第76話、孫策の死

文字数 9,095文字

 呉の国家は、ここ数年のあいだに実に目ざましい躍進をとげていた。

 浙江(せっこう)一帯の沿海を持つばかりでなく、揚子江の流域と河口を(やく)し、気温は高く天産は豊饒(ほうじょう)で、いわゆる南方系の文化と北方系の文化との飽和によって、宛然(えんぜん)たる呉国色をここに劃し、人の気風は軽敏で利に明るく、また進取的であった。

 彗星(すいせい)的な風雲児、江東の小覇王孫策(そんさく)は、当年まだ二十七歳でしかないが、建安四年の冬には、廬江(ろこう)を攻略し、また黄祖、劉勲(りゅうくん)などを平げて恭順を誓わせ、予章(よしょう)の太守もまた彼の下風について降を乞うてくるなど――隆々たる勢いであった。

 彼の臣、張紘(ちょうこう)は、いくたびか都へ上り、舟航して、呉と往来していた。

 孫策の「漢帝に(たてまつ)るの(ひょう)」を捧げて行ったり、また朝延への(みつ)ぎ物を持って行ったのである。

 孫策の眼にも漢朝はあったけれど、その朝門にある曹操は眼中になかった。

 孫策はひそかに大司馬の官位をのぞんでいたのである。けれど、容易にそれを許さないものは、朝廷でなくて、曹操だった。

 甚だおもしろくない。

 だが、並び立たざる両雄も、あいての実力は知っていた。

「彼と争うは利でない」

 曹操は、獅子の児と噛みあう気はなかった。

 しかし獅子の児に、乳を与え、(かんむり)を授けるようなことも、極力回避していた。

 ただ手なずけるを上策と考えていた。――で、一族曹仁(そうじん)の娘を、孫策の弟にあたる孫匡(そんきょう)へ嫁入らせ、姻戚(いんせき)政策をとってみたが、この程度のものは、ほんの一時的な偽装平和を彩ったまでにすぎない。日がたつと、いつとはなく、両国のあいだには険悪な気流がみなぎってくる。乳を与えなくても、獅子の児は(きば)を備えてきた。

 呉郡の太守に、許貢(きょこう)という者がある。その家臣が、渡江の途中、孫策の江上監視隊に怪しまれて捕われ、呉の本城へ送られてきた。

 取調べてみると、果たして、密書をたずさえていた。

 しかも、驚くべき大事を、都へ密告しようとしたものだった。

(呉の孫策(そんさく)、度々、奏聞(そうもん)をわずらわし奉り、大司馬の官位をのぞむといえども、ご許容なきをうらみ、ついに大逆を(きざ)し、兵船強馬をしきりに準備し、不日都へ攻めのぼらんの意あり、()くよろしくそれに備え給え)

 こういう内容である。

 孫策は怒って、直ちに、許貢(きょこう)の居館へ詰問(きつもん)の兵をさし向けた。そして許貢をはじめ妻子眷族(けんぞく)をことごとく誅殺(ちゅうさつ)してしまった。

 阿鼻叫喚(あびきょうかん)のなかから、あやうくも逃げのがれた三人の食客があった。当時、どこの武人でも、有為な浪人はこれをやしきにおいて養っておく風があった。その食客三人は、日頃ふかく、許貢の恩を感じていたので、

「何とかして、恩人の(かたき)をとらねばならぬ」

 と、ともに血をすすりあい、山野にかくれて、機をうかがっていた。

 孫策はよく狩猟(かり)にゆく。

 淮南(わいなん)袁術(えんじゅつ)に身を寄せていた少年時代から、狩猟は彼の好きなものの一つだった。

 その日も――

 彼は、大勢の臣をつれて、丹徒(たんと)という集落の西から深山にはいって、鹿、猪などを、おっていた。

 するとここに、

「今だぞ、復讐は」

「加護あれ。神仏」

 と、かねて彼を狙っていた例の食客浪人は、()に毒をぬり、槍の穂を石でみがいて、孫策の通りそうな藪かげにかくれ、一心天を念じていたのであった。


 孫策の馬は、稀世の名馬で「五花馬(かば)」という名があった。多くの家臣をすてて、彼方此方、平地を飛ぶように馳駆(ちく)していた。

 彼の弓は、一頭の鹿を見事に射とめた。

「射たぞ、誰か、獲物(えもの)を拾え」


 振向いた時である。孫策の顔へ、ひゅっと、一本の()が立った。


「あっ」

 顔を(おさ)えると、藪のかげから躍りだした浪人三名が、

「恩人許貢(きょこう)の仇、思い知ったか」と、槍をつけてきた。

 孫策は、弓をあげて、一名の浪人者を打った。しかし、また一方から突いてきた槍に太股をふかく突かれた。五花馬の背からころげ落ちながらも、孫策はあいての槍を奪っていた。その槍で自分を突いた相手を即座に殺したが、同時に、

「うぬっ」と、うしろから、二名の浪人もまた所きらわず、彼の五体を突いていた。

 うう――むッと、大きなうめきを発して、孫策が(たお)れたとき、残る二名の浪人もまた、急を見て馳けつけてきた呉将(ごしょう)程普(ていふ)のために、ずたずたに斬り殺されていた。その附近は、おびただしい血しおで足の踏み場もないほどだった。

 何にしても、国中の大変とはなった。応急の手当を施して、すぐ孫策の身は、呉会の本城へ運び、ふかく外部へ秘した。

華陀(かだ)を呼べ。華陀がくればこんな(きず)はなおる」


 うわ言のように、当人はいいつづけていた。さすがに気丈であった。それにまだ肉体が若い。

 いわれるまでもなく、名医華陀のところへは、早馬がとんでいた。すぐ呉会の城へのぼった。けれど華陀は眉をひそめた。


「いかんせん、(やじり)にも槍にも、毒が塗ってあったようです。毒が骨髄(こつずい)にしみとおっていなければよろしいが……」


 三日ばかりは、昏々(こんこん)とただうめいている孫策であった。

 けれども二十日も経つと、さすがに名医華陀の手をつくした医療の効はあらわれてきた。孫策は時折、うすら笑みすら枕頭の人々に見せた。


 そんなおり、遠く河北の地から、袁紹(えんしょう)の書を持って、陳震(ちんしん)が使いに来た。

 ほかならぬ袁紹の使いと聞いて、孫策は病中の身を押して対面した。

 使者の陳震は、袁紹の書を呈してからさらに口上をもって、

「いま曹操の実力と拮抗(きっこう)し得る国はわが河北か貴国の呉しかありません。その両家がまた相結んで南北から呼応し、彼の腹背を攻めれば、曹操がいかに中原(ちゅうげん)()を負うとも、破るるは必定でありましょう」

 と、軍事同盟の緊要を力説し、天下を二分して、長く両家の繁栄と泰平を計るべき絶好な時機は今であるといった。

 孫策は大いに歓んだ。

 後日返事を送るということで、陳震にはかえってもらった。

 その後、孫策は、すぐに倒れ込んでしまった。

 無理をして陳震との会見を行ったことがいけなかったのか、孫策の症状は急激に悪化した。

 もう名医華陀(かだ)の力も及ばなくなった。孫策も、ひそかに、天命をさとったらしく、或る日、夫人を招いた。

「だめだ……残念ながらもうだめだ……こんな肉体をもって何でふたたび国政をみることができよう。張昭(ちょうしょう)をよんでくれ。そのほかの者どももみなここへ呼びあつめてくれ。……云いのこしたいことがある」

 夫人は、慟哭(どうこく)して、涙に沈みながらも、すぐ城中へ報らせた。


 張昭以下、譜代の重臣や大将たちが、ぞくぞくと集まった。

 孫策は、(しょう)に起き直ろうとしたが、人々が()いてとめた。わりあいに彼の面色は平静であったし、眸も澄んでいた。

「水をくれい」


 と求めて、唇の(かわ)きをうるおしてから、静かに彼はいいだした。


「いまわが中国は、大きな変革期にのぞんでいる。後漢の朝はすでに咲いて凋落(ちょうらく)におののく花にも似ている。黒風濁流は大陸をうずまき、群雄いまなおその土に(ところ)を得ず、天下はいよいよ分れ争うであろう。……ときに、わが呉は三江の要害にめぐまれ、居ながらにして、諸州の動向と成敗を見るに充分である。とはいえ、地の利天産にたのむなかれ。……あくまで国を保つものは人である。汝ら、われ亡きあとは、わが弟を(たす)け、ゆめ怠るな」

 そういって、細い手を、わずかにあげて、


「弟、弟……孫権(そんけん)はいるか」
 と見まわした。

「はい、はい、孫権はここにおりまする」


 群臣のあいだから、あわれにもまだ年若い人の低い声がした。

 それは弟の孫権だった。

 孫権は、泣きはらした眼をふせながら、兄孫策の枕頭へ寄って、


「兄上、お気をしっかり持って下さい。いまあなたに逝かれたら、呉の国家は、柱石を失いましょう。そこにいる母君や、多くの臣下を、どうして抱えてゆけましょう」

 と、両手で顔をつつんで泣いた。

 孫策は、いまにも絶えなんとする呼吸であったが、強いて微笑しながら、枕の上の顔を振った。


「気をしっかり持てと。……それはおまえに云いのこすことだ。孫権、そんなことはないよ。おまえには内治の才がある。しかし江東の兵をひきいて、乾坤一擲(けんこんいってき)を賭けるようなことは、おまえはわしに遠く及ばん。……だからそちは、父や兄が呉の国を建てた当初の艱難(かんなん)をわすれずに、よく賢人を用い有能の士をあげて、領土をまもり、百姓を愛し、堂上にあっては、よく母に孝養せよ」

 刻々と、彼の眉には、死の色が(きざ)してきた。病殿の内外は、水を打ったように寂として、極めてかすかな遺言の声も、一様にうなだれている群臣のうしろの方にまで聞えてくるほどだった。


「……ああ不孝の子、この兄は、もう天命も尽きた。慈母の孝養をくれぐれ頼むぞ。また諸将も、まだ若い孫権の身、何事も和し、そして(たす)けてくれるように。孫権もまた、功ある諸大将を軽んじてはならんぞ。内事は何事も、張昭(ちょうしょう)にはかるがよい。外事の難局にあわば周瑜(しゅうゆ)に問え。……ああ周瑜。周瑜がここにいないのは残念だが、彼が巴丘(はきゅう)から帰ってきたらよう伝えてくれい」

 そういうと、彼は、呉の印綬(いんじゅ)を解いて、手ずからこれを孫権に譲った。

 孫権は、おののく手に、印綬をうけながら、片膝を床について、滂沱(ぼうだ)……ただ滂沱……涙であった。

夫人(おく)。……夫人……」

 孫策は、なお眸をうごかした。泣き仆れていた妻の喬氏(きょうし)は、みだれた雲鬢(うんびん)を良人の顔へ寄せて、よよと、むせび泣いた。


「そなたの妹は、周瑜(しゅうゆ)娶合(めあ)わせてある。よくそなたからも妹にいって、周瑜をして、孫権(そんけん)を補佐するよう……よいか、内助をつくせよ。夫婦、人生の中道に別れる、これほどな不幸はないが、またぜひもない」
 次に、なお幼少な小妹(しょうまい)や弟たちを、みな近く招きよせて、
「これからはみな、孫権を柱とたのみ、慈母をめぐって、兄弟相背(あいそむ)くようなことはしてくれるなよ。汝ら、家の名をはずかしめ、義にそむくようなことがあると、孫策のたましいは、九(せん)(もと)にいても、誓ってゆるさぬぞ。……ああ!」

 云い終ったかと思うと、忽然、息がたえていた。

 孫策、実に二十七歳であった。江東の小覇王が、こんなにはやく夭折(ようせつ)しようとは、たれも予測していなかったことである。

 印綬(いんじゅ)をついで、呉の(あるじ)となった孫権は、この時、まだわずか十九歳であった。

 けれど、孫策が臨終にもいったように、兄の長所には及ばないが、兄の持たないものを彼は持っていた。それは内治的な手腕、保守的な政治の才能は、むしろ孫権のほうが長じていたのである。

 孫権、(あざな)仲謀(ちゅうぼう)、生れつき口が大きく、(あご)ひろく、碧眼紫髯(へきがんしぜん)であったというから、孫家の血には、多分に熱帯地の濃い南方人の血液がはいっていたかもしれない。



 呉は国中()に服した。空に哀鳥(あいちょう)の声を聞くほか、地に音曲(おんぎょく)の声はなかった。

 葬儀委員長は、孫権の叔父孫静(そんせい)があたって、大葬の式は七日間にわたってとり行われた。

 孫権は()にこもって、ふかく兄の死をいたみ、ともすれば()いてばかりいた。

「そんなことでどうしますか。豺狼(さいろう)の野心をいだく輩が地にみちているこの時に。――どうか前王のご遺言を奉じて、国政につとめ、外には諸軍勢を見、四隣にたいしては、前代に劣らぬ当主あることをお示し下さい」

 張昭は、彼を見るたびに、そういって励ました。

 巴丘(はきゅう)周瑜(しゅうゆ)は、その領地から夜を日についで、呉郡へ馳けつけてきた。

 孫策の母も、未亡人も、彼のすがたを見ると、涙を新たにして、故人の遺託をこまごま伝えた。

 周瑜は、故人の霊壇に向って拝伏し、

「誓って、ご遺言に添い、知己(ちき)のご恩に報いまする」

 そのあとで、彼は孫権の室に入って、ただ二人ぎりになっていた。

「何事も、その(もと)は人です。人を得る国はさかんになり、人を失う国は亡びましょう。ですからあなたは、高徳才明な人をかたわらに持つことが第一です」

 周瑜(しゅうゆ)のことばを、孫権は素直にうなずいて聞いていた。


家兄(かけい)も息をひく時そういわれた。で、内事は張昭に問い、外事は周瑜にはかれとご遺言になった。きっと、それを守ろうと思う」
「張昭はまことに賢人です。師傅(しふ)の礼をとって、その言を貴ぶべきです。けれど、私は生来の駑鈍(どどん)、いかんせん故人の寄託(きたく)は重すぎます。ねがわくは、あなたの補佐として、私以上の者を一人おすすめ申しあげたい」

「それは誰ですか」


魯粛(ろしゅく)――字を子敬(しけい)というものですが」


「まだ聞いたこともないが、そんな有能の士が、世にかくれているものだろうか」
()遺賢(いけん)なしということばがありますが、いつの時代になろうが、かならず人の中には人がいるものです。ただ、それを見出す人のほうがいません。また、それを用うる組織が悪くて、有能もみな無能にしてしまうことが多い」
周瑜(しゅうゆ)。その魯粛(ろしゅく)とやらは一体どこに住んでいるのか」
臨淮(りんわい)東城(とうじょう)安徽省(あんきしょう)・東城)におります。――この人は、胸に六韜三略(りくとうさんりゃく)を蔵し、生れながら機謀に富み、しかも平常は実に温厚で、会えば春風に接するようです。幼少に父をうしない、ひとりの母に仕えて孝養をつくし、家は富んでいるものですから東城の郊外に住んで、悠々(ゆうゆう)自適しています」

「知らなかった。自分の領下に、そういう人がおろうとは」


「仕官するのを好まないようです。魯粛の友人の劉子揚(りゅうしよう)というのが、巣湖(そうこ)へ行って鄭宝(ていほう)に仕えないかとしきりにすすめている由ですが、どんな待遇にも、寄ろうとしません」

「周瑜、そんな人が、もしほかへ行ったら大変だ。ご辺が参って、なんとか、召し出してきてくれないか」


「さっきもいった通り、いかなる人材でも、それをよく用いなければ、何にもなりません。あなたに真の熱情があるなら、私がかならず説いて連れてきますが」
「国のため、家のため、なんで賢人を求めて、賢人を無用にしよう。いそいで行ってきてくれい、ご苦労だが」

「承知しました」


 周瑜(しゅうゆ)はひきうけて、次の日、東城へ立った。そして魯粛の田舎を訪ねるときは、わざと供も連れず、ただ一騎で、そこの門前に立った。

 ちょうど田舎の豪農というような家構えだった。門の内には長閑(のどか)(うす)をひく音がしていた。

 その家の門をくぐれば、その家の主人の(たしな)みや家風は自ら分るものという。

 周瑜(しゅうゆ)は、門の内へはいって、まず主人魯粛(ろしゅく)為人(ひととなり)をすぐ想像していた。

 門を通ってもとがめる者なく、内は広く、そして平和だった。あくまでこの地方の大百姓といった構えである。どこやらで牛が啼いている。振向くと村童が二、三人、納屋の横で水牛と寝ころんでいる。

「ご主人はおいでかね」

 近づいて、周瑜が問うと、村童たちは、彼の姿をじろじろと見まわしていたが、

「いるよ、あっちに」と、木の間の奥を指さした。

 見るとなるほど、田舎びた母屋とはかけ離れて一棟の書堂が見える。周瑜は童子たちに、

「ありがとう」

 と、愛想をいって、そこへ向う、疎林(そりん)小径(こみち)を歩いて行った。

 すると、立派な風采をした武人が供を連れて、鷹揚(おうよう)に歩いてきた。魯粛(ろしゅく)の訪客だなと思ったので、すこし道をかわしていると、客は周瑜に会釈(えしゃく)もせず、威張って通りすぎた。

 周瑜は気にもかけなかった。そのまま書堂の前まで来ると、ここには今、柴門(さいもん)をひらいて、客を見送ったばかりの主がちょうどまだそこにたたずんでいた。

「失礼ですが、あなたは当家のお主魯粛どのではありませんか」


 周瑜がいんぎんに問うと、魯粛は豊かな眼をそそいで、


「いかにも、てまえは魯粛ですが、してあなたは」


「呉城の当主、孫権のお旨をうけて、突然お邪魔に参ったもの。すなわち巴丘(はきゅう)の周瑜ですが」

「えっ、あなたが瑜君(ゆくん)ですか」


 魯粛は非常におどろいた。巴丘の周瑜といえば知らぬ者はなかったのである。


「ともあれ、どうぞ……」

 と、書堂に(しょう)じて、来意をたずねた。

 うわさにたがわぬ魯粛の人品に、内心すっかり感悦していた周瑜は、辞を低うしてこう説いた。

「今日の大事は、もちろん将来にあります。将来を(おもんぱ)かるとき、君たる者はその臣を選ばねばならず、臣たらんとする者も、その君を選ぶことが、実に生涯の大事だろうと存ぜられる。――それがしは(つと)にあなたの名を慕っていたが、お目にかかる折もなかったところ、ご承知のとおり呉の先主孫策のあとを継がれて、まだお若い孫権が当主に立たれた。こう申しては、我田引水(がでんいんすい)とお聞きかも知れぬが、主人孫権はまれに見る英邁篤実(えいまいとくじつ)のお方で、よく先哲の秘説をさぐり、賢者を尊び、有能の士を求めること、実に切なるものがある」

 と、まえおきして、


「どうです、呉に仕えませんか。あなたも一箇の書堂におさまって文人的な閑日(かんじつ)に甘んじたり、終生、大百姓でいいとしているわけでもありますまい。世が泰平ならば、或いはそれも結構ですが、天下の時流はあなたのような有能の士を、こんな田舎におくことは許しません。――巣湖(そうこ)鄭宝(ていほう)に仕えるくらいなら……あえてそれがしは云いきります。あなたは、呉に仕えるべきであると」

 周瑜(しゅうゆ)は力弁した。

 魯粛(ろしゅく)はうなずいて、


「少し、待っていて下さい」

 と、魯粛はふいに立つと、客をそこへのこして、ひとり母屋のほうへ行ってしまった。
「失礼しました――」
 と魯粛はまもなく戻ってきて、
「自分には一人の老母がおるものですから、さきほど、老母に呉に仕えることを話したところ、それはよかろうと、歓んでくれました。早速お招きに応じることにしましょう」

 と、快諾の旨を答えた。

 周瑜はこおどりして、

「これでわが三江の陣営は精彩を一新する」


 と、直ちに馬を並べて、呉郡に帰り、魯粛をみちびいて、主君孫権にまみえさせた。

 彼を迎えて、孫権がいかに心強く思ったかはいうまでもない。以来、喪室(そうしつ)の感傷を一(てき)して、政務を見、軍事にも熱心に、明け暮れ魯粛の卓見をたたいた。

 ある日は、ただ二人酒を飲んで、夜半まで燭をかかげて、国事を談じたりなどしていた。

「御身は漢室の現状をどう思う? また、わが将来の備えは?」


 若い孫権の眸はかがやく。

 魯粛は答えていう。


「おそらく漢朝の隆盛はもう過去のものでしょう。かえって寄生木(やどりぎ)たる曹操(そうそう)のほうが次第に老いたる親木を()い、幹を太らせ、ついに根を漢土に張って、繁茂(はんも)してくること必然でしょう。――それに対して、わが君は静かに時運をながめ、江東の要害を固うして、河北の袁紹(えんしょう)と、鼎足(ていそく)の形をなし、おもむろに天下の(げき)をうかがっておられるのが上策です。一朝、時来れば黄祖(こうそ)を平げ、荊州(けいしゅう)の劉表を征伐し、一挙に遡江(そこう)の態勢を拡大して行く。曹操はつねに河北の攻防に暇なく、呉の進出を妨げることはできません」

「漢室が衰えたあと、朝廟(ちょうびょう)はどうなるであろう」


「ふたたび、漢の高祖のごとき人物が現れ、帝王の業が始りましょう。歴史はくり返されるものです。この(とき)に生れ、地の利と人の和を(よう)し、呉三江を継がれたわが君は、よくよくご自重なさらねばなりますまい」

 孫権はじっと聞いていた。彼の耳朶(じだ)は紅かった。

 その後、数日の暇を乞うて、魯粛が田舎の母に会いに行く時、孫権は、彼の老母へといって、衣服や帷帳(いちょう)を贈った。

 魯粛はその恩に感じ、やがて帰府するとき、さらにひとりの人物を伴ってきて、孫権に推薦した。

 この人は、漢人にはめずらしい二字姓をもっていたから、誰でもその家門を知っていた。

 姓を諸葛(しょかつ)、名を(きん)という。

 孫権に、身の上をたずねられて、その人は語った

「郷里は、瑯琊(ろうや)の南陽(山東省・泰山の南方)であります。亡父は諸葛珪(しょかつけい)と申して、泰山の郡丞(ぐんじょう)を勤めていましたが、私が洛陽(らくよう)の大学に留学中亡くなりました。その後河北は戦乱がつづいて、継母の安住も得られぬため、継母をつれて江東に避難いたし、弟や姉は、私と別れて、荊州の伯父のところで養われました」

「伯父は、何をしておるか」


「荊州の刺史劉表(りゅうひょう)に仕え重用されていましたが、四、五年前乱に遭って農民に殺され、いまはすでに故人となっています」

「御身の年齢は」


「ことし二十七歳です」


「二十七歳。すると、わが亡兄の孫策と同年だの」


 孫権は非常になつかしそうな顔をした。

 魯粛はかたわらから、


「諸葛瑾は、まだ若いですが、洛陽の大学では秀才の聞えがあり、詩文経書通ぜざるはありません。ことに自分が感服しているのは継母に仕えること実の母のようで、その家庭を見るも、(きん)君の温雅な情操がわかる気がします」

 と、その為人(ひととなり)を語った。

 孫権は、彼を呉の上賓(じょうひん)として、以来重く用いた。

 この諸葛瑾(しょかつきん)こそ、諸葛孔明(しょかつこうめい)の実兄で、弟の孔明より年は七つ上だった。

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登場人物紹介

劉備玄徳

劉備玄徳

ひげ

劉備玄徳

劉備玄徳

諸葛孔明《しょかつこうめい》

張飛

張飛

髭あり

張飛

関羽

関羽


関平《かんぺい》

関羽の養子

趙雲

趙雲

張雲

黄忠《こうちゅう》

魏延《ぎえん》

馬超

厳顔《げんがん》

劉璋配下から劉備配下

龐統《ほうとう》

糜竺《びじく》

陶謙配下

後劉備の配下

糜芳《びほう》

糜竺《びじく》の弟

孫乾《そんけん》

陶謙配下

後劉備の配下

陳珪《ちんけい》

陳登の父親

陳登《ちんとう》

陶謙の配下から劉備の配下へ、

曹豹《そうひょう》

劉備の配下だったが、酒に酔った張飛に殴られ裏切る

周倉《しゅうそう》

もと黄巾の張宝《ちょうほう》の配下

関羽に仕える

劉辟《りゅうへき》

簡雍《かんよう》

劉備の配下

馬良《ばりょう》

劉備の配下

伊籍《いせき》

法正

劉璋配下

のち劉備配下

劉封

劉備の養子

孟達

劉璋配下

のち劉備配下

商人

宿屋の主人

馬元義

甘洪

李朱氾

黄巾族

老僧

芙蓉

芙蓉

糜夫人《びふじん》

甘夫人


劉備の母

劉備の母

役人


劉焉

幽州太守

張世平

商人

義軍

部下

黄巾族

程遠志

鄒靖

青州太守タイシュ龔景キョウケイ

盧植

朱雋

曹操

曹操

やけど

曹操

曹操


若い頃の曹操

曹丕《そうひ》

曹丕《そうひ》

曹嵩

曹操の父

曹洪


曹洪


曹徳

曹操の弟

曹仁

曹純

曹洪の弟

司馬懿《しばい》仲達《ちゅうたつ》

曹操配下


楽進

楽進

夏侯惇

夏侯惇《かこうじゅん》

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

韓浩《かんこう》

曹操配下

夏侯淵

夏侯淵《かこうえん》

典韋《てんい》

曹操の配下

悪来と言うあだ名で呼ばれる

劉曄《りゅうよう》

曹操配下

李典

曹操の配下

荀彧《じゅんいく》

曹操の配下

荀攸《じゅんゆう》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

徐晃《じょこう》

楊奉の配下、後曹操に仕える

史渙《しかん》

徐晃《じょこう》の部下

満寵《まんちょう》

曹操の配下

郭嘉《かくか》

曹操の配下

曹安民《そうあんみん》

曹操の甥

曹昂《そうこう》

曹操の長男

于禁《うきん》

曹操の配下

王垢《おうこう》

曹操の配下、糧米総官

程昱《ていいく》

曹操の配下

呂虔《りょけん》

曹操の配下

王必《おうひつ》

曹操の配下

車冑《しゃちゅう》

曹操の配下、一時的に徐州の太守

孔融《こうゆう》

曹操配下

劉岱《りゅうたい》

曹操配下

王忠《おうちゅう》

曹操配下

張遼

呂布の配下から曹操の配下へ

張遼

蒋幹《しょうかん》

曹操配下、周瑜と学友

張郃《ちょうこう》

袁紹の配下

賈詡

賈詡《かく》

董卓

李儒

董卓の懐刀

李粛

呂布を裏切らせる

華雄

胡軫

周毖

李傕

李別《りべつ》

李傕の甥

楊奉

李傕の配下、反乱を企むが失敗し逃走

韓暹《かんせん》

宋果《そうか》

李傕の配下、反乱を企むが失敗

郭汜《かくし》

郭汜夫人

樊稠《はんちゅう》

張済

張繍《ちょうしゅう》

張済《ちょうさい》の甥

胡車児《こしゃじ》

張繍《ちょうしゅう》配下

楊彪

董卓の長安遷都に反対

楊彪《ようひょう》の妻

黄琬

董卓の長安遷都に反対

荀爽

董卓の長安遷都に反対

伍瓊

董卓の長安遷都に反対

趙岑

長安までの殿軍を指揮

徐栄

張温

張宝

孫堅

呉郡富春(浙江省・富陽市)の出で、孫子の子孫

孫静

孫堅の弟

孫策

孫堅の長男

孫権《そんけん》

孫権

孫権

孫堅の次男

朱治《しゅち》

孫堅の配下

呂範《りょはん》

袁術の配下、孫策に力を貸し配下になる

周瑜《しゅうゆ》

孫策の配下

周瑜《しゅうゆ》

周瑜

張紘

孫策の配下

二張の一人

張昭

孫策の配下

二張の一人

蒋欽《しょうきん》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

孫権を守って傷を負った

陳武《ちんぶ》

孫策の部下

太史慈《たいしじ》

劉繇《りゅうよう》配下、後、孫策配下


元代

孫策の配下

祖茂

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

韓当

孫堅の配下

黄蓋

孫堅の部下

黄蓋《こうがい》

桓楷《かんかい》

孫堅の部下


魯粛《ろしゅく》

孫権配下

諸葛瑾《しょかつきん》

諸葛孔明《しょかつこうめい》の兄

孫権の配下


呂蒙《りょもう》

孫権配下

虞翻《ぐほん》

王朗の配下、後、孫策の配下

甘寧《かんねい》

劉表の元にいたが、重く用いられず、孫権の元へ

甘寧《かんねい》

凌統《りょうとう》

凌統《りょうとう》

孫権配下


陸遜《りくそん》

孫権配下

張均

督郵

霊帝

劉恢

何進

何后

潘隠

何進に通じている禁門の武官

袁紹

袁紹

劉《りゅう》夫人

袁譚《えんたん》

袁紹の嫡男

袁尚《えんしょう》

袁紹の三男

高幹

袁紹の甥

顔良

顔良

文醜

兪渉

逢紀

冀州を狙い策をねる。

麹義

田豊

審配

袁紹の配下

沮授《そじゅ》

袁紹配下

郭図《かくと》

袁紹配下


高覧《こうらん》

袁紹の配下

淳于瓊《じゅんうけい》

袁紹の配下

酒が好き

袁術

袁胤《えんいん》

袁術の甥

紀霊《きれい》

袁術の配下

荀正

袁術の配下

楊大将《ようたいしょう》

袁術の配下

韓胤《かんいん》

袁術の配下

閻象《えんしょう》

袁術配下

韓馥

冀州の牧

耿武

袁紹を国に迎え入れることを反対した人物。

鄭泰

張譲

陳留王

董卓により献帝となる。

献帝

献帝

伏皇后《ふくこうごう》

伏完《ふくかん》

伏皇后の父

楊琦《ようき》

侍中郎《じちゅうろう》

皇甫酈《こうほれき》

董昭《とうしょう》

董貴妃

献帝の妻、董昭の娘

王子服《おうじふく》

董承《とうじょう》の親友

馬騰《ばとう》

西涼の太守

崔毅

閔貢

鮑信

鮑忠

丁原

呂布


呂布

呂布

呂布

厳氏

呂布の正妻

陳宮

高順

呂布の配下

郝萌《かくほう》

呂布配下

曹性

呂布の配下

夏侯惇の目を射った人

宋憲

呂布の配下

侯成《こうせい》

呂布の配下


魏続《ぎぞく》

呂布の配下

王允

貂蝉《ちょうせん》

孫瑞《そんずい》

王允の仲間、董卓の暗殺を謀る

皇甫嵩《こうほすう》

丁管

越騎校尉の伍俘

橋玄

許子将

呂伯奢

衛弘

公孫瓉

北平の太守

公孫越

王匡

方悦

劉表

蔡夫人

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

蒯良

劉表配下

蒯越《かいえつ》

劉表配下、蒯良の弟

黄祖

劉表配下

黄祖

陳生

劉表配下

張虎

劉表配下


蔡瑁《さいぼう》

劉表配下

呂公《りょこう》

劉表の配下

韓嵩《かんすう》

劉表の配下

牛輔

金を持って逃げようとして胡赤児《こせきじ》に殺される

胡赤児《こせきじ》

牛輔を殺し金を奪い、呂布に降伏するも呂布に殺される。

韓遂《かんすい》

并州《へいしゅう》の刺史《しし》

西涼の太守|馬騰《ばとう》と共に長安をせめる。

陶謙《とうけん》

徐州《じょしゅう》の太守

張闓《ちょうがい》

元黄巾族の陶謙の配下

何曼《かまん》

截天夜叉《せってんやしゃ》

黄巾の残党

何儀《かぎ》

黄巾の残党

田氏

濮陽《ぼくよう》の富豪

劉繇《りゅうよう》

楊州の刺史

張英

劉繇《りゅうよう》の配下


王朗《おうろう》

厳白虎《げんぱくこ》

東呉《とうご》の徳王《とくおう》と称す

厳与《げんよ》

厳白虎の弟

華陀《かだ》

医者

鄒氏《すうし》

未亡人

徐璆《じょきゅう》

袁術の甥、袁胤《えんいん》をとらえ、玉璽を曹操に送った

鄭玄《ていげん》

禰衡《ねいこう》

吉平

医者

慶童《けいどう》

董承の元で働く奴隷

陳震《ちんしん》

袁紹配下

龔都《きょうと》

郭常《かくじょう》

郭常《かくじょう》の、のら息子

裴元紹《はいげんしょう》

黄巾の残党

関定《かんてい》

許攸《きょゆう》

袁紹の配下であったが、曹操の配下へ

辛評《しんひょう》

辛毘《しんび》の兄

辛毘《しんび》

辛評《しんひょう》の弟

袁譚《えんたん》の配下、後、曹操の配下

呂曠《りょこう》

呂翔《りょしょう》の兄

呂翔《りょしょう》

呂曠《りょこう》の弟


李孚《りふ》

袁尚配下

王修

田疇《でんちゅう》

元袁紹の部下

公孫康《こうそんこう》

文聘《ぶんぺい》

劉表配下

王威

劉表配下

司馬徽《しばき》

道号を水鏡《すいきょう》先生

徐庶《じょしょ》

単福と名乗る

劉泌《りゅうひつ》

徐庶の母

崔州平《さいしゅうへい》

孔明の友人

諸葛均《しょかつきん》

石広元《せきこうげん》

孟公威《もうこうい》

媯覧《ぎらん》

戴員《たいいん》

孫翊《そんよく》

徐氏《じょし》

辺洪

陳就《ちんじゅ》

郄慮《げきりょ》

劉琮《りゅうそう》

劉表次男

李珪《りけい》

王粲《おうさん》

宋忠

淳于導《じゅんうどう》

曹仁《そうじん》の旗下《きか》

晏明

曹操配下

鍾縉《しょうしん》、鍾紳《しょうしん》

兄弟

夏侯覇《かこうは》

歩隲《ほしつ》

孫権配下

薛綜《せっそう》

孫権配下

厳畯《げんしゅん》

孫権配下


陸績《りくせき》

孫権の配下

程秉《ていへい》

孫権の配下

顧雍《こよう》

孫権配下

丁奉《ていほう》

孫権配下

徐盛《じょせい》

孫権配下

闞沢《かんたく》

孫権配下

蔡薫《さいくん》

蔡和《さいか》

蔡瑁の甥

蔡仲《さいちゅう》

蔡瑁の甥

毛玠《もうかい》

曹操配下

焦触《しょうしょく》

曹操配下

張南《ちょうなん》

曹操配下

馬延《ばえん》

曹操配下

張顗《ちょうぎ》

曹操配下

牛金《ぎゅうきん》

曹操配下


陳矯《ちんきょう》

曹操配下

劉度《りゅうど》

零陵の太守

劉延《りゅうえん》

劉度《りゅうど》の嫡子《ちゃくし》

邢道栄《けいどうえい》

劉度《りゅうど》配下

趙範《ちょうはん》

鮑龍《ほうりゅう》

陳応《ちんおう》

金旋《きんせん》

武陵城太守

鞏志《きょうし》

韓玄《かんげん》

長沙の太守

宋謙《そうけん》

孫権の配下

戈定《かてい》

戈定《かてい》の弟

張遼の馬飼《うまかい》

喬国老《きょうこくろう》

二喬の父

呉夫人

馬騰

献帝

韓遂《かんすい》

黄奎

曹操の配下


李春香《りしゅんこう》

黄奎《こうけい》の姪

陳群《ちんぐん》

曹操の配下

龐徳《ほうとく》

馬岱《ばたい》

鍾繇《しょうよう》

曹操配下

鍾進《しょうしん》

鍾繇《しょうよう》の弟

曹操配下

丁斐《ていひ》

夢梅《むばい》

許褚

楊秋

侯選

李湛

楊阜《ようふ》

張魯《ちょうろ》

張衛《ちょうえい》

閻圃《えんほ》

劉璋《りゅうしょう》

張松《ちょうしょう》

劉璋配下

黄権《こうけん》

劉璋配下

のち劉備配下

王累《おうるい》

王累《おうるい》

李恢《りかい》

劉璋配下

のち劉備配下

鄧賢《とうけん》

劉璋配下

張任《ちょうじん》

劉璋配下

周善

孫権配下


呉妹君《ごまいくん》

董昭《とうしょう》

曹操配下

楊懐《ようかい》

劉璋配下

高沛《こうはい》

劉璋配下

劉巴《りゅうは》

劉璋配下

劉璝《りゅうかい》

劉璋配下

張粛《ちょうしゅく》

張松の兄


冷苞

劉璋配下

呉懿《ごい》

劉璋の舅

彭義《ほうぎ》

鄭度《ていど》

劉璋配下

韋康《いこう》

姜叙《きょうじょ》

夏侯淵《かこうえん》

趙昂《ちょうこう》

楊柏《ようはく》

張魯配下

楊松

楊柏《ようはく》の兄

張魯配下

費観《ひかん》

劉璋配下

穆順《ぼくじゅん》

楊昂《ようこう》

楊任

崔琰《さいえん》

曹操配下


雷同

郭淮《かくわい》

曹操配下

霍峻《かくしゅん》

劉備配下

夏侯尚《かこうしょう》

曹操配下

夏侯徳

曹操配下

夏侯尚《かこうしょう》の兄

陳式《ちんしき》

劉備配下

杜襲《としゅう》

曹操配下

慕容烈《ぼようれつ》

曹操配下

焦炳《しょうへい》

曹操配下

張翼

劉備配下

王平

曹操配下であったが、劉備配下へ。

曹彰《そうしょう》

楊修《ようしゅう》

曹操配下

夏侯惇

費詩《ひし》

劉備配下

王甫《おうほ》

劉備配下

呂常《りょじょう》

曹操配下

董衡《とうこう》

曹操配下

李氏《りし》

龐徳の妻

成何《せいか》

曹操配下

蒋済《しょうさい》

曹操配下

傅士仁《ふしじん》

劉備配下

徐商

曹操配下


廖化

劉備配下

趙累《ちょうるい》

劉備配下

朱然《しゅぜん》

孫権配下


潘璋

孫権配下

左咸《さかん》

孫権配下

馬忠

孫権配下

許靖《きょせい》

劉備配下

華歆《かきん》

曹操配下

呉押獄《ごおうごく》

典獄

司馬孚《しばふ》

司馬懿《しばい》の弟

賈逵《かき》


曹植


卞氏《べんし》

申耽《しんたん》

孟達の部下

范疆《はんきょう》

張飛の配下

張達

張飛の配下


関興《かんこう》

関羽の息子

張苞《ちょうほう》

張飛の息子

趙咨《ちょうし》

孫権配下

邢貞《けいてい》

孫桓《そんかん》

孫権の甥

呉班

張飛の配下

崔禹《さいう》

孫権配下

張南

劉備配下

淳于丹《じゅんうたん》

孫権配下

馮習

劉備配下


丁奉

孫権配下

傅彤《ふとう》

劉備配下

程畿《ていき》

劉備配下

趙融《ちょうゆう》

劉備配下

朱桓《しゅかん》

孫権配下


常雕《じょうちょう》

曹丕配下

吉川英治


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