第148話、後始末

文字数 10,000文字

 曹操の死は天下の春を一時寂闇(せきあん)にした。ひとり魏一国だけでなく、蜀、呉の人々の胸へも云わず語らず、人間は遂に誰であろうとまぬがれ難い天命の下にあることを、今さらのように深く内省させた。

「故人となって見れば彼の偉大さがなお分る」

「彼の如き人物はやはり百年に一度も出まい、千年に一人もどうだか」

「短所も多かったが、長所も多い。もし曹操が現れなかったら、歴史はこうなって来なかったろう。何しても有史以来の風雲児だった。華やかなる奸雄(かんゆう)だった。彼()いて寂寥(せきりょう)なき(あた)わずじゃ」

 ここしばらくの間というもの、洛陽の市人は、寄るとさわると、曹操の死を(いた)み、曹操の逸話を語り、曹操の人物を評し、何かにつけて、その生前を(しの)び合っていた。

 かくて魏は、次の若い曹丕(そうひ)の世代に入った。曹丕は父の死の時、鄴都(ぎょうと)の城にいた。そしてやがて洛陽を出た()の大列をここに迎えるの日、彼は哀号をあげて、それを城外の門に拝した。

 曹丕は、曹家の長男である。

 いま鄴都の魏王宮に、父の(ひつぎ)を迎えた彼は、そもそもどんな当惑と悲嘆を抱いたろう。余りに偉大な父をもち、余りに(おお)きな遺業を残された子は、骨肉の悲しみと共に、一時は()(すべ)も知らなかったであろう。

――魏宮ノ上、雲ハ憂イニ閉ジ、殿裡(デンリ)ノ香煙、(アシタ)ヲ告ゲズ、日モ夜モ祭ヲナシテ、哭ク声タダ大イニ震ウ


 とある古書の記述もあながち誇張ではなかったに違いない。

 時に、侍側の司馬孚(しばふ)は、


「太子には、いたずらに悲しみ沈んでおられる時ではありません。また左右の重臣たちも、なぜ嗣君(しくん)を励まして、一日も早く治国万代の政策を掲げ、民心を鎮め給わぬか」

 と、さも腑甲斐(ふがい)なき人々よと云わんばかりにたしなめた。

 重臣たちはそれに答えた。

「さようなことは、ご注意がなくても分っておるが、何よりも、魏王の御位へ太子を(かしず)き立て奉ることが先でなければならぬ。けれど如何せん、未だにそれを許すとの勅命が朝廷からくだっていない」

 すると兵部尚書(ひょうぶのしょうしょ)陳矯(ちんきょう)がまたすすみ出て、やにわに声を荒らげ、


「やあ、いつもながら重臣方の優柔不断、聞くも歯がゆい仰せではある。国に一日の主なきもゆるさず。いま魏王(こう)ぜられ、太子御柩(みひつぎ)のかたわらに在り、たとえ勅命おそくとも、直ちに太子を(のぼ)せて王位へ()け奉るに、誰かこれに従わぬ者があろうや。――もしまた、それを不可とし、(はば)め奉らん意志を抱く者があるなら、すすんでわが前にその名を名乗り給え」

「魏王の薨去(こうきょ)が伝わって、全土の民は、天日を失ったごとく、震動哀哭(しんどうあいこく)、職も手につかない心地である。御身ら、多年高禄を()みながら、今日この時、無為茫然、いったい何をまごまごしておられるのか。なぜ一日も早く太子を立てて新しき政綱を掲げ、天下に魏の不壊(ふえ)を示さないのか」


 と、罵った。

 諸人はまた口を揃えて、すでにその事は議しているが、まだ漢朝から何らのご沙汰がくだらないので、さしひかえているところであると陳弁した。

 すると華歆(かきん)はあざ笑って、


「漢の朝廷には今、そんな才覚のある朝臣もいないし、第一政事(まつりごと)をなす機能すらすでに許都にはなくなっているのに、手をつかねて、勅命のくだるのを待っていたとて、いつのことになるか知れたものではない。故に、自分は直接、漢朝へ迫って、天子に奏し、ここに勅命をいただいて来た」

 と、華歆は懐中から詔書を取り出して、一同に示したうえ、


「謹んで聴かれよ」


 と、声高らかに読みあげた。

 詔書の文は魏王曹操の大功を(しょう)し、嗣子(しし)曹丕(そうひ)に対して、父の王位を()ぐことを命ぜられたもので――建安二十五年春二月(みことのり)すと明らかにむすんである。

 重臣始め、諸人はみな眉をひらいて歓んだ。もとよりこれは漢帝のご本意でなかったこと勿論であろうが、その空気を察して、この際大いに魏へ私威を植えておこうとする華歆が、許都の朝廷へ迫ってむりに強請(きょうせい)してきたものなのである。

 が、名分はできた。形式はととのった。

 曹丕はここに、魏王の位に即き、百官の拝賀をうけ、同時に、天下へその由を宣示した。

 時に、一騎の早馬は、

鄢陵侯(えんりょうこう)曹彰(そうしょう)の君。みずから十万の軍勢をしたがえ長安よりこれへ来給う)


 という報をもたらした。曹丕は、大いに疑って、


「なに。弟が?」


 と、会わないうちからひどく(おそ)れた。曹彰は操の次男で、兄弟中では武剛第一の男である。察するに、王位を争わんためではないかと、曹丕は邪推して兢々(きょうきょう)と対策を考え始めた。


「お案じ遊ばすな。あの方のご気質はてまえがよく呑みこんでいます。まず私が参って、ご本心を(ただ)してみましょう」

 そういって、彼をなぐさめた諫議(かんぎ)大夫の賈逵(かき)は、急いで魏城の門外へ出て行った。そして、曹彰を出迎えると、曹彰は彼を見るとすぐ云った。


「先君の印璽(いんじ)(じゅ)はどこへやったかね?」

 賈逵(かき)は色を正して答えた。


「家に長子あり、国に儲君(ちょくん)あり、亡君の印綬はおのずから在るべき所に在りましょう。あえて、あなたがご詮議(せんぎ)になる理由はいったいどういうお心なのですか」


 曹彰は黙ってしまった。

 進んで、宮門へかかると、賈逵はそこでまた釘をさした。


「今日、あなたがこれへ参られたのは、父君の()に服さんためですか、それとも王位を争わんためですか。さらに、忠孝の人たらんと思し召すか、大逆の子にならんとお思い遊ばすか」

 曹彰は勃然と云った。


「なんでおれに異心などあるものか。これへ来たのは父の喪を発せんためだ」

「それなら十万人の兵隊をつれてお入りになることはありますまい。すべて、この所から退(しりぞ)けて下さい」


 かくて曹彰はただ一人になって宮門に入り、兄の曹丕(そうひ)に対面すると、共に手をとって、父の死を(いた)みかなしんだ。

 曹丕が魏王の位をついだ日から改元して、建安二十五年は、同年の春から延康(えんこう)元年とよぶことになった。

 華歆(かきん)は功によって相国となり、賈詡(かく)は大尉に封ぜられ、王朗は御史大夫(ぎょしのたいふ)に昇進した。

 そのほか大小の官僚武人すべてに褒賞(ほうしょう)の沙汰があり、故曹操の大葬終るの日、高陵の墳墓には特使が立って、

――以後、(おくりな)して、武祖と号し奉る。

 という報告祭を営んだ。

 さて。葬祭の万端も終ってから、相国の華歆は、一日、曹丕(そうひ)の前へ出て云った。

「ご舎弟の彰君には、さきに連れてきた十万の軍馬をことごとく魏城に附与して、すでに長安へお立ち帰りなされましたから、かの君にはまず疑いはありませんが、三男曹植の君と、四男の曹熊君(そうゆうぎみ)には、父君の()にも会し給わず、いまだに即位のご祝辞もありません。故に、令旨(れいし)を下して、その罪をお責めになる必要がありましょう。不問に附しておくべきではありません」

 曹丕はその言葉に従って、すぐ令旨を発し、二人の弟へ、おのおの使いを派して、その罪を鳴らした。

 曹熊の所へ赴いた使者は、帰ってくると、涙をながして告げた。

「常々、ご病身でもあったせいでしょうが、問罪の状をお渡しすると、その夜、自らお(くび)(くく)って、あわれ自害してお果て遊ばしました」

 曹丕はひどく後悔したが、事及ばず、篤く葬らせた。そのうちに、三男の曹植のもとへ赴いた使者も帰ってきたが、この使いの報告は、前のとは反対に、いたく曹丕を憤らせた。

 曹植のところから帰ってきた使者の談話である。

「――私が伺いました日も、うわさに違わず、臨淄(りんし)侯曹植様には、丁儀、丁廙(ていい)などという寵臣を(はべ)らせて、前の夜からご酒宴のようでした。それはまあよいとしても、かりそめにも御兄上魏王の令旨をもたらして参った使者と聞いたら、口を含嗽(うがい)し、席を清めて、謹んでお迎えあるべきに、座もうごかず、杯盤(はいばん)の間へ私を通し、あまつさえ臣下の丁儀が頭から使者たる手前に向って……汝、みだりに舌を動かすな。そもそも、先王ご存命のとき、すでに一度は、わが殿、曹植の君を太子に立てんと、明らかに仰せ出されたことがあったのだ。しかるに、讒者(ざんしゃ)の言に(さまた)げられ、ついにその事なく薨去せられたが、その大葬のすむや否、わが曹植の君に、問罪の使いを向けてよこすとは何事だ。いったい曹丕(そうひ)という君はそんな暗君なのか。……左右に良い臣もいないのか……。と、いやはや口を極めて(ののし)りまする。するとまた、もうひとりの丁廙という家臣も口をそろえて。……知らずや汝、わが主曹植の君には、学徳世に超えたまい、詩藻は御ゆたかに、筆をとればたちまち章をなし、たちまち珠玉を成す。しかも生れながら王者の風を備えられておる。汝の侍く曹丕などとは天稟(てんぴん)がちがう。わけて汝ら廟堂の臣ども、みなこれ凡眼の愚夫、(あに)、賢主暗君の見分けがつこうや。……と、まるでもうてんから頭ごなしで、二の句もいわせぬ権まくですから、ぜひなくただ令旨をお伝えしただけで、ほうほうの(てい)にて立ち帰って参りましたような次第で――」

 かくて曹丕の一旦の怒りは、ついに兄弟(けいてい)(かき)にせめぐの形を取ってあらわれた。彼の厳命をうけた許褚は、精兵三千余をひっさげて、直ちに、曹植の居城臨淄(りんし)へ殺到した。

「われらは王軍である」

「令旨の軍隊だぞ」

 許褚の将士は、口々にいって、門の守兵を四角八面に踏みちらし突き殺し、(ふせ)ぎ闘うひまも与えず閣中へ混み入って、折ふし今日も遊宴していた丁儀、丁廙を始め、弟君の植をも、ことごとく捕縛して車に乗せ、たちまち、(ぎょう)の魏城へ帰ってきた。

 憎悪の(ほむら)を面に燃やして、曹丕は一類を階下にひかせて、一(べん)をくれるや否、

「まず、その二人から先に誅殺を加えろ」


 と、許褚に命じた。

 剣光のひらめく下に、二つの首は無造作に転がった。階欄(かいらん)(あけ)()え、地は(くれない)の泉をなした。

 そのとき曹丕のうしろにあわただしい跫音が聞え、(たま)げるような老女の泣き声が彼の足もとへすがった。――ふたりの家臣が目のまえに斬られて、血しおの中に喪心(そうしん)していた曹植が、その蒼ざめた顔をあげてふと見ると、それは自分たち兄弟を生んだ実の母たる卞氏(べんし)であった。

「あっ……わが母公」


 植は思わず伸び上がって嬰児(あかご)の如く哀れを乞う手をさし伸べると、老母は涙の目できっと()めつけて、


「植……なぜ先王の御大葬にも会さなかったんですか。おまえのような不孝者はありません」


 と、烈しく叱って、そして曹丕の(すそ)を持った手は離さずに、


()よ、丕よ。ちょっと、妾のはなしを聞いておくれ。後生、一生のおねがいだから」


 と、()ってわが子を引っ張って、偏殿(へんでん)の陰へ伴い、どうか同胞(はらから)の情をもって、植の一命は助けてあげておくれと、老いの眼もつぶれんばかり泣き濡れて曹丕へ頼んだ。


「もう、もう……そんなにお嘆きなさいますな。なあに、もとより弟を殺す気なんかありません。ただ懲らしめのためですから」


 そういい、曹植は、安郷(あんきょう)侯に(へん)されて、孤影を馬の背に託し、悄然(しょうぜん)兄の魏王宮から別れ去った。


 漢中王の劉備玄徳(りゅうげんとく)は、この春、建安二十五年をもって、ちょうど六十歳になった。魏の曹操より六ツ年下であった。

 その曹操の死は、早くも成都に聞え、多年の好敵手を失った劉備の胸中には、一抹(いちまつ)落莫(らくばく)の感なきを得なかったろう。敵ながら惜しむべき巨人と、歴戦の過去を顧みると同時に、

「我もまた人生六十齢」

 と、やがては自分の上にも必然来るべきものを期せずにいられなかったに違いない。

 年をとると気が短くなる――という人間の通有性は、大なり小なりそういう心理が無自覚に手伝ってくるせいもあろう。劉備玄徳も多分に洩れず、自身の眼の黒いうちに、呉を征し、魏を亡ぼして、理想の実現を見ようとする気が、老来いよいよ急になっていた。

 折ふしまた魏では、曹丕(そうひ)が王位に()いて、朝廷をないがしろにする風は、はなはだしいと聞き、劉備はある日、成都の一宮に文武の臣を集めて、大いに魏の不道を鳴らし、また先に(うしな)った関羽を惜しんで、

「まず呉に向って、関羽の仇をそそぎ、転じて、(おご)れる魏を、一撃に討たんと思うが、汝らの意見は如何に」

 と、衆議に計った。

 人々の眼はかがやいた。いまや蜀の国力も充分に恢復し、兵馬は有事の日に備えて鍛錬(たんれん)おこたりない。それは誰も異存なき意志を示している(ひとみ)であった。

 ときに廖化(りょうか)が進んで云った。

「関羽を敵に討たせたのは、味方の劉封(りゅうほう)孟達(もうたつ)の二人でした。呉に仇を報う前に、彼らのご処分を正さなければ、復讐戦の意義が薄れましょう」


 劉備は大きくうなずいて、その儀は我も一日も忘れずといった。そして直ちに、劉封、孟達へ召状を発して処断せんと言を誓うと、孔明が側にあって、


「いや、火急に召状を発せられては、かならず異変を生じましょう。まず両名を一郡の太守に転封し、後、緩々(ゆるゆる)お計り遊ばすがよいかと思います」

 と、諫めた。叛乱の動機は、つねにそうした(はず)みから起る。()にもと、人々は孔明の明察に感心した。

 ところがその日の群臣のなかに彭義(ほうぎ)という者がいた。彼と孟達とは日頃から非常に親しかった。会議が終ると、何かそそくさと急いで下城したようだったが、我が家へ帰るとすぐ書簡をしたためて、

(君の命は危ない。転封のお沙汰が届いても、油断するな。関羽の問題が再燃したのだ)

 と、密報を出した。

 しかし、この密書を持った使いの男は、南城門の外で、馬超の部下の夜警兵に捕まってしまった。

 馬超は、手紙の内容を見て、一驚(いっきょう)したが、念のため彭義(ほうぎ)の家を訪れて、彼の容子を見届けることにした。なにも感づかない彭義(ほうぎ)は、

「よく遊びにきてくれた」


 と、酒を出して引き留め、深更まで快飲したが、そのうちに馬超の口につりこまれて、


「もし上庸(じょうよう)の孟達が旗挙げしたら、貴殿も成都から内応し給え。不肖(ふしょう)、彭義にも、充分勝算はある。貴殿の如き武将が、いつまでも碌々(ろくろく)蜀門の番犬に甘んじておるわけでもあるまいが」

 などと慨然、胸底の気を吐いてしまった。

 馬超は次の日、漢中王にまみえて、彭義の密書とともに前夜のことをことごとく告げた。劉備は、直ちに彭義の逮捕を命じ、獄へ下して、なお余類を拷問(ごうもん)にかけて調べた。

 彭義は大いに後悔して、獄中から悔悟(かいご)の書を孔明へ送り、どうか助けてくれと、彼の憐愍(れんびん)に訴えた。劉備もその陳情を見て、

「軍師どうするか」
 と半ば、心を動かされた風であるが、孔明は冷然と、顔を振って、

「かかる愚痴は狂人の言と見ておかねばなりません。叛骨(はんこつ)ある者は、一時恩を感じても、後またかならず叛骨をあらわしますから」


 と、かえって急に断を下し、その夜、彭義に死を与えた。

 彭義が(ちゅう)されたことによって、遠隔の地にある孟達も、さてはと、身に危急を感じだした。彼にはもともと、離反の心があったものとみえ、その部下、申耽(しんたん)と申儀の兄弟は、


「魏へ走れば、曹丕(そうひ)が重く用いてくれるに違いありません」
 と、主に投降をすすめ、同じ城にいる劉封(りゅうほう)にも告げず、わずか五、六十騎を連れて夜中、脱走してしまった。

 劉封は夜が明けてから孟達の脱走を聞いたが、なお信じきれない顔して、


「彼の部下はそっくり残っているし、昨日も変った容子はなかった。狩猟(かり)にでも出かけたのだろう」


 と、左右の臣が、不審な実証をあげても、まさか? とのみで悠々としていた。

 すると、国境の柵門(さくもん)から、早打ちが飛んできた。約五十騎ほどの将士が関所を破って魏へ入ったという報らせである。さてはと(あわ)てて兵馬を糾合(きゅうごう)し、劉封自身、追手となって急追したが、時すでに遅しで、(むな)しく帰ってきた。

「なんだって、孟達は、この地位と軍隊をすてて、魏へ入国してしまったのだろう?」

 まだ何も(さと)らない劉封(りゅうほう)は、ただ彼の心事をいぶかるにとどまっていたが、やがて成都の急使は、漢中王の命をここに伝えて、

「孟達の反心は歴然。なぜ拱手(きょうしゅ)して見ているか。直ちに上庸(じょうよう)綿竹(めんちく)の兵をあげて、彼の不義を鳴らし、彼の首を討ち取るべし」と、沙汰した。

 これは孔明の深謀で、劉備としては成都の蜀軍を派して、始末するつもりであったが、孔明はそれを上策でないとして、孟達の追討を劉封に命じれば、その(いくさ)に勝っても敗れても劉封は成都へ帰ってくるしかないから、その時に処断することが、対外策としても最良の方法であると説いたのであった。

 一方、魏へ投降した孟達は、曹丕の前に引かれて、一応、訊問をうけた。曹丕は、内心この有力な大将の投降は歓迎していたが、なお半信半疑を抱いて、


「劉備が特に汝を冷遇していたとは思われんが、一体、なんの理由で魏へ来たか」

 と質問した。

 孟達は、それに答えて、

「関羽の軍が全滅にあったとき、麦城(ばくじょう)へ救いに行かなかった点を、旧主劉備はあくまで責めてやみません。関羽を見殺しになしたるは孟達なりと、害意を抱いておらるる由を、成都の便りに知ったからです」


 ちょうど襄陽(じょうよう)方面から急報が入った。劉封が五万余の兵を擁して、国境を(おか)し、諸所焼き払いながら進攻してくるという注進であった。曹丕は、孟達を試すには適当な一戦と思ったので、


「襄陽には、わが夏侯尚(かこうしょう)徐晃(じょこう)などが籠っているから、決して不安はないが、試みに、貴殿はまず同地の味方に加勢して、劉封の首をこれへ持って来給え。ご辺を如何に待遇するかは、その上でまた考えるから」

 と取りあえず、散騎常侍、建武将軍の役に任じて、襄陽へ赴かせた。

 孟達が襄陽へ着いたとき、劉封の軍勢はすでに郊外八十里まで来ていた。彼は一通の書簡をしたためて、軍使を仕立てて、

「返辞を求めてこい」

 と、劉封の陣へそれを持たせてやった。

 劉封が受けてそれを開いてみると、次のような意味が友情的な辞句を借りて書いてあった。

思ウ所アッテ自分ハ魏ノ臣ニナッタ。君モ魏ヘ(クダ)ッテ将来ノ富貴ヲ約束シテハドウカ。君ト漢中王トハ、養父子ノ間ニナッテイルガ、元々、君ハ羅侯子(ラコウシ)ノ子デアル。劉氏ノ(トウ)ハ既ニ漢中王ノ実子ガ継グコトニナッテイル。君モ足モトノ明ルイウチニ、魏ヘ移ッテ、(モト)ノ羅侯子ヲ興スベキデハナイカ。


 劉封は読み終るとすぐ引き裂いて捨てた。


「今日までは未だ彼にいささかの友誼(ゆうぎ)をのこしていたが、こんな不忠不孝を勧める悪人と分ればかえって思い切りがよい」


 軍使の首を刎ねて、直ちに、兵を襄陽城へすすめた。

 だが、劉封の戦いは、その日も次の日も、敗北を招いた。敵の陣頭にはいつも孟達が現れて、(したた)かに劉封を痛めつけた。

 加うるに襄陽城には魏の勇将として聞えの高い徐晃(じょこう)がいるし、夏侯尚があるし、とうてい太刀打ちにならなかった。

 惨敗をかさねた劉封(りゅうほう)軍は、敵の三将に包囲されて、殲滅的な打撃にあい、遂に、上庸(じょうよう)へ潰走してきたが、そこもいつの間にか魏軍に占領されているというようなみじめな有様であった。

 彼はとうとう百余騎の残兵をつれて、成都へ逃げ帰るのほか途がなくなってしまった。孔明の先見はあたっていた。


 劉封が敗れて帰ってきたと侍臣から聞くと、劉備は、
「堂上へ上げるな。階下に止めておけ」

 と、侍者へいいつけ、孔明と顔見合わせて、そっと嘆息した。

 彼は重い足を運んで、表の閣へ臨み、階下にひれ伏している養子の劉封をじろと見て云った。

豎子(じゅし)。なんの面目があって、ここへ帰ってきたか」

 劉封は、ようやく面をあげて、


「叔父(関羽(かんう))の危難を救わなかったのは、まったく私の意志ではなかったのです。その折、孟達が頑強に(こば)んだため、つい彼のことばにひかれ、心にもなく自分も援軍に行かなかったので」


 と、そのことをいわれぬ先に弁解しだした。

 劉備は眉を怒らして、


「うるさい。そのような言い訳を今さら聞く耳はもたぬ。そちも定めて、人の喰うものを喰い、人の着る衣を着ている人間であろうに、孟達の詭弁(きべん)に同意し、みすみす恩ある叔父を見殺しになすとは犬か畜生か、(みさ)げ果てたやつではある。起てっ、去れっ。見るもけがらわしい」

 いよいよ、烈しく叱ったが、多年育てた子と思えば、私情はまたべつと見える。眼に涙をたたえ、面を横にしたきり、再び階下の子を正視しなかった。


「……まったく私の不敏です。いえ、大落度でした。なにとぞこの(たび)だけは、おゆるし下さいまし。この通りです」


 劉封は涙を流して、何十遍も、(ひたい)を地にすりつけていた。しかし、劉備は横を向いたままである。自己を木石の如く、私情を仇の如く、じっと抑えていた。

 そのうちに劉封は、わっと嬰児(あかご)のようにむせび()いた。その声には、さすがの劉備も胸を掻きむしられた。ついに彼の怒れる眉は、慈父の面に変ろうとしかけた。


「…………」

 すると、それまで、口をつぐんで劉備の容子を見ていた孔明は、眼を以て、彼の崩れかかる心をじっと支えた。意志の不足へ意志を(おぎな)ったのである。劉備は急に起って、


「この豎子(じゅし)を押し出して、早く首を斬れ」

 と、左右の臣へ云い捨てるや否、ほとんど逃げ込むように面を沈めて奥の一閣へかくれてしまった。

 閉じ籠ったまま、彼は独り悵然(ちょうぜん)と壁に対していた。すると一名の老侍郎(ろうじろう)が畏る畏るそれへ来ていうには、

「劉封の君について、襄陽の戦場から落ちてきた部下たちに、手前がいろいろ訊いてみますと、すでに劉封様には、上庸(じょうよう)におられた時からいたく前非を悔い、孟達が魏へ(はし)った後はなおさら慚愧(ざんき)にたえぬご容子であったそうです。そして襄陽の陣でも、孟達からきた勧降の書を引き破り、その軍使も即座に斬って、戦をすすめられた由ですから、以て、その後のご心中はよく分りまする。なんとか、ご憐愍(れんびん)を垂れ給わんことを、我々臣下よりも切におねがい申し奉りまする」

 さなきだに劉備としては、助けたくてならなかったところである。彼は、誰かに、そういって貰いたい折に、こういう言葉を聞いたので、

「おお、彼にも、一片の良心はあったか。忠孝の何たるかは、少しでもわきまえていたとみえる。不愍(ふびん)なやつ、殺すまでには及ぶまい」


 (まろ)ぶが如く、廊下へ出た。そして急に、助命を伝えよと、老侍郎を走らせた。

 ところが、出合い頭に、数名の武士はすでに劉封の首を斬って、それへ持ってきた。劉備は一目見るや、


「な、なに。もはや(ざん)に処してしまったとか。われとしたことが、軽々しくも、怒りにまかせて、遂に一人の股肱(ここう)を死にいたらしめてしまった。ああ、悲しいかな」


 と、痴者のごとく(つぶや)いて、腰もつかないばかりに嘆いた。

 そこへ孔明が来て、嘆きやまぬ彼を一室へ抱き入れた。そしてことば静かに、


「お心もちはよく分ります。孔明とて木石ではありませんから。……けれど国家久遠の計を思うならば、ひとりの豎子(じゅし)、なんぞ惜しむに足らんやです。これしきの悲しみに会って、たちまち凡夫にかえるようなことで、どうして大業の基が建てられましょう。女童(おんなわらべ)の情です。自らのお涙を自らお(わら)いなさい。あなたは漢中王でいらせられますぞ」


「…………」


 劉備はうなずいた。しかし老齢六十の彼には、心身に響いた。


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登場人物紹介

劉備玄徳

劉備玄徳

ひげ

劉備玄徳

劉備玄徳

諸葛孔明《しょかつこうめい》

張飛

張飛

髭あり

張飛

関羽

関羽


関平《かんぺい》

関羽の養子

趙雲

趙雲

張雲

黄忠《こうちゅう》

魏延《ぎえん》

馬超

厳顔《げんがん》

劉璋配下から劉備配下

龐統《ほうとう》

糜竺《びじく》

陶謙配下

後劉備の配下

糜芳《びほう》

糜竺《びじく》の弟

孫乾《そんけん》

陶謙配下

後劉備の配下

陳珪《ちんけい》

陳登の父親

陳登《ちんとう》

陶謙の配下から劉備の配下へ、

曹豹《そうひょう》

劉備の配下だったが、酒に酔った張飛に殴られ裏切る

周倉《しゅうそう》

もと黄巾の張宝《ちょうほう》の配下

関羽に仕える

劉辟《りゅうへき》

簡雍《かんよう》

劉備の配下

馬良《ばりょう》

劉備の配下

伊籍《いせき》

法正

劉璋配下

のち劉備配下

劉封

劉備の養子

孟達

劉璋配下

のち劉備配下

商人

宿屋の主人

馬元義

甘洪

李朱氾

黄巾族

老僧

芙蓉

芙蓉

糜夫人《びふじん》

甘夫人


劉備の母

劉備の母

役人


劉焉

幽州太守

張世平

商人

義軍

部下

黄巾族

程遠志

鄒靖

青州太守タイシュ龔景キョウケイ

盧植

朱雋

曹操

曹操

やけど

曹操

曹操


若い頃の曹操

曹丕《そうひ》

曹丕《そうひ》

曹嵩

曹操の父

曹洪


曹洪


曹徳

曹操の弟

曹仁

曹純

曹洪の弟

司馬懿《しばい》仲達《ちゅうたつ》

曹操配下


楽進

楽進

夏侯惇

夏侯惇《かこうじゅん》

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

韓浩《かんこう》

曹操配下

夏侯淵

夏侯淵《かこうえん》

典韋《てんい》

曹操の配下

悪来と言うあだ名で呼ばれる

劉曄《りゅうよう》

曹操配下

李典

曹操の配下

荀彧《じゅんいく》

曹操の配下

荀攸《じゅんゆう》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

徐晃《じょこう》

楊奉の配下、後曹操に仕える

史渙《しかん》

徐晃《じょこう》の部下

満寵《まんちょう》

曹操の配下

郭嘉《かくか》

曹操の配下

曹安民《そうあんみん》

曹操の甥

曹昂《そうこう》

曹操の長男

于禁《うきん》

曹操の配下

王垢《おうこう》

曹操の配下、糧米総官

程昱《ていいく》

曹操の配下

呂虔《りょけん》

曹操の配下

王必《おうひつ》

曹操の配下

車冑《しゃちゅう》

曹操の配下、一時的に徐州の太守

孔融《こうゆう》

曹操配下

劉岱《りゅうたい》

曹操配下

王忠《おうちゅう》

曹操配下

張遼

呂布の配下から曹操の配下へ

張遼

蒋幹《しょうかん》

曹操配下、周瑜と学友

張郃《ちょうこう》

袁紹の配下

賈詡

賈詡《かく》

董卓

李儒

董卓の懐刀

李粛

呂布を裏切らせる

華雄

胡軫

周毖

李傕

李別《りべつ》

李傕の甥

楊奉

李傕の配下、反乱を企むが失敗し逃走

韓暹《かんせん》

宋果《そうか》

李傕の配下、反乱を企むが失敗

郭汜《かくし》

郭汜夫人

樊稠《はんちゅう》

張済

張繍《ちょうしゅう》

張済《ちょうさい》の甥

胡車児《こしゃじ》

張繍《ちょうしゅう》配下

楊彪

董卓の長安遷都に反対

楊彪《ようひょう》の妻

黄琬

董卓の長安遷都に反対

荀爽

董卓の長安遷都に反対

伍瓊

董卓の長安遷都に反対

趙岑

長安までの殿軍を指揮

徐栄

張温

張宝

孫堅

呉郡富春(浙江省・富陽市)の出で、孫子の子孫

孫静

孫堅の弟

孫策

孫堅の長男

孫権《そんけん》

孫権

孫権

孫堅の次男

朱治《しゅち》

孫堅の配下

呂範《りょはん》

袁術の配下、孫策に力を貸し配下になる

周瑜《しゅうゆ》

孫策の配下

周瑜《しゅうゆ》

周瑜

張紘

孫策の配下

二張の一人

張昭

孫策の配下

二張の一人

蒋欽《しょうきん》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

孫権を守って傷を負った

陳武《ちんぶ》

孫策の部下

太史慈《たいしじ》

劉繇《りゅうよう》配下、後、孫策配下


元代

孫策の配下

祖茂

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

韓当

孫堅の配下

黄蓋

孫堅の部下

黄蓋《こうがい》

桓楷《かんかい》

孫堅の部下


魯粛《ろしゅく》

孫権配下

諸葛瑾《しょかつきん》

諸葛孔明《しょかつこうめい》の兄

孫権の配下


呂蒙《りょもう》

孫権配下

虞翻《ぐほん》

王朗の配下、後、孫策の配下

甘寧《かんねい》

劉表の元にいたが、重く用いられず、孫権の元へ

甘寧《かんねい》

凌統《りょうとう》

凌統《りょうとう》

孫権配下


陸遜《りくそん》

孫権配下

張均

督郵

霊帝

劉恢

何進

何后

潘隠

何進に通じている禁門の武官

袁紹

袁紹

劉《りゅう》夫人

袁譚《えんたん》

袁紹の嫡男

袁尚《えんしょう》

袁紹の三男

高幹

袁紹の甥

顔良

顔良

文醜

兪渉

逢紀

冀州を狙い策をねる。

麹義

田豊

審配

袁紹の配下

沮授《そじゅ》

袁紹配下

郭図《かくと》

袁紹配下


高覧《こうらん》

袁紹の配下

淳于瓊《じゅんうけい》

袁紹の配下

酒が好き

袁術

袁胤《えんいん》

袁術の甥

紀霊《きれい》

袁術の配下

荀正

袁術の配下

楊大将《ようたいしょう》

袁術の配下

韓胤《かんいん》

袁術の配下

閻象《えんしょう》

袁術配下

韓馥

冀州の牧

耿武

袁紹を国に迎え入れることを反対した人物。

鄭泰

張譲

陳留王

董卓により献帝となる。

献帝

献帝

伏皇后《ふくこうごう》

伏完《ふくかん》

伏皇后の父

楊琦《ようき》

侍中郎《じちゅうろう》

皇甫酈《こうほれき》

董昭《とうしょう》

董貴妃

献帝の妻、董昭の娘

王子服《おうじふく》

董承《とうじょう》の親友

馬騰《ばとう》

西涼の太守

崔毅

閔貢

鮑信

鮑忠

丁原

呂布


呂布

呂布

呂布

厳氏

呂布の正妻

陳宮

高順

呂布の配下

郝萌《かくほう》

呂布配下

曹性

呂布の配下

夏侯惇の目を射った人

宋憲

呂布の配下

侯成《こうせい》

呂布の配下


魏続《ぎぞく》

呂布の配下

王允

貂蝉《ちょうせん》

孫瑞《そんずい》

王允の仲間、董卓の暗殺を謀る

皇甫嵩《こうほすう》

丁管

越騎校尉の伍俘

橋玄

許子将

呂伯奢

衛弘

公孫瓉

北平の太守

公孫越

王匡

方悦

劉表

蔡夫人

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

蒯良

劉表配下

蒯越《かいえつ》

劉表配下、蒯良の弟

黄祖

劉表配下

黄祖

陳生

劉表配下

張虎

劉表配下


蔡瑁《さいぼう》

劉表配下

呂公《りょこう》

劉表の配下

韓嵩《かんすう》

劉表の配下

牛輔

金を持って逃げようとして胡赤児《こせきじ》に殺される

胡赤児《こせきじ》

牛輔を殺し金を奪い、呂布に降伏するも呂布に殺される。

韓遂《かんすい》

并州《へいしゅう》の刺史《しし》

西涼の太守|馬騰《ばとう》と共に長安をせめる。

陶謙《とうけん》

徐州《じょしゅう》の太守

張闓《ちょうがい》

元黄巾族の陶謙の配下

何曼《かまん》

截天夜叉《せってんやしゃ》

黄巾の残党

何儀《かぎ》

黄巾の残党

田氏

濮陽《ぼくよう》の富豪

劉繇《りゅうよう》

楊州の刺史

張英

劉繇《りゅうよう》の配下


王朗《おうろう》

厳白虎《げんぱくこ》

東呉《とうご》の徳王《とくおう》と称す

厳与《げんよ》

厳白虎の弟

華陀《かだ》

医者

鄒氏《すうし》

未亡人

徐璆《じょきゅう》

袁術の甥、袁胤《えんいん》をとらえ、玉璽を曹操に送った

鄭玄《ていげん》

禰衡《ねいこう》

吉平

医者

慶童《けいどう》

董承の元で働く奴隷

陳震《ちんしん》

袁紹配下

龔都《きょうと》

郭常《かくじょう》

郭常《かくじょう》の、のら息子

裴元紹《はいげんしょう》

黄巾の残党

関定《かんてい》

許攸《きょゆう》

袁紹の配下であったが、曹操の配下へ

辛評《しんひょう》

辛毘《しんび》の兄

辛毘《しんび》

辛評《しんひょう》の弟

袁譚《えんたん》の配下、後、曹操の配下

呂曠《りょこう》

呂翔《りょしょう》の兄

呂翔《りょしょう》

呂曠《りょこう》の弟


李孚《りふ》

袁尚配下

王修

田疇《でんちゅう》

元袁紹の部下

公孫康《こうそんこう》

文聘《ぶんぺい》

劉表配下

王威

劉表配下

司馬徽《しばき》

道号を水鏡《すいきょう》先生

徐庶《じょしょ》

単福と名乗る

劉泌《りゅうひつ》

徐庶の母

崔州平《さいしゅうへい》

孔明の友人

諸葛均《しょかつきん》

石広元《せきこうげん》

孟公威《もうこうい》

媯覧《ぎらん》

戴員《たいいん》

孫翊《そんよく》

徐氏《じょし》

辺洪

陳就《ちんじゅ》

郄慮《げきりょ》

劉琮《りゅうそう》

劉表次男

李珪《りけい》

王粲《おうさん》

宋忠

淳于導《じゅんうどう》

曹仁《そうじん》の旗下《きか》

晏明

曹操配下

鍾縉《しょうしん》、鍾紳《しょうしん》

兄弟

夏侯覇《かこうは》

歩隲《ほしつ》

孫権配下

薛綜《せっそう》

孫権配下

厳畯《げんしゅん》

孫権配下


陸績《りくせき》

孫権の配下

程秉《ていへい》

孫権の配下

顧雍《こよう》

孫権配下

丁奉《ていほう》

孫権配下

徐盛《じょせい》

孫権配下

闞沢《かんたく》

孫権配下

蔡薫《さいくん》

蔡和《さいか》

蔡瑁の甥

蔡仲《さいちゅう》

蔡瑁の甥

毛玠《もうかい》

曹操配下

焦触《しょうしょく》

曹操配下

張南《ちょうなん》

曹操配下

馬延《ばえん》

曹操配下

張顗《ちょうぎ》

曹操配下

牛金《ぎゅうきん》

曹操配下


陳矯《ちんきょう》

曹操配下

劉度《りゅうど》

零陵の太守

劉延《りゅうえん》

劉度《りゅうど》の嫡子《ちゃくし》

邢道栄《けいどうえい》

劉度《りゅうど》配下

趙範《ちょうはん》

鮑龍《ほうりゅう》

陳応《ちんおう》

金旋《きんせん》

武陵城太守

鞏志《きょうし》

韓玄《かんげん》

長沙の太守

宋謙《そうけん》

孫権の配下

戈定《かてい》

戈定《かてい》の弟

張遼の馬飼《うまかい》

喬国老《きょうこくろう》

二喬の父

呉夫人

馬騰

献帝

韓遂《かんすい》

黄奎

曹操の配下


李春香《りしゅんこう》

黄奎《こうけい》の姪

陳群《ちんぐん》

曹操の配下

龐徳《ほうとく》

馬岱《ばたい》

鍾繇《しょうよう》

曹操配下

鍾進《しょうしん》

鍾繇《しょうよう》の弟

曹操配下

丁斐《ていひ》

夢梅《むばい》

許褚

楊秋

侯選

李湛

楊阜《ようふ》

張魯《ちょうろ》

張衛《ちょうえい》

閻圃《えんほ》

劉璋《りゅうしょう》

張松《ちょうしょう》

劉璋配下

黄権《こうけん》

劉璋配下

のち劉備配下

王累《おうるい》

王累《おうるい》

李恢《りかい》

劉璋配下

のち劉備配下

鄧賢《とうけん》

劉璋配下

張任《ちょうじん》

劉璋配下

周善

孫権配下


呉妹君《ごまいくん》

董昭《とうしょう》

曹操配下

楊懐《ようかい》

劉璋配下

高沛《こうはい》

劉璋配下

劉巴《りゅうは》

劉璋配下

劉璝《りゅうかい》

劉璋配下

張粛《ちょうしゅく》

張松の兄


冷苞

劉璋配下

呉懿《ごい》

劉璋の舅

彭義《ほうぎ》

鄭度《ていど》

劉璋配下

韋康《いこう》

姜叙《きょうじょ》

夏侯淵《かこうえん》

趙昂《ちょうこう》

楊柏《ようはく》

張魯配下

楊松

楊柏《ようはく》の兄

張魯配下

費観《ひかん》

劉璋配下

穆順《ぼくじゅん》

楊昂《ようこう》

楊任

崔琰《さいえん》

曹操配下


雷同

郭淮《かくわい》

曹操配下

霍峻《かくしゅん》

劉備配下

夏侯尚《かこうしょう》

曹操配下

夏侯徳

曹操配下

夏侯尚《かこうしょう》の兄

陳式《ちんしき》

劉備配下

杜襲《としゅう》

曹操配下

慕容烈《ぼようれつ》

曹操配下

焦炳《しょうへい》

曹操配下

張翼

劉備配下

王平

曹操配下であったが、劉備配下へ。

曹彰《そうしょう》

楊修《ようしゅう》

曹操配下

夏侯惇

費詩《ひし》

劉備配下

王甫《おうほ》

劉備配下

呂常《りょじょう》

曹操配下

董衡《とうこう》

曹操配下

李氏《りし》

龐徳の妻

成何《せいか》

曹操配下

蒋済《しょうさい》

曹操配下

傅士仁《ふしじん》

劉備配下

徐商

曹操配下


廖化

劉備配下

趙累《ちょうるい》

劉備配下

朱然《しゅぜん》

孫権配下


潘璋

孫権配下

左咸《さかん》

孫権配下

馬忠

孫権配下

許靖《きょせい》

劉備配下

華歆《かきん》

曹操配下

呉押獄《ごおうごく》

典獄

司馬孚《しばふ》

司馬懿《しばい》の弟

賈逵《かき》


曹植


卞氏《べんし》

申耽《しんたん》

孟達の部下

范疆《はんきょう》

張飛の配下

張達

張飛の配下


関興《かんこう》

関羽の息子

張苞《ちょうほう》

張飛の息子

趙咨《ちょうし》

孫権配下

邢貞《けいてい》

孫桓《そんかん》

孫権の甥

呉班

張飛の配下

崔禹《さいう》

孫権配下

張南

劉備配下

淳于丹《じゅんうたん》

孫権配下

馮習

劉備配下


丁奉

孫権配下

傅彤《ふとう》

劉備配下

程畿《ていき》

劉備配下

趙融《ちょうゆう》

劉備配下

朱桓《しゅかん》

孫権配下


常雕《じょうちょう》

曹丕配下

吉川英治


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