第44話、李傕と郭汜
文字数 8,002文字
翌る日。
彼の妻は、盛装をこらし、美々しい輿に乗って、大将軍郭汜夫人を訪問に出かけた。
と、郭汜夫人は、まず珍貴な音物の礼をいって、
「ありがとうございます。わたくしの主人なんかちっとも衣裳などには構ってくれませんの。それよりも、令夫人のお髪は、お手入れがよいとみえて、ほんとにお綺麗ですこと。いつお目にかかっても、心からお美しいと思うお方は、世辞ではございませんが、そうたんとはございません。……それなのに、男というものは」
「オヤ、あなたは、わたくしの顔を見ながらなんで涙ぐむのですか」
「でも、おかしいではございませんか、なにか理があるのでしょう。隠さないで、はなして下さい。私にいえないことですか」
「……つい、涙などこぼして、夫人様おゆるし下さいませ」
「では、おはなし申しますが、ほんとに、誰にも秘密にして下さらないと」
「実はあの……夫人様のお顔を見ているうちに、なにもご存じないのかと、お可哀そうになって来て」
「え。わたしが、可哀そうになってですって。――可哀そうとは、一体、どういうわけで。……え? え?」
郭夫人は、もう躍起になって、楊彪の妻に、次のことばをせがみたてた。
楊彪の妻は、わざと同情にたえない顔をして見せながら、
と、空おそろしいことでも語るように声をひそめた。
郭汜の夫人は、もう彼女の唇の罠にかかっていた。
「なにも知りません。……なにかあの、宅の主人に関わることではありませんか」
「え、そうなんですの……奥さま、どうか、あなたのお胸にだけたたんでおいて下さいませ。あの、お綺麗なんで有名な李司馬のお若い奥様をご存じでいらっしゃいましょ」
「李傕様と良人とは、刎頸の友ですから、私も、あの夫人とは親しくしておりますが」
「だから夫人様は、ほんとにお人が好すぎるって、世間でも口惜しがるんでございましょうね。あの李夫人と、お宅の郭将軍とは、もう疾うからあの……とても……何なんですって」
「奥さま。男って、みんなそうなんですから、決して、ご主人をお怨みなさらないがようございますよ。ただ私は、李夫人が、憎らしゅうございますわ。あなたという者があるのを知っていながら、何ていうお方だろうと思って――」
と、すり寄って、抱かないばかりに慰めると、郭夫人は、
「道理でこの頃、良人の様子が変だと思いました。夜もたびたび遅く帰るし、私には、不機嫌ですし……」
と、さめざめと泣いた。
楊彪の妻が、帰ってゆくと、彼女は病人のように、室へ籠ってしまった。その夜も、折悪しく、彼女の良人は夜更けてから、微酔をおびて帰って来た。
「どうしたのかね。おい、真っ蒼な顔しておるじゃないか」
夫人は、背を向けて、しくしく泣いてばかりいた。
四、五日すると、李傕司馬の邸から、招待があった。郭夫人は、良人の出先に立ちふさがって、
「いいじゃないか。親しい友の酒宴に行くのが、なぜ悪いのか」
「李司馬だって、あなたを心で怨んでいるにちがいありません」
「今に分りましょう。古人も訓えております。両雄ならび立たずです。その上、個人的にも、面白くないことが肚にあるんですもの。――もしあなたが、酒宴の席で、毒害でもされたら私たちはどうなりましょう」
「はははは。なにかおまえは、勘ちがいしてるんじゃろ」
「なんでもようございますから、今夜は行かないで下さい。ね、あなた、お願いですから」
果ては、胸にすがって、泣かれたりしたので、郭汜も、振りもぎっても行かれず、遂に、その夜の招宴には、欠席してしまった。
――と、次の日李傕の邸からわざわざ料理や引出物を、使いに持たせて贈って来た。厨房を通して受け取った郭汜の妻は、わざとその一品の中に、毒を入れて良人の前へ持って来た。
郭汜は何気なく、
「大事なお体なのに、他家から来た喰べ物を、毒味もせずに召上がるなんて、飛んでもない」
と、その箸をもって、料理の一品をはさんで、庭面へ投げやると、そこにいた飼犬が、とびついて喰べてしまった。
郭汜は驚いた。見ているまに、犬は独楽のごとく廻って、一声絶叫すると、血を吐いて死んでしまった。
郭夫人は、良人にしがみつきながら、大仰に、身をふるわせて云った。
「ごらんなさい。妾がいわないことではないでしょう。この通り、李司馬から届けてよこした料理には毒が入っているではありませんか。人の心だって、これと同じようなものです」
と、郭汜もうめいたきり、目前の事実に、ただ茫然としていた。
こんなこともあってから、郭汜の心には、ようやく李傕に対しての疑いが、芽を伸ばしていた。
それから一ヵ月ほど後、朝廷から退出して帰ろうとする折を、李傕に強って誘われて、郭汜はぜひなく彼の邸へ立ち寄った。
「きょうは、少し心祝いのある日だから、充分に飲んでくれ給え」
例によって、李司馬は、豪奢な食卓に、美姫をはべらせて、彼をもてなした。
郭汜はつい帯紐解いて、泥酔して家に帰った。
だが、帰る途中で、彼はすこし酔がさめかけた。――というのは生酔本性にたがわずで、なにかのはずみにふと、神経を起して、
「まさか、今夜の馳走には、毒は入っていなかったろうな?」
と、いつぞや毒にあたって死んだ犬の断末魔の啼き声を思い出してきたからであった。
そう神経が手伝いだすと、なんとはなく胸がむかついて来た。急に鳩尾のあたりへそれが衝きあげてくる。
と、命じた。
邸へ戻るなり、彼は、あわてて妻を呼び、
と、牀へ仰向けに仆れながら云った。
夫人は、理を聞くと、この時とばかり、薬の代りに糞汁をのませて、良人の背をなでていた。さらぬだに、神経を起していた郭汜はあわてて異様なものを嚥みくだしたので、とたんに、牀の下へ、腹中のものをみな吐き出してしまった。
「オオ。いい塩梅に、すぐ薬が効きました。これでさっぱりしたでしょう」
「あなたもあなたです。いくら妾がご注意しても、李司馬を信じきっているから、こんなことになるんです」
「もう分った。われながら、おれはあまり愚直すぎた。よろしい、李司馬がその気なら、おれにも俺の考えがある」
蒼白になった額を、自分の拳で、二つ三つ叩いていたが、やにわに室を飛びだしたと思うと、郭汜は、その夜のうちに、兵を集め、李司馬の邸へ夜討をかけた。
李傕の方にも、いちはやく、そのことを知らせた者があるので、
「さては、此方を除いて、おのれ一人、権を握らんとする所存だな。いざ来い、その儀ならば」
と、すでに彼のほうにも、充分な備えがあったので、両軍、巷を挟んで、翌日もその翌日も、修羅の巷を作って、血みどろな戦闘を繰返すばかりだった。
一日ごとに、両軍の兵は殖え、長安の城下にふたたび大乱状態が起った。――その混乱の中に、李司馬の甥の李暹という男は、
と、気づいて、いちはやく龍座へせまって、天子と皇后を無理無態に輦へうつし、謀臣の賈詡、武将左霊のふたりを監視につけ、泣きさけび、追い慕う内侍や宮内官などに眼もくれず、後宰門から乱箭の巷へと、がらがら曳きだして行った。
「李司馬の甥が、天子を御輦にのせて、どこかへ誘拐して行きます」
部下の急報を聞いて、郭汜は非常に狼狽した。
「ああ、抜かった。天子を奪われては、一大事だ。それっ、やるな!」
にわかに、後宰門外へ、兵を走らせたが、もう間にあわなかった。
奔馬と狂兵にひかれてゆく龍車は、黄塵をあげて、郿塢街道のほうへ急いでいた。
郭汜の兵は、騒ぎながら、ワラワラと追矢を射かけた。しかし、敵の殿軍に射返されて、却っておびただしい負傷者を求めてしまった。
郭汜は、自分の不覚の鬱憤ばらしに兵を率いて、禁闕へ侵入し、日頃気にくわない朝臣を斬り殺したり、また、後宮の美姫や女官を捕虜として、自分の陣地へ引っ立てた。
そればかりか、すでに帝もおわさず、政事もそこにはない宮殿へ無用な火を放って、
と、その炎を見て、いたずらに快哉をさけんだ。
一方――
帝と皇后の御輦は、李暹のために、李司馬の軍営へと、遮二無二、曳きこまれて来たが、そこへお置きするのはさすがに不安なので李傕、李暹の叔父甥は、相談のうえ、以前、董相国の別荘でありまた、堅城でもある郿塢の城内へ、遷し奉ることとした。
以来、献帝並びに皇后は、郿塢城の幽室に監禁されたまま、十数日を過しておられた。帝のご意志はもとよりのこと、一歩の自由もゆるされなかった。
供御の食物なども、実にひどいもので、膳がくれば、必ず腐臭がともなっていた。
帝は、箸をお取りにならない。侍臣たちは、強いて口へ入れてみたが、みな嘔吐をこらえながら、ただ、涙をうかべあうだけだった。
「侍従どもが、餓鬼のごとく痩せてゆくのは、見ている身が辛い。願わくは、朕へ徳をほどこす心をもて、彼らに愍れみを与えよ」
献帝は、そう仰っしゃって、李司馬の許へ使いを立て、一嚢の米と、一股の牛肉を要求された。すると、李傕がやって来て、
「今は、闕下に大乱の起っている非常時だ。朝夕の供御は、兵卒から上げてあるのに、この上、なにを贅沢なご託をならべるのかっ」
と、帝へ向って、臣下にあるまじき悪口をほざいた。そして、なにか傍らから云った侍従をも撲りつけて立ち去ったが、さすがに後では、少し寝ざめが悪かったものとみえ、その日の夕餉には若干の米と、腐った牛肉の幾片かが皿に盛られてあった。
侍従たちは、その腐った物の臭気に面をそむけた。
帝は、いたく憤られて、
「豎子、かくも朕を、ないがしろに振舞うか」
と、袞龍の袖をお眼にあてたまい身をふるわせてお嘆きになった。
侍臣のうちに、楊彪もひかえていた。――
彼は、断腸の思いがした。
自分の妻に、反間の計をふくめて、今日の乱を作った者は、誰でもない楊彪である。
計略図にあたって、郭汜と李傕とが互に猜疑しあって、血みどろな角逐を演じ出したのは、まさに、彼の思うつぼであったが、帝と皇后の御身に、こんな辛酸が下ろうとは、夢にも思わなかったところである。
「陛下。おゆるし下さい。そして李傕の残忍を、もうしばらく、お忍び下さい。そのうちに、きっと……」
云いかけた時、幽室の外を、どやどやと兵の馳ける跫音が流れて行った。そして城内一度に、何事か、わあっと鬨の声に揺れかえった。
折も折である。
帝は、容色を変えて、
「何事か?」と、左右をかえりみられた。
「見て参りましょう」
侍臣の一人があわてて出て行った。そして、すぐ帰って来ると、
「たいへんです。郭汜の軍勢が城門に押しよせ、帝の玉体を渡せと、喊のこえをあげ、鼓を鳴らして、ひしめいておりまする」と、奉答した。
帝は、喪心せんばかり驚いて、
「前門には虎、後門には狼。両賊は朕の身を賭物として、爪牙を研ぎあっている。出ずるも修羅、止まるも地獄、朕はそもそも、いずこに身を置いていいのか」
と、慟哭された。
侍中郎の楊琦は、共に涙をふきながら、帝を慰め奉った。
「李傕は、元来が辺土の夷そだちで最前のように、礼をわきまえず、言語も粗野な漢ですが、あの後で、心に悔いる色が見えないでもありませんでした。そのうちに、不忠の罪を慚じて、玉座の安泰をはかりましょう。ともあれ、ここは静かに、成行きをご覧あそばしませ」
そのうちに、城門外では、ひと合戦終ったか、矢叫びや喊声がやんだと思うと、寄手の内から一人の大将が、馬を乗出して、大音声にどなっていた。
「逆賊李傕にいう。――天子は天下の天子なり、何故なれば、私に、帝をおびやかし奉り、玉座を勝手にこれへ遷しまいらせたか。――郭汜、万民に代って汝の罪を問う、返答やあるっ!」
すると、城内の陰から李傕、さっさっと馬をすすめて、
「笑うべきたわ言かな。汝ら乱賊の難を避けて帝おん自らこれへ龍駕を奔らせ給うによって、李傕御座を守護してこれにあるのだ。――汝らなお、龍駕をおうて天子に弓をひくかっ」
「だまれっ。守護し奉るに非ず、天子を押しこめ奉る大逆、かくれないことだ。速やかに、帝の御身を渡さぬにおいては、立ちどころに、その素っ首を百尺の宙へ刎ねとばすぞ」
李傕は、槍を振って、りゅうりゅうと突っかけてきた。
郭汜は、大剣をふりかざし、おのれと、唇をかみ、眦を裂いた。双方の馬は泡を噛んで、いななき立ち、一上一下、剣閃槍光のはためく下に、馬の八蹄は砂塵を蹴上げ、鞍上の人は雷喝を発し、勝負は容易につきそうもなかった。
ところへ。
城中から馳せ出して、双方を引分けた者は、つい今し方、帝のお傍から見えなくなっていた太尉楊彪だった。
楊彪は、身を挺してふたりに向って、懸河の弁をふるい、
「ひとまず、ここは戦をやめて、双方、一応陣を退きなさい。帝の御命でござる。御命に背く者こそ、逆賊といわれても申し訳あるまい」
と、いった。
その一言に、双方、兵を収めてついに引退いた。
楊彪は、翌日、朝廷の大臣以下、諸官の群臣六十余名を誘って、郭汜の陣中におもむいた。そして一日もはやく李傕と和睦してはどうかとすすめてみた。
誰もまだ気づかないが、もともとこの戦乱の火元は楊彪なのである。ちと薬が効きすぎたと彼もあわてだしたのだろうか。それともわざと仲裁役を買ってことさら、仮面の上に仮面をかむって来たのだろうか。彼もまた複雑な人間の一人ではある。
「なに、無条件で和睦せよと。ばかをいい給え」
郭汜は、耳もかさない。
それのみか、不意に、兵に令を下して、楊彪について来た大臣以下宮人など、六十余人の者を一からげに縛ってしまった。
「これは乱暴だ。和議の媒介に参った朝臣方を、なにゆえあって捕え給うか」
「だまれっ。李司馬のほうでは、天子をさえ捕えて質としているではないか。それをもって、彼は強味としているゆえ、此方もまた、群臣を質として召捕っておくのだ」
「おお、なんたることぞ! 国府の二柱たる両将軍が、一方は天子を脅かして質となし、一方は群臣を質としてうそぶく。浅ましや、人間の世もこうなるものか」
剣を抜いて、あわや楊彪を斬り捨てようとしたとき、中郎将楊密が、あわてて郭汜の手を抑えた。楊密の諫めで、郭汜は剣を納めたけれども縛りあげた群臣はゆるさなかった。ただ楊彪と朱雋の二人だけ、いらぬとばかり、ほうりだされるように陣外へ追い返された。
朱雋は、もはや老年だけに、きょうの扱いには、ひどく精神的な打撃をうけた。
と、何度も空を仰いで、力なく歩いていたが、楊彪をかえりみて、
「お互いに、社稷の臣として、君を扶け奉ることもできず、世を救うこともできず、なんの生き甲斐がある」
と歎いた。
果ては、楊彪と抱きあって、路傍に泣きたおれ、朱雋は一時昏絶するほど悲しんだ。
そのせいか、朱雋は、家に帰るとまもなく、血を吐いて死んでしまった。
――それから五十余日というもの、明けても暮れても、李傕、郭汜の両軍は、毎日、巷へ兵を出して戦っていた。
戦いが仕事のように。戦いが生活のように。戦いが楽しみのように。意味なく、大義なく、涙なく、彼らは戦っていた。
双方の死骸は、街路に横たわり、溝をのぞけば溝も腐臭。木陰にはいれば木陰にも腐臭。――そこに淋しき草の花は咲き、虻がうなり、馬蠅が飛んでいた。
馬蠅の世界も、彼らの世界も、なんの変りもなかった。――むしろ馬蠅の世界には、緑陰の涼風があり、豆の花が咲いていた。
帝は、日夜、御涙の乾く時もなく沈んでおられた。
侍中郎の楊琦がそっとお耳へささやいた。
「李傕の謀臣に、賈詡という者がおります。――臣がひそかに見ておりますに、賈詡には、まだ、真実の心がありそうです。帝の尊ぶべきことを知る士らしいと見ました。いちどひそかにお召しになってごらんなさい」
或る時、賈詡は用があって、帝の幽室へはいって来た。帝は人をしりぞけて突然陪臣の賈詡の前に再拝し、
「汝、漢朝の乱状に義をふるって、朕にあわれみを思え」
と、宣うた。
賈詡は、驚いて、床にひざまずき、頓首して答えた。
「今の無情は、臣の心ではありません。時をお待ち遊ばしませ」
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