第37話、董卓の最後
文字数 19,953文字
春は、丈夫の胸にも、悩ましい血を沸かせる。
そんなことばかり考えた。
呂布は、
彼は、独り
彼は、夜明けを待ちかねた。
――が、朝となれば、彼は毅然たる武将だった。邸にも多くの武士を飼っている彼だ。朝陽を浴びて颯爽と、例の
べつに、そう急用もなかったのであるが、彼は早速、
と、護衛の番将に訊ねた。
番将は
呂布は、何かむらむらと、不安に襲われたが、わざと
「後堂の廊も、あの通り
静かに、
――寝殿は帳を垂れたまま
呂布はおおい
「ええ、王允の邸へ、饗宴に招かれて、だいぶごきげんでお帰りでしたからね」
「や、将軍もそれを、もうご存じですか」
「それですよ、太師のお目ざめが遅いわけは。昨夜、その美人を
呂布は、思わず、憤然と眉に色を出して、そこから立去った。
相府の一閣で、彼はぼんやりと腕ぐみしていた。気にかかるので、時折、池の彼方の閣を見まもっていた。後堂の寝殿は、
「太師には、ただ今、お目ざめになられました」
さっきの番将が告げに来た。
呂布は、取次も待たずに、董卓の後堂へ入って行った。そして、廊にたたずみながら奥をうかがうと、
呂布は、われを忘れて、臥房のすぐ
彼は、泣きたいように胸を締めつけられた。七尺の偉丈夫も、魂を掻きむしられ、
そして、煮え
(貂蝉はもう昨夜かぎりで、
彼の蒼白い顔は、なにかのはずみに、ふと室内の鏡に映った。
貂蝉は、
びっくりして振向いた。
呂布は、怨みがましい眼をこらして、彼女の顔をじっと睨んだ。――貂蝉は、とたんに、雨をふくんだ梨花のようにわなないて、
哀れを乞うような、すがりついて泣きたいような、声なき想いを、眼と
すると、壁の陰で、
と、董卓の声がした。
呂布は、ぎょっとして、数歩
と、常と変らない
春宵の夢魂、まだ醒めやらぬ顔して、董卓は、その巨躯を、
呂布は、用向きを問われて口ごもった。――臥房へまで来て命を仰ぐほどな用事は何もないのであった。
「実は……こうです。夜来、なんとなく寝ぐるしいうちに、太師が病にかかられた夢を見たものですから、心配のあまり、夜が明けるのを待ちかねて、相府へ詰めておりました。――がしかし、お変りのない様子を見て、安心いたしました」
董卓は、彼のしどろもどろな
呂布は、うつ向いたまま、一礼して悄然と、影を消した。
その日、早めに邸へ帰って来ると、彼の妻は、良人の顔色の冴えないのを憂いて訊いた。
「なにか太師のごきげんを
すると呂布は、大声で、
と、妻に当って、どなりちらした。
呂布の様子は、目立って変ってきた。
相府への出仕も、休んだり遅く出たり、夜は酒に酔い、昼は狂躁に
「どうしたんですか」
妻が問えば、
としかいわない。
床を踏み鳴らして、
そうこうする間に、一月余りは過ぎて、悩ましい後園の春色も衰え、
「お勤めはともかく、この際、お見舞にも出ないでは、大恩のある太師へ
彼の妻はしきりと諫めた。
近頃、
呂布もふと、
気を持ち直したらしく、久しぶりで、相府へ出向いた。
そして、董卓の病床を見舞うと、董卓は、もとより、彼の武勇を愛して、ほとんど養子のように思っている呂布のことであるから、いつか、叱って追い返したようなことは、もう忘れている顔で、
呂布は、淋しく笑った。
そしてふと、傍らにある
と、
董卓は、
その間に、呂布は、顔いろをさとられまいと、
すると、貂蝉は、董卓の耳へ、顔をすりよせて、
とささやいて、
呂布の眼は、焔になっていた。その全身は、石の如く、去るのを忘れていた。貂蝉は、病人の視線を隠すと、その姿を振向いて、片手で袖を持って、眼を拭った。……さめざめと、泣いてみせているのである。
彼女の一滴一滴の涙と、濡れた
呂布は、断腸の思いの中にも、体中の血が狂喜するのをどうしようもなかった。盲目的に彼女のうしろへ寄って行った。そして、その白い
病床の董卓は、とたんに、大喝して身をもたげた。
呂布は、狼狽して、
呂布は、いい訳に窮して、真っ蒼な顔してうつ向いた。
彼は、弁才の士ではない。また、機知なども持ち合わせない人間である。それだけに、こう責めつけられると、進退きわまったかの如く、
「不届き者めッ、恩寵を加えれば恩寵に
と、董卓の怒りは甚しく、口を極めて
どやどやと、室外に、武将や護衛の
云い放って、自分からさっと、室の外へ出て行った。
ほとんど、入れちがいに、
と、
まだ怒りの
李儒は冷静である。にが笑いさえうかべて聞いていたが、
董卓は、
董卓も、李儒に説かれているうちに、やや激怒もおさまって来た。ひとりの寵姫よりは、もちろん、天下は大であった。いかに
李儒の忠言を容れて、彼はその翌日、呂布を呼びにやった。
どんな問罪を受けるかと、覚悟してきて見ると、案に相違して、黄金十
と、なだめられたので、呂布はかえって心に苦しみを増した。しかし主君の温言のてまえ、
その後、日を経て、
彼はまた、その肥大強健な体に
呂布も、その後は、以前よりはやや無口にはなったが、日々精勤して、相府の出仕は欠かさなかった。
董卓が朝廷へ上がる時は、呂布が
或る折。
天子に
壮者の
と、
ふと、彼は、
と考えた。
むらむらと、思慕の炎に駆られだすと、彼は矢も楯もなかった。
にわかに、どこかへ、駆けだして行ったのである。
董卓の留守の間に――と、呂布はひとり相府へ戻って来たのだった。そして勝手を知った後堂へ忍んで行ったと思うと、
貂蝉は、窓に
と、馳け寄って、彼の胸にすがりついた。
呂布は、
貂蝉は、彼の火のような眸を見て、はっと、
呂布はひらりと庭へ身を移していた。そして、木の間を走るかと思うと、後園の奥まった所にある一閣へ来て、貂蝉を待っていた。
貂蝉は彼が去ると、いそいそと化粧をこらし、ただ一人で忍びやかに、鳳儀亭の方へ忍んで行った。
柳は緑に、花は
呂布は、
曲欄の下は、
ふたりは亭の壁の陰へ
呂布は、彼女の肩をゆすぶった。――彼の胸に顔をあてていた貂蝉が、そのうちにさめざめと泣き出したからであった。
「貂蝉は、うれしさのあまり、胸がこみあげてしまったのです。――お聞きください。呂布さま。わたくしは
「ところが、その後、
貂蝉は、あたりへ聞えるばかり
と、叫びざま、曲欄へ走り寄って、蓮の池へ身を投げようとした。
呂布は、びっくりして、
と、抱き止めた。
その手を、怖ろしい力で、貂蝉は振りのけようと争いながら
「いえ、いえ、死なせて下さい。生きていても、あなたとこの世のご縁はないし、ただ心は日ごと苦しみ、身は
「時節を待て。それも長いこととはいわぬ――また、今日は老賊に従って、参殿の供につき、わずかな
貂蝉は、彼の袖をとらえて、離さなかった。
なお、寄りすがって、紅涙雨の如き
董卓の眸は、
今し方、彼は朝廷から退出した。呂布の
と、彼は、侍女を
二人は鳳儀亭の
と、あわてて呂布の胸から飛び離れた。
呂布も、驚いて、
うろたえている間に、董卓はもう走り寄って来て、
と、怒鳴った。
呂布は、物もいわず、鳳儀亭の朱橋を躍って、岸へ走った。――すれ
と、彼の
呂布が、その
董卓は、その巨きな体を前へのめらせながら、
すると、彼方から馳けて来た李儒が、過って出会いがしらに、董卓の胸を突きとばした。
董卓は、樽の如く、地へ転げながら、いよいよ怒って、
と、呶号した。
李儒は、急いで、彼の身を扶け起しながら、
「不義者とは、誰のことですか。――今、てまえが後園に人声がするので、何事かと出てみると、呂布が、太師狂乱して、罪もなきそれがしを、お手討になさると追いかけて参るゆえ、何とぞ、助け賜われとのこと、驚いて、馳けつけて来たわけですが」
李儒は、彼の
そして、閣の書院へ伴い、座下に降って、再拝しながら、
と、詫び入った。
董卓はなお、怒気の冷めぬ顔を、横に振って、
といった。
李儒は、あくまで冷静であった。董卓が、怒るのを、あたかも痴児の
董卓は、そう云いつのって、どうしても、呂布を斬れと命じたが、李儒は、
頑として、彼らしい理性を、変えなかった。
と、李儒は、例をひいて、語りだした。
それは、
すると――宴半ばにして、にわかに涼風が渡って、満座の燈火がみな消えた。
荘王、
(はや、
(これも涼しい)と、興ありげにさわいでいた。
――と、その中へ、特に、諸将をもてなすために、酌にはべらせておいた荘王の寵姫へ、誰か、武将のひとりが戯れてその唇を盗んだ。
寵姫は、叫ぼうとしたが、じっとこらえて、その武将の
そして、荘王の膝へ、泣き声をふるわせて、
「この中で今、誰やら、暗闇になったのを幸いに、
と、自分の貞操をも誇るような誇張を加えて訴えた。
すると荘王は、どう思ったか、
「待て待て」と、今しも燭を点じようとする侍臣を、あわてて止め、
「今、わが寵姫が、つまらぬことを私に訴えたが、こよいはもとより心から諸将の武功をねぎらうつもりで、諸公の愉快は私の愉快とするところである。酒興の中では今のようなことはありがちだ。むしろ諸公がくつろいで、今宵の宴をそれほどまで楽しんでくれたのが私も共にうれしい」
と、いって、さてまた、
「これからは、さらに、無礼講として飲み明かそう。みんな冠の
そしてすべての人が、冠の纓を取ってから、燭を新たに
その後、荘王は、
王は、彼の
「安んぜよ、もうわが一命は無事なるを得た。だが一体、そちは何者だ。そして如何なるわけでかくまで身に代えて、私を守護してくれたか」と、訊ねた。
すると、
「――されば、それがしは先年、楚城の夜宴で、王の寵姫に冠の纓をもぎ取られた
と、笑って死んだという。
――李儒は、そう話して、
董卓は、首を垂れて聞いていたが、やがて、
李儒はかねて、呂布が何を不平として、近ごろ董卓に含んでいるか、およそ察していたので、
――困ったものだ。
と、内心、
と、釈然と悟った
董卓は、李儒を
董卓が、いつになく叱ると、貂蝉はいよいよ悲しんで、
「でも、太師は常に、呂布はわが子も同様だと仰っしゃっていらっしゃいましょう。――ですから私も、太師のご養子と思って、敬まっていたんです。それを今日は、恐い血相で、
いきなり董卓の剣を抜きとって、
貂蝉は、
「……わ、わかりました。これはきっと、李儒が呂布に頼まれて、太師へそんな進言をしたにちがいありません。あの人と呂布とは、いつも太師のいらっしゃらない時というと、ひそひそ話していますから。……そうです。太師はもう、私よりも、李儒や呂布のほうがお可愛いんでしょう。わたしなどはもう……」
董卓は、やにわに、彼女を膝に抱きあげて、泣き濡れているその頬やその唇へ自分の顔をすり寄せて云った。
「泣くな、泣くな、貂蝉、今のことばは、
次の日――
李儒は改まって、董卓の前に伺候した。ゆうべ、呂布の私邸を訪い、恩命を伝えたところ、呂布も、深く罪を悔いておりました――と報告してから、
と、いった。
すると董卓は、色を変じて、
李儒は、案に相違して、唖然としてしまった。
董卓は早くも車駕を命じ、
窓を排して、街の空をながめていた。
車駕の
呂布は、
飛びのるが早いか、武士も連れず、ただ一人、長安のはずれまで
呂布は、丘のすそに、馬を停めて、大樹の陰にかくれてたたずんでいた。そのうちに車駕の列が
――見れば、金華の
ふと、彼女の眸は、丘のすそを見た。そこには、呂布が立っていた。――呂布は、われを忘れて、オオと、馳け寄らんばかりな様子だった。
貂蝉は、顔を振った。その頬に、涙が光っているように見えた。――前後の兵馬は、畑土を馬蹄にあげて、たちまち、その姿を彼方へ押しつつんでしまった。
呂布は、茫然と見送っていた。――李儒の言は、ついに、偽りだったと知った。いや、李儒に偽りはないが、董卓が、頑として、貂蝉を離さないのだと思った。
彼は、気が狂いそうな気がしていた。沿道の百姓や物売りや旅人などが、そのせいか、じろじろと彼を振向いてゆく。呂布の眼はたしかに血走っていた。
彼のうしろから声をかけた人がある。
呂布は、うつろな眼を、うしろへ向けたが、その人の顔を見て、初めてわれにかえった。
王允は、急に首を垂れて、病人のような嘆息をもらした。
そこは長安郊外の、
呂布は、王允に
「董太師も、世の物笑いとなりましょうが、より以上、天下の人から笑い
王允がいうと、
呂布は、憤然、床を鳴らして突っ立ったかと思うと、
王允は、わざと大げさに、
「おお、将軍。今の
呂布は、剣を抜いて、自分の
呂布の帰りを門まで送って出ながら、王允は、そっとささやいた。
――思うつぼに行った。
と独りほくそ笑んでいた。
その夜、王允はただちに、日頃の同志、
と、計った。
と、孫瑞がいった。
「いや、近頃勘気をうけて、董卓の
王允は、翌晩、呂布をよんで、
深夜、王允と呂布は、人目をしのんで、
呂布はまずいった。李粛は、時ならぬ客に驚いて唖然としていた。
呂布は、李粛のそばへ、すり寄った。そして、王允に仔細を語らせて、もし李粛が不承知な顔いろを現したら、即座に斬って捨てんとひそかに剣を握りしめていた。
ふたりの密謀を聞くと、李粛は手を打って、
と喜んで、即座に、誓いを立てて
そこで三名は、万事を
と、城門へ告げた。
董卓は、何事かと、直ぐに彼を引いて会った。
李粛は
「天子におかれては、度々のご不予のため、ついに、太師へ
そういって、じっと董卓の面を見ていると、つつみきれぬ喜びに、彼の老顔がぱっと紅くなった。
聞くと、董卓は、いよいよ眼を細めて、
李粛が、再拝しているまに、董卓は、侍臣へ向って、
そして彼は、馳けこむように、
と、早口に云った。
貂蝉は、チラと、眼をかがやかしたが――すぐ無邪気な表情をして、
と、狂喜してみせた。
董卓はまた、後堂から母をよび出して、事の
「……なんじゃ。俄に、どこへ行くというのかの」
「誰がの?」
「おまえがか」
「やれやれ。わずらわしいことだのう」
九十余歳の
董卓は、
やがて長安の外城を通り、市街へ進み入ると、民衆は軒を下ろし、道にかがまり、頭をうごかす者もない。
王城門外には、百官が列をなして出迎えていた。
と、慶賀を述べ、臣下の礼をとった。
董卓は、大得意になって、
と、車の
そして丞相府にはいると、
その日は、休憩して、誰にも会わなかったが、王允だけには会って、賀をうけた。
王允は、彼に告げて、
と、
その夜は、さすがに彼も、婦女を寝室におかず、眠りの清浄を守った。
朝の光は、彼の枕辺に
董卓は、斎戒沐浴した。
そして、
儀杖の先頭は、宮中の
董卓は、車の内でさけんだ。
見れば、
彼は、何か異様な空気を感じたのであろう。突然、
と、呶鳴った。
すると、李粛は車の後ろで、
と、大声で答えた。
董卓は、仰天して、
膝を起そうとした途端に、李粛は、それっと懸け声して、彼の車をぐわらぐわらと前方へ押し進めた。
王允は、大音あげて、
声を合図に――
「おうっ」
「わあっ」
馳け集まった御林軍の勇兵百余人が、車を
「
「この
「うぬっ」
「天罰」
「思い知れや」
無数の
巨体を大地に
すると、呂布の声で、
と、
黒血は霧のごとく噴いて、陽も曇るかと思われた。
戟はそれて、右の
董卓は、
呂布は、その胸元をつかんで、
と罵りざま、ぐざと、その
禁廷の内外は、怒濤のような空気につつまれたが、やがて、それと知れ渡ると、
「万歳っ」
と、誰からともなく叫びだし、文武百官から
李粛は、走って、董卓の首を打落し、剣尖に刺して高くかかげ、呂布はかねて
と、大音で読んだ。
董卓、ことし五十四歳。
千古に
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