第34話、袁術の陰謀
文字数 4,450文字
遷都以後、日を経るに従って、長安の都は、おいおいに王城街の繁華を呈し、秩序も大いにあらたまって来た。
董卓の豪勢なることは、ここへ遷ってからも、相変らずだった。
彼は、天子を擁して、天子の後見をもって任じ、位は諸大臣の上にあった。自ら太政相国と称し、宮門の出入には、金花の車蓋に万珠の簾を垂れこめ、轣音揺々と、行装の綺羅と勢威を内外に誇り示した。
ある日。
彼の腹心たる李儒が、彼に告げた。
「相国、先頃から、袁紹と公孫瓚とが、盤河を挟んで戦っていますが」
「袁紹のほうが、やや負け色で、盤河からだいぶ退いたようですが、なお、両軍とも対陣のまま、一ヵ月の余も過しております」
「やるがいい、両軍とも、わしに叛いたやつだ」
「いや、ここ久しく、朝廷におかれても、遷都後の内政にいそがしく、天下の事は抛擲した形になっていますが、それでは、帝室のご威光を遍からしめるわけにゆきません」
「相国から奏上して、天子の詔をうけ、勅使を盤河へつかわして、休戦をすすめ、両者を和睦させるべきかと存じます」
「両方とも、おびただしい痛手をうけて、戦い疲れている折ですから、和睦の勅使を下せば、よろこんで承知するでしょう。――そしてその恩徳は、自然、相国へ対して、帰服することとなって来ましょう」
董卓は、早速、帝に奏して、詔を奏請し、馬日磾を勅使として下した。
勅使馬日磾は、まず袁紹の陣へ行って、旨を伝え、それから公孫瓚の所へ行って、董相国の和解仲裁の意をもたらした。
との云い分で、両方とも、渡りに舟とばかり、勅命に従った。
そこで馬日磾は、盤河橋畔の一亭に、両軍の大将をよんで、手を握らせ、杯を交わしあって、都へ帰った。
袁紹も、公孫瓚も、同日に兵馬をまとめて、おのおの帰国したが、その後、公孫瓚は、長安へ感謝の表を上せて、そのついでに、劉備玄徳を、平原の相に封じられたいという願いを上奏した。
朝廷のゆるしは間もなく届いた。公孫瓚は、それを以て、
と、劉備に酬いた。
劉備は、恩を謝して、平原へ立つことになったが、その送別の宴が開かれて、散会した後、ひそかに、彼の宿舎を訪れて来た者がある。趙雲子龍であった。
趙雲は、劉備の顔を見ると、
と、いかにも名残り惜しげに、眼に涙すらたたえて云った。
「せっかく陣中でよい友を得たと思ったのに、たちまち、平原へ帰ることになり、なにやら自分もお別れしとうない心地がする」
「もし、再会のご縁があったら、親しく今日の誼をまた温めましょう。私の去った後は、なおのこと、どうか公孫瓚殿を助けてあげて下さい」
涙ながらにその場を去った。
翌日。
劉備は、張飛、関羽などの率いる一軍の先に立って、平原へ帰った。――即ち、その時から彼は平原の相として、ようやく、一地方の相たる印綬を帯びたのだった。
× × ×
ここに、南陽の太守で、袁術という者がある。
袁紹の弟である。
かつては、兄袁紹の旗下にあって、兵糧方を支配していた男だ。
南陽へ帰ってからも、兄からはなんの恩禄をくれる様子もないので、
「先頃からの賞として、冀北の名馬千匹を賜わりたい。くれなければ考えがある」
と兄へ申入れた。
袁紹は、弟の強請がましい恩賞の要求に、腹を立てたか、一匹の馬も送ってよこさないばかりか、それについての返辞も与えなかった。
袁術は大いに怨んで、それ以来、兄弟不和となっていたが、兵馬の資財はすべて兄のほうから仰いでいたので、たちまち、経済的に苦しくなって来た。
で、荊州の劉表へ使いをやって、兵糧米二万斛の借用を申しこむと、劉表からも態よく断られてしまった。
袁術は、憤怒を発して、とうとう自暴自棄の兆をあらわした。
彼の密使は、暗夜ひそかに、呉へ渡って、呉の孫堅へ一書を送った。
文面は、こうであった。
異日、印を奪わん為、洛陽の帰途を截ち、公を苦しめたるものは袁紹の謀事なり。今また、劉表と議し、江東を襲って、公の地を掠めんと企つ。いうに忍びず、ただ、公は速やかに兵を興して荊州を取れ。われもまた兵を以て助けん。公荊州を得、われ冀州を取らば、二讐一時に報ずるなり。誤ち給うなかれ。
ここは揚子江支流の流域で、城下の市街は、海のような太湖に臨んでいた。孫堅のいる長沙城(湖南省)はその水利に恵まれて、文化も兵備も活発だった。
程普は、その日旅先から帰ってきた。
ふと見ると、大江の岸にはおよそ四、五百艘の軍船が並んでおびただしい食糧や武器や馬匹などをつみこんでいるのでびっくりした。
従者をして、船手方の者にただしてみると、よく分らないが、孫堅将軍の命令が下り、荊州(揚子江沿岸)の方面の戦争にゆくらしいとのことだった。
程普はにわかに、私邸へ帰るのを見合わせて、途中から登城した。そして同僚の幕将たちにわけを聞いていよいよ驚いた。
彼はさっそく太守の孫堅に謁して、その無謀を諫めた。
「承れば、袁術と諜し合わせて、劉表、袁紹を討とうとの軍備だそうですが、一片の密書を信じて、彼と運命を共にするのは、危ない限りではありますまいか」
「いや程普、それくらいなことは、自分も心得ておるよ。袁術はもとより詐り多き小人だ。――しかし、私は彼の力をたのんで兵を興すのではない。自分の力をもってするのだ」
「けれど、兵を挙げるには、正しい名分がなければなりません」
「袁紹は先に、洛陽において、私をあのように恥かしめたではないか。また、劉表はそのさしずをうけて、私の軍隊を途中で阻み、さんざんにこの孫堅を苦しめた。今、その恥と怨みとをそそぐのだ」
孫堅の意思が硬いと見て、程普も、それ以上、諫言のことばもなく、自らまたすすんで軍備を督励した。
吉日をえらんで、五百余艘の兵船は、大江を発するばかりとなった。
この沙汰が、荊州の劉表へ聞えたので、劉表は、「すわこそ」と、軍議を開いて、その対策を諸将にたずねた。
時に、蒯良という一将がすすみ出て、意見を吐いた。
「なにも驚き騒ぐほどな敵ではありません。よろしく江夏城の黄祖をもって、要害をふせがせ、荊州襄陽の大軍をこぞって、後軍に固く備えおかれれば、大江を隔てて孫堅もさして自由な働きはできますまい」
人々も皆、
「もっともな説」と、同意して、国中の兵力をあつめ、それぞれ防備の完璧を期していた。
湖南の水、湖北の岸、揚子江の流域はようやく波さわがしい兆しをあらわした。
孫堅方では、その出陣にあたって、閨門の女性やその子達をめぐって、家庭的な一波紋が起っていた。
彼の正室である呉氏の腹には、四人の子があった。
長男の孫策、字は伯符。
第二子孫権、字は仲謀。
第三男、孫翊。
第四男、孫匡。
などの男ばかりだった。
また、呉氏の妹にあたる孫堅の寵姫からは、孫朗という男子と、仁という女子との二人が生れていた。
また、兪氏という寵妾にも、ひとりの子があった。孫韶、字は公礼である。
――明日は出陣。
と聞えた前夜のこと。その大勢の子らをひきいて、孫堅の弟、孫静は、なにか改まって、兄孫堅の元へたずねて来た。
「孫静か、――やあ大勢で揃って来たな。明日は出陣だ。みんなして門出を祝いに来たか」
「あなたのお子たちをつれて、こう皆して参ったわけは、ご出戦をお諫めにきたので、お祝いをのべに来たのではありません」
「はい。もし大事なお身に、間違いでもあったら、この大勢の公達や姫たちは、どうなされますか。このお子たちの母たる呉夫人も、呉姫も、兪美人も、どうか思い止まって下さるようと、私を通じてのおすがりです」
「敗れた後、戟をおさめるよりはましでしょう」
「すみません、しかし兄上、これが、天下の乱にのぞんで億民の救生に起つという戦なら、私はお止めいたしません。たとえ三夫人の七人のお子がいかにお嘆きになろうとも、孫静が先に立ってご出陣を慶します。――けれどこんどの軍は、私怨です。自我の小慾と小義です。その為、兵を傷つけ、百姓を苦しめるようなお催しは、絶対にお見合せになったほうがよいと考えられますが」
「黙らぬかっ。――汝は今、名分のない戦といったが、誰か、孫堅の大腹中を知らんや。おれにも、救世治民の大望はある。見よ、今に天下を縦横して、孫家の名を重からしめてみせるから」
孫静は、ついに黙ってしまった。
すると、呉夫人の子の長男孫策は、ことし紅顔十七歳の少年だったが、つかつかと前へ進んで、
「お父上が出陣なさるなら、ぜひ私も連れて行ってください。七人の兄弟のうちでは、私が年上ですから」
「よくいった。幼少からそちは兄弟中でも、英気すぐれ、物の役にも立つ子と、わしも見込んでいただけのものはあった。明日、わしの立つまでに、身仕度をしておるがよい」
「孫権は、叔父御の孫静と心をあわせて、よく留守を護っておれよ」
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