第91話、新野炎上、劉備の逃走
文字数 8,309文字
曹操はなおその総軍司令部を
一応、そこで兵馬を休ませたのが、
案内者を呼びつけて、
と、訊くと、
「三十余里です」と、いう。
と、いえば、
「
そのうちに、偵察に行った数十騎が、引返してきていうには、
「これからやや少し先へ行くと、山に拠り、峰に沿って陣を取っている敵があります。われわれの影を見るや、一方の山では、青い旗を打ち振り、一方の峰では、紅の旗をもってそれに答え、呼応の形を示す有様、何やら充分、備えている態がうかがわれます。どうもその兵力のほどは察しきれませんが……」
凝視していると、また、後ろの山の肩で、しきりに青い旗を打ち振っているのが見える。何やら信号でも交わしている様子である。許褚は迷った。
山気は
と、かたく戒め、ひとり馬を引返して、曹仁に告げ、指令を仰いだ。
曹仁は一笑に付して、
と、いった。
許褚は、ふたたび
と、一歩一歩、敵の伏兵を警戒しながら、緊張をつづけて進んだが、防ぎに出る敵も支えに立つ敵も現れなかった。
こうなると、張合いのないよりは一層、無気味な気抜けに襲われた。陽はいつか西山に沈み、山ふところは暗く、東の峰の一方が夕月にほの明るかった。
三千余騎の
月は見えないが水のように空は澄みきっていた。
一
許褚も、これはたまらないと、あわてて兵を退いた。そして、ほかの攻め口を尋ねた。
彼方の峰、こなたの山、
と、許褚はいたずらに、敵の所在を考え迷った。
そのうちに曹仁、曹洪などの本軍もこれへ来た。曹仁は叱咤して、
と、
曹仁は、自分の達見を誇った。城下にも街にも敵影は見あたらない。のみならず百姓も商家もすべての家はガラ空きである。老幼男女はもとより
と曹洪や許褚も笑った。
「追いかけて、
「やすめ」の令を、全軍につたえた。
その頃から風がつのりだして、暗黒の街中は
すると、番の軍卒が、
「火事、火事」
と、外で騒ぎ立ててきた。部将たちが、杯をおいて、あわてかけるのを、曹仁は押し止めて、
と、余裕を示していた。
ところが、外の騒ぎは、いつまでもやまない。西、北、南の三門はすでにことごとく火の海だという。追々、炎の音、人馬の跫音など、ただならぬものが身近に迫ってきた。
「あっ、敵だっ」
「敵の火攻めだっ」
部将のさけびに曹洪、曹仁も
城中はもうもうと黒煙につつまれている。馬よ、
さらに、火は風をよび、風は火をよび、四方八面、炎と化したかと思うと、城頭にそびえている三層の殿楼やそれにつらなる高閣など、一度に
わあっと、声をあげて、西門へ逃げれば西門も火。南門へ走れば南門も火。こはたまらじと、北門へなだれを打ってゆけば、そこも大地まで燃えさかっている。
「東の門には、火がないぞ」
誰いうとなく
曹仁、曹洪らは、辛くも火中を脱したが、道に待っていた趙雲にはばまれて、さんざんに打ちのめされ、あわてて後へ戻ると、
と、孔明の計を奉じて、
渦まく水、山のような
ここでもまた、潰滅をうけて、屍山血河を作った。曹仁の身もすでに危うかったが、
張飛は、大魚を逸したが、
と、兵を収めて江岸をのぼり、かねてしめし合わせてある劉備や孔明と一手になった。
そこには
劉備以下の全軍が対岸へ渡り終ったころ、夜は白みかけていた。
孔明は、命を下して、
と、いった。
そして、無事、
この大敗北は、やがて
と、
すでに彼の大軍は彼の命を奉じて、
劉曄は一言のもとに、
と、いった。
ばかをいえ――といわぬばかりに曹操は劉曄の顔をしり目に見て、
と、唇をむすんで、大きく鼻から息をした。
彼はすぐ幕下の群将のうちから、徐庶を呼びだして、おごそかに、軍の大命をさずけた。
劉備は、旧情を呼び起した。孔明と共に、堂へ迎え、
と嘆じた。
語りあえば、
と、すぐ
徐庶が帰って、曹操に返辞をするまでのあいだに、劉備は、ふたたび、城を捨て、ほかに安らかな地を求めなければならなかった。
せっかく
と、罪を相手になすって百万の軍にぞんぶんな
孔明のすすめに、もちろん、劉備は異議もなかったが、
と、領民の処置を案じて、決しきれない容子だった。
孔明のことばに、劉備も、
と、関羽に渡江の準備を命じた。
関羽は、江頭に舟をそろえ、さて数万の百姓をあつめて、
と、云い渡した。
すると、百姓老幼、みな声をそろえて、共に
「これから先、たとえ山を
そこで関羽は、
かくて皆、北の岸へ渡りつくや、休むまもなく、劉備は
襄陽の城には、先頃から幼国主
と、大音をあげた。
すると、答えはなくて、たちまち多くの射手が矢倉の上に現われて矢を酬いた。
劉備につき従う数万の百姓群の上に、その矢は雨の如く落ちてくる。悲鳴、
ところが、これを城中から見てあまりにもその無情なる処置に義憤を発した大将があった。姓は
と云い出した。
と命じた。
時すでに、魏延は部下をひきいて、城門のほうへ殺到し、番兵を蹴ちらして、あわや
と、叫んでいる様子に、張允、
城外にいた張飛、関羽たちは、すぐさま馬を打って駆け入ろうとしたが、城中の空気、
と、訊ねた。
孔明は、うしろから即答した。
劉備が引っ返して行くのを見ると、日頃、劉備を慕っていた城中の将士は、争って、
そうした劉備同情者のうちでも最も堂々たる名乗りをあげた
そして遂に、一方の血路を斬りひらき、満身血となって、城外へ逸走してきたが、すでに劉備は遠く去ってしまったので、やむなくひとり
さて、劉備はまた、数万の百姓をつれて、江陵へ向って行ったが何分にも、病人はいるし、足弱な女も多く、幼を負い、老を扶け、おまけに家財をたずさえて、
これには、孔明も困りはてて、遂に対策もないかのように、
落ちて行く敗残の境遇である。軍自体の運命すら危ういのに、数万人の窮民をつれ歩いていたのでは、所詮、行動の取りようもない。
孔明は
というのであった。
が――劉備は依然として、
と云ってきかなかった。
このことばを孔明から伝え聞いて、将士も涙を流し、領民もみな
さらばと、――孔明もついに心をきめて、領民たちに相互の扶助と協力の精神を徹底させ、一方、関羽と
と、劉備のてがみを授けて、援軍の急派をうながした。
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