第141話、関羽と龐徳

文字数 9,564文字

 樊城(はんじょう)の包囲は完成した。水も漏らさぬ布陣である。関羽はその中軍に坐し、夜中ひんぴんと報じてくる注進を聞いていた。

 (いわ)く、

 魏の援軍数万騎と。

 曰く、

 大将于禁、副将龐徳、さらに魏王直属の七手組七人の大将も、その士馬精鋭をひっさげ、旋風のごとく、進軍中と。

 またいう。

 先鋒の龐徳は、関羽の首をあげずんば還らずと、白き旗に、「必殺関羽」と書き、軍卒には(ひつぎ)をかつがせ、すでにここから三十里余の地に陣し、螺鼓銅鉦(らこどうしょう)を鳴らして、気勢ものすごきばかりにて候う――と。

 この報告を聞くと、関羽は、勃然と面色を変じ、その長い(ひげ)に風を呼んで云った。

「匹夫、われを(はずかし)めるか、よしその儀なれば、まず龐徳の望みにまかせ、彼を持参の柩に納めてやろう」


 直ちに、馬を寄せてまたがり、また養子の関平(かんぺい)を呼んで云った。


「父が、龐徳と戦うあいだ、汝は油断なく、樊城を()け、魏の援軍、城外三十余里のあなたに来れりと知れば、城兵の気はとみに(たか)まり、油断していると反撃してくるぞ」


 関平は、父の乗馬の口輪をつかんだ。そしてその前に立ちふさがり、


「こは父上らしくもないことです。たとえ龐徳がどんな豪語を放とうと、珠を以て雀に抛ち、剣を以て(はえ)を追うような、もったいないことはなさらないでください。彼が如き鼠輩(そはい)を追うには、私でたくさんです。私をおつかわし下さい」


「うむ。……まず試みに、おまえが行って当ってみるか」


 関羽は子の忠言に、よろこびを示した。父をいさめるようにまで、わが子関平も成人したかと思うのであろう。


「行ってきます。吉左右(きっそう)をお待ち下さい」


 若い関平は、たちまち馬上の人となり、部下一隊を白刃でさしまねくと、凛々(りんりん)、先に立って駈けだした。

 やがて前方に、雲か(かすみ)をひいたように、敵の第一陣線が望まれた。手をかざして見れば、(くろ)い旗には「南安之龐徳(なんあんのほうとく)」と印し、白い旗には「必殺関羽」と書いてあるのが見える。

 関平は、馬をとどめて、


西羗(せいきょう)の匹夫、節操なき武将。これへ出て、真の武将たるものに挨拶せよ」

 と、大音で呼んだ。

 遠く眺めていた龐徳は、


「あの青二才は何者か」

 と、左右にたずねた。

 誰も知る者はいなかった。

 けれど、云っていることは、一人前以上である。ついに怒気を発したか、

「小僧、(ひと)ひねりにしてくれん」


 と、陣列を開かせて、颯々、関平の前にあらわれた。


小輩(しょうはい)、小輩、いったい汝はどこのちんぴらなるか」


 龐徳がいうと、関平は、


「われこそは五虎大将軍の関羽の養子、関平という者だ」


「あはははは。道理で乳くさい小せがれと遠目にも見ていたが、関羽の養子関平か。――帰れ帰れ。われはこれ、魏王の命をうけて、汝の父の首を取りにきた者で、汝のようなまだ襁褓(おしめ)のにおいがするような疥癩(かいらい)の小児を、(くびき)りに来たのではない。――われ汝を殺さず、汝この旨を父に伝え、父の卑怯をいさめて、父をこれへ出してこい」

「――なッ、なにを!」


 関平は馬もろとも、いきなり龐徳へ跳びかかった。

 閃々、刀を舞わし、龐徳に迫って、よく戦ったが、勝負はつかない。

 ついに相引きの形で引きわかれたが、さすがに若くて猛気な関平も、肩で大息をつきながら、満身に湯気をたてていた。

 関羽は合戦の様子を聞いて、次にはかならず関平が負けると思ったらしく、にわかに、その翌朝、部下の廖化(りょうか)に城攻めの方をあずけ、自分は、関平の陣へ来てしまった。

 そして、きょうは自分が、龐徳を誘うから、父の戦いぶりを見物しておれと告げて、愛馬赤兎(せきと)を、悠々両軍のあいだへ進めた。

 戦場の微風は、関羽の髯をそよそよとなでていた。


「龐徳はなきか」

 と一(せい)敵陣へ向って、彼が呼ばわると、はるかに、月を望んで谷底から吼える虎のように、


「おうっ」


 という答えが聞え、それを(しお)に、わあっという喊声(かんせい)、そして陣鼓戦鉦(じんこせんしょう)など、一時に喧しく、鳴り騒いだ。

 渦巻く味方の物々しい声援に送られて、ただ一騎、龐徳はこなたへ馬を向けてきた。その姿が関羽の前にぴたと止ると、魏の陣も蜀の陣も、水を打ったようにひそまり返ってしまった。

 まず龐徳が大音をあげた。


「われはこれ、天子の(しょう)をうけ、魏の直命を奉じて、汝を征伐に来た者である。汝、わが威を恐れてか、卑劣にも、養子の弱輩を出して、部下の非難をのがれんとするも、天道(あに)この()になって、兇乱の罪をゆるすべきか、それほど命が惜しくば、馬を下って、降人となるがいい」


 関羽は苦笑してそれに答えた。


西羗(せいきょう)鼠賊(そぞく)が、権者の鎧甲(がいこう)を借りて、人に似たる言葉を吐くものかな。われはただ今日を嘆く。いかなれば汝のごとき北辺の胡族(えびす)の血を、わが年来の晃刀(こうとう)に汚さねばならぬか――と。やよ龐徳、はや棺桶をここへ運ばせずや」

「なにをっ」


 馬蹄の下からぱっと黄塵が煙った。旋風(つむじかぜ)のなかに龐徳の得物と関羽の打ち振る偃月刀(えんげつとう)とが閃々と光の(たすき)を交わしている。両雄ばかりではなく、その馬と馬とも相闘う如く、いななき合い躍り合い、いつ勝負がつくとも見えなかった。

 戦えば戦うほど、両雄とも精気を加えるほどなので、双方の陣営にある将士はみな酔えるが如く手に汗をにぎっていたが、猛戦百余合をかぞえた頃、突然、蜀の陣で金鼓(かね)を鳴らすと、それを(しお)に、魏のほうでも引揚げの鼓を叩き、龐徳も関羽も、同時に(ほこ)を収めて、それぞれ営所へ引き退いた。

 これは養子の関平が、いかに英豪でも年とった父のこと、長戦になっては万一の事もあろうか――と急に退()(がね)を打たせたのであった。

 関羽は、本陣へ引いて、休息をすると、諸将や関平に向って、話していた。

「なるほど龐徳という者は、相当な豪傑だ。彼の武芸力量は尋常なものではない。わが相手として決して恥かしくない敵だ」


「父上。(ことわざ)にも、(こうし)はかえって虎を恐れずとか申します。あなたが夷国の小卒を斬ったところでご名誉にはなりません。反対にもし怪我でもあったら漢中王の御心を傷ましめましょう。もう一騎打ちには出ないで下さい」

 関平は(いさ)めたが、関羽は笑っているのみである。彼もはや老齢にちがいないが、自身では年齢(とし)を忘れている。

 一方の龐徳も、魏の味方のうちへ帰ると、口を極めて、関羽の勇を正直にたたえていた。

「今日までは、人がみな関羽と聞くと、()じ怖れるのを、何故かと(わら)っていたが、真に、彼こそ稀代の英傑であろう。人のことばは、()にもと、つくづく感じ入った。死すにせよ、生きるにせよ、思えばおれは武門の果報者、この世にまたとない好い敵に出会ったものだ」

 于禁(うきん)が陣中見舞に来て、そのはなしを聞き、とうてい、関羽に勝つことは尋常では難しい、生命(いのち)を粗末にし給うな、と諫めた。

 けれど、龐徳は、


「これほどの敵に会って、晴れの決戦を避けるくらいなら、初めから、武人にならないほうがましだ。明日こそ、さらにこころよく一戦して、いずれが勝つか(たお)れるか、生死を一決するから見物していたまえ」

 と、耳にもかけなかった。

 あくる日、龐徳はふたたび、中原(ちゅうげん)へ馬を乗りだして、

「関羽、出でよ」


 と、敵へ挑みかけた。

 きょうは龐徳から先に出て呼ばわっている。もとより関羽も待ちかまえていた所だ。直ちに馬をすすめ、賊将うごくなかれと(おめ)きながら駈け合せた。

 戦い五十余合に至って、龐徳は急に馬をめぐらして逃げかけた。関羽はそれを偽計と察しながら、

「偽って、刀を引くは、大将らしからぬ戦いではないか。羗奴(きょうど)! もどれっ」


 と、追いすがった。

 すると不意に、陣地の内から馬を飛ばして駈け出してきた関平が、


「父上っ、彼の(わな)にかかり給うな。――あっ、龐徳(ほうとく)が弓を引きますぞ」


 父の危機と見てうしろから注意した。

 とたんに早くも龐徳の放った矢が、びゅっと、関羽の顔を狙って飛んできた。関羽は左の(ひじ)を曲げてこれを受けた。矢は臂に立って、面部はそのはねた血にまみれたに過ぎなかった。


「父上っ」


 関平は馬を寄せて父を抱いた。そして父を救うて戻ろうとしたが、かく見るや、龐徳はまた、弓を投げ、(とう)を舞わして躍りかかって来た。

 すわとばかり蜀の陣は鼓を打って動揺した。魏の陣も突貫してきた。双方はたちまち乱軍状態になる。そのあいだをくぐって、関平は無二無三に、父を扶けて味方のうちへ駈け込んだ。

 そのとき魏の中軍では、さかんに退()(がね)を打ち叩いていた。龐徳は意外に思ったが、何か後方に異変でも起ったのではないかと、ともかくあわてて軍を収め、中軍司令の于禁に向って、

「どうしたのです。何が起ったのであるか」

 と、訊ねた。


「都を立つ時、特に魏王から(いまし)めのお使を派せられ、関羽は智勇の将、尋常(よのつね)の敵と思うて(あなど)るなと、くれぐれ念を押されたことであった。ゆえに、万一彼の奸計(かんけい)におち入ってはと存じ、深入りを止めたまでのことである」

 龐徳は歯ぎしりを噛んでいた。于禁のため今日の勝機を逸しなければ、関羽の首を挙げ得たものをと、くり返して止まなかった。

 また一部の将の間には、それは于禁が自分の功を龐徳に奪われんことを怖れて、急に退き鉦を鳴らさせたものだと、穿(うが)った説をなす者もあった。

 ともあれこの一日に、関羽は一(せん)の傷をうけたわけであるから、

「次には、われの一刀を、龐徳に(むく)いずにおかん」

 と、(ひじ)の治療に手を尽していた。

 傷口は浅いようだったが、薬の(きき)めはなかなか(あらわ)れない。関平や幕僚たちは、努めて彼をなだめ、関羽が短慮に(はや)らないように、陣外の矢たけびなども、なるべく耳に知れないように、注意していた。

 それをよいことにして、敵は毎日のように()せてきた。龐徳の下知によるものらしい。龐徳はなんとかして関羽を誘いださんものと、日々兵をして敵を罵り(はずかし)めた。

「どうしても誘いに乗らん。このうえは策を変えて、わが先鋒の中軍は一手となり、彼の陣を突破して、一挙に樊城(はんじょう)の味方と連絡をとげてはどんなものでしょう」

 龐徳から于禁へこう献策をしてみたが、于禁はそれに対しても、魏王の訓戒をくり返して、


「関羽ほどの者が、正面から敵に突破されるような陣構えをしているわけはない。貴殿の言は策というものではなく、ただ自己の勇に信念がお強いというだけのものだ。ところが戦争そのものは、一人の勇よりも万夫の結束と、それを用いる智によって勝敗のわかれるものだからな。まずまずおもむろに機を待つとしよう」

 と、容易に龐徳のすすめに賛成する気色もない。のみならず、その後、例の七手組の諸将を樊城(はんじょう)の北十里の地点に移し、于禁自身は、中軍をもって、正面の大路に進撃を構え、龐徳の手勢は、しごく出足のわるい山のうしろへ廻してしまった。――こういう指令を出した点から考えると、やはり彼の内心には、龐徳ひとりに功をとられてしまうことを、ひどく警戒しているものと思われる。



 父の矢創(やきず)も日ましに癒えてゆく様子なので、一時はしおれていた関平も、


「もう心配はない。この上は一転して、攻勢に出で、魏の慢心を(ひし)ぎ、わが実力の程を見せてくれねばならん」

 と、帷幕(いばく)の人々と(ひたい)をあつめて作戦をねっていた。

 ところが魏軍はにわかに陣容を変えて、樊城の北方十里へ移ったという報告に、

「さては早くも蜀の攻勢を怖れて、布陣を変えたとみえる」

 と、軽忽(けいこつ)を戒め合って、すぐその由を関羽に告げた。


「どう陣立てを変えたか? ――」

 を見るべく、関羽は高地へ登って、遥かに手をかざした。

 まず、樊城の城内をうかがえば、すでにそこの敵は外部と断たれてから、士気もふるわず旗色も萎靡(いび)して、未だに魏の援軍とは連絡のとれていないことが分る。

 また一方、城外十里の北方を見ると、その附近の山陰や谷間や河川のほとりには、なんとかして城中の味方と連絡をとろうとしている魏の七手組の大将が七軍にわかれて、各所に陣を伏せている様子が明らかに遠望された。

「関平。土地の案内者をここへ呼べ」

「――連れて参りました。この者が詳しゅうございます」


 しきりと、地勢をながめていた関羽は、案内者へ向ってたずねた。


「敵の七軍が旗を移したあの辺りは、何という所か」


罾口川(そうこうせん)と申しまする」


「附近の河は」


白河(はくが)の流れ、襄江(じょうこう)の激水、いずれも雨がふると、谷々から落ちてくる水を加えて、もっと水嵩(みずかさ)を増してまいります」


「谷は狭く、うしろは嶮岨だが、ほかに平地は少ないのか」


「されば、あの山向うは、樊城の搦手(からめて)で、無双な要害といわれておりますから、人馬も容易には越えられません」


「そうか、よし」
 と案内者を退けてから、関羽は何事かもう勝戦の成算が立ったもののように、
「敵将于禁(うきん)(とりこ)にすることは、すでにわが(たなごころ)にあるぞ」

 と、いった。

 諸将は、彼の意をはかりかねて、その仔細をたずねたが、関羽は一言(ひとこと)

「于禁は死地へみずから入ったものだ。見よ、やがてかの七陣が死相を呈してくるに違いないから」

 と、云ったのみで、その日以後は、もっぱら兵を督して、附近の材木を伐り、船筏(ふないかだ)を無数に作らせていた。

「陸戦をするのに、何だってこんなに船や筏ばかり作らせているのだろう」と、将卒はみなこの命令を怪しんでいたが、やがて秋八月の候になると、明けても暮れても、連綿と長雨が降りつづいた。

 襄江(じょうこう)の水は、一夜ごとに、驚くばかり(みなぎ)りだしてくる。白河の濁流もあふれて諸川みな一つとなり、やがては満々と四方の陸を沈めて、見るかぎり果てなき泥海となって来た。

 関羽は、高きに登って、敵の七陣を毎日見ていた。岸に近いところの陣も、谷間の陣も次第に増してくる水におわれて、毎日毎日少しずつ高いところへ移ってゆく。……しかし背後の山は嶮峻(けんしゅん)である。もうそれ以上は高く移せない所へまで、敵の旗は山ぎわに押し詰められていた。

「関平関平」

「はい」


「もうよかろう。かねて申しつけておいた上流の一川。そこの堰を切って押し流せ」


「心得ました」


 関平は、一隊をひきつれて、雨中をどこかへ駈けて行った。襄江の水上(みなかみ)七里の地に、さらに(わか)れている一川があった。関羽は一ヵ月も前からそこに数百の部下と数千の民を派して、ここの水を築堤で高く()き止め、先頃からの雨水を襄野(じょうや)一面に蓄えていたのであった。



 その日、于禁(うきん)の本陣へ、魏軍の将、成何(せいか)が訪れていた。成何は先ほどから口を()くして、


「いつ晴れるか知れないこの長雨です。万一、襄江の水がこれ以上増したら諸陣は水底に没してしまいましょう。一刻も早く、この罾口川(そうこうせん)を去ってほかへ陣所をお移しあるように」
 とすすめていた。就中(なかんずく)、成何が探ったところでは、蜀軍のほうでは営を高地に移して、しかも船や(いかだ)をおびただしく造らせている。これは何か敵方に考えがあってのことにちがいないから、わが魏軍も、こうしているべきでないという点を力説した。
「よろしい、よろしい。もう分っておる。貴殿はちと多弁でしつこすぎる」

 于禁は苦りきって、無用な説を拒むような顔を示した。


「いくら降ったところで、襄江の流れが、この山を(ひた)したような歴史はあるまい。つまらぬ危惧に理窟をつけて、督軍の将たる者が不用意な言を発しては困る」


 成何は恥じ怖れて本陣を辞去した。けれど彼の憂いと不満は去らなかった。彼はその足で龐徳(ほうとく)の陣所をたずねた。そして自分の考えと于禁のことばをそのまま友に訴えた。

 龐徳はたいへん驚いた。眼をそばだて膝を叩いて、


「貴公もそこに気がついていたか、貴説、まさに当れりである。しかし于禁は総大将という自負心が強いから、とうてい、我らの意見を用いるはずはない。この上は軍令に(そむ)いても、我々は思い思いにほかへ陣を移してしまおう」

 瀟々(しょうしょう)と外は間断なき雨の音だった。こんな時は鬱気(うっき)を退治して大いに快笑するに限ると、龐徳は友を引きとめて酒など出した。そして二人とも陶然(とうぜん)と雨も憂いも忘れかけていると、にわかにただならぬ雨風が吹き(すさ)び、浪の音とも鼓の音ともわからぬ声が、一瞬天地をつつむかと思われた。

 愕然(がくぜん)、龐徳は杯をおいて、


「やっ、何事だ?」


 (とばり)を払って(おもて)を向けて見ると、驚くべし、山のような濁流の浪が、浪また浪を重ねて、すぐ陣前へ()ち煙っている。


「や、や。洪水(こうずい)だ」


 成何(せいか)もそこを飛び出した。そして馬へ乗って帰ろうとすると、彼方の兵営や陣小屋が、どうと一つの大浪にぶつけられた。見るまに、建物も人馬も紛々と波上へ漂い出し、さらに、次の浪、また次の浪が、それを大空へ揺りあげながら、当る物を打ち砕いて、濁浪の口に呑まんとしてくる。

 しかし、その奔濤(ほんとう)の中にも、溺れず沈まず、この凄じい洪水の形相をむしろ楽しんでいるかのような影もあった。それは関羽の乗っている兵船や、蜀兵が弓槍を立て並べているたくさんな(いかだ)だった。

「筏にすがり、船へ(ただよ)いついてくる敵は、降人と見て、助けてつかわせ。激流に溺れてゆく者は、いずれ助からぬ命、無駄矢を射るな」


 関羽は兵船の上から悠々下知していた。

 この日関平が上流の一川の(せき)を切ったため、白河と襄江(じょうこう)のふたつが一時に岸へ()ってきたのだった。罾口川(そうこうせん)の魏軍は、ほとんど水に(おか)され、兵馬の大半は押し流され、陣々の営舎は一夜のうち跡形もなくなってしまった。

 関羽は夜どおし洪水の中を漕ぎ廻り、多くの敵を水中から助けて降人の群れに加えていたが、やがて朝の光に一方の山鼻を見ると、そこにまだ魏の旗がひるがえって、約五百余の敵が一陣になっている。

「おう、あれにおるは、魏の龐徳、董起(とうき)成何(せいか)などの諸将と見ゆるぞ。好い敵が一つ所におる。取り囲んでことごとく射殺してしまえ」

 蜀の軍卒は、その兵船や筏をつらねて、旗の群れ立つ(みさき)を囲んだ。

 矢は疾風となってそこへ集まった。五百の兵は見るまに三百二百と減って行った。董起や成何は、所詮逃げる途はないと(あきら)めて、

「この上は、白旗をかかげて、関羽に降を乞うしかあるまい」

 と云ったが、ひとり龐徳は、弓を離さず、


「降る者は降れ、おれは、もう、魏王以外の他人に膝を(かが)める気は無い」


 と云って、矢数のある限り、射返し射返し、奮戦していた。


「わずかな敵を、持てあまして、いつまで手間取ってるか」

 と、関羽の一船もそこへきて短兵急に矢石を(みさき)の敵へ浴びせかけた。

 魏の将士は、ばたばた倒れては水中へ落ちてゆく。しかもなお龐徳(ほうとく)は、不死身のように、関羽の船を目がけて弦鳴(つるな)りするどく、矢を射ては、生き残りの部下を励まし、また(かたわ)らの成何(せいか)へも叫んだ。

「勇将ハ死ヲ(オク)レテ(イヤシク)モ免レズ――という。今日こそは龐徳の死ぬ日と覚えた。ご辺も末代まで汚名をのこされるなよ」

 成何も今は死を決し、おうっとそれへ答えるや否や、槍を揮って、崖下へ駈け出した。敵の一つの(いかだ)がそこから岸へ上がろうとしていたからである。

 だが、近づくが早いか、成何は大勢の敵に、滅多斬りにされてしまった。蜀の兵は喊声(かんせい)をあげながら龐徳の貴殿まで上がってきた。龐徳はそれと見るや、弓を捨て、岩石を抱え、

「汝らも、死を望むか」

 と、頭上へ落した。血と肉と岩石は、粉になって飛んだ。

 彼は手近な岩石をあらかた投げ尽した。いかに(おお)きな岩も彼の手にかからない物はなかった。死力というか、鬼神の勇というか言語に絶した働きだった。

 人も筏もその下にはみな影を没し去っていた。龐徳はまた弓を握った。しかし彼の周囲には累々(るいるい)たる部下の死骸があるだけで、もう生きている味方はなかった。

 なお、ばしゃばしゃと四辺(あたり)へ矢石が降り注がれてくる。さしもの龐徳も力尽きたか矢にあたったか、ばたっと倒れた。――近づきかねていた蜀勢のうちから、すばやく一艘の河船が漕ぎよせてきた。そしてそこの岬を占領したかと思うと、死を装うていた龐徳が、やにわにはね起きて、蜀兵を蹴ちらし、その得物を奪い、ひらりと敵の船中へ飛び乗った。

 またたくまに船中の兵七、八名を斬殺すると、彼は悠々岬を離れて、濁流の中へ棹さして(のが)れた。船は血に染っている。余りの迅さと不敵さに、蜀軍の船や筏は、ただただ(きも)を奪われていた。

 すると、まるで征矢(そや)の如く漕ぎ流して行った一船が、いきなり龐徳の河船の横腹へ、故意に(へさき)をつよくぶっつけた。そして熊手や鉤槍(かぎやり)をそろえて、いきなり彼の(ふなばた)へ引っ掛け、瞬時にその河船を(くつがえ)してしまった。

「やったな、見事」

「誰だ、あの大将は」

 蜀軍はそれを見て、みな声をあげ、手を振って賞めた。不死身の龐徳も船もろとも水煙の底へ葬られたからだ。

 ところが、彼を葬った蜀の一将は、それをもって満足せず、直ちに、自分も濁流の中へ身を躍らした。そして渦巻く波を切って泳ぎ、当の相手龐徳と水中に格闘して、遂にその大物を生捕ってしまったのである。

 戦いすでに終ったので、関羽は船を岸に返し、その勇士が龐徳をひいてくるのを待っていた。勇士の名は、蜀軍随一の水練の達者周倉(しゅうそう)であったことがもう全軍へ知れ渡っていた。

 関羽の前には、魏の総司令于禁(うきん)も捕虜になって引っ立てられて来た。于禁は哀号して、助命をすがった。関羽は愍笑(びんしょう)して、

「犬ころを斬っても仕方がない。荊州の獄へ送ってやるから沙汰を待て」

 と、云った。

 次に龐徳が来た。

 龐徳は傲然と突立ったまま、地へ膝をつけなかった。関羽はこの男の勇を惜しんで、

「汝の兄の龐柔(ほうじゅう)も漢中王に仕えている。わしが取りなしてつかわすから、汝も蜀へ仕えて長く生きたらどうだ」
 と諭すと、龐徳は、不敵な口をあいて、呵々(かか)と大笑しながら、
「誰がそんなことを頼んだ。要らざるおせっかいはせぬがいい。おれは魏王のほかに主というものを知らん。久しからずして劉備もおれのような姿になって魏王の前に据えられるだろう。そのとき汝は、劉備に向って、魏の(あわ)を喰ろうて生きよと、主にもすすめる気か」
「よろしい。汝の望み通り、汝の用意した(ひつぎ)を役立たせてやる。坐れッ」

 龐徳は黙って、地に坐った。その首を前へのばすや否や、戛然(かつぜん)、剣は彼の(うなじ)を断った。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

劉備玄徳

劉備玄徳

ひげ

劉備玄徳

劉備玄徳

諸葛孔明《しょかつこうめい》

張飛

張飛

髭あり

張飛

関羽

関羽


関平《かんぺい》

関羽の養子

趙雲

趙雲

張雲

黄忠《こうちゅう》

魏延《ぎえん》

馬超

厳顔《げんがん》

劉璋配下から劉備配下

龐統《ほうとう》

糜竺《びじく》

陶謙配下

後劉備の配下

糜芳《びほう》

糜竺《びじく》の弟

孫乾《そんけん》

陶謙配下

後劉備の配下

陳珪《ちんけい》

陳登の父親

陳登《ちんとう》

陶謙の配下から劉備の配下へ、

曹豹《そうひょう》

劉備の配下だったが、酒に酔った張飛に殴られ裏切る

周倉《しゅうそう》

もと黄巾の張宝《ちょうほう》の配下

関羽に仕える

劉辟《りゅうへき》

簡雍《かんよう》

劉備の配下

馬良《ばりょう》

劉備の配下

伊籍《いせき》

法正

劉璋配下

のち劉備配下

劉封

劉備の養子

孟達

劉璋配下

のち劉備配下

商人

宿屋の主人

馬元義

甘洪

李朱氾

黄巾族

老僧

芙蓉

芙蓉

糜夫人《びふじん》

甘夫人


劉備の母

劉備の母

役人


劉焉

幽州太守

張世平

商人

義軍

部下

黄巾族

程遠志

鄒靖

青州太守タイシュ龔景キョウケイ

盧植

朱雋

曹操

曹操

やけど

曹操

曹操


若い頃の曹操

曹丕《そうひ》

曹丕《そうひ》

曹嵩

曹操の父

曹洪


曹洪


曹徳

曹操の弟

曹仁

曹純

曹洪の弟

司馬懿《しばい》仲達《ちゅうたつ》

曹操配下


楽進

楽進

夏侯惇

夏侯惇《かこうじゅん》

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

韓浩《かんこう》

曹操配下

夏侯淵

夏侯淵《かこうえん》

典韋《てんい》

曹操の配下

悪来と言うあだ名で呼ばれる

劉曄《りゅうよう》

曹操配下

李典

曹操の配下

荀彧《じゅんいく》

曹操の配下

荀攸《じゅんゆう》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

徐晃《じょこう》

楊奉の配下、後曹操に仕える

史渙《しかん》

徐晃《じょこう》の部下

満寵《まんちょう》

曹操の配下

郭嘉《かくか》

曹操の配下

曹安民《そうあんみん》

曹操の甥

曹昂《そうこう》

曹操の長男

于禁《うきん》

曹操の配下

王垢《おうこう》

曹操の配下、糧米総官

程昱《ていいく》

曹操の配下

呂虔《りょけん》

曹操の配下

王必《おうひつ》

曹操の配下

車冑《しゃちゅう》

曹操の配下、一時的に徐州の太守

孔融《こうゆう》

曹操配下

劉岱《りゅうたい》

曹操配下

王忠《おうちゅう》

曹操配下

張遼

呂布の配下から曹操の配下へ

張遼

蒋幹《しょうかん》

曹操配下、周瑜と学友

張郃《ちょうこう》

袁紹の配下

賈詡

賈詡《かく》

董卓

李儒

董卓の懐刀

李粛

呂布を裏切らせる

華雄

胡軫

周毖

李傕

李別《りべつ》

李傕の甥

楊奉

李傕の配下、反乱を企むが失敗し逃走

韓暹《かんせん》

宋果《そうか》

李傕の配下、反乱を企むが失敗

郭汜《かくし》

郭汜夫人

樊稠《はんちゅう》

張済

張繍《ちょうしゅう》

張済《ちょうさい》の甥

胡車児《こしゃじ》

張繍《ちょうしゅう》配下

楊彪

董卓の長安遷都に反対

楊彪《ようひょう》の妻

黄琬

董卓の長安遷都に反対

荀爽

董卓の長安遷都に反対

伍瓊

董卓の長安遷都に反対

趙岑

長安までの殿軍を指揮

徐栄

張温

張宝

孫堅

呉郡富春(浙江省・富陽市)の出で、孫子の子孫

孫静

孫堅の弟

孫策

孫堅の長男

孫権《そんけん》

孫権

孫権

孫堅の次男

朱治《しゅち》

孫堅の配下

呂範《りょはん》

袁術の配下、孫策に力を貸し配下になる

周瑜《しゅうゆ》

孫策の配下

周瑜《しゅうゆ》

周瑜

張紘

孫策の配下

二張の一人

張昭

孫策の配下

二張の一人

蒋欽《しょうきん》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

孫権を守って傷を負った

陳武《ちんぶ》

孫策の部下

太史慈《たいしじ》

劉繇《りゅうよう》配下、後、孫策配下


元代

孫策の配下

祖茂

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

韓当

孫堅の配下

黄蓋

孫堅の部下

黄蓋《こうがい》

桓楷《かんかい》

孫堅の部下


魯粛《ろしゅく》

孫権配下

諸葛瑾《しょかつきん》

諸葛孔明《しょかつこうめい》の兄

孫権の配下


呂蒙《りょもう》

孫権配下

虞翻《ぐほん》

王朗の配下、後、孫策の配下

甘寧《かんねい》

劉表の元にいたが、重く用いられず、孫権の元へ

甘寧《かんねい》

凌統《りょうとう》

凌統《りょうとう》

孫権配下


陸遜《りくそん》

孫権配下

張均

督郵

霊帝

劉恢

何進

何后

潘隠

何進に通じている禁門の武官

袁紹

袁紹

劉《りゅう》夫人

袁譚《えんたん》

袁紹の嫡男

袁尚《えんしょう》

袁紹の三男

高幹

袁紹の甥

顔良

顔良

文醜

兪渉

逢紀

冀州を狙い策をねる。

麹義

田豊

審配

袁紹の配下

沮授《そじゅ》

袁紹配下

郭図《かくと》

袁紹配下


高覧《こうらん》

袁紹の配下

淳于瓊《じゅんうけい》

袁紹の配下

酒が好き

袁術

袁胤《えんいん》

袁術の甥

紀霊《きれい》

袁術の配下

荀正

袁術の配下

楊大将《ようたいしょう》

袁術の配下

韓胤《かんいん》

袁術の配下

閻象《えんしょう》

袁術配下

韓馥

冀州の牧

耿武

袁紹を国に迎え入れることを反対した人物。

鄭泰

張譲

陳留王

董卓により献帝となる。

献帝

献帝

伏皇后《ふくこうごう》

伏完《ふくかん》

伏皇后の父

楊琦《ようき》

侍中郎《じちゅうろう》

皇甫酈《こうほれき》

董昭《とうしょう》

董貴妃

献帝の妻、董昭の娘

王子服《おうじふく》

董承《とうじょう》の親友

馬騰《ばとう》

西涼の太守

崔毅

閔貢

鮑信

鮑忠

丁原

呂布


呂布

呂布

呂布

厳氏

呂布の正妻

陳宮

高順

呂布の配下

郝萌《かくほう》

呂布配下

曹性

呂布の配下

夏侯惇の目を射った人

宋憲

呂布の配下

侯成《こうせい》

呂布の配下


魏続《ぎぞく》

呂布の配下

王允

貂蝉《ちょうせん》

孫瑞《そんずい》

王允の仲間、董卓の暗殺を謀る

皇甫嵩《こうほすう》

丁管

越騎校尉の伍俘

橋玄

許子将

呂伯奢

衛弘

公孫瓉

北平の太守

公孫越

王匡

方悦

劉表

蔡夫人

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

蒯良

劉表配下

蒯越《かいえつ》

劉表配下、蒯良の弟

黄祖

劉表配下

黄祖

陳生

劉表配下

張虎

劉表配下


蔡瑁《さいぼう》

劉表配下

呂公《りょこう》

劉表の配下

韓嵩《かんすう》

劉表の配下

牛輔

金を持って逃げようとして胡赤児《こせきじ》に殺される

胡赤児《こせきじ》

牛輔を殺し金を奪い、呂布に降伏するも呂布に殺される。

韓遂《かんすい》

并州《へいしゅう》の刺史《しし》

西涼の太守|馬騰《ばとう》と共に長安をせめる。

陶謙《とうけん》

徐州《じょしゅう》の太守

張闓《ちょうがい》

元黄巾族の陶謙の配下

何曼《かまん》

截天夜叉《せってんやしゃ》

黄巾の残党

何儀《かぎ》

黄巾の残党

田氏

濮陽《ぼくよう》の富豪

劉繇《りゅうよう》

楊州の刺史

張英

劉繇《りゅうよう》の配下


王朗《おうろう》

厳白虎《げんぱくこ》

東呉《とうご》の徳王《とくおう》と称す

厳与《げんよ》

厳白虎の弟

華陀《かだ》

医者

鄒氏《すうし》

未亡人

徐璆《じょきゅう》

袁術の甥、袁胤《えんいん》をとらえ、玉璽を曹操に送った

鄭玄《ていげん》

禰衡《ねいこう》

吉平

医者

慶童《けいどう》

董承の元で働く奴隷

陳震《ちんしん》

袁紹配下

龔都《きょうと》

郭常《かくじょう》

郭常《かくじょう》の、のら息子

裴元紹《はいげんしょう》

黄巾の残党

関定《かんてい》

許攸《きょゆう》

袁紹の配下であったが、曹操の配下へ

辛評《しんひょう》

辛毘《しんび》の兄

辛毘《しんび》

辛評《しんひょう》の弟

袁譚《えんたん》の配下、後、曹操の配下

呂曠《りょこう》

呂翔《りょしょう》の兄

呂翔《りょしょう》

呂曠《りょこう》の弟


李孚《りふ》

袁尚配下

王修

田疇《でんちゅう》

元袁紹の部下

公孫康《こうそんこう》

文聘《ぶんぺい》

劉表配下

王威

劉表配下

司馬徽《しばき》

道号を水鏡《すいきょう》先生

徐庶《じょしょ》

単福と名乗る

劉泌《りゅうひつ》

徐庶の母

崔州平《さいしゅうへい》

孔明の友人

諸葛均《しょかつきん》

石広元《せきこうげん》

孟公威《もうこうい》

媯覧《ぎらん》

戴員《たいいん》

孫翊《そんよく》

徐氏《じょし》

辺洪

陳就《ちんじゅ》

郄慮《げきりょ》

劉琮《りゅうそう》

劉表次男

李珪《りけい》

王粲《おうさん》

宋忠

淳于導《じゅんうどう》

曹仁《そうじん》の旗下《きか》

晏明

曹操配下

鍾縉《しょうしん》、鍾紳《しょうしん》

兄弟

夏侯覇《かこうは》

歩隲《ほしつ》

孫権配下

薛綜《せっそう》

孫権配下

厳畯《げんしゅん》

孫権配下


陸績《りくせき》

孫権の配下

程秉《ていへい》

孫権の配下

顧雍《こよう》

孫権配下

丁奉《ていほう》

孫権配下

徐盛《じょせい》

孫権配下

闞沢《かんたく》

孫権配下

蔡薫《さいくん》

蔡和《さいか》

蔡瑁の甥

蔡仲《さいちゅう》

蔡瑁の甥

毛玠《もうかい》

曹操配下

焦触《しょうしょく》

曹操配下

張南《ちょうなん》

曹操配下

馬延《ばえん》

曹操配下

張顗《ちょうぎ》

曹操配下

牛金《ぎゅうきん》

曹操配下


陳矯《ちんきょう》

曹操配下

劉度《りゅうど》

零陵の太守

劉延《りゅうえん》

劉度《りゅうど》の嫡子《ちゃくし》

邢道栄《けいどうえい》

劉度《りゅうど》配下

趙範《ちょうはん》

鮑龍《ほうりゅう》

陳応《ちんおう》

金旋《きんせん》

武陵城太守

鞏志《きょうし》

韓玄《かんげん》

長沙の太守

宋謙《そうけん》

孫権の配下

戈定《かてい》

戈定《かてい》の弟

張遼の馬飼《うまかい》

喬国老《きょうこくろう》

二喬の父

呉夫人

馬騰

献帝

韓遂《かんすい》

黄奎

曹操の配下


李春香《りしゅんこう》

黄奎《こうけい》の姪

陳群《ちんぐん》

曹操の配下

龐徳《ほうとく》

馬岱《ばたい》

鍾繇《しょうよう》

曹操配下

鍾進《しょうしん》

鍾繇《しょうよう》の弟

曹操配下

丁斐《ていひ》

夢梅《むばい》

許褚

楊秋

侯選

李湛

楊阜《ようふ》

張魯《ちょうろ》

張衛《ちょうえい》

閻圃《えんほ》

劉璋《りゅうしょう》

張松《ちょうしょう》

劉璋配下

黄権《こうけん》

劉璋配下

のち劉備配下

王累《おうるい》

王累《おうるい》

李恢《りかい》

劉璋配下

のち劉備配下

鄧賢《とうけん》

劉璋配下

張任《ちょうじん》

劉璋配下

周善

孫権配下


呉妹君《ごまいくん》

董昭《とうしょう》

曹操配下

楊懐《ようかい》

劉璋配下

高沛《こうはい》

劉璋配下

劉巴《りゅうは》

劉璋配下

劉璝《りゅうかい》

劉璋配下

張粛《ちょうしゅく》

張松の兄


冷苞

劉璋配下

呉懿《ごい》

劉璋の舅

彭義《ほうぎ》

鄭度《ていど》

劉璋配下

韋康《いこう》

姜叙《きょうじょ》

夏侯淵《かこうえん》

趙昂《ちょうこう》

楊柏《ようはく》

張魯配下

楊松

楊柏《ようはく》の兄

張魯配下

費観《ひかん》

劉璋配下

穆順《ぼくじゅん》

楊昂《ようこう》

楊任

崔琰《さいえん》

曹操配下


雷同

郭淮《かくわい》

曹操配下

霍峻《かくしゅん》

劉備配下

夏侯尚《かこうしょう》

曹操配下

夏侯徳

曹操配下

夏侯尚《かこうしょう》の兄

陳式《ちんしき》

劉備配下

杜襲《としゅう》

曹操配下

慕容烈《ぼようれつ》

曹操配下

焦炳《しょうへい》

曹操配下

張翼

劉備配下

王平

曹操配下であったが、劉備配下へ。

曹彰《そうしょう》

楊修《ようしゅう》

曹操配下

夏侯惇

費詩《ひし》

劉備配下

王甫《おうほ》

劉備配下

呂常《りょじょう》

曹操配下

董衡《とうこう》

曹操配下

李氏《りし》

龐徳の妻

成何《せいか》

曹操配下

蒋済《しょうさい》

曹操配下

傅士仁《ふしじん》

劉備配下

徐商

曹操配下


廖化

劉備配下

趙累《ちょうるい》

劉備配下

朱然《しゅぜん》

孫権配下


潘璋

孫権配下

左咸《さかん》

孫権配下

馬忠

孫権配下

許靖《きょせい》

劉備配下

華歆《かきん》

曹操配下

呉押獄《ごおうごく》

典獄

司馬孚《しばふ》

司馬懿《しばい》の弟

賈逵《かき》


曹植


卞氏《べんし》

申耽《しんたん》

孟達の部下

范疆《はんきょう》

張飛の配下

張達

張飛の配下


関興《かんこう》

関羽の息子

張苞《ちょうほう》

張飛の息子

趙咨《ちょうし》

孫権配下

邢貞《けいてい》

孫桓《そんかん》

孫権の甥

呉班

張飛の配下

崔禹《さいう》

孫権配下

張南

劉備配下

淳于丹《じゅんうたん》

孫権配下

馮習

劉備配下


丁奉

孫権配下

傅彤《ふとう》

劉備配下

程畿《ていき》

劉備配下

趙融《ちょうゆう》

劉備配下

朱桓《しゅかん》

孫権配下


常雕《じょうちょう》

曹丕配下

吉川英治


ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色