第9話、桃園の誓い
文字数 9,231文字
母と子は、仕事の庭に、きょうも他念なく、
がたん……
ことん
がたん
水車の
だが、その音にも、きょうはなんとなく活気があり、歓喜の
黙々、仕事に精だしてはいるが、母の胸にも、
ゆうべ。
劉備は、城内の市から帰ってくると、まっ先に、二つの吉事を告げた。
一人の良き友に出会った事と、かねて手放した家宝の剣が、計らず再び、自分の手へ返ってきた事と。
そう二つの歓びを告げると、彼の母は、
と、かえって静かに声を低め、劉備の覚悟を
時節。……そうだ。
長い長い冬を経て、桃園の花もようやく
がたん……
ことん……
――我は青年なり。
空へ向って言いたいような気持である。いやいや、老いたる母の肩にさえ、どこからか舞ってきた桃花の
すると、どこかで、歌う者があった。十二、三歳の少女の声だった。
花ヲ折ッテ門前ニ
劉備は、耳を澄ました。
少女の美音は、近づいてきた。
……十四
十五初メテ
願ワクバ
常ニ
十六
近所に住む少女であった。早熟な彼女はまだ青い
劉備は、木蓮の花に
そしてふと、自分の心の底からも一人の麗人を思い出していた。それは、三年前の旅行中、老僧にひき合わされた
――どうしたろう。あれから先。
張飛に訊けば、知っている筈である。こんど張飛に会ったら――など独り考えていた。
すると、
少女は、犬に
自分のうしろに、この辺で見たこともない、剣を
と、訊ねたのだった。
けれど、少女は、振向いてその
髯漢は、小娘の驚きを、滑稽に感じたのか、独りして笑っていた。
その笑い声が止むと一緒に、後ろの
墻といっても
だから、背の高い張飛は、首から上が、生垣の上に出ていた。劉備の庭からもそれが見えた。
ふたりは顔を見合って、
と、十年の知己のように呼び合った。
張飛は、外から木戸口を見つけてはいって来た。ずしずしと地が鳴った。劉家はじまって以来、こんな大きな跫音が、この家の庭を踏んだのは初めてだろう。
劉備の母は、張飛の礼をうけた。どういうものか、張飛は、その母公の姿から、劉備以上、気高い威圧をうけた。
また、実際、劉備の母にはおのずから備わっている名門の気品があったのであろう。世の常の甘い母親のように、息子の友達だからといって、やたらに小腰をかがめたりチヤホヤはしなかった。
張飛は、自然どうしても、頭を下げずにはいられなかった。
母は、奥へかくれた。
張飛は、その後の
雲長も、自分が見込んだ
のみならず、景帝の
「残念でたまらない。雲長めは、そういって疑うのだ。……ご足労だが、貴公、これから拙者と共に、彼の住居まで行ってくれまいか。貴公という人間を見せたら、彼も恐らくこの張飛の言を信じるだろうと思うから――」
張飛は、疑いが嫌いだ。疑われることはなお嫌いだ。雲長が、自分の言を信じてくれないのが、心外でならないのである。
だから劉備を連れて行って、その人物を実際に示してやろう――こう考えたのも張飛らしい考えであった。
しかし、劉備は、
と、いって、考えこんだ。
信じない者へ、
すると、廊のほうから、
彼の母がいった。
母は、やはり心配になるとみえて、
もっとも、張飛の声は、この家の中なら、どこにいても聞えるほど大きかった。
礼をして外へ出た。
張飛が驚いたような声を上げた。
道の先に馬に乗った男が見えた。
胸まである
関羽雲長であった。
怪しんで問うと、
劉備は最前から、張飛と雲長との二人の仲の
雲長は、馬から下り、近づくと、彼の足もとへ膝を折って、
と、最高の礼儀をとって、
劉備はあえて、
関羽も歩み、張飛も肩を並べ、共に劉備の家まで行った。
劉備の母は、またすぐ新しい客がふえたので、不審がったが、張飛から紹介されて、関羽の人物を見、よろこびを現して、
と心から歓待した。
その晩は、母もまじって、夜更けまで語った。劉備の母は、劉家の古い歴史を、覚えている限り話した。
生れてからまだ劉備さえ聞いていない話もあった。
(いよいよ漢室のながれを汲んだ
張飛も、関羽も、今は少しの疑いも抱かなかった。
同時に、この人こそ、義挙の盟主になすべきであると肚にきめていた。
しかし、劉玄徳の母親思いのことは知っているので、この母親が、
(そんな危ない
と、断られたらそれまでになる。関羽は、それを考えて、ぼつぼつと母の胸をたずねてみた。
すると劉備の母は、みなまで聞かないうちにいった。
それを聞いて、関羽は、この母親の胸を問うなど
劉備は、
張飛は手を打って、
と、いった。
客の二人に
劉が眼をさましてみると、母はもういなかった。夜は明けていたのである。
厨の
桃園へ行ってみると、関羽と張飛のふたりは、近所の男を雇ってきて、園内の中央に、もう祭壇を作っていた。
壇の四方には、
張飛、関羽は、振向いた。
と、関羽は笑った。
張飛は劉備のそばへきて、
心配して訊ねた。
劉備は、そんなことを訊かれたので、またふと、忘れていた
で、つい答えを忘れて、何となく眼をあげると、眼の前へ、白桃の花びらが、
母が、いつの間にか、三名の後ろにきて告げた。
三名が、いつでもと答えると、母はまた、いそいそと
近隣の人手を借りてきたのであろう。きのう張飛の姿を見て、きゃっと
やがて、まず一人では持てないような
それから豚の仔を丸ごと油で煮たのや、山羊の吸物の鍋や、
劉備さえ、心のうちで、
と、母の算段を心配していた。
そのうちにまた、村長の家から、
張飛は、子どものように、歓喜した。
準備ができると、手伝いの者は皆、母屋へ退がってしまった。
三名は、
「では」
と、眼を見合せて、祭壇の前の
と、祈念しかけると、関羽が、
と、なにか改まっていった。
関羽は、語をつづけた。
「まだ兵はおろか、兵器も金も馬すらそろっていないが、三名でも、集まれば、即座に一つの軍である。軍には将がなければならず、武士には主君がなければならぬ。行動の中心に正義と報国を奉じ、個々の中心に、主君を持たないでは、それは徒党の乱に終り、
訊くと、張飛も、手を打って、
左右から詰めよられて、劉備玄徳は、黙然と考えていたが、
と、二人の意気ごみを
関羽は、長い髯を持って、自分の顔を引っぱるように大きくうなずいた。
改めて三名は、祭壇へ向って牛血と酒をそそぎ、ぬかずいて、天地の
年齢からいえば、関羽がいちばん年上であり、次が劉備、その次が張飛という順になるのであるが、義約のうえの義兄弟だから年順をふむ必要はないとあって、
と、関羽がいった。
張飛も、ともども、
劉備は強いて
と、兄弟の杯を交わし、そして、三人一体、協力して国家に報じ、下万民の
張飛は、すこし酔うてきたとみえて、声を大にし、杯を高く挙げて、
と、いった。そして、
などと、劉備の杯へも、やたらに酒をついだ。そうかと思うと、自分の頭を、ひとりで叩きながら、「愉快だ。実に愉快だ」と、子供みたいにさけんだ。
あまり彼の酒が、上機嫌に発しすぎる傾きが見えたので、関羽は、
と、たしなめた。
だが、一たん上機嫌に昇ってしまうと、張飛の機嫌は、なかなか水をかけても
と、劉備へも、すぐ
と、劉備玄徳は、にこにこ笑って、張飛のなすがままになっていた。
張飛は、牛の如く飲み喰いしてから、
急に、そんなことを云いだすと、張飛はふらふら母屋のほうへ馳けて行った。そしてやがて、劉備の母親を、無理に、自分の背中へ負って、ひょろひょろ戻ってきた。
そしてやがて、こう三人の中では、酒に対しても一番の誠実息子たるその張飛が、まっ先に酔いつぶれて、桃花の下に大いびきで寝てしまい、夜露の降りるころまで、眼を醒まさなかった。
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