第36話、貂蝉
文字数 11,817文字
「呉の孫堅が討たれた」
耳から耳へ。
やがて長安(
と、独りよろこぶこと限りなかったとある。
その頃、彼の
天子の
弟の
みな彼の手足であり、眼であり、耳であった。
そのほか、彼につながる一門の長幼縁者は端にいたるまで、みな
そこは、長安より百余里の郊外で、山紫水明の地だった。董卓は、地を
そして、
――と。
明らかに、大逆の言だ。
けれど、こういう威勢に対しては、誰もそれをそれという者もない。
地に拝伏して、ただ
沿道百余里、
その日、朝廷の
と、董卓のそばへ行って、その耳元へなにやらささやいた。
満座は皆、杯もわすれて、その二人へ、神経をとがらしていた。
――と、董卓は、うなずいていたが、呂布へ向って
呂布は、一礼して、そこを離れたと見ると、無気味な眼を光らして、百官のあいだを、のそのそと歩いて来た。
呂布の腕が伸びた。
酒宴の上席のほうにいた
張温の席が鳴った。
満座、
呂布は、その怪力で、鳩でも掴むように、無造作に、彼の身を堂の外へ持って行ってしまった。
しばらくすると、一人の料理人が、大きな盤に、異様な料理を捧げて来て、真ん中の卓においた。
見ると、盤に盛ってある物は、たった今、呂布に掴み出されて行った張温の首だったので、朝廷の諸臣は、みなふるえあがってしまった。
呂布は、悠々、姿をあらわして、彼の側に
呂布は満座の蒼白い顔に向って、
彼が、結ぶと、董卓もまた、その肥満した体躯を、ゆらりと上げて云った。
「張温を
宴は、早めに終った。
さすが長夜の宴もなお足らないとする百官も、この日は皆、
中でも司徒
歎息ばかり洩らしていた。
折ふし、宵月が出たので、彼は気をあらためようと、杖をひいて、後園を歩いてみたが、なお、胸のつかえがとれないので、
そして、冷たい額に手をあてながら、しばらく月を仰ぎ、
王允は見まわした。
池の彼方に、水へ臨んでいる
近づいて、彼は、そっと声をかけた。
貂蝉は、
まだ母の乳も恋しい幼い頃から、彼女は生みの親を知らなかった。
薄命な
楽女とは、高官の邸に飼われて、賓客のあるごとに、宴にはべって
けれど、
王允も、ほろりと、涙をながした。――泣くのをなだめていた彼のほうが、
「賤しい楽女のわたくし、お疑い遊ばすのも当り前でございますが、どうか、お胸の悩みを、打明けて下さいまし。……いいえ、それでは、
急に涙を払って、王允は思わず、痛いほど彼女の手をにぎりしめた。
「私のこんな言葉だけで、王允様の深いお悩みは、どうしてとれましょう。――というて、男の身ならぬ貂蝉では、なんのお役にも立ちますまいし……。もし私が男であるならば、あなた様のために、生命を捨ててお
王允は、思わず、満身の声でいってしまった。
杖をもって、大地を打ち、
こういうと、王允は、彼女の手を取らんばかりに誘って、画閣の一室へ伴い、堂中に坐らせてその姿へ
貂蝉は、驚いて、
あわてて
貂蝉は、さわぐ色もなく、すぐ答えた。
王允は、座を正して、
さすがに、貂蝉の顔は、そう聞くと、梨の花みたいに
「わしの見るところでは、呂布も董卓も、共に色に溺れ酒に
貂蝉は、ちょっと、うつ向いた。珠のような涙が
きっぱりいった。
そしてまた、
と、覚悟のほどを示した。
数日の後。
呂布は、驚喜した。
彼は、武勇
王允は、あらかじめ、彼が必ず答礼に来ることを察していたので、歓待の準備に手ぬかりはなかった。
と、自身、中門まで出迎えて、下へも置かぬもてなしを示し、堂上に
善美の
王允は、酒をすすめながら、
彼は、ことばをかえて、室内に
そして、その中の一名を、眼で招いて、
と、小声でいいつけた。
「はい」
侍女は、退がって行った。間もなく、室の外に、
貂蝉は、客のほうへ、わずかに眼を向けて、
呂布は、恍惚とながめていた。
王允は、自分の前の杯を、貂蝉にもたせて云った。
貂蝉は、うなずいて、呂布のまえへ進みかけたが、ちらと、彼の視線に会うと、眼もとに、まばゆげな
呂布は、われに返ったように、その杯を持った。――なんたる
貂蝉は、すぐ退がって、
王允は、彼女を呼びとめて、客の呂布と等分に眺めながら云った。
貂蝉は、ほどよく、彼に杯をすすめ、呂布もだんだん酔眼になってきた。呂布は、帰るといって立ちかけたが、なお、貂蝉の美しさを、くり返して
王允は、そっと、彼の肩へ寄ってささやいた。
呂布は、恩を拝謝し、また、何度もくどいほど、念を押してようやく帰った。
王允は、後で、
次の日、彼は、
「毎日のご政務、太師にもさぞおつかれと存じます。
と、彼の遊意を誘った。
聞くと、董卓は、
と、非常な喜色で、
次の日。――やがて巳の刻に至ると、
と、家僕が内へ報じる。
王允は、朝服をまとって、すぐ門外へ出迎えた。
――見れば、太師
王允は、董太師を、高座に迎えて、最大の礼を尽した。
董卓も、全家の歓待に、大満足な様子で、
と、席をゆるした。
やがて、
毒味役が試した後、董卓は飲んだ。
「私の願うようになれば私は満足です。――私は幼少から天文が好きで、いささか天文を学んでおりますが、毎夜、天象を見ておるのに、漢室の運気はすでに尽きて、天下は新たに起ろうとしています。太師の徳望は、今や
王允は再拝した。
とたんに、堂中の燭はいっぺんに
客もなく、主もなく、また天下の何者もなく、
舞う――舞う――貂蝉は袖をひるがえして舞う。教坊の奏曲は、彼女のために、糸竹と管弦の
董卓は、うめいていたが、一曲終ると、
と、望んだ。
貂蝉が再び起つと、教坊の楽手は、さらに粋を競って弾じ、彼女は、舞いながら
一片ノ
知ラズ誰カコレ
眼を貂蝉のすがたにすえ、歌詞に耳をすましていた董卓は、彼女の歌舞が終るなり、感極まった
王允は、さし招いた。
貂蝉は、それへ来て、ただ
貂蝉は、素直にうなずいて、
一点ノ桜桃
董卓は、手をたたいた。
前に歌った歌詞は自分を讃美していたので、今の歌が自分をさして暗に
董卓は、ほとんど、その満足をあらわす言葉も知らないほど歓んで、
王允は、心のうちで、しすましたりと思いながら、貂蝉と董卓の車を
王允は、もういっぺん、くり返して云った。それは貂蝉へ、それとなく返した言葉であった。
貂蝉のひとみは、涙でいっぱいに見えた。王允も、胸がせまって、長くいられなかった。
あわてて彼は、わが家のほうへ引っ返してきた。すると、彼方の闇から、二列に
近づいてくると、その先頭には赤兎馬に踏みまたがった
と、馬上から
と、どなった。
王允は、騒ぐ色もなく、
と、なだめた。
呂布は、なお怒って、
と、従う武士にいいつけて、はや引ったてようとした。
王允は、手をあげて、
呂布は彼について行った。
密室に通して、王允は、
「――実はこよい、酒宴の果てた後で、董太師が興じて仰せられるには、そちは近頃、呂布へ貂蝉を与える約束をした由だが、その女性を、ひとまず私が手許へあずけて置け。そして吉日を
「いや、お疑いさえ解ければ、それでいい。必ず近日のうちに、将軍の艶福のために、盛宴が張られましょう。貂蝉もさだめし待っておりましょう。いずれ
呂布は、そう聞くと、三拝して、立帰った。
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