第129話、蜀
文字数 4,224文字
綿竹へ着いた日も、ここは合戦で、蜀の馬漢がさかんに攻めている最中だった。
にもかかわらず、留守していた黄忠や
と、劉備に凱旋の賀をのべた。
そのうちに趙雲が、
と、杯をおいて、城外へ出て行ったと思うと、やがて敵将馬漢の首をひッさげて来て、
と披露した。
一堂の将はみな手をたたいた。馬超もこの中にいたので、
と、ひそかに舌をまいて
そこで、馬超は、劉備に向って、
と、進言した。
劉備は、孔明に
それから十数日の後。馬超と馬岱と
と、呼ばわっていた。
城楼の遥かに、劉璋が立った。
馬超は、声を張って、
とその
劉璋は、落胆のあまり、昏倒しかけた。侍臣にささえられて、楼台の内へかくれた様が、馬超と馬岱にも見えた。
ふたりは、馬を
城中では、主戦派、籠城派、また和平派など幾つにもわかれて、二日二晩の評定に大論争がもつれていた。しかし結局は、玉砕か降伏か、その二つを出なかった。
この間にも、劉璋を見限って、城中を抜け出す投降者は続出していた。蜀郡の
と、一晩中、
あくる日、
劉璋は、堂上に請じて、
簡雍は、口を極めて、劉備の人間をたたえ、その性は
劉璋は、一晩、簡雍を泊めて、次の朝、
劉備はみずから迎え立ち、劉璋の手をとって云った。
「私交としては、人情にうごかされるが、時の勢いと、
劉備の眼には、熱い涙すらみえたので、劉璋は、むしろ降伏の時を遅くしたことを、自身の罪と思ったほどであった。
成都の民は、平和を謳歌した。香を焚き、花を
府堂にのぼって、劉備はこう宣言した。
蜀中の大将文官は、ほとんど階下に集まって、異存ない旨を誓ったが、ただ黄権と
「憎むべき反骨」
「なお異心あるにちがいない」
騒然と、その二人に対して、非難の声が起ったが、劉備は、険悪な空気を予察して、
と、かたく盲動を禁じた。
式が終ると、彼は自身足を運んで、
と、まず黄権が出て、門外に
成都は収められた。こうして、蜀中は平定した。
孔明は、劉備へすすめた。
劉備はうなずいた。しかし彼としては、勇気を要した。
孔明がすべてを取り計らった。即ち劉璋を
ここに劉璋は蜀を去って、荊州の南郡に移り、まったくその地位と所をかえて余生する身となった。
劉備は次に、恩爵授与の大令を発した。譜代の大将部将
封爵、栄進の恩に浴した将軍たちの名はいちいち挙げきれないが、劉備は、この栄を留守の関羽に
関羽のみでなく、その下にあって、よく後方を守ってくれた将士軽輩にいたるまで、恩典から洩れないようにした。そのために成都から黄金五百
なお、蜀中の窮民には、
何にしても、蜀の国始まって以来の
劉備も万感を抱いたであろう。国ばかりでなく、このときほどまた、彼の左右に人物の集まったこともない。
ある時、劉備がこう意中をもらすと、趙雲はそれに反対した。
なおこの前後、孔明は、政堂に籠って、新しき蜀の憲法、民法、刑法を起算していた。
その条文は、極めて厳であったので、法正が
孔明は笑って教えた。
孔明はなおいった。
法正は心から拝服して、以来、孔明を敬うこと数倍した。
数日の後、国令、軍法、刑法などの条令が布告され、西蜀四十一州にわたって、兵部が設けられた。内は民を守り、外は国防にあたり、再生の「蜀」はここに初めて国家の体をそなえた。
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