第100話、連環の計
文字数 14,659文字
闞沢は、自若として、少しもさわがないばかりか、かえって、声を放って笑った。
「いよいよおかしい。いや笑止千万だ。それほど、
「これは、異な説を聞くものだ。みだりに兵書を読めばとて、書に読まれて、書の活用を知らぬものは、むしろ無学より始末がわるい。そんな凡眼で、この大軍をうごかし、呉の
曹操は
闞沢は、自身の頸を叩いて、
と、迫った。
曹操は、顔を横に振って、
曹操は、大きくうなずいた。
彼はにわかに、こう謝して、賓客の礼を与え、座に
ところへ、侍臣の一名が、外から来て、そっと曹操の
と感づいたが、
酒のあいだに曹操は、蔡和、蔡仲からの諜報を、ちらと卓の陰で読んでいたが、すぐに
「さて
すると、闞沢は、首を振って断った。
再三、曹操に乞われて、
――が、今は曹操も、充分、彼の言を信じて来たもののようだった。闞沢は仕すましたりと思ったが、色にも見せず、他日、再会を約して、ふたたび帰る小舟に乗った。その折も曹操から莫大な金銀を贈られたが、
と、手も触れず、一笑して、小舟を漕ぎ去った。
呉の陣所へもどると、彼はさっそく黄蓋と密談していた。黄蓋は事の成りそうな形勢に、いたく歓んだが、なお熟慮して、
と、
闞沢は、それに答えて、
闞沢は、心得て、甘寧の部隊を訪ねて行った。
唐突な訪れに、甘寧は、彼のすがたをじろじろ見て、
と、訊ねた。
闞沢が、いま本陣で、気にくわぬことがあったから、
と、薄ら笑いをもらした。
そこへ偶然、蔡和、蔡仲のふたりが入ってきた。甘寧が、闞沢へ眼くばせしたので、闞沢も甘寧のこころを覚った。
――で、わざと不興げに、
と、独り鬱憤をつぶやきだすと、甘寧もうまく相槌を打って、
と、唇を噛んで
と、彼の耳へささやき、わざと隣室へ伴って行った。
その後も、
或る夕、囲いの中で、また二人がひそひそささやいていた。かねて注目していた蔡和と蔡仲は、
「あっ、誰かいる」
「しまった」と、いう声が聞えた。
――と思うと、甘寧と闞沢は、大股に、しかも血相変えて、蔡和、蔡仲のそばへ寄ってきた。
闞沢がつめ寄ると、甘寧はまた一方で、剣を地に投げて、
と、いった。
甘寧と闞沢は穴のあく程、兄弟の顔を見つめて、
もちろん、先頃から、甘寧と闞沢が、人なき所でたびたび密談していたことは――周都督に対する反感に堪忍の緒を切って――いかにしたら呉の陣を脱走できるか、どうしたら周都督に仕返しできるか、またいッそのこと、不平の徒を狩り集めて、暴動を起さんかなどという不穏な相談ばかりしていたのであった。わざと、蔡兄弟に、怪しませるようにである。
蔡和、蔡仲の兄弟は、それが巧妙な謀計とは、露ほども気づかなかった。自分たちがすでに謀計中の主役的使命をおび、この敵地の中に活躍しているがために、かえって相手の謀計に乗せられているとは思いもつかなかった。
裏をもって
その晩、四人は同座して、深更まで酒を酌んでいた。一方は一方を謀りおわせたと思いこんでいる。
が、共に打ち解け、胸襟をひらきあい、共に、これで曹丞相という名主のもとに大功を成すことができると歓びあって――。
と、蔡仲、蔡和は、その場で、このことを報告する文を認め、闞沢もまた、べつに書簡をととのえてひそかに部下の一名に持たせ、江北の魏軍へひそかに送り届けた。
闞沢の書簡には、
と、いう内容が秘められてあった。
しかし、やがてそれを受取った日、さすがに曹操は、
いまの世の孫子呉子は我をおいてはなし――とひそかに自負している曹操である。一片の書簡を見るにも実に
彼の
曹操はいずれにせよ、にわかに決定できない大事と、深く要心していたので、
と、蒋幹の乞いを容れた。
蒋幹は、小舟に乗って、以前のごとく、
そのとき呉の中軍には、彼より先に、ひとりの賓客が来て、都督周瑜と話しこんでいた。
龐徳公といえば荊州で知らないものはない名望家であり、かの水鏡先生
また、その司馬徽が、常に自分の門人や友人たちに、
それほどに、司馬徽が人物を見こんでいた者であるのに、
(臥龍は世に出たが、鳳雛はまだ出ないのは何故か?)
と、一部では、疑問に思われていた。
きょう、呉の中軍に、ぶらりと来ていた客は、その龐統だった。龐統は、孔明より二つ年上に過ぎないから、その高名にくらべては、年も存外若かった。
――こう話しているところへ、江北の蒋幹が、また訪ねてきたと、部下の者が取次いできたのだった。
それを
と、いった。
やがて、
と、さりげなく、親友ぶりを寄せて行った。
すると周瑜は、きっと、眼にかど立てて、
周瑜は噛んで吐き出すように、
と、大喝をかぶせて、
と、蒋幹を睨みつけ、左右の武将に向って、虎のごとく云いつけた。
武士たちは、言下に、
「おうっ」
と、ばかり蒋幹を取り囲んで、有無をいわさず営外へ引っ立てて行った。そして、一頭の裸馬の背に掻き乗せ、厳しく前後を警固して西山の奥へ追い上げた。
山中に一軒の小舎があった。おそらく物見小舎であろう。蒋幹をそこへほうり込むと、番の兵は、昼夜、四方に立って見張っていた。
蒋幹は、日々
と、悄然、行き暮れていた。
すると彼方の林の中にチラと
柴の戸を排して、
思わず呟いていると、気配に耳をすましながら庵の中から、
と、その人物が
蒋幹は、駈け寄るなり、
と、山小舎に監禁された始末を物語ると、
――と、龐統は席を
だんだん話しこんでみると、龐統はなかなか大志を抱いている。その人物はかねて世上に定評のあるものだし、今、この境遇を見れば、呉から扶持されている様子もないので、蒋幹はそっと捜りを入れてみた。
「あなた程の才略をもちながら、どうしてこんな山中に身を屈しているんですか。ここは呉の勢力下ですのに、呉に仕えているご様子もなし……。おそらく、魏の曹丞相のような、士を愛する名君が知ったら、決して捨ててはおかないでしょうに」
二人は、完全に、一致した。その夜のうち、
道は、蒋幹よりも、ここに住んでいる龐統のほうが詳しい。谷間づたいに、
舟を拾って、二人は江北へ急いだ。やがて魏軍の要塞に着いてからは、一切、蒋幹の斡旋に依った。
有名なる
まず、賓主の座をわけて、
と、曹操は下へも置かなかった。龐統も、この対面を衷心から歓んで見せながら、
「私をして、ここに到らしめたものは、私の意志というよりは、丞相が私を引きつけ給うたものです。よく士を敬い、賢言を用い、稀代の名将と、多年ご高名を慕うのみでしたが、今日、幹兄のお導きによって、拝顔の栄を得たことは、生涯忘れ得ない歓びです」
曹操は、すっかり打ち解けて、蒋幹のてがらを賞し、酒宴に明けた翌る日、共に馬をひかせて、一丘へ登って行った。
けだし曹操の心は、龐統の口から自己の布陣について、
だが、龐統は、
と、いったが、龐統は、かぶりを振って、
曹操はことごとくよろこんで、さらに、彼を誘って、丘を降り、今度は諸所の水寨港門や大小の舟行など見せて歩いた。
そして、江上に浮かぶ
ああ――と龐統は感極まったもののごとく、思わず掌を打って、
「丞相がよく兵を用いられるということは、
やがて立ち帰ると、曹操は営中の善美を
龐統はその間に、ちょいちょい中座して室外に出ては、また帰って席につき、話しつづけていた。
「丞相の将兵は、大半以上、北国の産。大江の水土や船上の生活に馴れないものばかりでしょう。それをあのようになすっておいては、この龐統同様、奇病にかかって、身心ともにつかれ果て、いざ合戦の際にも、その全能力をふるい出すことができますまい」
龐統の言は、たしかに曹操の胸中の秘を射たものであった。
病人の続出は、いま曹操の悩みであった。その対策、原因について軍中やかましい問題となっている。
曹操は初め、驚きもし、狼狽気味でもあったが、ついに打ち割ってこういった。
龐統は、さもあらんと、うなずき顔に、
と、曹操は、席を下って謝した。龐統は、さり気なく、
「いや、それも私だけの浅見かもしれません。よく原因を探究し、さらに賢考なされたがよろしいでしょう。お味方に病者の多いなどは、まず以て、呉のほうではさとらぬこと。少しも早く適当なご処置をとりおかれたら、かならず他日呉を打ち敗ることができましょう」
と、曹操も、急を要すと思ったか、たちまち彼の言を容れて、次の日、自身中軍から
龐統は、悠々客となりながら、その様子をうかがって、内心ほくそ笑んでいたが、一日、曹操と打ち解けて、また軍事を談じたとき、あらためてこういった。
そのことばは、大いに曹操の
と、いった。
ここが大事だ! と
で、彼は、曹操が、
(成功の上は、貴下を三公に封ずべし)というのを、言下に、顔を横に振って見せながら、
「思し召はありがとうございますが、私はかかる務めを、目前の利益や未来の栄達のためにするのではありません。ただ民の
と、ことばに力をこめて云った。
曹操も、その
龐統は心のうちで、彼もまったく自分の言にすっかり乗ったものと思ってもいいなと思った。しかしそのほくそ笑みをかくして、あくまでさあらぬ
と、幾たびも念を押しながら、曹操は自身で営門まで見送ってきた。龐統は別れを惜しむかの如く、幾たびも振り返りながら、やがて外陣の柵門をすぎ、江岸へ出て、そこにある小舟へ乗ろうとした。
するとさっきから岸の辺に待ちうけていたらしい男が、この時、つと柳の陰から走り出して、
と、うしろから抱きついた。
龐統は、ぎょっとして、両の脚を踏んばりながら腕を振りほどこうとしてみたが、その者は、怖ろしい剛力だった。いかに身をもがいてみても、組みつかれた腕は、びくともしないのであった。
叱りつけると、男は、満身から声をふりしぼって、
ああ、百年目。
大事はここに破れたかと、
彼は観念の眼を閉じた。
万事休す――いたずらにもがく愚をやめて、龐統は相手の男へいった。
と、哀願した。
すると、徐庶は、
と
龐統は安堵した表情を見せた。
龐統は舟へとび乗った。――かくて二人は、人知れず、水と陸とに、別れ去った。
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