第114話、奔牛悍馬《ほんぎゅうかんば》
文字数 7,014文字
曹操の本軍と、西涼の大兵とは、次の日、
曹軍は、三軍団にわかれ、曹操はその中央にあった。
彼が馬をすすめると、右翼の
曹操の言が、風に送られて、彼方の陣へ届いたかと思うと、
とどろく答えとともに、陣鼓一声、
「若大将を討たすな」と案じてか、それにつづく左右の将には龐徳、馬岱。また八旗の旗本、
近づかぬうちから、曹操は内心一驚を喫した様子である。文化に遠い北辺の
いうことも、しっかりしている。これは口先でもいかんと思ったか、曹操は馬を退いて、
と、左右の将にまかせた。
そして、悠々、槍をあげて、
と一声さしまねくと、雲霞のようにじっとしていた西涼の大軍が、いちどに、野を掃いて押し
その重厚な陣、ねばり強い戦闘力、到底、許都の軍勢の比ではない。
たちまち駈け押されて、曹軍は散乱した。馬超、馬岱、龐徳は、
「この手に、曹操の
と、乱軍をくぐり、敵の中軍へ割りこみ、血まなこになって、その姿を捜し求めた。
そのとき、西涼の兵が、口々に、
「
と、呼ばわり合っているのを聞いて、当の曹操は逃げはしりながら、
四方で声がする。曹操はいよいよ魂をとばして林を目指して駈けた。あわやというところで、誰か、追っ手の兵を蹴散らした者がいた。曹操はその間髪にからくも遠く逃げのびた。
曹操は、味方の内へ帰ると、すぐこう訊ねた。
やがてその曹洪は夏侯淵に伴われて恩を謝しに出た。曹操は、今日の危急を思い出して、幾度か死を覚悟したことなど語りだし、
と戒めた。
敗軍をひきまとめた曹操は、河を隔てて岸一帯に
「みだりに行動する者は斬る」と、軍令した。
建安の秋十六年、その八月も暮れかけていたが、曹軍は、秋風の下に
「
「いったい
すると、曹操は苦りきって、
曹操の肚をふかく察しない部将たちは、ささやき合って、首を傾げた。
「どうしたんだろう。いくら馬超に追いまくられて、お
「そろそろ、お
そのような陰口があることを曹操は気づいていた。
曹操は諸将を集め、策を求めた。
「このまま、潼関の敵と睨みあいしていたら、一年たっても勝敗は決しますまい。それがしが考えるには、
曹操は賞めて、
と、即座に手筈をきめた。
それから間もなく、西涼の陣営馬超の手もとへ、すぐ早耳
「曹操のほうでは、
八方に間者を放って、曹軍が河を渡る地点を監視していた。
とも知らず、曹操は、大軍を三分して、
と、水ぎわに床几をすえながら、刻々と報らせて来る戦況を聞いていた。
「上陸したお味方は、すでに対岸の要所要所、陣屋を組み、土塁を構築しにかかっています」
すると、第二第三とつづいてくる伝令が云った。
「今、南の方から、敵ともお味方とも分らぬ一隊が、
第五番目の伝令は、
「ご油断はなりません。ご用意あれっ」と呶鳴って、
「
その時、大軍は河を渡りつくして、曹操のまわりには、たった百余人しかいなかった。
「馬超ではないか」
と、のみで床几から起とうともしない。
ところへ、
と、呼ばわった。
曹操はなお、
と、自若としていたが、もうそのとき彼方の馬煙は辺り間近に、土砂を降らせて、馬超、
と、
そして岸辺まで、一気に馳け出したが、船は漂い出して
と叫んで、一
百余人の近侍、旗本たちは、ざぶざぶと水につかって、溺れるもあり、泳ぎだすもあり、そこらの小舟や
許褚は、それらの味方を、
「のがすな」
「あれこそ、曹操」
西涼の兵は、弓を揃えて、雨の如く乱箭を送った。許褚は、片手に馬の鞍を持ち、片手に鎧の袖をかざして、曹操の身をかばっていた。
曹操ですら九死に一生を得たほどであるから、このほか、いたる所で、曹軍の損害はおびただしいものがあった。
それでも、この損害は、まだ半分で済んでいたといってよい。なぜならば、曹軍の敗滅急なりと見て、ここに
いや、暴れただけなら、何も戦闘力を失うほどでもなかったろうが、根が
「良い馬だ。もったいない」と、奪いあい、牛を見ては、なおさらのこと、
「あの肉はうまい」と、食慾をふるい起して、思いがけない利得に夢中になってしまったものだった。
そのために西涼軍は、せっかくの戦を半ばにして、
その頃、曹操は北岸へ上がって、一息ついているというので、魏の諸将もおいおい集まってきた。
と、そればかり口走っていた。
「貴体には何のご異状もない」と、人々は慰めて、ようやく彼を陣屋の中に寝かしつけた。
曹操は、部下の見舞をうけながら、甚だしく快活に、終始きょうの危難を笑いばなしに語っていたが、
と、
丁斐は、当然、罪をこうむるものと思って、
丁斐が
校尉丁斐は、感泣して、
と、恩に感じるのあまり、自分の考えている一計略を進言した。
一方、西涼の馬超は、
韓遂は何度もうなずいて、
韓遂は、かたく馬超に忠告した。
馬超も同感だった。
韓遂と龐徳とは、直ちに、西涼の壮兵千余騎を選んで深夜から暁にかけて、曹操の陣を奇襲した。
けれど、この計画は、まんまと曹操の思うつぼに落ちたものであった。かねてこの事あるべしと、曹操は、渭南の県令から登用した
のみならず、附近一帯に、
「わあっ」
と
当然、大地は一時に陥没し、人馬の落ちた上へ、また人馬が落ち重なった。
と、呼びながら、主将のすがたを捜していた。
そのうちに、敵の曹仁の一家
龐徳は、渡り合って、一刀のもとに、曹永を斬り伏せ、その馬を奪って、さらに、敵の中へ、猛走して行った。
韓遂も、坑に墜ちて、すでに危なかったが、龐徳が一時敵を追いちらしてくれたので、その間に、土中から躍り出し、これも拾い馬に跳び乗って、辛くも死地をのがれることができた。
何にしても、この奇襲は、大惨敗に終ってしまった。
敗軍を収めてから、馬超が損害を調べてみると、千余騎のうち三分の一を失っていた。
数としては、少なかったともいえるが、馬超の心をひどく
しかし壮気さかんな馬超は、
と、その日のうちに、第二次襲撃を企てて、今度は身みずから先手に進み、
ところが、さすがに曹操は、百
と、それを予察していた。
馬超の性格と、初度の敵の損害の少なかった点から観て、早くも、そう
六里の道を迂回して、西涼の夜襲隊が、曹操の中軍めがけて、不意に
「やや。空陣だ」
「さては」
と、空を
「馬超を生かして還すな」と、ひしめいた。
西涼軍の一将
かくて、西涼軍と中央軍とは、渭水を挟んで一勝一敗を繰り返し、勝敗は容易につかなかった。
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