第98話、十万本の矢
文字数 7,261文字
曹操は彼の帰りを待ちかねていた。周瑜の降伏を少なからず期待していたのである。だが、立ち帰ってきた蒋幹は、
と、まず復命した。
あきらかに、曹操の面は失望の色におおわれた。しかし――と、蒋幹は唇を舐めてそれに云い足し、
と、周瑜の寝室から奪ってきた書簡の一つを差し出した。
味方の水軍都督
彼の
と、
蔡瑁、張允は仰天して、
と、蒼白になっていった。
曹操は耳をかさず、
と、例の一通を、二人の眼の前に投げつけた。蔡瑁は見るやいなや、
と、跳び上がったが、その叫びも終らないうちに、後ろにまわっていた武士の手から、
その後すぐ呉の諜報機関は、蔡瑁、張允の二将が曹操に殺されて、敵の水軍司令部は、すっかり首脳部を入れ替えたという事実を知った。
と、
よほど得意だったとみえて、なお問わず語りに、
と、いって、またふと、
と、つけ加えた。
翌日、魯粛は、孔明の船住居を訪れた。一艘の船を江岸につないで、孔明は船窓の
魯粛は、色を失って、茫然、孔明の顔をしばらく眺めていたが、
何から何まで先をいわれて、魯粛は口をひらくこともせず、ただ呆れ顔していた。そして非常に間のわるい気もするので、無用な世間ばなしなどを持ち出し、辛くも座談をつくろってほうほうの態に立ち帰ろうとした。
彼の帰りかけるとき、孔明は、船の外まで送って来て、こう彼の口を
魯粛は、うなずいて彼と別れて来たが、
魯粛の話を聞いて、周瑜はいよいよ孔明を怖れた。
と、いって、今さら。
孔明を夏口へ帰さんか、これまた後日の
その時に到れば、孔明が今日、呉の内情を見ていることが、ことごとく呉の不利となって返って来るだろう。――
周瑜が独りして大きく呟いたので、魯粛はあやしみながら、
と、たずねた。
周瑜は、笑って、
数日の後、軍議がひらかれた。呉の諸大将はもちろん、孔明も席に列していた。かねて企むところのある
と、孔明をかえりみて質問した。
孔明の答えを、思うつぼと、うなずいて見せながら、周瑜はなお言葉を重ねた。
「むかし周の太公望は、自ら陣中で
散会した後の人なき所で、
夜に入ったので、魯粛は、あくる朝、早目に起き
孔明は、外にいて、大江の水で顔を洗っていた――やあ、お早ようと、晴々いいながら近づき、楊柳の下の一石に腰かけて、
と、平常の容子よりも、しごくのどかな顔つきに見える。
魯粛も、強いて明るく、
「船ごとに、士卒三十人を乗せて、船体はすべて、青い布と、
魯粛は立ち帰って、またもその通りに
周瑜も首を傾けて考えこんだきりであった。こうなると、ふたりとも、孔明が何を考えて、そんな不可思議な準備を頼むのか、やらせてみたい気がしないでもない。
第二日目の日も過ぎて、三日目の夜となった。それまでに、二十艘の兵船は、孔明のさしず通り、藁と
魯粛が、様子を見に来ると、孔明は待っていたように、
孔明は、笑いながら、
先頭の一船のうちには、孔明と魯粛が、細い燈火の下に、酒を酌み交わしていた。
微かな火光も洩らすまいと、船窓にも入口にも
魯粛はしきりに知りたがって訊ねたが、孔明はただ、
と、ばかりで、杯を
しかし、魯粛としては、気が気ではなかった。
などと孔明の肚を疑って、魯粛はまったく安き思いもしなかった。
その夜の靄は南岸の三江地方だけでなく、江北一帯もまったく深い
と、曹操は宵のうちから、特に江岸の警備に対して、厳令を出していた。
彼のあたまには始終、(呉兵は水上の戦によく馴れている。それに比して、わが魏の北兵は、演習が足りていない)という戒心があった。
敵の数十倍もある大軍を擁しながらも、なお
――で、その夜のごときも、部下を督励したばかりでなく、彼自身も深更まで寝ていなかった。
すると、案の定、夜も四更に近い頃、江上遠く、水寨のあたりで、
「すわ!」
と、彼と共に、
と、あわただしく曹操へ知らせた。
かねて期したることと、曹操は自身出馬して、江岸の陣地へ臨み、張遼、徐晃をして、すぐさま各射手三千人の
吠える波と、矢たけびに夜は明けて、濃霧の一方から
孔明は、江を下ってゆく船上から、魏の水寨を振向いていった。
彼を乗せた一艘を先頭として、二十余艘の船は、満身に矢を負って、その矢のごとく下江していた。
厚い藁と布をもって包まれた船腹船楼には、ほとんど、船体が見えないほど、敵の射た矢が立っていた。
と、あとでは曹操も気がついたのであろう、無数の
孔明は、魯粛に話しかけた。――魯粛はゆうべから孔明の智謀をさとって、今はまったく、その
「そうです。工匠を集めて、これだけのものをつくろうとすれば、十日でもむずかしいでしょう。なぜならば、周都督が工人どもの精励をわざと
淡々として孔明は
ただ今朝の雲霧を破って、洋々と中天にのぼる旭光を満顔にうけて独り甚だ心は楽しむかのように見えただけである。
やがて、全船無事に、呉の北岸に帰り着いた。兵を督して、満船の矢を抜かせてみると、一船に約六、七千の矢が立っていた。総計十数万という量である。
それを一本一本あらためて、
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