第141話、関羽と龐徳
文字数 9,564文字
魏の援軍数万騎と。
曰く、
大将于禁、副将龐徳、さらに魏王直属の七手組七人の大将も、その士馬精鋭をひっさげ、旋風のごとく、進軍中と。
またいう。
先鋒の龐徳は、関羽の首をあげずんば還らずと、白き旗に、「必殺関羽」と書き、軍卒には
この報告を聞くと、関羽は、勃然と面色を変じ、その長い
直ちに、馬を寄せてまたがり、また養子の
関平は、父の乗馬の口輪をつかんだ。そしてその前に立ちふさがり、
「こは父上らしくもないことです。たとえ龐徳がどんな豪語を放とうと、珠を以て雀に抛ち、剣を以て
関羽は子の忠言に、よろこびを示した。父をいさめるようにまで、わが子関平も成人したかと思うのであろう。
若い関平は、たちまち馬上の人となり、部下一隊を白刃でさしまねくと、
やがて前方に、雲か
関平は、馬をとどめて、
と、大音で呼んだ。
遠く眺めていた龐徳は、
と、左右にたずねた。
誰も知る者はいなかった。
けれど、云っていることは、一人前以上である。ついに怒気を発したか、
と、陣列を開かせて、颯々、関平の前にあらわれた。
龐徳がいうと、関平は、
関平は馬もろとも、いきなり龐徳へ跳びかかった。
閃々、刀を舞わし、龐徳に迫って、よく戦ったが、勝負はつかない。
ついに相引きの形で引きわかれたが、さすがに若くて猛気な関平も、肩で大息をつきながら、満身に湯気をたてていた。
関羽は合戦の様子を聞いて、次にはかならず関平が負けると思ったらしく、にわかに、その翌朝、部下の
そして、きょうは自分が、龐徳を誘うから、父の戦いぶりを見物しておれと告げて、愛馬
戦場の微風は、関羽の髯をそよそよとなでていた。
と一
という答えが聞え、それを
渦巻く味方の物々しい声援に送られて、ただ一騎、龐徳はこなたへ馬を向けてきた。その姿が関羽の前にぴたと止ると、魏の陣も蜀の陣も、水を打ったようにひそまり返ってしまった。
まず龐徳が大音をあげた。
「われはこれ、天子の
関羽は苦笑してそれに答えた。
馬蹄の下からぱっと黄塵が煙った。
戦えば戦うほど、両雄とも精気を加えるほどなので、双方の陣営にある将士はみな酔えるが如く手に汗をにぎっていたが、猛戦百余合をかぞえた頃、突然、蜀の陣で
これは養子の関平が、いかに英豪でも年とった父のこと、長戦になっては万一の事もあろうか――と急に
関羽は、本陣へ引いて、休息をすると、諸将や関平に向って、話していた。
関平は
一方の龐徳も、魏の味方のうちへ帰ると、口を極めて、関羽の勇を正直にたたえていた。
けれど、龐徳は、
と、耳にもかけなかった。
あくる日、龐徳はふたたび、
と、敵へ挑みかけた。
きょうは龐徳から先に出て呼ばわっている。もとより関羽も待ちかまえていた所だ。直ちに馬をすすめ、賊将うごくなかれと
戦い五十余合に至って、龐徳は急に馬をめぐらして逃げかけた。関羽はそれを偽計と察しながら、
と、追いすがった。
すると不意に、陣地の内から馬を飛ばして駈け出してきた関平が、
父の危機と見てうしろから注意した。
とたんに早くも龐徳の放った矢が、びゅっと、関羽の顔を狙って飛んできた。関羽は左の
関平は馬を寄せて父を抱いた。そして父を救うて戻ろうとしたが、かく見るや、龐徳はまた、弓を投げ、
すわとばかり蜀の陣は鼓を打って動揺した。魏の陣も突貫してきた。双方はたちまち乱軍状態になる。そのあいだをくぐって、関平は無二無三に、父を扶けて味方のうちへ駈け込んだ。
そのとき魏の中軍では、さかんに
と、訊ねた。
龐徳は歯ぎしりを噛んでいた。于禁のため今日の勝機を逸しなければ、関羽の首を挙げ得たものをと、くり返して止まなかった。
また一部の将の間には、それは于禁が自分の功を龐徳に奪われんことを怖れて、急に退き鉦を鳴らさせたものだと、
ともあれこの一日に、関羽は一
と、
傷口は浅いようだったが、薬の
それをよいことにして、敵は毎日のように
龐徳から于禁へこう献策をしてみたが、于禁はそれに対しても、魏王の訓戒をくり返して、
と、容易に龐徳のすすめに賛成する気色もない。のみならず、その後、例の七手組の諸将を
父の
と、
ところが魏軍はにわかに陣容を変えて、樊城の北方十里へ移ったという報告に、
と、
を見るべく、関羽は高地へ登って、遥かに手をかざした。
まず、樊城の城内をうかがえば、すでにそこの敵は外部と断たれてから、士気もふるわず旗色も
また一方、城外十里の北方を見ると、その附近の山陰や谷間や河川のほとりには、なんとかして城中の味方と連絡をとろうとしている魏の七手組の大将が七軍にわかれて、各所に陣を伏せている様子が明らかに遠望された。
しきりと、地勢をながめていた関羽は、案内者へ向ってたずねた。
「
「
「されば、あの山向うは、樊城の
と、いった。
諸将は、彼の意をはかりかねて、その仔細をたずねたが、関羽は
と、云ったのみで、その日以後は、もっぱら兵を督して、附近の材木を伐り、
「陸戦をするのに、何だってこんなに船や筏ばかり作らせているのだろう」と、将卒はみなこの命令を怪しんでいたが、やがて秋八月の候になると、明けても暮れても、連綿と長雨が降りつづいた。
関羽は、高きに登って、敵の七陣を毎日見ていた。岸に近いところの陣も、谷間の陣も次第に増してくる水におわれて、毎日毎日少しずつ高いところへ移ってゆく。……しかし背後の山は
関平は、一隊をひきつれて、雨中をどこかへ駈けて行った。襄江の
その日、
于禁は苦りきって、無用な説を拒むような顔を示した。
成何は恥じ怖れて本陣を辞去した。けれど彼の憂いと不満は去らなかった。彼はその足で
龐徳はたいへん驚いた。眼をそばだて膝を叩いて、
しかし、その
関羽は兵船の上から悠々下知していた。
この日関平が上流の一川の
関羽は夜どおし洪水の中を漕ぎ廻り、多くの敵を水中から助けて降人の群れに加えていたが、やがて朝の光に一方の山鼻を見ると、そこにまだ魏の旗がひるがえって、約五百余の敵が一陣になっている。
「おう、あれにおるは、魏の龐徳、
蜀の軍卒は、その兵船や筏をつらねて、旗の群れ立つ
矢は疾風となってそこへ集まった。五百の兵は見るまに三百二百と減って行った。董起や成何は、所詮逃げる途はないと
と云ったが、ひとり龐徳は、弓を離さず、
と云って、矢数のある限り、射返し射返し、奮戦していた。
と、関羽の一船もそこへきて短兵急に矢石を
魏の将士は、ばたばた倒れては水中へ落ちてゆく。しかもなお
成何も今は死を決し、おうっとそれへ答えるや否や、槍を揮って、崖下へ駈け出した。敵の一つの
だが、近づくが早いか、成何は大勢の敵に、滅多斬りにされてしまった。蜀の兵は
と、頭上へ落した。血と肉と岩石は、粉になって飛んだ。
彼は手近な岩石をあらかた投げ尽した。いかに
人も筏もその下にはみな影を没し去っていた。龐徳はまた弓を握った。しかし彼の周囲には
なお、ばしゃばしゃと
またたくまに船中の兵七、八名を斬殺すると、彼は悠々岬を離れて、濁流の中へ棹さして
すると、まるで
「やったな、見事」
「誰だ、あの大将は」
蜀軍はそれを見て、みな声をあげ、手を振って賞めた。不死身の龐徳も船もろとも水煙の底へ葬られたからだ。
ところが、彼を葬った蜀の一将は、それをもって満足せず、直ちに、自分も濁流の中へ身を躍らした。そして渦巻く波を切って泳ぎ、当の相手龐徳と水中に格闘して、遂にその大物を生捕ってしまったのである。
戦いすでに終ったので、関羽は船を岸に返し、その勇士が龐徳をひいてくるのを待っていた。勇士の名は、蜀軍随一の水練の達者
関羽の前には、魏の総司令
と、云った。
次に龐徳が来た。
龐徳は傲然と突立ったまま、地へ膝をつけなかった。関羽はこの男の勇を惜しんで、
龐徳は黙って、地に坐った。その首を前へのばすや否や、
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