第71話、関羽と赤兎馬
文字数 9,077文字
徐州地方に対する曹操の一事業はすみ、次の日、かれの中軍は早くも凱旋の途についた。
関羽は、主君の二夫人を車に奉じ、特に、前から自分の部下であった士卒二十余人と共に、車をまもって、寸時も離れることなく、――
やがて
許都へ来ては、諸将は各自の
一館の
そして関羽も、時々、無事閑日の身を、そこの門番小屋の中において、書物など読みながら、手不足な番兵の代りなど勤めている日もあった。
曹操は政治にたいしても、人いちばいの情熱をもって当った。許都を中心とする新文化はいちじるしく
と信じて、年とるほど、政治に抱く興味と情熱はふかくなっていた。
この頃――
ようやくそのほうも一段落して、身に小閑を得ると、彼はふと思い出して、
と侍臣にたずねた。
それに答えて
「相府へはもちろんのこと、街へも出た様子はありません。二夫人の御寮を護って、番犬のように、門側の小屋に起居し、時々院の外を通る者が、のぞいて見るとよく読書している姿を見うけるそうで」と、彼の近況を語ると、曹操は打ちうなずいて心から同情を寄せるように、
と、独りつぶやいていた。
その同情のあらわれた数日の後、曹操は急に関羽を
そして朝廷に伴って、天子にまみえさせた。もとより
と、勅せられた。
曹操のはからいで、即座に、
まもなく曹操は、また、関羽のために、勅任の
席上、関羽は、上賓の座にすえられ、
と、曹操が、音頭をとって乾杯したが、その晩も、関羽は黙々と飲んでいるだけで、うれしいのか迷惑なのか分らない顔していた。
宴が終ると、曹操はわざわざ近臣数名に、
と、いいつけ、
だが、関羽の眼には、珠玉も金銀も、瓦のようなものらしい。そのひとつすら身には持たず、すべて二夫人の内院へ運ばせて、
と、みな献じてしまった。
曹操は、後に、それと聞いて、
或る日、ぶらりと、関羽のすがたが相府に見えた。
二夫人の内院が、建築も古いせいか、雨漏りして困るので修築してもらいたいと、役人へ頼みにきたのである。
「かしこまりました。さっそく丞相に伺って、ご修理しましょう」
役人から満足な返事を聞いて、馬に乗ってゆたりゆたり帰りかけてゆく彼のすがたを、ちらと曹操が見かけて、声をかけた。
曹操は急に、侍臣をどこかへ走らせて、一頭の馬を、そこへ曳かせた。
見ると、全身の毛は、炎のように赤く、眼は、二つの
関羽は眼を奪われて、恍惚としていたが、やがて膝を打って、
関羽は再拝して、喜色をみなぎらした。彼がこんなに歓ぶのを見たのは曹操も初めてなので、
と、たずねた。
すると関羽は、
と、言下に答えた。
と、唇を噛みしめていた。
どんな憂いも長く顔にとどめていない彼も、その日は終日ふさいでいた。
劉備玄徳は、毎日、
ここ河北の首府、
なんといっても居候の境遇である。それに、万里音信の
思い悩むと、春日の
ひとり面をおおって、燈下に惨心を噛む夜もあった。
水は
――ああ、桃の咲くのを見れば、傷心はまたうずく。桃園の義盟が思い出される。
仰ぐと、一
劉備は、仰視していた。
――と、いつのまにか、うしろへ来て、彼の肩をたたいた者がある。袁紹であった。
ほかにも何か気に入らないことがあったのであろう。袁紹はその後、田豊を呼びつけて、彼の消極的な意見を
袁紹は怒って田豊を斬ろうとまでしたが、劉備やそのほかの人々がおし止めたので、
と、厳命してしまった。
四州の大兵は、続々、戦地へ赴いた。
さすが富強の大国である。その装備軍装は、どこの所属の隊を見ても、物々しいばかりだった。
こんどの出陣にあたっては、おのおの一族にむかって、
「
沮授は田豊と共に、軍部の枢要にある身だった。そして田豊とは日頃から仲がいい。その田豊が、主君に正論をすすめて獄に下ったのを見て、
と、ひどく無常を感じ、一門の親類をよんで、出立の前夜、家財宝物など、のこらず
そしてその別辞に、
と述べ、出立した。
白馬の国境には、少数ながら曹操の常備兵がいた。しかし袁紹の大軍が着いてはひとたまりもない。馬蹄にかけられてみな逃げ散ってしまった。
先陣は、
と、袁紹に注意した。
袁紹は、耳をかさない。
曹軍十五万は、白馬の野をひかえた西方の山に沿うて布陣し、曹操自身、指揮にあたっていた。
見わたすと、
曹操の呼ぶ声に、
曹操は
宋憲は
顔良の疾駆するところ、草木もみな
曹軍数万騎、
曹操は、本陣の高所に立って声をしぼった。
魏続は、
つづいて、名乗りかける者、取囲む者、ことごとく顔良の
と、舌打ちしておののいた。
彼ひとりのため、右翼は
「オオ、
と、口々に期待して、どっと
見れば、いま、中軍の一端から、
両雄の
しかし、顔良の
時すでに、薄暮に迫っていた。
やむなく曹操は、一時、陣を十里ばかり退いて、その日の難はからくもまぬがれたが、
すると翌朝、
曹操は、すぐ使いを飛ばし関羽に
歓んだのは関羽である。
とすぐ武具に身をかため内院へすすみ、二夫人に
しばしの暇をと聞くだに、二夫人はもう涙をためて、
青龍の
いま、曹操のまわりは、
なにか、布陣図のようなものを囲んで謀議に
「ただ今、関羽将軍が着陣されました」
うしろのほうで、卒の一名が高く告げた。
よほどうれしかったとみえる。曹操は諸将を打捨てて、自身、大股に迎えに出て行った。
関羽はいま営外に着いて、赤兎馬をつないでいた。曹操の出迎えに恐縮して、
馬の鞍を叩きながら云った。
曹操はここ数日の惨敗を、ことばも飾らず彼に告げて、
関羽は、髯のうえに、腕をくんで、十方の野を見まわした。
野に満ち満ちている両軍の精兵は、まるで
河北軍のほうは、
その一角と一角とが、いまや入り乱れて、
物見を連れたひとりの将が馳けあがってきた。そして、曹操の遠くにひざまずき、
「またも、敵の顔良が、陣頭へ働きに出ました。――あの通りです。顔良と聞くや、味方の士卒も
息をあえぎながら叫んだ。
曹操はうめくように、
と、驚嘆した。
曹操は指さして、
時しも春。
河南の草も
久しく戦場に会わない赤兎馬は、きょうここに、
やおら、八十二斤という彼の青龍刀は鞍上から左右の敵兵を、
赤兎馬のおかげか、いつもより軽がると振れているように関羽は感じた。
圧倒的な優勢を誇っていた河北軍は、
「何が来たのか?」と、にわかに崩れ立つ味方を見て疑った。
「関羽。関羽とは何だ」
知るも知らぬも、暴風の外にはいられなかった。
関羽が通るところ、見るまに、
その姿を「演義三国志」の原書は、こう書いている。
関羽に馬を向けた。
――関羽も、近づいていた。
赤兎馬の尾が高く躍った。
一
それに対して、
と、だけで、次を云いつづける間はなかった。
その迅さと、異様な圧力の下から、身をかわすこともできなかった。
顔良は、一刀も酬いず、偃月刀のただ一
ジャン! とすさまじい金属的な音がした。
関羽はその首を取って悠々馬の鞍に結びつけた。
そして忽ち、敵味方のなかを馳けてどこかへ行ってしまったが、その間、まるで戦場に人間はいないようであった。
河北勢は旗を捨て、
もちろん機を見るに敏な曹操が戦機を察してただちに、
と、総がかりを下知し、
関羽はたちまち、以前の山へ帰ってきていた。顔良の首は、曹操の前にさし置かれてある。曹操はただもう舌を巻いて、
と、答えた。
曹操は、
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