第138話、鶏肋
文字数 6,721文字
蜀の大軍は、すでに南鄭、
時に、陽平関の魏軍へ、またしても、味方の
といいつけた。
千余騎は、許褚に引かれて、陽平関を出て行った。目的地につくと、兵粮奉行は歓喜して彼を迎え、
「このご来援がなかったら、おそらくあと二日か三日の間には、ここにある兵粮軍需品、すべて蜀の手へ奪られていたに違いありません」と、いった。
嬉しさのあまりか、奉行はすこし許褚を歓迎しすぎた。許褚は宴に臨んで大酔してしまったのである。だが、気概は反対に凜々たるものがあり、奉行が、褒州の
と、促した。
宵に出て、
地の利をとって戦う気でいると、自分たちの頭の上から先に岩や石ころが落ちてきた。
伏兵は、山の上下にいる。寸断された
不覚にも許褚は、戦わないうちに、痛手をうけたのみか、どうと馬からころげ落ちた。
張飛の二の
危うい中を、許褚は、手下の部将たちに助けられ、辛くも一命は拾い得たが、ために輜重の大部分は、張飛の手勢に奪われて、ほうほうの態で陽平関へ逃げもどって来た。
時すでに陽平関は炎につつまれていた。敗れては退き、敗れては退き、各前線からなだれ来る味方は、関の内外に充満し、魏王曹操の所在も、味方にすら不明だった。
「すでに、北の門を出、
と味方の一将に聞いて、許褚は事態の急に
曹操は、その
彼は馬上にそれを見、
と、色を失った。
ところがそれは、彼の次男
よほどうれしかったとみえ、曹操は馬上から手をさしのべてわが子の手を握り、しばらくその手を離さなかった。
ここまでは敗走一路をたどってきた曹操も、わが子曹彰に行き会って、その新手五万の兵を見ると、俄然、鋭気を新たにして、急にこういう軍令を宣した。
かくて、戦の様相は、ここにまたあらたまって、両軍とも整備と休養を新たにし、第二次の対戦となった。
劉備は、諸将と共に、陣前に出て云った。
「おそらく曹操は、こんどの序戦に、わが子曹彰を自慢にして出すだろう。そのとき曹彰を迎えて、一撃に討ち、彼の気をくじくならば魏の雑兵何万をころすよりも、この戦局を一変し得るが……。たれが曹彰の首を完全に挙げられるだろうか」
ひとしく進み出たのは、孟達と
が――孟達は、劉封も望んで出たので、ちょっと、遠慮する容子を示した。劉封は、劉備の養子。曹彰は曹操の実子。――これは劉封としてはぜひとも買って出たい名誉の一戦であろうと
しかし劉備は、将に対しても士に対しても、公平を期しているものの如く、劉封がわが家の養子だからといって特に彼ひとりを選ぶようなことはしなかった。
「ありがとう存じます」
若い二人は勇躍して、おのおの五千騎を擁して、先頭の左右両翼に陣していた。
果たせるかな、やがて陣鼓堂々、斜谷に拠っている敵方の一軍が平野へ戦列をしいたかと思うと、ただ一騎、その陣列を離れて、
と、大声あげて、さしまねいている若武者がある。遠目に見ても
孟達は、左翼から出ようとしたが、まず養子の劉封にここは譲るべきだと思ってひかえていた。すると右陣の劉封は、父劉備の威をうしろに負って、これも華やかな
だが、曹彰の前に近づいて、十合とも戦わないうちに、その一騎討ちは、誰の眼にも、曹彰の勝利と分った。劉封の武芸は、とうてい、曹彰の相手ではなかったのである。
孟達は、急に駈け出して、
と、入れ代って、自身、曹彰にぶつかった。
劉封は、一言もいわず、うしろを見せて、逃げ走っていた。曹彰は、孟達の邪魔を、振りのけながら、
と
ところが、彼のひきいる魏の手勢が、うしろのほうから崩れだした。驚いて引っ返すと、蜀の
曹彰は、父に似て、兵機をみるに敏だった。すでに多少の損害をうけたが、その禍いのまだ致命とならない間に、さっと軍をまとめ、敵将呉蘭の陣中を突風のごとく蹴ちらして、首尾よく斜谷の本陣へ引揚げてしまった。しかもその途中、道をさえぎる敵将の呉蘭を、馬上のまま一
劉封は面目を失った。
と、変な
以来、劉封と孟達とは、なんとなく打ち解けない仲になった。劉封は武勇に乏しいのみか器量においても劉備の養子というには多分に欠けているものがあった。
しかし曹操のほうでも、序戦以後は、日ごとに士気が衰えて行った。一曹彰が一劉封に勝ったと一時は歓んでみても全面的には、刻々憂うべき戦況にあったのである。蜀の張飛、
曹彰も、劉封には勝ったが、それ以後の合戦に出るたびごとに、蜀の猛将たちから目のかたきに追いまわされ、手も足も出せなかった。
ここは都に遠い斜谷(陝西省漢中と西安との中間)の地。もしこれ以上の大敗を喫して、多くの将士を失うときは、本国まで帰ることすら甚だ覚つかないことになろう。――曹操も重なる味方の敗色につつまれて、心中悶々たるものがあった。
こよいも彼は、
ところへ、膳部の官人が、
「お食事を……」と、畏る畏る膳を供えてさがって行った。
曹操は思案顔のまま喰べはじめた。温かい
すると、夏侯惇が、
と、たずねた。
これは毎夕定刻に、彼の指令を仰ぐことになっている。つまり夜中の警備方針である。曹操は何の気なしに、
と、つぶやいた。
鶏の骨をしゃぶっていたので、無意識に云い違えたものだろう。だが、夏侯惇は、曹操の言なので、何か
と、布令廻った。
諸将は怪しみ合った。鶏肋とはいったいなんのことか? 誰にも解けない。諸人は疑義まちまち、当惑するばかりだった。ときに行軍主簿の
と、急にいいつけた。
夏侯惇はおどろいた。自分が布令たことであるが、実は自分にも分っていないので、早速、楊修に向って訊いた。
夏侯惇は感服して、おそらく魏王の
その夜も曹操は、心中の
彼はもってのほか愕いた顔している。馳けつけて来た夏侯惇のすがたを見るや否やこう訊ねた。
と、
自分の
と、一喝したのみか、直ちに夏侯惇をかえりみて、軍律を
暁寒き陣門の柱に、楊修はすでに首となって
「ああ、
さすが武骨の将たちも、
かつて、こういう事があった。――
曹操は、善いとも悪いともいわなかった。ただ帰る折に、筆を求めて、門の額をかける横木へ「活」の一字を書いて去った。
(どういう思し召だろう)
そこへ楊修が通りかかった。人々が彼に当惑を告げると、楊修は笑って、
(なるほど)
皆、感心してすぐ庭を造り直し、再度曹操の一遊を仰ぐと、曹操もこんどはひどく気に入ったらしく、
と、たずねた。――で、庭造りの役人が、
「楊修にて候」
と答えると、曹操は急に黙って、喜ぶ色を
なぜというに、楊修の才には、曹操もほとほと感心しながら、余りに、自分の意中をよく読み知るので、その感嘆もいつか妬みに似た
何にしても、才人才に亡ぶの
楊修の言は、楊修が死んでから三日とたたないうちに、そのことばの理由ある
蜀軍は、その日も次の日も、斜谷の陥落もはや
ことに、最後の日は、両軍の接戦、惨烈を極めて、曹操自身も、乱軍の中に巻きこまれ、蜀の魏延と
「斜谷の城中から、裏切者が火の手をあげた」
という混乱ぶりであった。
だが、魏の陣中からあがった火の手は、裏切りがあってのことではなく、蜀の馬超が、斜谷の
しかし城を出て戦っていた魏軍の狼狽はひと通りでない。
「すわ、総くずれだ」と、後方の騒動に前軍も混乱して、まったく統一を失い、収拾もつかぬ有様に、曹操は剣を抜いて味方の上に擬し、
と、督戦した。
しかしその姿を見て、蜀の魏延、張飛などが、
「我こそ、彼の首を」と、
かくと見て、曹操のそばへ、馬をとばして助けにきたのは
と主の前に立ちふさがり、魏延の手勢、張飛の部下など、入れ代り立ち代り寄りたかって来る敵を、わき目もふらず防いだ。
すでに斜谷の関城は、全面、焔につつまれ、山々の樹木まで焼けつづけている。
魏軍は完敗した。今さらのごとく楊修のことばを思い出し、
(あのとき引揚げていたら――)と、思う者は少なくなかった。
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