第85話、徐庶
文字数 9,902文字
日を経て、徐庶の母は、都へ迎えとられて来た。使者の鄭重、府門の案内、下へも置かない扱いである。
けれど、見たところ、それは平凡な田舎の一老婆でしかない。まことに質朴そのものの姿である。幾人もの子を生んだ小柄な体は、腰が曲がりかけているため、よけい小さく見える。人に馴れない山鳩のような眼をして、おどおどと、貴賓閣に上がり、あまりに
やがてのこと、曹操は群臣を従えて、これへ現れたが、老母を見ると、まるでわが母を拝するようにねぎらって、
「ときに、おっ母さん、あなたの子、
と、ことばもわざと俗に噛みくだいて、やんわりと問いかけた。
老母は、答を知らない。相かわらず、山鳩のような小さい眼を、しょぼしょぼさせて、曹操の顔を仰いでいるだけだった。
無理もない――
曹操は、充分に察しながら、なおもやさしく、こういった。
すると、――老母は初めて
「……はてのう。媼が聞いている世評とは、たいそう違いすぎまする。劉備玄徳さまこそ、漢の景帝が玄孫におわし、
老母は、にわかにきつくかぶりを振った。
きっぱりと云いきった。そして、さっきから目の前に押しつけられていた筆を取るやいな、やにわに庭へ投げ捨ててしまった。当然曹操が激怒して、このくそ婆を斬れと、呶号して突っ立つと、とたんに、老母の手はまた
曹操の呶号に、武士たちは、どっと寄って、老母の両手を高く
老母は
彼はいう。
彼は自分の邸へ、徐庶の母をつれて帰った。
程昱は、そういって朝夕の世話も実の母に仕えるようだった。
けれど、徐庶の母は、
そして折々に珍しい食物とか衣服など持たせてやるので、徐庶の母も、
程昱は、その手紙を丹念に保存して、老母の筆ぐせを手習いしていた。そしてひそかに主君曹操としめし合い、ついに巧妙なる老母の
すると或る日の夕べ、門辺を叩く男がある。母の使いと、耳に聞えたので、徐庶は自身走り出て、
と、訊ねると、使いの男は、
「お文にて候や」と、すぐ一通の手紙を出して徐庶の手にわたし、
「てまえは他家の
自分の居間にもどるやいな、徐庶は
ここまで読むと徐庶は、
次の日の朝まだき。
徐庶は小鳥の声とともに邸を出ていた。ゆうべは夜もすがら寝もやらずに明かしたらしい
劉備は、彼をみて、その
徐庶は、面を沈めたまま、黙拝また黙拝して、ようやく眉をあげた。
劉備は快く承諾した。彼ももらい泣きして、眼には涙をいっぱいたたえていた。
劉備にもかつては母があった。世の母を思うとき、今は亡きわが母を憶わずにいられない。
終日、ふたりは尽きぬ名残を語り暮していた。
夜に入っては、幕将すべてを集めて、彼のために
一杯また一杯、別れを惜しんで、宴は夜半に及んだ。
けれど徐庶は、酔わない。
時折、杯をわすれて、こう嘆じた。
いつか、夜が白みかけた。
諸大将も、
まどろむほどの間もないが、
と、囁いた。
劉備は、黙然としていた。
孫乾は、なお語を強めて、
劉備は、胸を正した。
彼は、身支度して、早くも
関羽、張飛などが騎従した。劉備は城外まで、徐庶の出発を見送るつもりらしい。人々はその深情に感じもし、また徐庶の光栄をうらやみもした。
郊外の長亭まで来た。徐庶は恐縮のあまり、
と、一亭のうちで、また別杯を酌んだ。
劉備は、しみじみと、
と、繰返していった。
徐庶はなみだを流して、
劉備は沈痛な語気でいった。
にべもなく、徐庶は、顔を横に振った。
劉備は肚の底から長息を吐いて、さらにこう訊ねた。
「それで思い当ることがある。いつか
徐庶はあわてて、手を振っていった。
徐庶は、最後の拝をして、許都へと去った。
泊りを重ねて、徐庶が、都へ着いたときは、冬になっていた。――建安十二年の十一月だった。
すぐ相府に出て、着京の由を届けると、曹操は、
と、いった。
曹操は、幾度もうなずいて見せたが、
さりげなく、二、三の雑談を交わして後、やがて、徐庶は曹操のゆるしを得て、奥の一堂にいる老母のところへ会いに行った。
「あの内においでなされる」
と、案内の者は、指さしてすぐ戻って行く。――徐庶は清らかな園の一方に見える一棟を見るよりもう胸がいっぱいになっていた。彼は、そこの堂下にぬかずいて、
と、声をかけた。
すると、彼の老母は、さも意外そうに、わが子のすがたを見まもって訊ねた。
と、出発の前に、新野で受け取った書簡を出してみせると、老母は、もってのほか怒って、顔の色まで変じ、
と、身を正して叱った。
母の悲しげな声に、徐庶は、
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