第133話、合淝の戦い
文字数 11,275文字
戦後経営の施政などにはもっぱら参与して、その才能と圭角をぽつぽつ現わし始めていたが、一日、曹操にこう進言した。
「
重臣の
と、しきりに云った。
これが以前の曹操だったら、一議に及ばぬことであろうが、赤壁の頃から、すでに彼も老齢に入る
と、急に動く気色もなかった。
一方、蜀の実情は、魏軍の目ざましい進出に対して、たしかに深刻な脅威をうけ、流言
何分にも、更生の蜀は、劉備によって、新秩序が立てられてから、まだ日も浅いので、劉備自身、多大の
その対策について、相議する時、孔明は明確に、方針を説いた。
劉備が、座中を見まわした時、ふと一人の者と眼を見あわせた。その者はすぐ起って、
と、神妙にいった。諸人が、誰かと見ると、それは
と、孔明もうなずいたし、満座もみな彼に
呉へ着く前、伊籍は、荊州へ上陸して、ひそかに関羽に会った。もちろん劉備の内意と孔明の遠謀を語って打合せをすましておくためである。
呉では、この交渉をうけて、諸論
「断じて受けるな」といい、ある者は、
「それを
また、使者の伊籍が説くには、
というのだった。
だから、三郡を受取るには、条件付のようなものだった。結局、張昭や
荊州の領土貸借問題は、両国の国交上、多年にわたる
そこで、三郡の領土接収が無事にすむと、呉と蜀とは、初めて修交的な関係に入り、呉は、大軍を出して、
「まず、魏の
と、大体の作戦方針をそうきめた。
しかし皖城の攻略は、決して楽でなかった。
呉としては、
満城の血潮もまだ乾かぬ中で、孫権は、占領の日、
と、士気を鼓舞していた。
ところへ、
と、凌統が左右の人々に語っていると、
と、上座のほうから慰め顔にいった者がある。
見ると、甘寧であった。
甘寧は、こんどの皖城陥落の際、一番乗りをしたので、きょう祝賀の宴に、呉侯孫権から錦の
甘寧のほうでも、
といわぬばかりな眼光で、にらみつけた。
凌統はハッとした。まったく時も場所がらも忘れて、剣にかけていた自分の手に、気がついたからだった。
いいながら彼はすぐ起って、剣舞をしはじめた。甘寧もさてはと、うしろの
すわ、大事と見たので、
初めは、何気なく見えていたが途中から孫権も気づいて、酔も醒めんばかりな顔していた。しかし呂蒙の機転に、ふたりとも血を見ずに、座へもどったので、彼はほっとしながら、
と、さしまねき、両手の杯を、同時にふたりの手に授けて、
と、くれぐれ
ここは、魏の境、国防の第一線と、身の重責を感じていたからである。
ところが、呉軍十万の圧力のもとに、前衛の
また、漢中に出征中の曹操からも、変を聞いて、
同じ城にある副将の楽進と李典は、
「では聞き給え、読み聞かせよう。……呉ノ積極ニ出デ来レル
李典は、日頃、張遼と仲がわるい。そのせいか、黙りこんだまま返辞もしない。
一方の楽進は、すぐ云った。彼の意見は反対である。
張遼はみなまで聞いていなかった。この際、議論は無用と肚はきまっていたからである。
云い捨てて馬を呼び、はや戦場へ馳せ向おうとした。
すると、それまで黙然としていた――日頃は彼と不和な李典が、ぬっくと起って、
と決然、張遼につづいて、城門から馳け出して行くのを見て、楽進もひとりで議論しているわけにもゆかず、続いて城外へ馬を出した。
呉の大軍は、すでに
といよいよ勝ち
そして、逍遥津の地を離れかけた頃、突然、右からは李典、左からの軍は
先手の
後陣の
だが、はるかに、中軍の旗が、裂かれる如く、乱れ立ったのを見て、凌統は、
と、部下をも置き捨て、単騎、これへ馳けつけて来た。
見れば、孫権以下、中軍の旗本七百ばかりは、敵の奇襲に包囲されて、まったく
凌統は、声をあげて、乱軍のなかの孫権へ叫んだ。
耳へとどいたか、孫権はふり向いて、
と云いながら、こちらへ向って、一目散に馳けてきた。
だが、二人して小師橋まで
馬は、水におどろいて、竿立ちになっていななく。
うしろからは、張遼の兵、三千ほどが、ふたりの影を認めて、雨のごとく、
孫権は、馬と共に、鞍上で身を揉んだ。
凌統は、水ぎわから遠くへ、馬をかえして、改めて、勢いよく馳け出した。そして破壊された橋の水ぎわへ近づくや否、鞭も折れよと、馬のしりを打った。
馬は高く跳び上がって、水面を飛びこえ、後方の橋の端へ立った。孫権も、その
河の上に、後陣の徐盛や董襲の船が見えた。凌統は、半分になっている橋の上から、
と、声をかけて、ふたたび前の所を飛び、岸へ上がったと思うと、敵の矢風へ向って、まっしぐらに馳け向ってゆく。
遠く先へ出過ぎた甘寧と呂蒙もにわかに後へもどって、魏軍と接戦していたが、何分にも、虚を衝かれたため、その備えは、中軍や後陣と一致せず、各所で魏軍に包囲されたり、寸断されたりして、おびただしい戦死者を出してしまった。
わけて、惨たる潰滅をうけたのは、凌統の隊だった。孫権の急場を救うために、まったく隊形を失い、主将を見失っている間に、魏の李典軍の包囲下に圧縮されて、これはほとんど一人の生存者もなかったほど、ひどい
隊長の、凌統も、二度目に引返してきたときは、すでに部下の大半以上討たれていたので、その苦戦ぶりは言語に絶し、ついに全身数ヵ所の
もう彼には、馬に鞭を加えて、そこを一跳びに越すような気力などがとうていなかったし、流れ入る血しおに、眼もかすんで、河も水も見えないような姿だった。
河中の舟から孫権が、その姿を見つけた。孫権は舟べりを叩いて、
と、声も
ようやく一つの舟が、岸へ寄って、彼を拾ってきた。そのほか敗残の味方も、次々に河の北へ収容した。敵に追われて、舟を待ついとまもなく、
孫権は、敗軍をまとめて、その損傷の莫大なのに、胆をすくめながら、無念そうにくり返してばかりいた。
重傷の凌統は、全身の
孫権も涙を流してつぶやいた。
しかし、大事はここに一頓挫をきたした。呉軍は、新手を加えて、再装備の必要に迫られ、ついに大江を下って、呉の
呉の国では、幼い子どもまでが、魏の
以ていかに、張遼の勇と、その智が、呉兵の胆にふかく刻みこまれたかがわかる。
張遼は、みずから、
と、いっていた。
すぐ急使を漢中に送り、ひとまず戦況を報告して、なお他日のために、大軍の増派を要請した。
曹操も、この二大方向の
いま漢中は
いわんや、呉といえば、あの赤壁の恨みが
曹操は決断した。壮図なお老いずである。江を下る百帆の兵船、陸を行く千車万騎、すでに江南を呑むの概を示して、大揚子江の流れに出で、呉都
「来れ、遠路の兵馬」と、呉軍は待ち構えていた。彼が長途のつかれを討つべく。
その先陣を希望して、われに、自分にと、争った者は、またしても、宿怨ある
孫権も、他の諸大将と、輪陣を作って、堂々、あとから押出した。
濡須一帯は、戦場と化した。曹操の先鋒は、泣く子も黙る
と、呂蒙は一軍を率いて駈け出した。
そのあとへ、甘寧が来て、
「案外、敵は堅固です。総勢約四十万、さすがにどの陣も、疲労を見せておりません。これに、長途の疲労あるものと、正面からかかっては、大きな誤算となりましょう。てまえに、屈強の兵百人をおさずけ下さい。今夜、曹操の本陣を脅かしてごらんに入れます」
と孫権は彼の希望を容れた。特に直属の精鋭中から百人を選んで与えた。
甘寧は夕方、その百勇士を自分の陣所に招いて、一列に円くなって坐り、酒十樽、羊の肉五十
と、まず自身、
肉を喰い、酒をあおり、百名は遺憾なく近来の慾をみたした。そこで甘寧は、
と告げた。
一同は顔を見あわせた。酔った眼色も急にうろたえている。こんな百人ばかりの勢でどうして? ――といわんばかりな顔つきだ。
甘寧は、さッと、剣を抜き、起って、
違背する者は斬らんという前触れである。ここで死ぬよりはと、百勇士はことごとく、剣の下に坐り直して、
「ねがわくは将軍に従って死をともにしたいと思います」
と、ぜひなく誓った。
と、白い
夜も二更を過ぎると、この一隊は
柵へ近づくや、立ちどころに
たちまち、諸所に火の手があがる。
暗さは暗し、曹操の旗本は、右往左往、到る所で、同士討ちばかり演じた。
甘寧は、思う存分、あばれ廻った。時分はよしと、百人を一ヵ所にあつめ、一兵も損ぜず、風のごとく引返してきた。
孫権は、刀百
魏に張遼あるも、呉に甘寧あり――と、呉の士気は、ために大いに振るった。
昨夜の雪辱を期してであろう。夜が明けるとともに、
呉の凌統も、手に
凌統は、馬上、刀をひっさげて、疾風のように斜行し、
と、斬りつけた。
と楽進は、槍をひねって、直ちに応戦してきた。
人違いか――と、舌打ちしたが、もうほかを顧みるいとまもない。楽進を相手に、五十余合も戦った。
すると、彼方の張遼のうしろから、曹操の御曹司曹丕が、鉄弓を張って、ぶんと矢を放った。
凌統を狙ったのだが、すこし
と楽進は、槍を逆しまにして、地上へ向けた。凌統が勢いよく落馬していたからである。
ところが、その時また、どこからか一本の矢がひょうッと飛んできた。楽進の兜に当たったので、楽進は、槍を投げて、
呉の将も倒れ、魏の将も傷ついたので、両軍同時にわっと混み合って、互いに味方を助けて
孫権の前に出て、凌統が面目なげに詫びると、孫権は、
といった。
凌統は、座の左右を見まわした。甘寧が黙ってひかえている。はっと思うと、孫権はかさねて、
といった。
凌統は、甘寧の前に手をつかえた。以来ふたりは、旧怨をわすれ、生死の交わりをむすんだという。
次の日、魏の軍は、前日に倍加した勢いで、水陸から、呉陣へ迫った。
呉陣も、それに応ずる大軍を展列して、
この日、目ざましかったのは、徐盛、
しかも董襲の兵船は、河の中で沈没し、そのほかの兵船も、帆を裂かれ、彼方此方の岸にぶつけられ、さんざんな目に遭ったところへ、新手の魏軍が、徐盛の兵を包囲して、その半ばを、殲滅してしまった。
と孫権の指揮をうけて、陳武が呉陣から馳け出して来ると、魏の一軍が、堤の蔭からつと起って、
と、漢中から従ってきた魏軍の中では新参の
かくて、この荒天の下、呉の旗色は、急に悪くなって、今は、総敗軍のほかなきに至ったが、若い孫権は、
と、自身、中軍を引いて、濡須の岸へ、繰りだしてきた。ところがここには、張遼、徐晃の二手が待ちかまえていた。
曹操は百戦練磨の人。孫権は体験少なく、ややもすれば、血気に
いまや、
曹操は小高い
それは自分を励ました声と、
呉兵の死屍はいやが上にも
呉の一将周泰は、その中をよく奮戦して、一方に血路をひらき、河流の岸までのがれて来たが、顧みると、主君孫権はなお囲みから出ることができず、彼方にあって揉みつつまれている様子。
呼ばわりつつ、周泰は敵の背後へまわって、その包囲を脅かし、一角の崩れを見ると、
と、孫権と馬を並べ、ほとんど、わき目もふらず、敵の矢道を走り抜けた。
そこへ折よく、呂蒙の一軍が、中軍の大敗を案じて引っ返して来た。周泰は、
と水へ向って声を
けれど、あとの戦場は、なお土煙や血煙に、濛々としている。孫権は、悲痛な声してさけんだ。
周泰は、ふたたび戻って、むらがる魏の人馬の中へ、没していった。孫権は、思わず、ああと、
眉をふさいで、
周泰は帰ってきた。しかも徐盛を
けれど二人とも、満身
呂蒙はその間に、射手百人の弓陣を布いて、追い迫ってくる敵を喰いとめ、さらに、その弓陣を、船上に移し、孫権の身を守りながら、徐々と下流へ退陣した。
ここに悲壮な討死をとげたのは、呉の陳武だった。彼は
曹操は、前夜、自己の中軍を
と、自身江岸に沿って、士卒を励まし、数千の射手に、絶好な
その上、いよいよ広やかな河の合流点まで来ると、本流長江のほうから呉の兵船数百艘がさかのぼって来た。これなん一族の
孫権は初めて蘇生の思いをなした。
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