第69話、埋伏
文字数 6,841文字
粛正の嵐、血の清掃もひとまず済んだ。
曹操は、何事もなかったような顔をしている。かれの胸には、もう昨日の苦味も酸味もない。明日への百計にふけるばかりだった。
曹操はどこまでも、劉備をさきに討とうと望んでいるらしい。劉備に対しては、ひと頃、熱愛を傾けて交わっていただけに、反動的な感情がいまはこみあげている。国事に関する大策にでも、どうしても幾分かの感情をまじえないではいられないのは、曹操の特質であった。
謀議の室を閉じて、ふたりがこう議しているところへ、ちょうど
郭嘉は即答した。
と、軍令を発した。
諸大将の兵馬はたちまち徐州へむかった。――早くもこのことは
まっさきに、それを早耳に入れたものは
劉備は、小沛の城にいる。彼の驚愕もひと通りでない。
孫乾は、劉備の一書をうけて、ふたたび馬の背に伏し、河北へむかって、夜を日についで急いでいた。
孫乾は、
まず袁家の重臣田豊を訪れて、彼の斡旋のもとに、次の日、大城へ導かれて、袁紹に謁見した。
どうしたのか、袁紹はいたく
田豊はおどろいて、
と、怪しんで問うた。
袁紹は、ことばにも力がなく、
他国の使者が、
田豊も、なぐさめかねて、
と、しばらく用件を云いだしかねていたが、やがて、一転の機を話中につかんで、
と、袁紹の返辞は、依然、生ぬるい。どこか
田豊は、なお説いて、
袁紹は重たげに、頭を振ってそれに答えた。
田豊は、黙ってしまった。
熱心に支持してくれた田豊の好意はふかく心に謝していたが、
で、田豊の眼へ目顔で合図しながら、退出しようとすると、袁紹もすこし悪い気がしたとみえて、
と、重ねていった。
城門を退出してから、田豊は足ずりして、
と、長嘆した。
孫乾は、馬をひき、
そこに在る劉備は、痛心を抱いて、対策に迫られている。
肚をきめれば、大腹な劉備である。それに近ごろ張飛をすこし見直していたところなので、直ちに彼の策をゆるした。
張飛は、
と、用意おさおさ怠りなく、奇襲の機をうかがっていた。
敵二十万の大軍は、まもなく近々と小沛の県界まで押してきた。
初めの計画では、張飛一手で奇襲するはずだった。が、いかに奇策を行うにせよ、眼にあまる大軍なので、劉備も自身出向くことになり、兵を二手にわけて城を出た。
張飛は、自分の計りごとが、用いられ、自分の思うまま戦えるので、愉快でならない。ひそかに必勝を信じ切っている。折から月明
物見を放ってうかがわせると、
「ずいぶんと静かです」
との答え。
それっと、合図の
張飛も部下も、拍子ぬけしてうろたえた。すると林の木々や、四
すでに遅し! 木も草もみな敵兵と化し
「張飛を生け捕れ」
「劉備をのがすなッ」――と。
かくて、仕掛けた奇襲は、反対に受け身の不意討ちと化した。隊伍は
「一匹も余すな」と、ばかり押しつめてきた。
さしもの張飛も
右に突き、左をはらい、一生の勇をここにふるったがとうてい無理な戦いだった。
味方は討たれ、或いは敵へ降参をさけんで、武器を捨て、彼自身も数箇所の手傷に、満身
徐晃に追われ、楽進に斬ってかかられ、炎のような息をついてようやく一方に血路をひらき、つづく味方をかえりみると、何たる情けなさ、わずかに二十騎ほどもいなかった。
「者ども! もう止せ、馬鹿げた戦だ。死んでたまるか、こんな所で、――さあ、おれについて来い」
遂に、帰路をも遮断されてしまい、むなしく彼は
劉備もまた、いうまでもない運命に陥ちていた。
大軍にうしろを巻かれ、夏侯惇、夏侯淵に
と、急いだのである。
ところがその徐州城へ近づいてみると、暁天にひるがえっている楼頭の旗はすべて曹操軍の旗だったので、
と、劉備はしばし行く道も失ったように、茫然自失していた。
陽ののぼるにつれて、四顧に入る山河を見まわすと、濛々と、どこも
劉備は
さしずめ劉備は、落ちてゆく道を求めなければならない。
いかにしてこの危地を脱するか? ――またどこへさして落ちて行くか?
当面の問題に、彼はすぐ頭を向けかえた。
いつぞや使いした孫乾に
途中、ゆうべからつけまわしている楽進や夏侯惇の軍勢に、さんざん追いまわされて、彼も馬も、土にのめるばかりな苦しみにあえぎつつも、ようやく死地から脱れたのは、翌日、青州の地を踏んでからであった。
それからも、野に臥し、山に
城主
と、旅舎を与えられ、一方、彼の手から駅伝の使いは飛んで、父の袁紹のところへ、
徐州、小沛は、はや
劉備、妻子にもはなれ、身をもって、青州まで落ちまいる。いかが処置いたすべきや。
と、さしずを仰いでいた。
「かねての約束、たごうべからず――」
と袁紹はただちに一軍を迎えに差向けて、劉備の身を引取った。
しかも、冀州城外三十里の地――平原というところまで、袁紹自身、車馬をつらねて出迎えにでていた。
よほどな優遇である。
やがて、城門にかかると、劉備は馬を降りて、
と、地に拝伏して、それからは下馬して歩いた。
城内に入ると、袁紹はあらためて、彼に対面し、過ぐる日、孫乾の使いをむなしく帰したことを、こう云いわけした。
劉備は肩身がせまい。ひたすら謙虚に、身を低く、頼むばかりであった。
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