第80話、河北の忠臣
文字数 9,922文字
冬十月の風とともに、
「曹操来る。曹軍来る」の声は、西平のほうから枯野を掃いて聞えてきた。
袁尚は愕いて、にわかに平原の囲みをとき、木の葉の如く鄴城へ退却しだした。
袁譚は城を出て、その後備えを追撃した。そして殿軍の大将呂曠と呂翔のふたりをなだめて、味方に手懐け、降人として、曹操の見参にいれた。
と、曹操は袁譚を賞めておいた。
その後また、曹操は、自分の娘を、袁譚に娶せた。
都の深窓に育って、まだ十五、六になったばかりの花嫁を妻にもって、袁譚はすっかり喜悦していた。
郭図はすこし将来を憂えた。ある時、袁譚に注意して、
「聞けば曹操は呂曠と呂翔のふたりさえ、列侯位階を与え、ひどく優待している由です。思うにこれは、河北の諸将を釣らんためでしょう。――またあなたへ自身の愛娘を娶せたのも、深い下心あればこそで、その本心は、袁尚を亡ぼして後、冀北全州をわが物とせん遠計にちがいありません。ですから、呂曠、呂翔の二人には、あなたから密意を含ませておいて、いつでも変あれば、内応するように備えておかなければいけますまい」
「大いにそうだ。しかしいま、曹操は黎陽まで引揚げ、呂曠と呂翔もつれて行ってしまったが、何かよい工夫があるかの」
「二人を将軍に任じ、あなたから将軍の印を刻んでお贈りになったらいいでしょう」
将軍の金印は、ほどなく、黎陽にある呂曠、呂翔の兄弟の手に届いた。
二人とも、すでに曹操に心服して、曹操を主と仰いでいたので、
「贈ってきたものなら、黙って受けておくがいい。袁譚の肚は、見えすいている。折がきたら、其方たちに内応させて、この曹操を害さんとする下準備なのだ。……あははは、浅慮者がやりそうなことだろう」
この時から曹操も、心ひそかに、いずれ長くは生かしておけぬ者と、袁譚に対する殺意をかためていた。
冬のうち戦いもなく過ぎた。
しかし曹操はこの期間に、数万の人夫を動員して、淇水の流れをひいて白溝へ通じる運河の開鑿を励ましていた。
翌、建安九年の春。
運河は開通し、おびただしい兵糧船は水に従って下ってきた。
その船に便乗して都からきた許攸が、曹操に会うといった。
「丞相には、袁譚、袁尚が今に雷にでもうたれて、自然に死ぬのを待っているのですか」
袁尚は、いま鄴城にあった。
彼の輔佐たる審配は、たえず曹軍の動静に心していたが、淇水と白溝をつなぐ運河の成るに及んで、
「曹操の野望は大きい。彼は近く冀州全土を併呑せんという大行動を起すにちがいない」
と、察して、袁尚へ献言し、まず檄を武安の尹楷に送って、毛城に兵を籠め、兵糧をよび寄せ、また沮授の子の沮鵠という者を大将として、邯鄲の野に大布陣をしいた。
一方、袁尚自身は、あとに審配をのこして本軍の精鋭をひきい、急に平原の袁譚へ攻めかけた。
袁譚から急援を乞うとの早打ちをうけると曹操は、許攸に向って、
「これからだと、いつか申したのは、こういう便りのくる日を待っていたのだ」
と、一軍を急派しておき、彼自身は毛城を攻めて、大将尹楷を討ち取った。
「降る者は助けん。いかなる敵であろうと、今日降を乞うものは、昨日の罪は問わない」
曹操一流の令は、敗走の兵に蘇生の思いを与えて、ここでも大量な捕虜をえた。
大河の軍勢は戦うごとに、一水また一水を加えて幅をひろげて行った。
そして、邯鄲の敵とまみえて、大激戦は展開されたが、沮鵠の大布陣も、ついに潰乱のほかはなかった。
「鄴城へ、鄴城へ」
逆捲く大軍の奔流は、さきにここを囲んでいた味方の曹洪軍と合して、勢い、いやが上にもふるった。
総がかりに、城壁を朱に染め、焔を投げ、万鼓千喊、攻め立てること昼夜七日に及んだが、陥ちなかった。
地の下を掘りすすんで、一門を突破しようとしたが、それも敵の知るところとなって、軍兵千八百、地底で生き埋めにされてしまった。
と、攻めあぐみながらも曹操は敵の防戦ぶりに感嘆したほどだった。
平時の名臣で、乱世の棟梁でもある雄才とは、彼の如きをいうのかも知れない。彼はまた、前線遠く敗れて、帰路を遮断されていた袁尚とその軍隊を、怪我なく城中へ迎え入れようという難問題にぶつかって、その成功に苦心していた。
その袁尚の軍隊はもう陽平という地点まで来て、通路のひらくのを待っていた。その通路は城内から切り開いてやらなければならなかった。
主簿の李孚は、審配へ向って、こういう一案を呈した。
「この上、外にある味方の大兵が城内に入ると、たちまち兵糧が尽きます。けれども、城内には、何の役にも立たない百姓の老若男女が、何万とこもっています。それを外へ追いだして、曹操へ降らせ、そのあとからすぐ、城兵も奔出します。兵馬が出きったとたんに、城中の柴や薪を山と積んで、火の柱をあげ、陽平にある袁尚様へ合図をなし、内外呼応して血路を開かれんには、難なくお迎えすることができましょう」
審配は直ちに用意にかかった。そして準備がなると、城内数万の女子どもや老人を追い立て、城門を開いて一度に追いだした。
白いぼろ布れ、白い旗など、手に手に持った百姓の老幼は、海嘯のように外へ溢れだした。
そして、曹丞相、曹丞相と、降をさけんで、彼の陣地へ雪崩れこんできた。
曹操は、後陣を開かせて、
と、すべてを容れた。
数ヵ所の大釜に粥が煮てあった。餓鬼振舞いにあった飢民の大群は、そばへ矢が飛んできても前方で激戦のわめきが起っても、大釜のまわりを離れなかった
曹操は審配の計を観破していたので、数万の飢民が城門から押出されてくると、すぐ大兵を諸所に伏せて、飢民のあとをついて奔河の如く出てきた城兵を直ちに挟撃してこれに完全なる殲滅を加えた。
城頭では合図の篝を、天も焦がすばかり赤々とあげていたが、城門を出た兵はたちまち壕を埋める死骸となり、生けるものは、狼狽をきわめて城中へ溢れ返ってきた。
曹操は、その図に乗って、逃げる城兵と一緒に、城門の内へはいってしまった。彼はその際、兜のいただきへ、矢をうけて一度は落馬したが、すぐとび乗って、物ともせず将士の先頭に立った。
しかし、審配は毅然として、防禦の采配を揮った。ために、外城の門は陥ちたが内城の壁門は依然として固く、さしもの曹操をして、
「まだかつて、自分もこんな難攻の城に当ったことがない」
彼は、転機に敏い。――頭を壁にぶつけて押しくらするような愚をさけた。
一夜、彼の兵はまったく方向を転じて、袁尚を攻めた。
まず弁才の士をやって、袁尚の先鋒たる馬延と張顗のふたりを味方へ誘引した。二将が裏切ったので、袁尚はひとたまりもなく敗走した。
濫口まで退去して、ここの要害に拠ろうと布陣していると、四方から焼打ちをうけて、またも進退きわまってしまったので、袁尚はついに、降伏して出た。曹操は快くゆるして、
と、全軍の武装を解かせ、降人の主従を一ヵ所に止めさせておいたが、その晩、徐晃と張遼の二将を向けて、袁尚を殺害してしまおうとした。
袁尚は、間一髪の危機を辛くものがれて、中山(河北省保定)方面へ逃げ走った。その時印綬や旗幟まで捨てて行ったので、曹操の将士からよい物笑いにされた。
一方を片づけると、大挙して、曹操はふたたび城攻めにかかった。こんどは内城の周囲四十里にわたって漳河の水を引き、城中を水攻めにした。
さきに袁譚の使いとして、曹操のところに止まっていた辛毘は、袁尚の捨てて行った衣服、印綬、旗幟などを、槍の先にあげて、
「城中の人々よ、無益な抗戦はやめて、はやく降伏し給え」
と、陣前に立ってすすめた。
審配は、それに答えて、城中へ人質としておいた辛毘の妻子一族四十人ほどを、櫓に引きだして首を斬り、一々それを投げ返して云った。
辛毘は悶絶して、兵に抱えられたまま、後陣へひき退がった。
けれど彼は、その無念をはらすため、審配の甥にあたる審栄へ、矢文を送って、首尾よく内応の約をむすび、とうとう西門の一部を、審栄の手で中から開かせることに成功した。
冀州の本城は、ここに破れた。滔々、濁水をこえて、曹軍は内城にふみ入った。審配は最後まで善戦したが力尽き捕えられた。
曹操は、彼に苦しめられたことの大きかっただけに、彼の人物を惜しんで、
と、いった。
すると辛毘が、この者のために、自分の妻子一族四十何名が殺されている。ねがわくは、この者の首を自分に与えられたいと側からいった。
審配は、聞くと、その二人に対して、毅然とこう答えた。
「生きては袁氏の臣、死しては袁氏の鬼たらんこそ、自分の本望である。阿諛軽薄の辛毘ごときと同視されるさえけがらわしい。すみやかに斬れッ」
袁氏の廟地を拝して後、従容と首を授けた。
亡国の最後をかざる忠臣ほど、あわれにも悲壮なものはない。
審配の忠烈な死は、いたく曹操の心を打った。
「せめて、故主の城址に、その屍でも葬ってやろう」
冀州の城北に、墳を建て、彼は手厚く祠られた。
建安九年の秋七月、さしもの強大な河北もここに亡んだ。冀州の本城には、曹操の軍馬が充満した。
曹操の嫡子曹丕は、この時年十八で、父の戦に参加していたが、敵の本城が陥るとすぐ随身の兵をつれて城門の内へ入ろうとした。
当然、落城の直後とて、そこは遮断されている。番の兵卒が、
「待てっ、どこへ行くか。――丞相のご命令だ。まだ何者でも、ここを通ってはならん」
と、さえぎった。
すると曹丕の随臣は、「御曹司のお顔を知らんか」と、あべこべに叱りとばした。
城内はまだ余燼濛々と煙っている。曹丕は万一、残兵でも飛びだしたらと、剣を払って、片手にひっさげながら、物珍しげに、諸所くまなく見て歩いていた。
すると、後堂のほの暗い片隅に、一夫人がその娘らしい者を抱いてすくんでいた。紅の光が眼をかすめた。珠や金釵が泣きふるえているのである。
「妾は、袁紹の後室劉夫人です。むすめは、次男の袁煕の妻……」
と、眸に、憐れを乞うように告げた。
なお問うと、袁煕は遠くへ逃げたという。――曹丕はつと寄って、むすめの前髪をあげて見た。そして自分の錦袍の袖で、娘の容顔をふいてやった。
曹丕は、剣を拾いとって、舞わんばかりに狂喜した。そして自分は曹操の嫡男であると二女に明かして、
「助けてやる! きっと一命は守ってやる! もう慄えなくともいい」
と云いわたした。
その時、父の曹操は、威武堂々、ここへ入城にかかっていた。すると、彼の郷里の旧友で、黄河の戦いから寝返りしてついていた例の許攸が、いきなり前列へ躍りだして、
「いかに阿瞞。もしこの許攸が、黄河で計を授けなかったら、いくら君でも、今日この入城はできなかっただろう」
と、鼻高々、鞭をあげて、いいつけられもしないのに一鼓六足の指揮をした。
曹操は笑って、
と、彼の得意をなお煽った。
城門からやがて府門へ通るとき、曹操は曹丕が勝手に入ったことを何かで知ったとみえ、番兵に詰問した。
番の将士は戦慄して、
「世子でいらせられます」
と、ありのまま答えると、曹操は激色すさまじく、
「わが世子たりとも軍法をみだすにおいては、断乎免じ難い。荀攸、郭嘉、其方どもはすぐ曹丕を召捕ってこい。斬らねばならん」
郭嘉は諫めて、世子でなくて誰がよく城中を踏み鎮めましょうといった。曹操は救われたように、
と不問に付して馬をおり、階を鳴らして閣内へ通った。
劉夫人は、彼の脚下に拝して、曹丕の温情を嬉し泣きしながら告げた。曹操はふと、娘の甄氏を見て、その天麗の美質に愕きながら、
「なに。曹丕が、そんな優しい情を示したというか。それはおそらく、この娘が嫁に欲しいからだろう」
父の丞相は、冀州陣の行賞として、曹丕に冀州陣の行賞として、甄氏を彼に賜わった。
冀州攻略もひとまず片づくと、曹操は第一着手に、袁紹と袁家累代の墳墓を祠った。
その時、彼は亡家の墓に焚香しながら、
「むかし洛陽で、共に快談をまじえた頃、袁紹は河北の富強に拠って、大いに南を図らんといい、自分は徒手空拳をもって、天下の新人を糾合し、時代の革新を策さんといい、大いに笑ったこともあったが、それも今は昔語りとなってしまった……」
と述懐して涙を流した。
勝者の手向けた一掬の涙は、またよく敵国の人心を収攬した。人民にはその年の年貢をゆるし、旧藩の文官や賢才は余さずこれを自己の陣営に用い、土木農田の復興に力をそそがせた。
府堂の出入りは日ごと頻繁を加えた。一日、許褚は馬に乗って東門から入ろうとした。すると例の許攸がそこに立っていて、
「おい、許褚。ばかに大きな面をして通るじゃないか。はばかりながらかくいう許攸がいなかったら、君らがこの城門を往来する日はなかったのだぜ。おれの姿を見たら礼儀ぐらいして通ったらどうだ」
と、広言を吐いた。
いつぞや曹操が入城する時も、同様な高慢を云いちらして、諸将が顰蹙していたのを思い出して、許褚はぐっと持ち前の癇癪を面上にみなぎらせた。
「小人の小功に誇るほど、小耳にうるさいものはない。往来の妨げなすと蹴ころすぞ」
まさかとたかをくくっていると、許褚はほんとに馬上から、許攸へむかって蹴りつけた。
当たり所が悪かったのか、許褚の怪力の所為か、許攸は路上を転がり死んでしまった。
許褚はすぐ府堂へ行って、この由を曹操へ訴えた。
曹操は、聞くと、瞑目して、しばらく黙っていたが、
「彼は、馭しがたい小人にはちがいないが、自分とは幼少からの朋友だ。しかもたしかに功はある者。それを私憤にまかせてみだりに殺したのは怪しからん」
と、許褚を叱って、七日の間、謹慎すべしと命じた。
許褚が退くと、入れ代りに、一名の高士が、礼篤く案内されてきた。河東武城の隠士、崔琰であった。
先頃から家へ使いを派して、曹操は再三この人を迎えていたのである。なぜならば、冀州国中の民数戸籍を正すには、どうしても崔琰に諮問しなければ整理ができなかったからである。
崔琰は乱雑な民簿をよく統計整理して、曹操の軍政経済の資に供えた。
曹操は、彼を別駕従事の官職に封じ、一面、袁紹の子息や冀州の残党が落ちのびて行った先の消息も怠らず探らせていた。
その後、長男の袁譚は、甘陵、安平、渤海、河間(河北省)などの諸地方を荒らして、追々、兵力をあつめ、三男袁尚が中山(河北省・保定)にいたのを攻めて、これを奪った。
袁尚は中山から逃げて、幽州へ去った。ここに二男袁煕がいたので、二弟合流して長兄を防ぐ一面、
と、弓矢を研いで、冀州の曹操を遠くうかがっていた。
曹操は、それを知って、試みに袁譚を招いた。袁譚は気味悪がって、再三の招きにもかかわらず出向かずにいた。
口実ができた。――曹操はすぐ断交の書を送って、大軍をさし向けた。袁譚は怖れて、たちまち中山も捨て平原も捨て、ついに劉表へ使いを送って、
と、彼の義心を仰いだ。
劉表は、使いを返してから、劉備にこれを計った。劉備は、袁兄弟がみな、日ならずして曹操に征伐される運命にある旨を予言して、
「どう転ぶかわからぬ人物です。関わらぬ方がよろしいでしょう」
荊州へ頼ろうとしたが、劉表から態よく拒否された袁譚は、ぜひなく南皮(河北省南皮)へ落ちて行った。
建安十年の正月。曹操の大軍は氷河雪原を越えて、ここに迫った。
南皮城の八門をとざし、壁上に弩弓を植え並べ、濠には逆茂木を結って、城兵の守りはすこぶる堅かったが、襲せては返し、襲せては返し、昼夜新手を変えて猛攻する曹軍の根気よさに、袁譚は夜も眠られず、心身ともに疲れてしまった。
その上、大将彭安が討たれたので、辛評を使いとして、降伏を申し出た。
曹操は、降使へいった。
「其方は、早くから予に仕えておる辛毘の兄ではないか。予の陣中に留まって、弟と共に勲しを立て、将来、大いに家名をあげたらどうだ」
「古語にいう。――主貴ケレバ臣栄エ、主憂ウル時ハ臣辱メラルと。弟には弟の主君あり、私には私の主君がありますから」
辛評は空しく帰った。降をゆるすとも許さぬとも、曹操はそれに触れないのだ。いうまでもなく、曹操はすでに冀州を奪ったので、袁譚を生かしておくことは好まないのである。
「和議は望めません。所詮、決戦のほかございますまい」
ありのままを、辛評が告げると、袁譚は彼の使いに不満を示して、
「ああそうか。そちの弟は、すでに曹操の身内だからな。その兄を講和の使いにやったのはわしのあやまりだったよ」
一声、気を激して、恨めしげに叫ぶと、辛評は、地に仆れて昏絶したまま、息が絶えてしまった。
袁譚はひどく後侮して、郭図に善後策をはかった。郭図は強気で、
「なんの、彭安が討たれても、なお名を惜しむ大将は数名います。それと南皮の百姓をすべて徴兵し、死物狂いとなって、防ぎ戦えば、敵は極寒の天地にさらされている遠征の窮兵、勝てぬということがあるものですか」
と、励まして、大決戦の用意にかかった。
突如、城の全兵力は、四方を開いて攻勢に出てきた。雪にうずもれた曹軍の陣所を猛襲したのである。そして民家を焼き、柵門を焼き立て、あらゆる手段で、曹軍を掻きみだした。
飛雪を浴びて、駆けちがう万騎の蹄、弩弓のうなり、鉄箭のさけび、戛々と鳴る戟、鏘々火を降らしあう剣また剣、槍はくだけ、旗は裂け、人畜一つ喚きの中に、屍は山をなし、血は雪を割って河となした。
一時、曹軍はまったく潰乱に墜ちたが、曹洪、楽進などがよく戦って喰い止め、ついに大勢をもり返して、城兵をひた押しに濠ぎわまで追いつめた。
曹洪は、雑兵には目もくれず、乱軍を疾駆して、ひたすら袁譚の姿をさがしていたが、とうとう目的の一騎を見つけ、名乗りかけて、馬上のまま、重ね打ちに斬り下げた。
という声が、吹雪のように駆けめぐると、城兵はわっと戦意を失って、城門の橋を逃げ争って駆けこんだ。
その中に、郭図の姿があった。曹軍の楽進は、
と、目をつけ、近々、追いかけて呼びとめたが、雪崩れ打つ敵味方の兵にさえぎられて寄りつけないので、腰の鉄弓をといて、やにわに一矢をつがえ、人波の上からぴゅっと弦を切った。
矢は、郭図の首すじをつらぬき、鞍の上からもんどり打って、五体は、濠の中へ落ち込んで行った。楽進は首を取って、槍先にかざし、
「郭図亡し、袁譚亡し、城兵ども、何をあてに戦うか」
と声かぎりに叫んだ。
南皮一城もここに滅ぶと、やがて附近にある黒山の強盗張燕だとか、冀州の旧臣の焦触、張南などという輩も、それぞれ五千、一万と手下を連れて、続々、降伏を誓いに出てくる者が、毎日ひきもきらぬほどだった。
「并州へ入って、高幹に止めを刺せ」
と、曹操はそれに命令を下した。
そして自身はなお幽州へ進攻して、袁煕、袁尚のふたりを誅伐すべく準備に怠りなかったが、その間にまず袁譚の首を、城の北門に梟けて、
「これを見て歎く者があれば、その三族を罰すであろう」と、郡県にあまねく布令た。
ところが或る日、布冠をいただいて、黒い喪服を着た一処士が番の兵に捕まって、府堂へ引っ立てられてきた。
「丞相のお布令にもかかわらず、こやつは袁譚の首を拝し、獄門の下で慟哭しておりました」というのである。
人品の常ならぬのを見て、曹操は自身で糺した。
「北海営陵(山東省・濰県)の生れ王修、字を叔治という者です」
「しからば、自身のみならず、罪三族に及ぶことも承知だろうな」
「歓びを歓び、悲しみを悲しむ、これ人間の自然で、どうにもなりません」
「青州の別駕を務め、故袁紹の大恩をうけた者です」
「わが前で口をはばからぬ奴。小気味のいい云い方だ。しかしその大恩をうけた袁紹となぜ離れていたか」
「諫言をすすめて、主君に容れられず、政務に忠ならんとして、朋人に讒せられ、職を退いて、野に流れ住むこと三年になるが、何とて、故主の恩を忘れ得ましょうや。いま国亡んで、嫡子の御首を市に見、哭くまいとしても、哭かずにはいられません。――もしこの上、あの首を私に賜わり、篤く葬ることをお許し下さるなら、身の一命はおろか、三族を罪せられようとも、お恨みはつかまつりません」
王修ははばかる色なくそういった。
どんなに怒るかと思いのほか、曹操は堂中の諸士をかえりみて、褒め称えた。
「この河北には、どうして、かくも忠義な士が多いのか。思うに袁紹は、こういう真人を用いず、可惜、野へ追いやって、ついに国を失ってしまったのだ」
即ち、彼は王修の乞いを許し、その上、司金中郎将に封じて、上賓の礼を与えた。
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