第50話、孫策と太史慈
文字数 10,602文字
孫策が、第一の敵として、狙いをつけたのは叔父呉を苦しめた楊州の刺史劉繇である。
劉繇は、揚子江岸の豪族であり、名家である。
血は漢室のながれを汲み、兗州の刺史劉岱は、彼の兄にあたる者だし、太尉劉寵は、伯父である。
そして今、大江の流れに臨む寿春(江西省・九江)にあって、その部下には、雄将が多かった。――それを正面の敵とする孫策の業もまた難い哉といわなければならない。
牛渚(安徽省)は揚子江に接して後ろには山岳を負い、長江の鉄門といわれる要害の地だった。
「――孫堅の子孫策が、南下して攻めて来る!」
と、聞え渡ると、劉繇は評議をひらいて、さっそく牛渚の砦へ、兵糧を送りつ、同時に、張英という大将に兵を授けて防備に当らせようとした。
その折、評議の末席にいた太史慈は、進んで、
「どうか、自分を先鋒にやって下さい。不肖ながら必ず敵を撃破して見せます」
と、希望したが、劉繇はじろりと、一眄したのみで、
と、一言のもとに退けた。
太史慈は顔を赧らめて沈黙した。彼はまだ三十歳になったばかりの若年だし、劉繇に仕えてから年月も浅い新参でもあったりするので、「さし出がましい者」という眼で大勢に見られたのを恥じたような態であった。
張英は、牛渚の要塞にたてこもると、邸閣とよぶ所に兵糧を蓄えて、悠々と、孫策の軍勢を待ちかまえていた。
それより前に、孫策は、兵船数十艘をととのえて、長江に泛かみ出て、舳艫をつらねて溯江して来た。
「オオ、牛渚だ」
「物々しい敵の備え」
「矢風にひるむな。――あの岸へ一せいに襲せろ」
孫策を始め、呂範、周瑜などの将は、船楼のうえに上って、指揮しはじめた。
陸地から飛んで来る矢は、まるで陽も晦くなるくらいだった。
舷を搏つ白浪。
岸へせまる鬨の声。
とばかり早くも孫策は、舳から陸地へ跳び降りて、むらがる敵のうちへ斬って入る。
「御曹司を討たすな」と、他の船からも、続々と、将兵が降りた。
味方の死骸をこえて、一尺を占め、また死骸をふみこえて、十間の地を占め――そうして次第に全軍は上陸した。
中でも、その日、目ざましい働きをしたのは孫策軍のうちの黄蓋だった。
彼は、敵将張英を見つけて、
と、喚きあって、力戦したが、黄蓋にはかなわなかった。馬をめぐらして急に味方の中へ逃げこむと、総軍堤の切れたように敗走しだした。
ところが。
牛渚の要塞へと逃げて来ると、城門の内部や兵糧庫のあたりから、いちめんの黒煙があがっていた。
張英が、うろたえていると、要塞の内から、味方の兵が、
「裏切者だっ」
「裏切者が火を放った」と、口々にさけびながら煙と共に吐き出されてきた。
火焔はもう城壁の高さを越えていた。
張英は、逃げまどう兵をひいて、ぜひなく山岳のほうへ走った。
指揮官を失った要塞はあっけなく落ちた。
「いったい何者が裏切りしたのか。いつの間に、孫策の手が味方の内へまわっていたのだろうか?」
山深く逃げこんだ張英は、兵をまとめて一息つくと共に、何か、魔に襲われたような疑いにつつまれて、敗戦の原因を考えこんでいた。
孫策の軍は、大勝を博したが、その日の大勝は、孫策にとっても、思いがけない奇捷であった。
「いったい城中よりの火の手をあげて、われに内応したのは何者か」
と、いぶかっていると、搦手の山道からおよそ三百人ほどの手下を従えて、鉦鼓をうち鳴らし、旗をかかげ、
「おーい。箭を放つな。おれ達は孫将軍のお味方だ。敵の劉繇の手下と間違えられては困る」
呶鳴りながら降りてくる一群の兵があった。
やがてその中から、大将らしい者が二人。
「孫将軍に会わせてくれ」と、先へ進んできた。
孫策は、近づけて、その二人を見るに、ひとりは、漆を塗ったような黒面に、太くして偉なる鼻ばしらを備え、髯は黄にして、鋭い犬歯一本、大きな唇をかんでいるという――見るからに猛気にみなぎっている漢だった。
また、もうひとりのほうは、眼朗らかに、眉濃く、背丈すぐれ、四肢暢びやかな大丈夫で、両名とも、孫策の前につくねんと立ち、
と、礼儀もよくわきまえない野人むきだしな挨拶の仕振りである。
「おれたち二人は、九江の潯陽湖に住んでいる湖賊の頭で、自分は蒋欽といい、ここにいるのは弟分の周泰という奴です」
「湖に船をうかべて住み、出ては揚子江を往来する旅泊の船を襲い、河と湖水を股にかけて稼いできたんでさ」
「わしは良民の味方で、良民を苦しめる賊はすなわち我が敵だ。白昼公然と、わが前に現れたは何の意か」
「いや、実あ今度お前さんがこの地方へ来ると聞いて、弟分の周泰と相談したんでさ。――いつまで俺たちも湖賊でもあるまいとね。それと、孫堅将軍の子ならきっと一かどの者だろう。征伐されちゃあたまらない。それよりいッそ足を洗って、真人間に返ろうじゃねえかというわけで」
「――それにしても、手ぶらで兵隊の中へ加えておくんなせえといってでるのも智慧がなさ過ぎる。何か一手柄たててそれを土産に家臣に加えてくれといえば待遇もいいだろう。――よかろう。やろうというわけで、一昨日の晩から、牛渚の砦の裏山へ嶮岨をよじて潜りこみ、きょうの戦で、城内の兵があらかた出たお留守へ飛びこみ、中から火をつけてきた次第なんで……。へい。どんなもんでしょうか御大将。ひとつ、あっしどもを、旗下に加えて使っておくんなさいませんか」
孫策は、手をたたいて、傍らにいる周瑜や謀士の二張をかえりみながら、
「愉快な奴どもではないか。――しかし、あまり愉快すぎるところもあるから、貴公らの仲間に入れて、すこし武士らしく仕込んでやるがいい」
と、いった。
随身を許されて、二人は、喜色をたたえながら、いかめしい顔を並べている諸将へ向って、
「へい、どうかまあ、これからひとつ、ご昵懇におねがい申します」
と、仁義を切るようなお辞儀をした。
一同もふき出した。けれど、当人は大真面目である。のみならず敵の兵糧倉からは兵糧を奪い取ってくるし、附近の小賊や、無頼漢などを呼び集めてきたので、孫策の軍は、たちまち四千以上の兵力になった。
鉄壁と信じていた防禦線の一の砦が、わずか半日のまに破られたと聞いて、劉繇は、
と愕然とした。
そこへ張英が、敗走の兵と共に、霊陵城へ逃げこんで来たから、彼の憤怒はなおさらであった。
「なんの顔容あって、おめおめ生きて返ってきたか。手討ちにして、衆人の見せしめにせん」
とまで息まいたが、諸臣のなだめに、張英はようやく一命を助けられた。
動揺は甚だしい。
そこでにわかに霊陵城の守りをかため直し、劉繇みずから陣中に加わって、神亭山の南に司令部をすすめた。
孫策の兵四千余も、その前日、神亭の山の北がわへ移動していた。
「孫策はこの辺りの土地に不慣れです。まごついているうちに、一気呵成に高所を取り、孫策の軍を上から踏みつぶすべきです」
「向こうもそれをわかっておろう。守りをかためて待ち構えているかもしれん、ならば慎重にあたるべきだ」
劉繇は述べ、太史慈の策を採用しなかった。
両軍じわりじわりと山の頂上を目指すかのように軍を進めた。
土地勘の無い孫策軍は、土地の者に道案内を頼み慎重に進めた。
いくつかある高台を、それぞれが占拠しながら、押し合いへし合い散発的に戦いが続いた。徐々にだが、土地勘と数でまさる劉繇軍が押しているように見えた。
孫策は、山の中腹に後漢の光武帝の御霊廟があるときき、御霊廟を掃除して詣った。
そのしばらく後である。
太史慈の斥候の兵が孫策を見たという話を聞き、わずかな手勢をつれ太史慈は向かった。
十数人の兵を率いる孫策らしい将を見つけ、
「東莱の太史慈とは我がことよ。孫策を討ち取るため、参ったり」
孫策と太史慈は槍を手に前に出た。
槍と槍、火をちらして戦う、見るものみな酔えるが如く、固唾をのんでいた。
勝負はなかなか果てしもない。無慮百余合も戦ったが、双方とも淋漓たる汗と気息にもまれるばかりであった。
声は、辺りの林に木魂して、百獣もために潜むかと思われたが落つるは片々と散る木の葉ばかりで、孫策はいよいよ猛く、太史慈もますます精悍を加えるのである。
どっちも若い体力の持主でもあった。この時、孫策二十一歳、太史慈三十歳。――実に巡り会ったような好敵手だった。
(孫策の人となりは、かねて聞いていたが、聞きしに勝る英武の質。うっかりすると、これはあぶない――)
(これは名禽だ。どうしてこんな男が、劉繇などに仕えているのだ?)
太史慈は背を向け走りながら挑発した。
孫策は槍を手に走り出そうとした。
それから幾日か経つと、孫策の軍は、数にまさる劉繇の軍に神亭山の東の隅に追いやられていた。
回りをぐるりと劉繇の兵に囲まれ逃げ場もない様子だった。
「はっはっはっ、これで孫策も終わりだ。このまま神亭山から蹴り倒してやろう」
なにか、変だ。
太史慈は違和感を感じていた。
孫策の兵はほとんど戦わず、ただ山の中を逃げ回っているように見えた。その結果徐々に追い詰められ、東の隅に固まっていた。
槍で、打ち合った孫策の印象とはかけ離れていた。
その時、早馬が陣中に駆け込んできた。
「申し上げます。霊陵城が、孫策の兵に奪われました」
劉繇は声を荒げた。
太史慈も、おどろいた。
劉繇が孫策を追いかけている間に、孫策は兵を二つに分け、一方を曲阿方面から劉繇の本城、霊陵城を攻めさせていた。
なおかつ、盧江松滋(安徽省・安慶)の人で、陳武、字を子烈というものがある。陳武と周瑜とは同郷なので、かねて通じていたものが、(時こそ来れ!)とばかりに江を渡って、孫軍と合流し、共に劉繇の留守城を攻めたので、たちまちそこは陥落してしまったのであった。
太史慈は歯がみした。
何にしても、かんじんな根拠地を失ったのであるから、劉繇は狼狽した。
「この上は、秣陵(江蘇省・南京の南方鳳凰山)まで引上げ、総軍一手となって防ぐしかあるまい」
「霊陵城はとられましたが、孫策は目の前にいます。一気に包み込んで首を取れば、まだ勝てます」
「なにをいう、霊陵城の兵が引き返してくれば、今度はこちらが囲まれる番だ。ここは体制を整えるしかない」
劉繇の決意は固く、自身は兵を引きつれ、秋風の如く奔り去り、太史慈にはしんがりを命じた。
太史慈は孫策の追撃の兵を山中を駆け回りながら防いだ。味方が逃げるに十分な時間を稼いだと考えた太史慈は、薛礼城に逃げ込んだ。
孫策の軍はそれを囲み落とそうとした。
薛礼に孫策の兵が集まっていることを知った劉繇は、牛渚が手薄になったと考え攻めた。
牛渚を守っていた黄蓋は、固く守りをかため劉繇の兵を防いだ。
孫策は、薛礼攻めをやめ、直ちに、馬をかえして、牛渚を攻めていた劉繇の側面を衝いた。
横を突かれ、劉繇の軍はあっけなく瓦解した。
孫策が牛渚に向かったおかげで、包囲を解かれた薛礼城に籠もっていた太史慈は、その隙を突いて、涇県に逃げ延びた。
劉繇は、敗戦の上にまた敗北を重ねてしまい、全軍まったく支離滅裂となって、彼自身からして抗戦の気力を失ってしまったので、
孫策は軍を進め秣陵に籠もっていた張英を倒し、即日、法令を布いて、人民を安んじ、秣陵には、味方の一部をのこして、直ちに、涇県(安徽省・蕪湖の南方)へ攻め入った。
この頃から、彼の勇名は、一時に高くなって、彼を呼ぶに、人々はみな、
江東の孫郎、
と、称えたり、また、
小覇王、
と唱えて敬い畏れた。
かくて、小覇王孫郎の名は、旭日のような勢いとなり、江東一帯の地は、その武威にあらまし慴伏してしまったが、ここになお頑健な歯のように、根ぶかく歯肉たる旧領を守って、容易に抜きとれない一勢力が残っていた。
太史慈、字は子義。
その人だった。
主柱たる劉繇が、どこともなく逃げ落ちてしまってからも、彼は、節を変えず、離散した兵をあつめ、涇県の城にたてこもり、依然として抗戦しつづけていた。
きのうは九江に溯江し、きょうは秣陵に下り、明ければまた、涇県へ兵をすすめて行く孫策は、文字どおり南船北馬の連戦であった。
「小城だが、北方は一帯の沼地だし、後ろは山を負っている。しかも城中の兵は、わずか二千と聞くが、この最後まで踏み止まっている兵なら、おそらく死を決している者どもにちがいない」
孫策は、涇県に着いたが、決して味方の優勢を慢じなかった。
むしろ戒めて、
と、寄手の勢を遠巻きに配して、おもむろに城中の気はいを探っていた。
「君に問うが、君が下知するとしたら、この城をどうしておとすかね」
「ただ、わずかに考えられる一つの策は、死を惜しまぬ将一人に、これも決死の壮丁十人を募り、燃えやすい樹脂や油布を担わせて、風の夜、城中へ忍び入り、諸所から火を放つことです」
「やってもらうしかないか。陳武を死地へやるのは惜しいが、ここで手間取っていれば、劉繇の残党が集まってかえって犠牲が増えかねない。――もう一つ惜しいのは、敵ながら太史慈という人物である。あれは生擒りにして、味方に加えたいと望んでおるのだが」
「それでは、こうしては如何です。――中に火光が見え出したら、同時に三方から息もつかず攻めよせ、北門の一方だけ、わざと手薄にしておきます。――太史慈はそこから討って出ましょう。――出たら彼一名を目がけて追いまくり、その行く先に、伏兵をかくしておくとすれば」
孫策は、手を打った。
陳武の下に、十名の決死隊が募られた。もし任務をやりとげて、生きてかえったら、一躍百人の伍長にすすめ、莫大な恩賞もあろうというので、たくさんの志望者が名のりでた。
その中から十名だけの壮丁を選んで、風の夜を待った。
無月黒風の夜はやがて来た。
油布、脂柴などを、壮丁の背に負わせて、陳武も身軽ないでたち、地を這い、草を分けて、敵の城壁下まで忍びよった。
城壁は石垣ではない。高度な火で土を焼いた磚という一種の瓦を、厚さ一丈の余、高さ何十丈に積みかさねたものである。
――が、何年もの風雨に曝されているので、磚と磚とのあいだには草が生え、土がくずれ、小鳥が巣をつくり、その壁面はかなり荒れている。
「おい一同。まず俺ひとりが先へ登って行って、綱を下ろすから、そこへかがみこんだまま、敵の歩哨を見張っておれ。――いいか、声を出すな、動いて敵に見つかるな」
陳武は、そう戒めてから、ただ一人でよじ登って行った。――磚と磚のあいだに、短剣をさしこんで、それを足がかりとしては、一歩一歩、剣の梯子を作りながら踏み登って行くのであった。
「――火だっ」
「火災だっ」
「怪し火だ!」
銭糧倉から、また、矢倉下から、書楼の床下から、同時にまた、馬糧舎からも、諸門の番人が、いちどに喚き出した。
城将の太史慈は、
「さわぐな。敵の計だ。――うろたえずに消せばよい」
と、将軍台から叱咤して、消火の指揮をしていたが、城中はみだれ立った。
――びゅっッ!
――ぴゅるん!
太史慈の体を、矢がかすめた。
台に立っていられないほど風も強い闇夜である。
諸所の火の手は防ぎきれない。一方を消しているまに、また一箇所から火があがる。その火はたちまち燃えひろがった。
のみならず城の三方から、猛風に乗せて、喊の声、戦鼓のひびき、急激な攻め鉦の音などがいちどに迫ってきたので、城兵は消火どころではなく、釜中の豆の如く沸いて狼狽しだした。
太史慈は将軍台から馳け下りながら、部将へ命令した。そして真っ先に、
「城外へ出て、一挙に、孫策と雌雄を決しよう! 敵は城を囲むため、三方へ全軍をわけて、幸いにも北方は手薄だぞ」
と、猛風をついて、城の外へ馳けだした。
火にはおわれ、太史慈には励まされたので、当然釜中の豆も溢れだした。
ところが、手薄と見えた城北の敵は、なんぞ知らん、案外に大勢だった。
「それっ、太史慈が出たぞ」と合図しあうと、八方の闇から乱箭が注がれてきた。
太史慈の兵は、敵の姿を見ないうちに、おびただしい損害をうけた。
それにも怯まず、
と、太史慈はひとり奮戦したが、彼につづく将士は何人もなかった。
その少い将士さえ斃れたか、逃げ散ったか、あたりを見廻せば、いつの間にか、彼は彼ひとりとなっていた。
焔の城をふり向いて、彼は唇を噛んだ。この上は、故郷の黄県東莱へひそんで、再び時節を待とう。
そう心に決めたか。
なおやまない疾風と乱箭の闇を馳けて、江岸のほうへ急いだ。
すると後ろから、
「太史慈をにがすな!」
「太史慈、待てっ」
と、闇が吼える。――声ある烈風が追ってくる。十里、二十里、奔っても奔っても追ってくる。
この地方には沼、湖水、小さな水溜りなどが非常に多い。長江のながれが蕪湖に入り、蕪湖の水がまた、曠野の無数の窪にわかれているのだった。
その湖沼や野にはまた、蕭々たる蘆や葭が一面に生い茂っていた。――ために、彼は幾たびか道を見失った。
ついに、彼の馬は、沼の泥土へ脚を突っこんで、彼の体は、蘆のなかへほうり出されていた。
すると、四方の蘆のあいだから、たちまち熊手が伸びた。
分銅だの鈎のついた鎖だのが、彼の体へからみついた。
太史慈は、生擒られた。
高手小手に縛められて、孫策の本陣へとひかれてゆく途中も、彼は何度も雲の迅い空を仰いで、
やがて彼は、孫策の本陣へ引かれて来た。
「万事休す」と観念した彼は、従容と首の座について、瞑目していた。
すると誰か、「やあ、しばらく」と、帳をあげて現れた者が、友人でも迎えるように、馴々しくいった。
太史慈が、半眼をみひらいて、その人を見れば余人ならぬ敵の総帥孫策であった。
太史慈は毅然として、
「死は易く、生は難し、君はなんでそんなに死を急ぐのか」
「死を急ぐのではないが、かくなる上は、一刻も恥をうけていたくない」
「敗軍の将となっては、もうよけいな口はききたくない。貴殿もいらざる質問をせず、その剣を抜いて一颯に僕の血けむりを見給え」
「いやいや。わしは、君の忠節はよく知っておるが、君の噴血をながめて快笑しようとは思わぬ。君は自分を敗軍の将と卑下しておらるるが、その敗因は君が招いたものではない。劉繇が暗愚なるためであった」
「惜しむらく、君は、英敏な資質をもちながら、良き主にめぐり会わなかったのだ。蛆の中にいては、蚕も繭を作れず糸も吐けまい」
太史慈が無言のままうつ向いていると、孫策は、膝を折って、彼の縛めを解いてまた云った。
「どうだ。君はその命を、もっと意義ある戦と、自己の人生のために捧げないか。――云いかえれば、わが幕下となって、仕える気はないか」
「参った。降伏します。願わくはこの鈍材を、旗下において、なんらかの用途に役立ててください」
「君は、真に快男子だ。妙にもったいぶらず、その潔いところも気に入った」
手を取って、彼は、太史慈を自分の帷幕へ迎え入れ、酒宴をもうけた。孫策は、彼に向って、
「これから戦いの駈引きについてもいろいろ君の意見を訊くから、良計があったら、教えてもらいたい」
「では、大した策でもありませんが、あなたの帷幕の一員となった証に愚見を一つのべてみます」
「劉繇に付き従っていた将士は、その後、主とたのむ彼を見失って、四散流迷しております」
「時利あらずで、その中には、惜しむべき大将や兵卒らも入りまじっています。今、この太史慈を、三日間ほど、自由に放して下されば、私が行って、それらの残軍を説き伏せ、粗を捨て、良を選び、必ず将来、あなたの楯となるような精兵三千をあつめて帰ります。――そしてあなたに忠誠を誓わせてご覧にいれます」
「きょうから三日目の午の刻(正午)までには、必ず帰って来てくれ」
と、念を押して、一頭の駿馬を与え、夜のうちに、彼を陣中から放してやった。
翌朝。
帷幕の諸将は、太史慈のすがたが見えないので、怪しんで孫策にたずねると、ゆうべ彼の進言にまかせて、三日の間、放してやったとのことに、
「えっ。太史慈を?」と、諸将はみな、せっかく生捕った檻の虎を野へ放したように唖然とした。
「おそらく、太史慈の進言は、偽りでしょう。もう帰って来ないでしょう」
そういう人々を笑いながら、孫策は、首を振った。
「なに、帰って来るさ。彼は信義の士だ。そう見たからこそ、わしは彼の生命を惜しんだので、もし信義もなく、帰って来ないような人間だったら、再び見ないでも惜しいことはない」
「さあ、どうでしょう」
諸将はなお信じなかった。
三日目になると、孫策は、陣外へ日時計をすえさせて、二人の兵に日影を見守らせていた。
「辰の刻です」
番兵は、一刻ごとに、孫策へ告げにきた。しばらくするとまた、
「巳の刻となりました」
と、報らせてくる。
日時計は、秦の始皇帝が、陣中で用いたのが始めだという。「宋史」には何承天が「表候日影」をつかさどるとある。明代には晷影台というのがある。日時計の進歩したものである。
後漢時代のそれは、もちろん原始的なもので、垂直の棒を砂上に立て、その投影と、陰影の長さをもって、時刻を計算したものだった。
砂地のかわりに、床を用いたり、また、壁へ映る日影を記録したりする方法などもあった。
「午の刻です!」
陣幕のうちへ、刻の番の兵が大声で告げると、孫策は、諸将を呼んで、
「南のほうを見ろ」と、指さした。
果たせるかな、太史慈は、三千の味方を誘って、時も違えず、彼方の野末から、一陣の草ぼこりを空にあげて帰って来た。
孫策の烱眼と、太史慈の信義に感じて、先に疑っていた諸将も、思わず双手を打ちふり、歓呼して彼を迎えた。
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