第143話、荊州の切り崩し
文字数 6,673文字
日を経て、呉の擬装船団は、
「何者だっ、どこの船かっ」と、一隊の兵にすぐ発見され、すぐ船を出た七名の代表者は、そのまま彼らの
番兵はみな関羽の
屯営はその烽火山の下にある。七人の代表者は厳重な調べをうけた。もちろんみな呉の武人であるが、ことば巧みに、
「てまえどもは年々、北の産物を積んでは南へ下江し、南の物資を求めては北へ
こもごもに嘆願した上、船中から携えてきた南方の佳酒やら珍味を取り出して、まず番将へ
「――ではまず大目に見ておくがここは烽火台もある要塞地帯じゃ、夜明け早々、潯陽のほうへ船を移せよ」と、ある。
「はいはい。それはもう……」
と、七名はもみ手を揃えて、
「有難いおことばを、船の者にもよく云い聞かせて置きますれば」
と、中の一人は岸へ戻った。
するとやがてその男が、さらに十数名の
「よかろう。取っておいてやれ」
番将は先に受けた酒を開けてすでにほろ酔い気分である。部下たちもたちまち酔いだした。船中から上がってきた面々は、
そのうちに、番兵のひとりが、
「はてな?」と、耳をそばだてた。
「風?」
「いや、おかしいぞ」
外へ飛び出して、烽火台の上を仰いだ。そこに、わっと
「――あっ。敵だっ」
絶叫したとたんに、一陣の騎馬武者がもうここを取り巻いていた。別働隊は山の裏から這い上がって、すでに烽火台を占領していたのだった。
夜が明けてみれば、昨夜の商船ばかりか、八十余艘の
呂蒙は、上陸して捕虜を見ると、
と放した。
この策は、次々に功を奏し、呂蒙の大軍は日々荊州へ近づいた。そして敵が非常に備えていた「つなぎ烽火」をほとんど効なきものとして、やがて荊州城下へなだれこんだ。
呂蒙はその前に、莫大な恩賞を賭けて、降人の一群を城下へまぎれ込ませ、流言を放って敵を
またべつな降人の一隊は、荊州城の下へ来て、
「門を開けろ。一大事がある」
と
荊州の本城は実に
選りに選ってなぜこんな凡将を残して
一、みだりに人を殺すもの
一、みだりに物を盗むもの
一、みだりに流言を放つもの
以上。その一を犯す者も斬罪に処す。
呉軍大都督
占領直後、まだ呉侯孫権も入城しないうちに、早くも町々にはこういう掲示が立ち、人民はみな帰服した。
荊州城にあった関羽の一族は、呂蒙のさしずによって鄭重にほかのやしきへ移され、不安なく不自由なく呉軍に保護されているのを見て、荊州の人民は、
「ありがたいことだ」と、呂蒙の名を口から口へささやきつたえた。
呂蒙は日々、五、六騎の供をつれて、みずから戦後の民情を視て歩いた。一日、途中でにわか雨にあったが、雨に濡れながらもなお巡視をつづけて来ると、彼方から一人の兵が、百姓のかぶる笠を持って、兜の上にかざしながら、一目散に馳けてくるのを見かけた。
呂蒙は鞭をさし向けた。
二頭の騎馬武者が雨中を馳けて、すぐその兵を引っ吊して来た。見るとその兵は呂蒙もよく顔を知っている同郷の男だった。
――が、呂蒙はその兵を
兵は仰天して、雨中に哀号しながら、呂蒙を伏し拝んで、
「命だけはお助け下さい。出来心でございます。何気なく、つい笠ぐらいと存じまして」
と、悲しみ訴えたが呂蒙はただ顔を横に振るだけだった。
その兵の首と笠とが、獄門となって街に
「何たる公平な大将だろう」
と、その徳に感じ、呉の三軍はふるい恐れて、道に落ちている物も拾わなかった。
江上に待っていた呉侯孫権は、諸将を
呉は大きな宿望の一つをここに遂げた。荊州を
と、陸遜に問うた。
すると
と、豪語した。誰かと見れば、
と、いった。
虞翻は一礼して、
孫権は彼に五百騎をさずけた。虞翻は自信にみちて公安へ赴いた。事実、彼は胸中にこの使いの成功を信じている。なぜならば傅士仁という人間をよく知っていたからである。
しかし一方の傅士仁たるや、このところ
ところへ友人の虞翻が五百騎ほど連れてくると聞いたが、なお疑心にとらわれて城中に鳴りをしずめていた。虞翻は近々と城門の下へ寄り、書簡を矢にはさんで城中へ射こんだ。
傅士仁はそれをひらいて、虞翻の文言を読み下した。幾たびもくり返して、
「そうだ、たとえここを守り通しても、いずれ関羽が帰れば、戦前の罪を問われ、罪と
彼は駈け出して、卒に門をひらかせた。そして虞翻を迎え入れると、
虞翻は彼を伴って、さっそく荊州へ帰った。孫権はもちろんこの結果を上機嫌でうけ容れた。虞翻には大賞を与え、また傅士仁に告げては、
と寛度を示した。
恩を謝して傅士仁が退城しようとすると、呂蒙が呉侯の袖をひいた。
呂蒙に何かささやかれると、孫権は急に侍臣を走らせて、傅士仁をよび戻した。
そしてたちまち一問を発し、また命令した。
傅士仁は
傅士仁は浮かない顔で、友の虞翻のところへ相談に行った。そして愚痴まじりに、
「どうも今になってみると、貴公のいうことをきいたのは、大きな過ちだったような気がする。呉侯の命に対して、――ご難題です。糜芳を説きつけるなんて無理です。ご免こうむりましょう、といったら、たちまち俺は二心ありと首にされ、公安の城はただ取りにされてしまうだろう。……といって、何しろ糜芳は、蜀のうちでも余人とちがい、劉備が微賤をもって旗上げした頃からの宿将だ。俺の舌三寸でおめおめ降るわけはないし」
と、困惑を訴えると、虞翻はその小心を笑って、彼の背を一つ打った。
有合う紙片のうえに、虞翻は何か筆を走らせる。傅士仁は首を寄せて黙読していたが、急に悟ったような顔をして、
と、立ち去った。
十騎ばかりを従えて、彼は南都へ立った。糜芳は城を出て、友を出迎え、まず関羽の消息を問い、荊州の落城を嘆じて、悲涙を押し拭う。
ところへあわただしく、糜芳の臣が告げにきた。戦場の関羽から早馬打っての使者だとある。
糜芳は云った。使者はそこへ来て、火急の事ゆえ、口上をもって述べますと断り、次のような関羽の要求を伝えた。
糜芳と傅士仁は顔見合わせた。まったく無理な注文である。粮米十万石も困難だし、荊州の陥ちた今、輸送方法もありはしない。
糜芳は
「――ぎゃッ!」
突然、血しぶきの下に、使者が倒れた。糜芳も驚いて跳び上がった。剣を抜いて、いきなり使者を斬ったのは傅士仁であった。その血刀を提げたまま、彼はさらに糜芳へ迫ってきた。
糜芳は喪心したように、蒼白になって
「貴殿には関羽の心が読めないのか。関羽はその不可能を知りながら無理難題をいいつけて、後に荊州の敗因をわれらの怠慢にありとする肚黒い考えでおるのだ。――
彼は剣を収めて、糜芳の手を引っ張った。もちろんこれは
糜芳はなお迷っていた。多少の疑いをそれにも抱いたからである。ところがこの時、
と、傅士仁は、茫然自失している糜芳の腕を組んで、無理やりに城を出た。そして虞翻を介して
(ログインが必要です)