第148話、後始末
文字数 10,000文字
曹操の死は天下の春を一時
「故人となって見れば彼の偉大さがなお分る」
「彼の如き人物はやはり百年に一度も出まい、千年に一人もどうだか」
「短所も多かったが、長所も多い。もし曹操が現れなかったら、歴史はこうなって来なかったろう。何しても有史以来の風雲児だった。華やかなる
ここしばらくの間というもの、洛陽の市人は、寄るとさわると、曹操の死を
かくて魏は、次の若い
曹丕は、曹家の長男である。
いま鄴都の魏王宮に、父の
――魏宮ノ上、雲ハ憂イニ閉ジ、
とある古書の記述もあながち誇張ではなかったに違いない。
時に、侍側の
と、さも
重臣たちはそれに答えた。
「さようなことは、ご注意がなくても分っておるが、何よりも、魏王の御位へ太子を
すると
「魏王の
と、罵った。
諸人はまた口を揃えて、すでにその事は議しているが、まだ漢朝から何らのご沙汰がくだらないので、さしひかえているところであると陳弁した。
すると
と、華歆は懐中から詔書を取り出して、一同に示したうえ、
と、声高らかに読みあげた。
詔書の文は魏王曹操の大功を
重臣始め、諸人はみな眉をひらいて歓んだ。もとよりこれは漢帝のご本意でなかったこと勿論であろうが、その空気を察して、この際大いに魏へ私威を植えておこうとする華歆が、許都の朝廷へ迫ってむりに
が、名分はできた。形式はととのった。
曹丕はここに、魏王の位に即き、百官の拝賀をうけ、同時に、天下へその由を宣示した。
時に、一騎の早馬は、
(
という報をもたらした。曹丕は、大いに疑って、
と、会わないうちからひどく
そういって、彼をなぐさめた
曹彰は黙ってしまった。
進んで、宮門へかかると、賈逵はそこでまた釘をさした。
曹彰は勃然と云った。
かくて曹彰はただ一人になって宮門に入り、兄の
曹丕が魏王の位をついだ日から改元して、建安二十五年は、同年の春から
そのほか大小の官僚武人すべてに
――以後、
という報告祭を営んだ。
さて。葬祭の万端も終ってから、相国の華歆は、一日、
曹丕はその言葉に従って、すぐ令旨を発し、二人の弟へ、おのおの使いを派して、その罪を鳴らした。
曹熊の所へ赴いた使者は、帰ってくると、涙をながして告げた。
「常々、ご病身でもあったせいでしょうが、問罪の状をお渡しすると、その夜、自らお
曹丕はひどく後悔したが、事及ばず、篤く葬らせた。そのうちに、三男の曹植のもとへ赴いた使者も帰ってきたが、この使いの報告は、前のとは反対に、いたく曹丕を憤らせた。
曹植のところから帰ってきた使者の談話である。
「――私が伺いました日も、うわさに違わず、
かくて曹丕の一旦の怒りは、ついに
「われらは王軍である」
「令旨の軍隊だぞ」
許褚の将士は、口々にいって、門の守兵を四角八面に踏みちらし突き殺し、
憎悪の
と、許褚に命じた。
剣光のひらめく下に、二つの首は無造作に転がった。
そのとき曹丕のうしろにあわただしい跫音が聞え、
植は思わず伸び上がって
と、烈しく叱って、そして曹丕の
と、
漢中王の
その曹操の死は、早くも成都に聞え、多年の好敵手を失った劉備の胸中には、
と、やがては自分の上にも必然来るべきものを期せずにいられなかったに違いない。
年をとると気が短くなる――という人間の通有性は、大なり小なりそういう心理が無自覚に手伝ってくるせいもあろう。劉備玄徳も多分に洩れず、自身の眼の黒いうちに、呉を征し、魏を亡ぼして、理想の実現を見ようとする気が、老来いよいよ急になっていた。
折ふしまた魏では、
と、衆議に計った。
人々の眼はかがやいた。いまや蜀の国力も充分に恢復し、兵馬は有事の日に備えて
ときに
劉備は大きくうなずいて、その儀は我も一日も忘れずといった。そして直ちに、劉封、孟達へ召状を発して処断せんと言を誓うと、孔明が側にあって、
と、諫めた。叛乱の動機は、つねにそうした
ところがその日の群臣のなかに
と、密報を出した。
しかし、この密書を持った使いの男は、南城門の外で、馬超の部下の夜警兵に捕まってしまった。
馬超は、手紙の内容を見て、
と、酒を出して引き留め、深更まで快飲したが、そのうちに馬超の口につりこまれて、
などと慨然、胸底の気を吐いてしまった。
馬超は次の日、漢中王にまみえて、彭義の密書とともに前夜のことをことごとく告げた。劉備は、直ちに彭義の逮捕を命じ、獄へ下して、なお余類を
彭義は大いに後悔して、獄中から
と、かえって急に断を下し、その夜、彭義に死を与えた。
彭義が
劉封は夜が明けてから孟達の脱走を聞いたが、なお信じきれない顔して、
と、左右の臣が、不審な実証をあげても、まさか? とのみで悠々としていた。
すると、国境の
まだ何も
「孟達の反心は歴然。なぜ
これは孔明の深謀で、劉備としては成都の蜀軍を派して、始末するつもりであったが、孔明はそれを上策でないとして、孟達の追討を劉封に命じれば、その
一方、魏へ投降した孟達は、曹丕の前に引かれて、一応、訊問をうけた。曹丕は、内心この有力な大将の投降は歓迎していたが、なお半信半疑を抱いて、
と質問した。
孟達は、それに答えて、
ちょうど
と取りあえず、散騎常侍、建武将軍の役に任じて、襄陽へ赴かせた。
孟達が襄陽へ着いたとき、劉封の軍勢はすでに郊外八十里まで来ていた。彼は一通の書簡をしたためて、軍使を仕立てて、
と、劉封の陣へそれを持たせてやった。
劉封が受けてそれを開いてみると、次のような意味が友情的な辞句を借りて書いてあった。
思ウ所アッテ自分ハ魏ノ臣ニナッタ。君モ魏ヘ
劉封は読み終るとすぐ引き裂いて捨てた。
軍使の首を刎ねて、直ちに、兵を襄陽城へすすめた。
だが、劉封の戦いは、その日も次の日も、敗北を招いた。敵の陣頭にはいつも孟達が現れて、
加うるに襄陽城には魏の勇将として聞えの高い
惨敗をかさねた
彼はとうとう百余騎の残兵をつれて、成都へ逃げ帰るのほか途がなくなってしまった。孔明の先見はあたっていた。
と、侍者へいいつけ、孔明と顔見合わせて、そっと嘆息した。
彼は重い足を運んで、表の閣へ臨み、階下にひれ伏している養子の劉封をじろと見て云った。
劉封は、ようやく面をあげて、
と、そのことをいわれぬ先に弁解しだした。
劉備は眉を怒らして、
いよいよ、烈しく叱ったが、多年育てた子と思えば、私情はまたべつと見える。眼に涙をたたえ、面を横にしたきり、再び階下の子を正視しなかった。
劉封は涙を流して、何十遍も、
そのうちに劉封は、わっと
すると、それまで、口をつぐんで劉備の容子を見ていた孔明は、眼を以て、彼の崩れかかる心をじっと支えた。意志の不足へ意志を
と、左右の臣へ云い捨てるや否、ほとんど逃げ込むように面を沈めて奥の一閣へかくれてしまった。
閉じ籠ったまま、彼は独り
「劉封の君について、襄陽の戦場から落ちてきた部下たちに、手前がいろいろ訊いてみますと、すでに劉封様には、
さなきだに劉備としては、助けたくてならなかったところである。彼は、誰かに、そういって貰いたい折に、こういう言葉を聞いたので、
ところが、出合い頭に、数名の武士はすでに劉封の首を斬って、それへ持ってきた。劉備は一目見るや、
と、痴者のごとく
そこへ孔明が来て、嘆きやまぬ彼を一室へ抱き入れた。そしてことば静かに、
「お心もちはよく分ります。孔明とて木石ではありませんから。……けれど国家久遠の計を思うならば、ひとりの
劉備はうなずいた。しかし老齢六十の彼には、心身に響いた。
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