第131話、宮中の冬
文字数 4,960文字
魏の大軍が呉へ
嘘でもなかったが、早耳の誤報だったのである。
この冬を期して、曹操が宿望の呉国討伐を果たそうとしたのは事実で、すでに南下の大部隊を編制し、各部の諸大将の任命も内々決定していたのであるが、参軍の
一、今はその時でない事
一、漢中の張魯、蜀の劉備などの動向の重大性
一、呉の新城
一、魏の内政拡充と臨戦態勢の整備
等の項目にわたって
新たに、文部の制を設け、諸所に学校を建てて、教学振興を計った。
彼がこうして少し、善政を
宮中の
「曹丞相はもう魏王の位に即かるべきだ。魏王になられたところで、何のふしぎもない」
と、運動をしはじめた。
うわさを聞いて、
これが人伝てに、曹操の耳へ入ったのである。もちろんその間に、為にする者の肚も入っているから、曹操は非常な不快を感じた。
非常に立腹して、そう罵ったと聞えたから、それをまた、人伝てに耳にした筍攸は、いたく気に病んで、門を閉じて自ら謹慎したまま遂に、その冬、病死してしまった。
死んでみると、曹操は、
で、魏王に
「……趙儼が、市へひきだされて、斬られたそうです」
朝臣が告げた。
帝は、玉体を震わせ給うて、
幽宮の秘窓に、おふたりの涙は渇かなかった。事実曹操の威と、許都の強大が、
「こうして朝夕、針の
伏皇后は、ついに思いきって帝の御意をこう動かした。
もとより献帝のご隠忍は年久しいことだったので、胸中の
これを
朝臣のうちにも、曹操のまわし者たるいわゆる「
すぐ密告して、曹操の耳へこう伝えた者がある。
「何かそそくさした様子で、穆順が
勘のよい曹操には、すぐ何かぴんと響くものがあったに違いない。彼は、わずかな武士をつれて、自身、内裏の門にたたずみ、穆順がもどって来るのを待っていた。
もう深更だった。
穆順は何も知らずに、帰ってきた。門の衛士には、出るとき賄賂をやってある。あたりに人影はない。すたすたと内裏の門へさしかかった。
ふいに物蔭から呼び止める声がした。ふと横を見れば、曹操が立っているのだ。穆順はゾッとして
闇のほうへさしまねいて、武士達を呼び、「こいつの体を
武士達は、穆順の衣服を
虎の口をのがれたように、穆順は衣服を着直すとすぐ走りかけた。
すると、頭にかぶっていた帽子が、夜風に落ちた。
あわてて拾いかけると、
曹操は、自分でその帽子を取って、仔細に
帽子の中からも、何も出なかった。汚い物を捨てるように、
と、投げ返してやると、穆順は、両手に受けて、真蒼になった顔の上に、それをかぶった。
曹操は、三度呼びとめた。そして今度は、穆順がかぶり直した帽子を引きちぎって、その下の
曹操は舌を鳴らした。一通の紙片があらわれたのだ。細字で綿密に書いてある。伏完の筆蹟で、むすめの伏皇后にあてたものであった。
――こよい
文意はあらまし右のようなものだった。怒りの極度というものはかえって氷塊の如く冷やかである。曹操は一笑をたたえて、伏完の返簡を袖に納めると、
と、命じて、府へ立ち帰った。
夜明け頃、獄吏が、階下にひざまずいて、
「穆順を拷問にかけて、夜どおし責めましたが、一言も吐きません」
と、吟味に疲れた
一方、伏完の宅を襲った兵達は、帝の内詔を発見して持ってきた。曹操は冷然と、武将に命をさずけた。
さらに、
伏皇后も含め、伏完の一門から穆順の一族縁類の端まで、総計二百何十人という男女老幼を、この日たった半日のまに残らず捕えて、
とき建安十九年十一月の冬、天もかなしむか、曇暗許都の昼を閉じ、枯葉の
曹操は、自身の娘を、
急に、魏公が、あなたと
曹仁は、洛中の邸から、すぐ内府へ急いだ。
ここの政庁の府でも、曹仁は魏公の一門に連なる身なので、肩で風を切るような態度で、どこの門も、大威張りで通った。
すると、曹操のいる中堂の入口まで来ると、
と、何者かに
見ると、
どうしても通さない。頑として曹仁を入れなかった。
やむなく、待っているうちに、ようやく曹操は昼寝から起きたとある。曹仁はやっと通されて、魏公に会うと、
と、ありのまま話した。曹操は聞くと、
と、かえって、彼の忠誠を大いに
間もなく、夏侯惇も来た。
夏侯惇がすぐ答えた。
それは賈詡の言だった。
漢中は、まもなく、騒動した。
「――魏の大軍が、三手にわかれて来るとある。一手は夏侯惇、一手は曹仁、一手は夏侯淵と
「どうして防ぐか」
「まず、漢中第一の嶮要、
張衛を大将に、
陽平関は、その左右の山脈に森林を擁し、長い裾野には、諸所に
関をへだつこと十五里。すでに魏の西征軍の先鋒は、陣地を構築しはじめていた。
(ログインが必要です)