新思想を容れる度量はなく、ゆえに、国内の法は決して統治されていない。その臣下にしても、田豊は剛毅ではあるが、上を犯す癖あり、審配はいたずらに強がるのみで遠計なく、逢紀は、人を知って機を逸す類の人物だし、そのほか顔良、文醜などに至っては、匹夫の勇にすぎず、ただ一戦にして生捕ることも易かろう。――なお、見のがし難いことは、それらの碌々たる小人輩が、たがいに権を争い、寵を妬みあって、ひたすら功を急いでいることである。――十万の大軍、何するものぞ。彼より来るこそ、お味方の幸いである。いま一挙に、それを討たないで、和議など求めて行ったら、いよいよ彼らの驕慢をつのらせ、悔いを百年にのこすであろう」
両者の説を黙然と聞いていた曹操は、しずかに口を開いて、断を下した。
「予は戦う! 議事は終りとする。はや出陣の準備につけ!」
その夜の許都は、真赤だった。
前後両営の官軍二十万、馬はいななき、鉄甲は鏘々と鳴り、夜が明けてもなお陸続とたえぬ兵馬が黎陽をさしてたって行った。
曹操はその大軍を自身統率して、黎陽へ出陣すべく、早朝に武装のまま参内して、宮門からすぐ馬に乗ったが、その際、部下の劉岱、王忠のふたりに、五万の兵を分け与えて、
「其方どもは、徐州へ向って、劉備玄徳にあたれ」
と、命じた。
そして自分のうしろに捧げている旗手の手から、丞相旗を取って、
「これを中軍に捧げ、徐州へはこの曹操が向っておるように敵へ見せかけて戦うがよい」
と策を授け、またその旗をもふたりへ預けた。
勇躍して、ふたりの将は、徐州へ向ったが、後で、程昱がすぐ諫めた。
「劉備の相手として、劉岱、王忠のふたりでは、智力ともに不足です。誰かしかるべき大将をもう一名、後から参加させてはどうですか」
「その不足はよく分っておる。だからわが丞相旗を与えて、予自身が打ち向ったように見せかけて戦えと教えたのだ。劉備は、予の実力をよくわきまえておる。曹操自身が来たと思えば、決して、陣を按じて進んで来まい。そのあいだに、予は袁紹の兵をやぶり、黎陽から勝ちに乗って徐州へ迂回し、手ずから劉備の襟がみをつかんで都への土産として凱旋するつもりだ」
と、程昱は二言もなく彼の智謀に伏した。
こんどの決戦は、黎陽のほうこそ重点である。黎陽さえ潰滅すれば、徐州は従って掌のうちにある。
それを、徐州へ重点をおいて、良い大将や兵力を向ければ、敵は、徐州へ多くの援護を送るにちがいない。
そうなると、徐州も落ちず、黎陽もやぶれずという二兎両逸の愚戦に終らないかぎりもない。
「丞相に対しては、めったに献言はできない。自分の浅慮を語るようなものだ」
程昱はひとり戒めた。
黎陽(河南省・浚県附近)――そこの対陣は思いのほか長期になった。
敵の袁紹と、八十余里を隔てたまま、互いに守るのみで、八月から十月までどっちからも積極的に出なかった。
万一、彼に大規模な計略でもあるのではないかと、曹操もうごかず、ひそかに細作を放って、内情をさぐってみると、そうでもない実情がわかった。
敵の一大将、逢紀はここへ来てから病んでいた。そのため審配がもっぱら司令にあたっていたが、日頃からその審配と不和な沮授は、事ごとに彼の命を用いないらしいのである。
「ははあ、それで袁紹も、持ちまえの優柔不断を発揮して、ここまで出てきながら戦いを挑まないのであったか。この分ではいずれ内変が起るやも知れん」
彼は、そう見通しをつけたので、一軍をひいて、許都へ帰ってしまった。
――といっても、もちろん後には、臧覇、李典、于禁などの諸大将もあらかた留め、曹仁を総大将として、青州徐州の境から官渡の難所にいたるまでの尨大な陣地戦は、そのまま一兵の手もゆるめはしなかった。ただ機を見るに敏な彼は、
と戦の見こしをつけた結果である。それと、徐州のほうの戦況も気にかかっていたにはちがいない。
許都に帰ると、曹操はさっそく府にあらわれて、諸官の部員から徐州の戦況を聞きとった。
一名の部員はいう。
「戦況は八月以来、なんの変化もないようであります。すなわち丞相のお旨にしたがい、発向の折、親しく賜わった丞相旗をうちたて、曹丞相みずから征してこの軍にありと敵に見せかけ、徐州を隔つこと百里の前に陣をとりて、あえて、軽々しく動くことを誡め、まだ一回の攻撃もしておりません」
曹操はそう聞くと、いかにも呆れ返ったように、
「さてさて鈍物という者は仕方がないものだ。機に応じ変に臨んで処することを知らん。下手に戦うなといえば、十年でも動かずにいる気であろうか。曹操自身、軍にあるものなら、百里も敵と隔てたまま、八月以来の長日月を、無為にすごしているわけはないと、かえって敵が怪しむであろう」
「すみやかに徐州へ攻めかかって、敵の虚実を計れ」
と、厳しく催促した。
日ならずして曹操の軍使は、徐州攻略軍の陣中に着いた。寄手の二大将、劉岱、王忠のふたりは、
「何事のお使いにや?」と、出迎えた。
軍使は、曹操の指令をつたえ、
「丞相のおことばには、其許たちへは、生きた兵をあずけてあるに、何故、藁人形の如き真似しておるかと、きついご不興である。一刻もご猶予はあるべからず」と、ありのままを伝えた。
劉岱は、聞くと、その場で、
「いかさま、長い月日、ただ丞相の大旗をたてて、こうしているのもあまり無策と思おう。王忠殿、貴殿まず一押しして、敵がどう変じてくるか、一戦試みられい」
「こは意外な仰せではある。都を出る時、曹丞相には、親しく貴公へ向って、策をさずけ賜うたのではないか。貴公こそ先に戦って、敵の実力を計るべきだのに」
「いやいや、自分は寄手の総大将という重任をうけたまわっておる者、豈、軽々しく陣頭にすすみ得ようか。――其許まず先鋒に立ちたまえ」
「異なおことば哉。ご辺と、それがしとは、官爵の高下もないに、何で、それがしを下風に視られるか」
「今の口ぶりはこの王忠を、部下といわないばかりではないか」
ふたりが争いだしたので軍使は眉をひそめながら、
「まあ待ちたまえ。まだ一戦もせぬうちに、味方のなかで確執を起すなど是非によらず、どちらも醜しと人にいわれよう。――それよりは拙者がいま、鬮を作るから、鬮を引いて、先鋒と後詰めの任をきめられては如何か」
と、王忠も劉岱と同意したので、異存なくばと、念を押したうえ、軍使は二本の鬮をこしらえて二人に引かせた。
劉岱の鬮には、
後
と、書いてあった。
王忠が「先」を引いたのである。そこで否応なく、王忠は一軍を率いて、徐州城へ攻めかかった。
劉備は徐州城の内にあって、かくと知ると、すぐ防禦を見まわった上、陳登に対策をたずねた。
陳登はその前から、動きのない寄手の丞相旗には不審を抱いていた。これは曹操の詭計ではないかと疑っていた。
「まずひと当り当ってみれば、敵の実力がわかります。策はその上でいいでしょう」
「然り、それがしが参って、彼の虚勢か実体かを試み申さん」
と、列座の中から進み出た者がある。その大声だけでもすぐそれとわかる張飛であった。
張飛が進んで、城外の敵に当らんと望んで出ると、劉備は、むしろ歓ばない色を顔に示して、
「それがしの武勇では、危ないと仰せられるのでござるか」
「いや、汝の性質は、至って軽忽で、さわがしいばかりであって、そのため事を仕損じ易いから、わしはその点を危惧しているのだ」
と、劉備は飾らずいった。
張飛は、なお面ふくらませて、
「もし、曹操に出会ったら、木ッ端みじんに敗れて帰るだろうと、それを心配なさるのでござろう。笑止笑止。曹操が出てきたら、むしろもっけの幸い、引ッつかんで、これへ持ちくるまでのこと」
「それだからそちはさわがしい男というのだ。曹操は、その心底には、漢室にとって、怖るべき逆意を抱いているが、名分の上では、常に勅令を号することを忘れるな。――故に、今、彼に敵対すれば、曹操は得たりとして、われを朝敵と呼ぶであろう」
「この期になっても、まだそんな名分にくよくよしておられるのですか。では、彼が攻め襲せてきても手をこまねいて、自滅を待っているつもりですか」
「そういうわけではないが、まともにぶつかっては勝ち目はあるまい」
「はてさて、弱気なおことば、将たる者がご自身味方の気を減らしたもうことやある」
「彼を知り、己を知るは、将たる者の備え、決して、いたずらに憂いているのではない。いま城中にある兵糧は、よく幾月を支え得ようか。またその兵糧を喰う大部分の軍兵は、元来、曹操から預ってきた者どもで、みな許都へ帰りたがっておるであろう。かかる弱体をもって、曹操に当らんなど、思いもよらぬことである。ただ千に一つのたのみは、袁紹の来援であるが、これとても……」
彼の正直な嘆息に、帷幕の人々も何となく意気があがらない態だった。――あまりに正直すぎる大将という者も困りものだ。こんな気の弱いご主君はほかにあるまい――と張飛も奥歯をかみながら黙ってしまう。
――と。次に、関羽が前へ出ていった。
「ご深慮はもっともです。けれど、坐して滅亡を待つべきでもありますまい。それがし城外へまかり向って、およそ寄手の兵気虚実をさぐる程度に、小当りに当ってみましょう。策は、その上で」
と、陳登と同意見をのべた。穏当なりと認めたか、劉備は、
と、関羽にゆるした。
関羽は、手勢三千を率して城外へ打って出た。折ふし、十月の空は灰いろに閉じて、鵞毛のような雪が紛々と天地に舞っていた。
城を離れた三千騎の兵馬は、雪を捲いて寄手王忠軍へ衝ッかけていた。
雪と馬、雪と戟、雪と兵、雪と旗、卍となって、早くも混戦になった。
「そこにあるは、王忠ではないか。なんで楯のかげばかり好むぞ」
大青龍刀をひっさげながら、関羽は馬を乗りつけて、敵の中軍へ呼びかけた。
王忠も躍りあわせて、
「匹夫っ、降るなら、今のうちだぞ。わが中軍には、曹丞相あり。あの御旗が目に見えぬか」
といった。
ふる雪に、牡丹のような口を開いて、関羽はからからと大笑した。
「曹操がおるなれば、なによりも望む対手。これへ出せ」
「かりにも、曹丞相ほどなお方が、汝ごとき下賤の蛮夫と、なんで戦いを交えようか。もう一度生れ直してこい」
関羽が馬を駆け寄せると、王忠も槍をひねって、突っかけてくる。関羽はよいほどにあしらって、わざと逃げだした。
「口ほどもないか、あるか、鞍の半座を分けてつかわす。さあ、王忠、こっちへ来い」
関羽は、青龍刀を左の手に持ち変えた。王忠は、あわてて馬の首をうしろへ向けた。が、早くも関羽の手は彼の鎧の上小帯をつかみ、
と、ばかり軽々小脇に引っ抱えて馳けだした。
潰乱する王忠軍を蹴ちらして、馬百匹、武器二十駄を分捕って、関羽の手勢はあざやかに引揚げた。
帰城すると、早速、関羽は王忠をしばりあげて、劉備の前に献じた。
劉備は王忠に向って、
「汝、何者なれば、詐って、曹丞相の名を偽称したか」
「詐りは、われらの私心ではない。丞相がわれらに命じて、御旗をさずけ、擬兵の計事をさせられたのである」
「不日、袁紹を破って、丞相がこれに来給えば、徐州ごときは、一日に踏みつぶしてしまわれるであろう」
と豪語を放った。
劉備はどう考えたか、王忠の縄を解いて、
「君の言は、まことに、神妙である。事の成行きから、丞相のお怒りをうけ、征を受けて、やむなくこの徐州を守るものの、劉備には曹操に敵対する意志はない。君もしばらく、当城にあって、四囲の変化を待ち給え」
と、彼を美室に入れて、衣服や酒を与えた。
王忠を奥に軟禁してしまうと、劉備はまた近臣を一閣に集めて、
「やはり家兄のお心はそこにありましたか。実は、王忠と出会った時、よほど一戟のもとに斬って捨てんかと思ったなれど、いやいや或いは家兄のご本心は、曹操と和せず戦わず――不戦不和――といったような微妙な方針を抱いておられるのではないかとふと考えつき、わざと手捕りにして持ち帰りました」
「そうだ。王忠、劉岱のごとき輩を殺したところで、われには何の益もなく、かえって曹操の怒りを煽るのみである。もし、生かしておけば、曹操がわれに対する感情もいくらか緩和されるかもしれん」
そう聞くと、張飛はまた、前へ進み出て、劉備にいった。
「わかりました。そうご意中を承れば、こんどは、此方が出向いて、必ず劉岱をひきずり参らん。どうか此方をおつかわし下さい」
「参るはよいが、王忠と劉岱とは、対手がちがうぞ」
「劉岱は、むかし兗州の刺史であった頃、虎牢関の戦いで、董卓と戦い、董卓をさえ悩ましたほどの者である。決してかろんずる敵ではない。それさえわきまえておるならば行くがよい」
どうも煮えきらない劉備の命令である。争気満々たる張飛には、それがもの足らなかった。
「劉岱が虎牢関でよく戦ったことぐらいは、此方とても存じておる。さればとて、何程のことがあろう。即刻、馳せ向って、この張飛が、彼奴をひッ掴んでこれへ持ちきたってご覧に入れます」
「そちの勇は疑わぬが、そちのさわがしい性情をわしは危ぶむのだ。必ず心して参れよ」
「さわがしさわがしと、まるで耳の中の虻か、懐中の蟹みたいに、この張飛をお叱りあるが、もし劉岱を殺して来たら、何とでもいうがいい。いくら兄貴でも主君でも、そう義弟をばかにするものじゃない」
と、云いちらして、彼はぷんぷん怒りながら閣外へ出て行った。
そして、三千の兵を閲して、
「これから劉岱を生捕りに行くんだ。おれは関羽とちがって軍律は厳しいぞ」
と、兵卒にまで当りちらした。
張飛に引率されて行く兵は、敵よりも自分たちの大将に恐れをなした。――一方、寄手の劉岱も、張飛が攻めてきたと知って、ちぢみ上がったが、
「柵、塹壕、陣門をかたく守って、決して味方から打って出るな」
と、戒めた。
短兵急に押しよせた張飛も、蓑虫のように出てこない敵には手の下しようもなく、毎日、防寨の下へ行っては、
「木偶の棒っ。――糞ひり虫。――糞ひることも忘れたのだろ」
と、士卒をけしかけて、悪口雑言をいわせたが、何といわれても、敵は防禦の中から首も出さなかった。
張飛は、持ち前の短気から、業をにやしてきたとみえ、
「もうやめだやめだ。このうえは夜討ちだ。こよい二更の頃に、夜討ちをかけて、蛆虫どもを踏みつぶしてくれる。用意用意」
と、昼のうちから士卒に酒を振舞い、彼自身も、したたか呑んだ。
「景気のいい大将」と、兵隊たちも、酒を呑んでいるうちは、張飛を礼讃していたが、そのうちに、何か気に喰わないことがあったのか、張飛は、咎もないひとりの士卒を、さんざんに打擲したあげく、
「晩の門出に、軍旗の血祭りにそなえてくれる。あれに見える大木の上にくくり上げておけ」
と、云いつけた。
士卒は、泣き叫んで、掌を合わせたがゆるさない。高手小手にいましめられて、大木のうえに、生き礫刑とされてしまった。
夕方になると、たくさんな鴉がその木に群れてきた。張飛に打ちたたかれて、肉もやぶれ皮も紫いろになっている士卒は、もう死骸に見えるのか、鴉はその顔にとまって、羽ばたきしたり、嘴で眼を突ッついたり、五体も見えないほど真黒にたかってさわいだ。
「ひィっ……畜生っ」
悲鳴をあげると、鴉はぱっと逃げた。ぐったり、首を垂れていると、また集まってくる。
「――助けてくれっ」
士卒はさけび続けていた。
すると、夕闇を這って、仲間のひとりが、木に登ってきた。何か、彼の耳もとにささやいてから、縄目を切ってくれた。
「畜生、この恨みをはらさずにおくものか」
半死半生の目に会った士卒も、その友を助けた士卒も、抱き合って、恨めしげに張飛の陣地を振向き、闇にまぎれて何処ともなく脱走してしまった。
陣営のうちで、張飛はまだ酒をのみつづけていた。
そこへ士卒の一伍長が、あわただしく馳けこんできて、
「見張りの者の怠りから大失態を演じました。申しわけもございません」
と、懲罰に処した樹上の士卒が、いつの間にか逃走した由を、平蜘蛛のようになって慄えながら告げた。
「知っとる知っとる。将として、それくらいなこと、知らんでどうする。……あはははは、それでいいのだ」
彼は、大杯をあげて、自ら祝すように飲み干し、幕営を出て、星を仰いだ。
「そろそろ二更の頃だな。――わが三千の兵は二分して各自の行動に移れ。――その一は、間道をしのび回り込め、その一は、止まって敵の前面へ向う」
張飛の命令が伝わると、やがて夜靄のなかに、まず二千の兵が先に、どこかへうごいて行った。
それは、敵の防寨の背後へまわって忍ぶ潜兵らしかった。
張飛は、残る三分の一の兵をそこに止めて、なお一刻ほど、酒壺を離さず、時おり、星の移行を測っていた。
その宵。
劉岱の防寨のほうでは、早くも、今夜敵の張飛が夜討ちをかけてくるということを知って、ひどく緊張していた。
「あわてるな。敵の脱走兵の訴えとて、めったに信じるとは危険だ。おれ自身、その兵を取調べてみよう。ここへ其奴を引ッ張ってこい」
劉岱は、部下の動揺を戒めて、その夕方、密告に馳けこんできたという二人の敵の脱走兵を、自分の前に呼びだした。
見ると、ひとりはただの士卒だが、もう一名のほうは、手足も傷だらけで、顔は、はれあがっている。
「こら、敵の脱走兵。貴様たちは、張飛から策をうけて、今夜、夜討ちをしかけるなどとあらぬことを密告に来、わが陣地を攪乱せんとたくらんできたにちがいあるまい。そんな甘手にのる劉岱ではないぞ」
「めっそうもないことを。……手前どもは鬼となっても、張飛のやつを、全滅の憂き目に会わせてくれねばと……死を賭して、ご陣地へ逃げこんで来た者でございます」
「いったい、なんで張飛に対し、そのように根ぶかい恨みを抱くのか」
「くわしいことは、先にご家来方まで、申しあげた通りで、そのほかに、仔細はございません」
「なんの咎もないのに打擲されたあげく、大樹の梢にしばりあげられたというが」
「へい。あまりといえば、むごい仕方ですから、その返報にと思いまして」
「……これ。誰かあの脱走兵の訴人を裸体にしてみい」
劉岱は傍らの者に命じた。
言下に、訴人の兵は、真っ裸にされた。――見れば、顔や手足ばかりでなく、背にも臂にも、縄目のあとが痣になっていた。そして全身、鼈甲の斑みたいにはれている。
と、疑いぶかい劉岱も、半分以上、信じ、敵の夜討ちに備え、配置した。
すると、果たして。
二更もすこし過ぎた頃、防寨の丸木櫓にのぼっている不寝番が、
「夜襲だ」と、警板をたたいた。
夜霜のうちから潮のような鬨の声が聞えた。と思うと、陣門の前面に、敵が柴をつんで焼き立てる火光がぼっと空に映じた。矢うなりはもう劉岱の身辺にも落ちてきた。
「敵兵の密訴は嘘でもなかったのだ。それっ、一致して防戦にあたれ」
劉岱は、自分も得物を取って、直ちに防ぎに走りだした。
諸所へ火を放ち、矢束を射込み、鼓を鳴らし、鬨の声をあげなどして、張飛の夜襲はまことに張飛らしく、派手に押しよせてきた。
劉岱は、それを見て、
「彼奴、勇なりといえども、もとより智謀はない男、何ほどのことやあらん」
とひと跳びの意気で、防戦にあたった。
劉岱の指揮の下に、全塁の将卒がこぞって駈け向ったので、たちまち、夜襲の敵は撃退され、いかに張飛が、
と、声をからしても、総くずれのやむなきに立到り、張飛も柴煙濛々たるなかを、逃げる味方と火に捲かれて、逃げまどっていた。
「こよいこそ、張飛の首はわが手のもの。寄手の奴ばらは一人も生かして返すな」
劉岱は、最後の号令を発し、ついに、防寨の城戸をひらいて、どっと追いかけた。
張飛はそれと見て、
にわかに、馬を向け直し、まず劉岱を手捕りにせんと喚きかかった。
それまで、逃げ足立っていた敵が、案に相違して、張飛と共に、俄然攻勢に転じてきたので、要心深い劉岱は、
とあわてて、味方の陣門へ引っ返そうとしたところ、時すでに遅かった。
その夜、正面に来た寄手は、張飛の兵の三分の一にすぎず、三分の二の主隊は、防寨のうしろや側面の山にまわっていたものなので、それが機をみるや一斉になだれこんで来たため、すでに彼の防塁は、彼のものでなくなっていた。
と、うろたえている劉岱を見つけて、張飛は馬を駈け寄せてゆくなり引っ掴んで大地へほうりだし、
と走り出てきた二名の兵卒がある。それは張飛の命に依ってわざと張飛の陣を脱走し、劉岱へこよいの夜襲を密告して、彼らの善処をいとまなくさせた殊勲の二人だった。
張飛は、その二人に縄尻を持たせて、意気揚々ひきあげた。
残余の敵兵も、あらかた降参したので、防寨は焼き払い、劉岱以下、多くの捕虜を徐州へ引きつれて帰った。
この戦況を聞いて、劉備のよろこびかたは限りもない程だった。わが事のように、彼の巧者な手際を褒めて、
「張飛という男は、生来、ものさわがしいばかりであったが、こんどは智謀を用いて、戦の功果をあげた。これでこそ、彼も一方の将たる器量をそなえてきたものといえよう」
そういって彼自身、城外に出迎えた。張飛は大音をあげて、
「家兄、家兄。いつもあなたは、この張飛を、耳の中の虻か、懐中の蟹のごとく、ものさわがしき男よと口癖におっしゃるが、今日は如何?」
「しかしそれも先に、家兄がふかく貴様をたしなめなかったら、こんなきれいな勝ちぶりはしまい。この劉岱の首などは、とうに引きちぎッてたずさえて来たであろう」
張飛が、爆笑すると、劉備も笑った。関羽も哄笑した。
三人三笑のもとに、縄目のまま、引きすえられていた劉岱は、ひとりおかしくもない顔をしていた。